第8話「その人を愛した理由、ちゃんと知りたかった。」
日曜の午後。
指定されたカフェには、静かなクラシックが流れていた。
そこに現れたのは――
肩にかかる短めのグレーと茶色の髪。ハッと目を引くHカップのスタイルと、気品を兼ね備えた女優。
新倉千蓉。
千蓉は遅れてやってきた遥香を見て、小さく会釈した。
「来てくださってありがとうございます。椎名先生」
遥香は戸惑いながらも、そのまま席に座る。
「私、どうしてもお話ししたかったんです。
正直、湊くんのこと……本気で好きだった。でも、先生の存在を知ったとき、不思議だったんです」
「……“不思議”?」
「どうして、あんなに完璧な俳優が、地味で、控えめで、テレビにも出ない先生に惹かれるのかって」
遥香は、一瞬何も言えなかった。
でも、千蓉は続ける。
「でも、湊くんと話してるうちに分かったんです。
先生は、“湊くんを見上げなかった”ただ一人の人だった。
有名になる前から、彼を認めてくれていた人だったって」
千蓉は、苦笑した。
「私たちの仕事って、結局“好きになられる側”じゃないですか。
でも、湊くんは“自分が誰かをずっと好きでいられること”に価値を置いていたんですね」
遥香は、彼女のその目を見つめた。
そこにはもう、ライバルとしての憎しみや嫉妬はなかった。ただ、心から湊を想った跡だけがあった。
「……ごめんなさい。私が“勝った”わけじゃないのに……」
「勝ち負けじゃないです。
…ただ、“愛されることが正解”じゃなく、“愛し続ける強さ”がある人が隣にいる。……羨ましいなって、思っただけです」
千蓉は微笑み、席を立った。
「映画、ちゃんと観に行きますね。湊くんの“本物の演技”、楽しみにしてます」
その背中を、遥香はまっすぐ見送った。
(この人も、誠実だった。湊は、誠実な人ばかりに囲まれてる)
* * *
――そして数日後。
湊が主演する映画『君に咲く、桜の約束』の初日舞台挨拶が行われた。
会場は満員。記者やメディアも多数訪れていた。
湊は深く一礼し、舞台中央へ。
「こんにちは。一之瀬湊です。今日はこの作品の中で“約束”を大切に演じました」
「この映画で描かれた“想いを貫く”というテーマは、僕自身にも重なりました。
僕には――学生時代からずっと、守りたい約束がありました。
誰に知られなくても、その人の人生に寄り添いたいと思える人が、いました」
会場の空気が、一瞬変わった。
「どんな立場にいても、どんな批判を受けても、
“愛すること”だけは、演じる必要のない現実だから」
その言葉は、テレビやSNSで即座に拡散された。
だが、湊は相手の名前を最後まで出さなかった。
それが“愛する人を守るための答え”だった。
* * *
一方その頃、遥香は春からの新たな勤務先――
都内の教育支援センターへ、引っ越しの準備を進めていた。
生徒を直接教える仕事ではない。
だが、教材や教育の仕組みに関わる仕事は、彼女の情熱と知識が活かされる新しいステージだった。
そして、湊が提案した新居も決まり、週末には2人で家具の下見へ。
帰り道、小さな公園のベンチで寄り添いながら湊が言った。
「……これから忙しくなるね。先生は新しい仕事、俺は映画のプロモーション。
だけど、1年後。落ち着いたら結婚式、挙げよう」
「……うん。式はこぢんまりでいい。
お城が見える場所とかだったら最高ね」
「それ最高すぎる。……じゃあ、松本城の見えるレストラン、予約入れとく?」
「本気で?」
「だって、俺たちの歴史はそこから始まったんでしょ?」
小さく笑い合いながら、2人は手を重ねた。
秘密から始まった恋は、
今、“未来の誓い”へと形を変え始めていた。