【過去編】― 教室の窓から、あなたが見つめていた季節。
四月――桜が舞う春の始まり。
新学期の初日、私は高校二年生のクラス担任となった。教科は国語。赴任してまだ2年目の若手教師。私はまだ、生徒との距離感に悩んでいた。
「――椎名先生って、真面目すぎるんだよ」
そんな声が職員室の隅から聞こえたこともある。けれど私は、生徒に媚びるよりも、授業に真剣でありたいと思っていた。
そのクラスの片隅に、一人の生徒がいた。
名前は――一之瀬湊。
無口で、真面目で、いつも窓際の席で何かを見ていた。授業中もノートは綺麗で、誰よりも静か。だけど、彼の視線だけは、なぜかいつも私の方を向いていた。
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「椎名先生。……この、“うたたねの記”ってどういう意味ですか?」
放課後、教室に残っていた彼が、そっと古典の教科書を手にして声をかけてきた。
私は少し驚いた。湊くんが自分から何かを聞いてくるなんて。
「“うたたねの記”はね、恋をしてはいけない立場の人が、眠るように気持ちが傾いていくことを表しているの」
そう答えながら、ふと自分でも不思議な気持ちになった。私もどこかで、彼に“教える”以上の気持ちを持っていたのかもしれない――そう思ってしまいそうな、危うさを含んだ瞬間だった。
「……なんか、先生っぽいですね」
彼がそう言って微笑んだとき、私は心の奥がふっと熱くなるのを感じた。
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二学期の体育祭、三学期の期末試験。湊は、変わらずいつも静かに過ごしていた。でも、誰よりも私の授業を聴いてくれていた。
三年生になり、彼の表情が少しずつ変わっていくのを、私は見ていた。大学進学か、芸能の道か――彼は悩んでいた。
「先生、俺、芸能界に行こうと思うんです」
そう伝えてきたのは、ある冬の放課後だった。
「でも、芸能界って……」
教師として、迷いのない返事はできなかった。
「先生。夢、追いたいんです。いつか、先生に“すごいね”って言ってもらえるような俳優になりたいんです」
彼のその目は、真剣だった。
私には止める権利なんて、きっとなかった。
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卒業式の日。
「一之瀬、卒業おめでとう」
「――ありがとう、先生。今日、渡したいものがあって」
そう言って、彼はポケットから一通の手紙を差し出した。
「読むのは、あとで。先生が、一人になった時に」
私は頷いて、それを受け取った。
涙ぐみながら、彼が去っていく背中を見送った後、教室で一人、便箋を開いた。
《椎名先生へ。
2年間、先生の授業が本当に好きでした。
先生の話す古典は、どんな物語よりも面白かった。
そして――
俺、ずっと先生が好きでした。
高校生の自分じゃ、何も言えなかったけど。
いつか、もっと大人になって、
もう一度、ちゃんと先生に会いたい。
その時、もし許されるなら、
“教え子”じゃなくて、“一人の男”として、
先生に想いを伝えたいです。
それまで、俺は必死で頑張ります。
また、会いましょう。
一之瀬 湊》
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それから数年。私は教室に立ち続けた。
あの手紙は、ずっと日記帳に挟んだまま、誰にも見せずにいた。
あのとき芽生えた感情が、“恋”と呼べるものだったのか、それは分からなかった。
でも――確かに、あの瞬間、私は“教師”であること以上の何かを、彼に感じていた。
そして時は流れ、湊は俳優となり、ふたたび私の前に現れた。
すべては、あの手紙の約束から始まっていたのだ――