第1話 「出会いは、図書室の静かな午後に」
高校2年の春。
教壇に立ち始めて3年目の椎名遥香は、まだ“先生”としての自信も誇りも曖昧なままだった。
その日、5時間目の授業後――
資料探しのために図書室へ向かうと、教室の隅の席に座る一人の男子生徒の姿が目に留まった。
制服の第一ボタンはきちんと留まり、姿勢もよく、手元には開いた文庫本。
その本のタイトルに、思わず声を漏らしてしまった。
「……“戦国武将の最期”?」
生徒が顔を上げる。
それが――一之瀬湊との、初めての“言葉”だった。
「……あ、すみません。声、かけちゃって」
「いえ。あの……この本、先生も読まれたんですか?」
「ええ。去年の夏休み、特別講習のあとに……。
『真田信繁は最後まで誇りを持って戦った』ってくだりが、妙に印象的で」
湊は、ふっと優しく笑った。
「……僕も、そこ好きです」
静かな図書室。
それなのに、不思議なほど居心地のいい沈黙が流れた。
* * *
それからというもの、遥香は時々、授業後や放課後に図書室で彼と遭遇するようになった。
借りている本はいつも歴史や古典に関するもの。
文学や時代背景に詳しい彼の知識に、遥香は驚かされることが何度もあった。
「先生って、“歴史オタク”って自分で言うけど……
実はちょっと、語りすぎてますよね」
「えっ、うそ。私、また止まらなくなってた?」
「はい。真田昌幸から入って、途中で信玄飛ばして、最後は小田原城でした」
「うわぁ、最悪。恥ずかしい……」
「でも、それがいいんです。先生の話、面白いし……ずっと聞いていられる」
そんな会話が重なるたびに、遥香はふと気づいた。
(この子……いつの間にか、気になる存在になってる)
教師として、それは絶対に口に出してはいけない感情だった。
* * *
そして、ある放課後。
湊がふいに言った。
「……先生、僕、俳優になりたいんです」
「え? 俳優? ……あまり、そういうタイプには見えないけど」
「周りにも言ってないです。でも……ずっと人の“想い”を演じることに興味があって。
本を読むのも、台詞の奥を考えるのが好きだからかもしれません」
「……素敵な夢ね。応援してる」
その言葉に、湊の目がわずかに揺れた。
けれど、遥香は気づかないふりをした。
教師としての立場が、それを許さなかった。
“彼の気持ち”に、まだ向き合うには――
彼女自身も、自分の心に素直にはなれなかったから。
次回:過去編 第2話「先生を好きになるなんて、思わなかった」
湊の淡い想いが、少しずつ言葉になっていく。
そして遥香もまた“教師としての揺らぎ”を覚え始める――
10代の静かな恋心が動き出す、前日譚の続き。ご希望あれば続けます。