第0話「卒業式の日、伝えられなかった想い」
3月。
校庭の桜のつぼみが、わずかに色づきはじめていた。
卒業式を終えた午後の教室。
黒板には「ありがとう 椎名先生」のチョークの文字と、
生徒たちの寄せ書きがぎっしりと残っていた。
椎名遥香、28歳。
教師3年目。高校の国語担当。
あの年の3年C組――
その中に、静かで目立たなかったひとりの男子生徒がいた。
一之瀬湊
成績は中の上、部活には入っておらず、よく図書室で本を読んでいた。
「……先生」
教室の後ろから、湊が現れた。
制服の胸ポケットに卒業証書、手には1冊の文庫本。
「これ、返しにきました。借りた本。
“武将たちの最後の言葉”。……おもしろかったです」
「あら、ちゃんと読んだのね。貸したの1年前でしょ?」
「……先生、俺のこと、覚えてたんですね」
「当然でしょ。最後まで感想文出さなかった生徒なんて、忘れようがないわ」
ふたりは、どこかぎこちなく笑った。
沈黙が少し流れる。
そして湊が、急に真剣な顔をして言った。
「先生、俺……卒業したら、俳優目指そうと思ってて。
でもその前に、どうしても言っておきたくて……」
遥香が目を見開く。
「俺、先生のこと、好きでした。
最初に図書室で話しかけてくれたときから。
でも“先生”と“生徒”って立場じゃどうしようもなくて……
だから今日、卒業して、言いました」
その瞬間。
廊下の方から、別の男子生徒の声が響く。
「せんせーい! 写真撮ってくださいー!」
遥香が視線をそちらに向けた一瞬――
湊はそのまま何も言わず、軽く頭を下げて、教室を後にした。
彼の告白は、まるで“風”のように去っていった。
遥香は、教卓に残された文庫本を見つめる。
栞の間には、彼の直筆の手紙が1枚だけ、挟まっていた。
『“先生”でなければ、きっと手を握っていました。
でも今日の僕には、それを許される資格がない。
だから、いつかもっと大人になって、
もう一度――本気で、先生を好きになれたら。』
遥香はその文字を見つめながら、
胸の奥が熱くなるのを、初めて“恋”として自覚した。
(……でも、私は教師。
この想いは、心の奥にしまっておこう)
そう誓ったはずだった。
――その数年後、
あの少年は「国民的俳優」となって、
遥香の前に、もう一度現れることになる。
そして今度こそ、“本気の恋”が始まるのだった――。