第1話「再会は突然に。君はまだ“先生”ですか?」
教室の窓から、風が入り込む初夏の午後。
30歳になった国語教師・椎名遥香は、今日も静かに古典の授業を終えようとしていた。
「…それでは、今日の百人一首の講義はここまでです。次回は“ちはやぶる 神代も聞かず…”からね。」
パラパラと教科書を閉じる音とともに、チャイムが鳴った。
相変わらず無表情で授業をこなす彼女は、生徒たちから“歴史オタクの椎名先生”と密かに噂されていた。
彼女は恋愛経験がゼロ。
古典文学と戦国武将とお城をこよなく愛する、ちょっとズレた“推し活女子”だ。
そんなある日——
放課後の職員室に、ドラマ撮影のスタッフが訪れた。
「次回のドラマ、ロケ地としてこの高校を使わせていただきたくて…主演は一之瀬湊さんです。」
職員室が一気にざわつく。
教員たちは色めき立ったが、遥香はあまり関心を持たなかった。
——ただ一つの例外を除いて。
(……一之瀬湊? まさか、あの湊…?)
胸の奥がざわめいた。
5年前、教え子として送り出した少年が、今や“国民的俳優”として活躍している。
その翌日、ドラマの撮影準備のため、一之瀬湊が学校に現れた。
「こんにちは、撮影でお世話になります。」
真っ白なシャツにデニム。サングラスをかけていたが、その瞳は間違いなかった。
遥香の心が一瞬で5年前に巻き戻る。
教室の廊下で、ふと目が合った。
「……先生、まだその本、持ってたんですね。」
彼が指差したのは、遥香がいつも持ち歩いている“戦国武将と名城の謎”という分厚い本。
彼だけが知っている、彼女の本当の顔。
「実は、先生に勧められてから、俺も歴史検定受けたんです。世界遺産検定も、あと一級で…」
驚いた遥香が、息を呑んだ瞬間。
彼がふっと、誰にも聞こえないような声で囁く。
「先生…俺、先生のこと、ずっと好きでした。」
その時、もう一人のヒロイン役が現れた。
瀬戸美優――Iカップでモデル兼女優。遥香とはまるで対照的な、華やかな存在だ。
「ふーん? あなたが先生? なんか、地味ね。」
その瞬間、湊が低い声で遮った。
「そんなんじゃない。」
その言葉に美優の目が鋭くなる。
空気が一瞬、ピリついた。
廊下の隅でそのやり取りを見ていたのは、遥香の同僚・早川理人と平石優也。
理人が嫉妬を滲ませた目で遥香を見つめていた。
「……まさか、本当に付き合ってるんじゃ…」
すると、横から優也がぽつりと。
「だったら告白すりゃいいのに。…お前、あの先生のこと、好きなんだろ?」
理人は黙って視線を逸らした。だが、その頬は明らかに赤く染まっていた。
—
放課後。
誰もいない図書室で、遥香はふと、過去の記憶を手繰り寄せていた。
(…あの日、卒業式の後。湊が私を呼び止めようとしていたの、気づいてた。
でも私は、他の男子生徒に囲まれてて…。)
机の上に開いたのは、彼女が高校時代から愛読している城郭学の専門書。
「やっぱり、先生って変わってないな。」
その声に振り向くと、いつの間にか湊がいた。
「本当に、先生は俺の“原点”です。」
湊の瞳が真っ直ぐ遥香を捉えたとき、彼女は一歩、無意識に後ずさった。
「……その気持ちは、嬉しい。でも…」
その言葉を遮るように、彼は微笑んだ。
「今は言わなくていいです。俺、あの時言えなかったから——
卒業式の後、本当は、結婚したいくらい本気だったって。だから、今度こそ伝えます。」
その言葉が胸に刺さる。
遥香は言葉を返せず、ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。
——そして、この再会が、教師と元教え子の“秘密の恋”の始まりになるとは、
この時まだ、誰も知らなかった。