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【第1部】湊視点 ――『先生に恋をした、あの日から』



僕が彼女を初めて意識したのは、高校2年の冬だった。


寒い教室で、椎名先生は黒板に万葉集の一節を書きながら、柔らかく語っていた。


「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の

長々し夜を ひとりかも寝む――柿本人麻呂」


「“あなたと一緒にいられない夜”を、恋しい人を想って詠んだ歌ですね」と、先生は続けた。


そのときの横顔が、妙に綺麗で。


まだ“恋”とは呼べなかったけど、僕の胸の奥に、小さな灯がともった気がした。



彼女は地味で、目立たないタイプの教師だった。


けれど生徒の名前を全員覚えていて、どんなにやんちゃな男子にも真剣に向き合ってくれた。


部活で怪我をしたときも、「無理しないようにね」と、保健室にタオルを持ってきてくれたことがある。


当時はただの“親切な先生”だと思っていた。


でも、卒業間近のある日、放課後の教室で――僕は確かに感じていた。


「先生の前でだけ、自分のことを“カッコつけたい”って」


それは、ただの“憧れ”じゃなかった。



卒業式の日、伝えたかった。


「先生が好きでした」って。


けれど、タイミングが悪かった。


別の男子生徒が先生と話していて、結局僕は何も言えないまま、校舎をあとにした。


そのまま芸能界の道へ進み、オーディション、仕事、SNS、ファン、役作り……


あの人のことなんて、すぐに忘れると思ってた。


だけど、テレビ局の控室で流れた古典の特集番組で、女性教師が語る“源氏物語の恋愛観”を見て、再び胸が締めつけられた。


「なんで今でも、先生の声を思い出すんだろう」



再会は、まるで運命のいたずらだった。


母校でのロケ。


クランクインの朝、僕は校門をくぐり、懐かしさに目を細めていた。


そこで――


「一之瀬くん……?」


あの声が、5年ぶりに僕を呼んだ。


椎名先生だった。


教室の扉の前、変わらない表情。


でも、少しだけ、寂しそうな目をしていた。


「僕、先生のこと、今でも……」


言葉を飲み込んだ。


彼女は教師で、僕は俳優。


立場も時間も違う。けれど、想いは嘘じゃなかった。


あの夜、偶然を装って訪ねた喫茶店。


カフェオレ越しに見た横顔が、懐かしくて、愛しくて、たまらなかった。


「好きです。……ずっと、先生が」



僕の告白に、彼女は最初は戸惑っていた。


でも、少しずつ距離が縮まっていった。


誰にも言えない関係。


手を繋ぐことも、肩を並べて歩くことも、人の目を気にして怯えながら。


それでも――


先生が僕にだけ見せる笑顔が、全部を報いてくれた。


「私なんかでいいの?」


そう言った先生の手を、僕は強く握った。


「誰でもいいわけない。先生じゃなきゃダメなんです」



週刊誌に撮られたキスの写真が、全国に拡散されたとき。


真っ先に思ったのは、「彼女を守らなきゃ」だった。


僕は事務所に掛け合い、記者にも頭を下げた。


彼女の名前は伏せられたけど、学校にはすぐ伝わった。


噂が広がる中、彼女がひとりで耐えているのが悔しくて。


僕は覚悟を決めた。


彼女にプロポーズした。


「先生、じゃなくて、“遥香さん”として生きてほしい」


返事は震えた声で「……はい」だった。



結婚、妊娠、そして出産。


双子――奏翔と結咲。


名前はふたりで一晩中悩んで決めた。


ミルク、おむつ、夜泣き――初めてのことばかりで、僕は何度も失敗した。


それでも、遥香さんと一緒にいられることが、何よりの幸せだった。


そして、彼女が教壇に戻ると決めた日。


「誇らしいな」と思った。


僕は、あのときの教え子としても、いまの夫としても、誇らしかった。



僕は俳優という職業を続けるけど、家族がいることを隠すつもりはもうない。


バラエティ番組で初めて語った。


「家庭を持っています。……3人で、暮らしています」


SNSは賛否だったけど、僕の中には迷いはなかった。


「大切な人がいて、その人と過ごす時間が、僕の演技の源です」


それだけは、真実だったから。



夜、子どもたちが寝静まって、リビングで遥香さんと並んでテレビを見る。


彼女が静かに微笑む。


僕はそっと腕を伸ばして、彼女を抱き寄せる。


「なに?」


「……世界で一番、好きな人」


彼女は照れて目をそらすけど、頬が少し赤くなるのが可愛い。


それを見るたびに、ああ、やっぱり俺は、この人に恋してたんだなって思う。


先生じゃなくて、遥香さん。


一人の女性として、俺がずっと、恋してきた人。


これからも――ずっと、あなたと生きていたい。


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