《続編 第1話》「おかえり、椎名先生」
5年ぶりに足を踏み入れた、桜並木の校門。
春風に乗って聞こえてくるチャイムの音が、遥香の心をふわりと揺らした。
教壇に戻る日が、ついにやってきた。
結婚後、教育支援センターでの仕事を経て、復職が正式に決まったのは昨年冬のことだった。
新年度からは、地元でも有名な進学校の国語科教員として正式採用。
「おかえりなさい、椎名先生!」
職員室で迎えてくれたのは、新人時代に一緒に働いていた同僚たち。
「先生、復帰だって聞いてうれしくて!」と、生徒たちからも声がかかる。
教壇に立ったその瞬間――
「先生って、本当に“教える”ってことが好きなんだなぁ」
と、心の中で呟いていた。
そんな中、彼女の指には光る指輪。
名字は変わっても、職場では「椎名先生」と呼び続けられていた。
もちろん、生徒たちも保護者も、彼女の夫が国民的俳優一之瀬湊であることは知らない。
2人は今も“公私の線引き”を守りながら生活している。
* * *
「ただいまー!」
仕事を終えて帰宅すると、家の中には元気な双子たちの声が響いていた。
「ママー! 今日お兄ちゃんが“信長のマネ”してたよー!」
「ママは“紫式部”っぽいって言ってたー!」
湊が楽しそうに子どもたちの相手をしている横で、遥香はエプロン姿に着替えながら笑う。
「ちょっとパパ、教科書でやったばかりの歴史人物を“ごっこ遊び”にしないの!」
「えー、だって先生が教えるから子どもたちも覚えるの早いんだよ?」
子どもたちが寝静まったあとは、2人だけの時間。
「どう? 久しぶりの教壇」
「……やっぱり、私の居場所だなって思った。生徒と文学の話をしてると、時間を忘れる」
「そんな先生に恋してた高校生が、よくもまぁ今こうして“旦那”になれたよな」
「……まったくね。奇跡の連続よ」
笑いながらも、湊はその手を優しく取る。
「俺は、これからも俳優を続ける。でも……子育て、ちゃんと一緒にするよ。
撮影現場にも“家族用控室”作ってもらうように社長に頼んであるから」
「……さすが、龍雷神グループ。社長も育児支援に協力的ね(笑)」
「いや、正確には“彩香さん(元アイドルの奥さん)”の圧力だけどな」
2人は笑い合いながら、明日の準備を整えた。
* * *
数日後――
湊が主演を務める映画『蒼き城に咲く』が公開された。
プロモーションも順調で、公開初週で興行収入25億円を突破。
「この映画は、僕の“家族の時間”を調整してもらって得た作品です。
だからこそ、命を懸けて演じました」
インタビューでそう答える湊の姿に、SNSでは称賛の声が相次ぐ。
「家族第一で俳優業も一流とか惚れる…」
「湊くん、結婚相手誰なの…公表まだですか?」
「奥さん羨ましい!先生説本当ならすごいロマンチック!」
――でも、遥香は静かに笑っていた。
(誰にも知られなくていい。私は、私の教室で、目の前の生徒と向き合っている。それが、私の場所)
夜、ベッドで本を読んでいた遥香に、湊がそっと寄り添った。
「ねぇ、先生」
「……なに?」
「子どもたちがもう少し大きくなったらさ、“夫婦で歴史講座”とか、やってみない?」
「……その発想、昔の湊だったら絶対しないわよね?」
「今は、あのときの“推しの先生”が、世界一の奥さんだから」
静かに唇を重ねた夜。
“先生”と“俳優”という肩書きの裏側には、穏やかで確かな“家族”が息づいていた。