第2話「演技と本気のあいだで揺れる、先生の心」
初夏の空の下、校舎の一角でロケ撮影が始まった。
生徒たちは校庭の端に集まり、有名俳優が来ているという話題でもちきりだった。
その主演は、もちろん——一之瀬湊。
そしてヒロイン役には、モデル・グラビアでも圧倒的な存在感を誇る瀬戸美優。
「…じゃあ、次のシーン入りまーす。教師の授業中の後ろ姿を抜きます」
ロケの演出家がそう指示した時、エキストラとして撮影協力をすることになっていた椎名遥香が、
教壇の前に立たされた。台詞も表情も必要ない、ただ後ろ姿だけでいい。
——それでも、彼女にとっては心がざわつく時間だった。
なぜならその教室の窓の外には、湊が立っていたのだから。
(…私、何やってるんだろう…)
緊張からか、自然と背中が丸くなる。
その姿を、カメラはしっかりと捉えていた。
* * *
その日の夕方。
撮影が終わり、スタッフたちが撤収を始める中、湊と美優が並んで校門を出て行く。
「ねえ、湊くん。次のシーン、キスあるよね?」
「…そうだね。監督、演技で行ってくれって言ってたし。」
「ふふ、じゃあ…リハーサルしてみよっか?」
そう言って、美優が湊の頬に手を添え、唐突に唇を重ねた。
あまりにも自然な流れ。湊も一瞬、戸惑いながらも応じた。
——その瞬間を、偶然見てしまったのが遥香だった。
職員室からの帰り道、いつもの癖で裏門から出ようとしていたそのとき。
遠くから見えた光景が、遥香の胸に鋭く突き刺さった。
(……なんで、そんなに…自然に……)
わけもなく、胸が締め付けられる。苦しい。
わかっている、あれは“演技”。彼は俳優で、美優は共演者。
でも、湊の唇が他の誰かに触れている、それだけで、どうしようもなく気持ちが揺らいでいた。
* * *
その夜。
遥香は、昔の教え子たちの間でもよく知られた、学校近くの小さな喫茶店へ足を運んでいた。
静かにカフェオレを飲みながら、自分の気持ちを整理しようとしていたその時——
「…隣、いいですか?」
驚いて顔を上げると、そこにいたのはマスクと帽子を被った湊だった。
「……あ、待って。マスク取らないで。ここ、教え子たちも来るから…」
小声で制止した彼女に、湊は静かに頷いた。
そしてテーブルの下で、彼女の手にそっと触れながら言った。
「…先生。さっきのキスは“演技”だよ。」
「……見てたの?」
「うん。あの瞬間、先生が後ろ向いてるの見えて。……気づいた。」
遥香はカップを持ったまま、言葉に詰まる。
「好きなのは、先生です。お城が好きな先生も、歴史の話ばっかりする先生も——
そんな先生が、今でも好きなんです。」
湊の目は、5年前の少年の目ではなかった。
誰よりも真剣で、大人の男の瞳だった。
遥香は湯気の立つカフェオレを飲み干し、
小さくため息をついてから、湊の腕を軽く掴み、喫茶店の外へと歩き出した。
そして近くの公園まで歩くと、そこで立ち止まり——
「……なんで、私なの?」
湊は真っ直ぐに言った。
「高校生の時から、本気で好きだったんです。
卒業式のあと、俺、先生に告白しようとしてた。でも他の男子に囲まれてて……伝えられなかった。」
遥香が、目を見開いたまま立ち尽くしていると、湊はそっと彼女の頬に触れた。
「だから…今、言わせてください。」
彼が顔を近づけてくる。
「俺、先生が好きです。」
言葉を遮るように、彼の唇が触れた。
柔らかく、けれど熱のある、確かなキスだった。
遥香は驚きで目を見開いたまま、拒むこともできず、されるがままにそのキスを受け入れた。
——まさかこの時のキスが、
翌朝のニュース番組や週刊誌の表紙を飾ることになるとは、2人はまだ知らない。