《続編 第3話》「教壇の上と客席の下。あなたを見つめていた」
9月。新学期。
学校では2学期の恒例行事――授業参観が近づいていた。
遥香が受け持つのは、2年B組。
毎年参観に訪れる保護者たちは、教師の教え方や姿勢を見るために真剣な眼差しを向けてくる。
だが――
今年は、ひときわ静かな視線を持つ“1人の保護者”が交じっていた。
黒縁メガネにスーツ。表情を殺し、ただ教壇に立つ彼女を見つめる男――
一之瀬湊。
「……国語教師・椎名遥香は、やっぱり“憧れの人”だったな」
彼は心の中で、密かにそう呟いた。
* * *
授業参観の日。
教室に入った保護者たちの中には、どこか落ち着かない空気が流れていた。
「……あの、前の列に座ってる人……」
「えっ、芸能人に似てない……?」
だが誰も口には出せなかった。
目立たぬよう、前に出ぬよう。湊も気配を抑えていた。
一方、遥香は教科書を手に語る。
「“枕草子”の冒頭、“春はあけぼの”――
これは四季の美しさを描く名文だけれど、実は“人の観察”でもあると思いませんか?」
生徒たちがハッとする。
教室が、遥香の言葉に染まっていく。
湊はその様子を、何年ぶりかに“教え子の目”で見ていた。
(この人が、俺の原点だ)
* * *
参観終了後、湊は人の流れが落ち着いた頃を見計らって職員玄関の裏口で遥香を待っていた。
「……どうだった? 久しぶりの“授業風景”」
「……やばい、惚れ直した」
「……それは反則よ」
「だって、“今の遥香”は“先生の顔”と“母親の顔”の両方持ってる。
俺の知ってる、どの脚本よりも魅力的な“主人公”だよ」
遥香は照れながらも、その手をぎゅっと握った。
「じゃあ、今夜も“家での読み聞かせ”よろしくね。歴史物語、子どもたち楽しみにしてるわよ」
「はいはい。今日は“本能寺の変”でどう?」
「渋すぎるわ」
* * *
そして、迎えた文化祭当日。
教員発表の中に、遥香が所属する国語科チームによる**「朗読劇」**があった。
テーマは『源氏物語~光源氏と夕顔の章~』
まさかの“夕顔役”を引き当ててしまった遥香は、マイクの前に立つことに――
(え、私が恋文を読む側なの……?)
だが、その朗読は観客席の女子生徒たちを静かに圧倒した。
「……あなたがもし、今この夜を超えて戻らぬとしても――
わたしの心は、ずっと、あの月の明かりの中にございます……」
その瞬間、客席後方で静かに目を閉じて聞いていた湊の目に、一筋の涙が伝っていた。
(……高校のとき、こんな声で、先生が古典を読んでくれてた……
俺は、その声に、恋をしてたんだ)
* * *
終演後。
会場から戻る遥香に、生徒の1人が言った。
「先生……一之瀬湊さんって、好きなタイプ“国語教師”って前テレビで言ってましたよね?」
「……そうだったかしら」
「てか、あの朗読聞いたら、マジで納得した。先生、ガチで女優レベルでしたよ!」
遥香は小さく笑っていたが――
内心ではドキリとしていた。
(……そろそろ、気づかれるかもしれない)
誰にも言えない“家庭の裏側”。
でも、家ではごく普通の「パパとママ」。
その夜、子どもたちが寝静まったあと。
湊は遥香の肩に頭を乗せながら言った。
「……ねぇ、いつか子どもたちの通う学校でも、参観できるかな。
先生と生徒じゃなく、“母として”“父として”一緒に」
遥香は小さく頷いた。
「ええ、きっとそのときは……あの子たちが、“私たちの物語”を理解できる年頃ね」
「そしたら堂々と“うちのママ、元担任”って言えるな」
「えっ、それ結構恥ずかしいんだけど……」
笑いながら、2人はそっと唇を重ねた。
まだ明かせない“秘密の家族”――
けれど、誰よりも誇れる“家族の形”が、確かにそこにはあった。