第3話「このキスは誰にも見られていないはずだった——はずなのに」
翌朝。
目覚ましの音を止め、遥香は静かに目を開けた。
昨夜の記憶が、夢のように頭に浮かんでくる。
湊の言葉。
熱を帯びた唇の感触。
(…夢じゃ、ないよね)
自分の唇に指を当てる。
——その瞬間、スマートフォンが震えた。
何気なくニュースアプリを開くと、そこには思わず息を呑む見出しが。
《スクープ》国民的俳優・一之瀬湊 深夜の公園で“一般女性”とキス!
誰も知らなかった元教え子との再会劇か——
記事には、街灯の下で誰かとキスをしている湊のシルエット。
相手の顔は暗くて判別できないが、遥香には自分であることがすぐに分かった。
(……ウソ、なんで……)
すぐにスマホが鳴った。
理人からの着信だった。
「椎名先生……あの記事、あれ……先生じゃないですよね?」
言葉を濁す遥香に、理人は明らかに動揺していた。
「……まさか本当に、湊くんと?」
「……話せないの、ごめんなさい」
その一言で、電話は静かに切れた。
* * *
学校では朝からざわついていた。
「先生が…?」「いや、まさか……」「でも似てるよね」
そんな噂話が、教員たちや一部の生徒の間で飛び交っていた。
職員会議では教頭が厳しい顔をして言った。
「これが事実であれば、教師の立場を揺るがす問題です。
…椎名先生、あなたは以前湊くんの担任をしていましたね?」
重苦しい空気が流れる中、遥香は毅然とした表情で答えた。
「はい。ですが、記事の内容に関して、私は一切関係ありません。」
その場はそれ以上追及されなかった。
だが、その日の授業はどこか落ち着かないまま終わった。
放課後、職員室で一人になったとき、湊からメッセージが届いた。
『先生、ごめんなさい。俺、あの時…どうしても我慢できなかった。
でも、本気です。今日、話せませんか?』
その言葉に胸が揺れた。
けれど、返事をする前に——また一つの嵐が訪れる。
* * *
翌日、保護者から学校に連絡が相次いだ。
「うちの子が、あんな先生に教わっていて大丈夫なんでしょうか」
「教師としての品格が問われる問題ではないかと…」
苦情の電話、メール、直接の面談希望が一気に押し寄せる。
その中にいたのは、1年B組の生徒の母親、新倉弥生。
——彼女は偶然にも、湊と共演する若手女優・新倉千蓉の母だった。
「椎名先生。あなたが娘と同じドラマで共演している俳優と噂になるなんて…
教師の倫理とは、いったいどこにあるのですか?」
「……プライベートのことは、学校に関係ありません。
私は職務として、誠実に授業を行っています。」
「その誠実さが、週刊誌にキスを撮られて証明されるとは思えませんね?」
遥香は唇を噛み締めた。
(……私が悪いの? それとも、立場に甘えていたの?)
職員室では、理人も優也も何も言わなかった。
ただ、重苦しい空気が流れていた。
* * *
その夜、遥香の家に湊がやってきた。
「先生……ごめん。俺が全部悪い。…でも、言わせてほしい」
遥香は彼を見つめ、かすかに首を横に振った。
「あなたのせいじゃない。…でもね、湊。
私は教師なの。あなたの立場も、私の立場も、こんなにも危うくなってる」
「だからって…気持ちまで嘘にできないよ」
湊はまっすぐに遥香を見て、深く、静かに語った。
「俺、実は——昔、両親の離婚でしばらく養護施設にいたことがある。
誰にも言えなかった。芸能界でも言ってない。
でも、あのとき、学校で先生がくれた“織田信長の伝記”……あれが俺の支えだったんだよ。」
遥香はその言葉に、初めて彼の“弱さ”を知った。
「俺にとって先生は、憧れであり、救いであり……恋だった。
だから、今度は俺が先生を守りたい。どんな噂も、全部俺が背負う」
彼の目は真剣だった。
その視線に、遥香の心は溶けていく。
——そして、ゆっくりと歩み寄る2人。
「……だったら、私を泣かせるようなこと、二度としないで」
遥香の手をそっと握った湊が、低く、でも真摯な声で囁く。
「もちろん。…泣かせるのは、嬉し泣きだけにするから」
そして——唇を重ねた。
今度は、夜の暗がりではなく、互いの想いを確かめ合うような、熱くて静かなキス。
それでもなお、外では週刊誌の記者たちが次なるスクープを狙っていた——