【第2部】遥香視点 ――『教師である私が、あなたを選んだ理由』
恋なんて、自分には関係のない世界だと思っていた。
三十歳の私は、都内の高校で国語を教える、ごく普通の女教師。
生徒からは「真面目で、ちょっと変わった先生」と言われることもあったけど、古典文学が好きで、歴史とお城が好きで――それが、私そのものだった。
職員室でも、お昼休みでも、恋愛の話題になるたびに、「私には関係ないから」と笑ってやり過ごしてきた。
どこかで、自分がそういう対象になれるとは思っていなかったのかもしれない。
でも、運命は、ある日突然やってきた。
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5年前、教え子だった一之瀬湊が、国民的俳優として母校に帰ってきた。
テレビの中の彼は、整った顔立ちに、凛とした声。多くの女性たちの憧れの存在。
でも、私にとっては――“元・生徒”でしかなかった。
「……先生、久しぶりですね」
教室の前で声をかけられた時、一瞬、時間が止まったように感じた。
あの頃の少年は、もうここにはいなかった。
代わりに、私をまっすぐに見つめる、大人の男が立っていた。
「ずっと、好きでした」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
私は教師で、彼は生徒だった。
過去に、そんな感情を持つことは一度もなかったはずだったのに――
どうして、こんなにも心が揺れるの?
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最初は、断るつもりだった。
恋なんて、してはいけない。
私の職業も、彼の立場も、そんな感情を許さない。
でも、彼は何度も会いに来た。
時に控えめに、時に情熱的に。
喫茶店で、カフェオレを飲みながら話した日のことは、今でも鮮明に覚えている。
「僕、先生の持ってた歴史の本、ずっと覚えてたんです」
「お城とか、戦国武将とか、そういう話ができるの、先生しかいなかったから」
その言葉に、私は涙が出そうになった。
ああ、この子は、本当に私のことを見てくれていたんだ。
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週刊誌に撮られたキス写真。
「教師が国民的俳優と交際」――そんな見出しが、私を追い詰めた。
学校でも、職員会議でも、同僚の視線が痛かった。
「椎名先生、何か知ってるの?」
「まさか、あの写真の女性って……」
否定しようとしても、言葉が出なかった。
でも、湊は逃げなかった。
彼は、私の家を訪ねてきて、こう言った。
「結婚してください。あと1年待ってもいい。先生と家族になりたいんです」
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結婚してからも、私たちは多くのことに直面した。
双子――奏翔と結咲――が生まれて、生活は一変した。
夜中のミルク、寝不足、保育園の送り迎え。
育児と仕事の両立に、何度もくじけそうになった。
それでも、彼は常に私の隣にいてくれた。
「遥香さん、ありがとう。あなたと一緒に家族になれて、本当に良かった」
その言葉に、私は何度救われたかわからない。
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2年の育休を終え、私は教育支援センターで勤務し、そこから教壇に復帰した。
子育てと教師の両立は大変だったけれど、私は前よりも強くなれた気がした。
そして、彼もまた、俳優としての道を歩きながら、家庭を大切にしてくれていた。
ある日、娘の結咲が友達に言った。
「うちのパパ、テレビに出てるよ」
それがきっかけで、保護者の中にも気づく人が増えた。
でも、誰も責めなかった。
「先生、頑張ってるもんね」「家族って、すごく素敵ですね」
そんな言葉が、私たちを支えてくれた。
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毎朝、彼と交わすキス。
「行ってらっしゃい」と、「気をつけてね」の気持ちを込めて。
毎晩、子どもが寝た後に交わすキス。
「今日もありがとう」と、「これからもよろしく」の気持ちを込めて。
それが、私たちの習慣になった。
きっと、ずっと、変わらない。
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ある冬の日、家族で年賀状の写真を撮った。
私の隣には、湊がいる。
その腕の中には、眠る結咲と、笑っている奏翔。
ふと、私は思った。
「これはもう、恋なんかじゃない。
――運命だったんだ」
教師と元教え子。
そんな関係を越えて、私たちは家族になった。
そして今、私は心から思う。
「この人生で、本当に良かった」と。