第8話「朝のキスがない朝」
いつもと同じ朝だったはずだった。
目覚ましの音、湊の寝息、子どもたちの騒がしい声。
でも――
「……いってきます」
その一言とともに、湊はキスをせずに家を出ていった。
遥香は一瞬、声をかけようとして、手を止めた。
(……え、今、なかった……)
彼はスーツを着て、台本を確認しながら出て行った。
余裕がなかったのだろう。そう思えば簡単なこと。
けれど、その朝、遥香の心はずっと曇ったままだった。
「……ただのキス、されなかっただけなのに」
職員室での会話、授業中の黒板、帰り道の風――
すべてが、どこか薄く感じた。
放課後、カフェでひとりになった。
メニューも決められず、スマホを見つめる。
(連絡……来ないな)
家に帰っても、子どもたちが「ママ〜今日の音楽でね!」と話しかけてくるが、どこか心ここにあらず。
夕食の味もよくわからなかった。
* * *
夜9時をまわった頃、ようやく玄関のドアが開く音がした。
「ただいま……遅くなってごめん」
「……ううん、お疲れ様」
少し間をおいて、遥香は言った。
「ねえ……今朝、なんでキスしなかったの?」
湊は一瞬きょとんとした顔をしたあと、自分の額を軽く叩いた。
「……あ、うそ、忘れてた。ほんとに、ただのミス。ごめん」
「……うん、わかってる。わかってるけど……」
遥香の声が震えた。
「私にとって、あれはただの“習慣”じゃないの。
“心の確認”なの。あなたが今日も私を愛してくれてるっていう……」
湊はすぐに彼女の腕を引き寄せ、言葉の代わりに長いキスをした。
唇を離すことなく、低く囁いた。
「朝、忘れたぶん。……倍にして返す」
「……まだ足りない。3倍。……いや、10倍」
「……了解。寝室で返済、開始だな」
2人はそのままリビングの灯りを消し、
子どもたちが眠る隣の部屋に気を配りながら――
静かに、深く、何度も唇を重ねた。
“朝のキス”は、もう決して忘れない。
それが2人の愛の“原点”だから。
次回:
第9話「伝わらない気持ち」
ちょっとした言葉のすれ違い。
それが、心に小さなひびを入れる。
けれど、“キス”でしか伝えられない気持ちも、確かにある。