真っ白なオムツ
エルの体に入ってこの家族の一員になった時、俺は家庭の実情を調べた。
そこで、この家族が少し複雑な現状にあることが分かった。
まず、姫の旦那でありエルの実の父親である、「草柳 冬馬」は、エルが生まれる前に蒸発している。明確な時期までは分からないが、姫の通帳から予測するに、恐らくエルが生まれる1ヶ月前くらいに姿を晦ましている。姫ならその理由を知っているかもしれないが、現状聞く手立てがない。
冬馬には二人の連れ子がおり、それがエルの姉にあたる。姫は、エルを出産する時点から三人の子供を養う必要があった。
すでに前職は退職している上に、エルの面倒と消えた旦那の娘二人を養わなければならなかった姫には、お金が必要だった。
それでも、姫は闇金には手を出していない。
闇金に手を出していたのは、冬馬の方だった。
元々大企業の公認会計士をしていた男。金が無かったわけではないはずだ。
何のためかは分からない。何が理由かも分からない。
ただ、冬馬は多大な金を闇金から借りた。とても一般家庭じゃ返せそうにない金額を。
その元締めが、波瀬が所属している暴力団である江頭組だった。当然のことながら、そういった組織の取り立ては凄まじく、姫も相当ひどい目に遭っている。
それがあの日。冷たい雪が降っていたあの日。
後から知ったが、姫は子供三人を連れて遠くに逃げる計画を立てていたらしく、当面の買い出しに出かけていたところだった。
姫は波瀬らに見つかってしまった。
子供を取り上げられ、振り下ろされる暴力と底の見えない恐怖に、姫はただ悲鳴をあげることしか出来なかった。
そして俺が憑依し、その場から逃れることができた。
『…!…ギャー!オギャー!』
赤ん坊が泣く声で目が覚めた。
瞼を開くと、部屋の中はすでにオレンジ色に染まっていた。
まだ体はダルい。
それでも、体力は随分戻った気がする。
赤ん坊は大人の体よりも回復力があるのかもしれない。
スキル『明暗透視』
家全体を見回す。
もう、姫も波瀬らもいないか。
だが、姉二人も戻ってきていない。
十六時四十五分。この時間はまだ部活か。
それならちょうどいい。
静かに息を吸い込む。
あの二人が帰ってくる前に、姫を連れ戻す。
俺は自分の身体を『空中浮遊』で浮かび上がらせると、『重力操作』で部屋の扉を開け、そのまま玄関へと向かう。
玄関はご丁寧にフルオープンだった。特に隠蔽する必要がないという表れか。体力温存のためにスキルを切り、玄関から這い這いで外に出る。
外の空気は澄み切っており、十月の冷え込んだ大気が赤ん坊の未熟な肺を強張らせる。
日暮れ時はすでに真冬の寒さになりつつある。
赤ん坊の体力でどのレベルのスキルを使えるのかのチェックは、また今度行うとして。波瀬のところに突撃した場合でも、五体満足平穏無事に姫を連れ戻せるだけの体力を用意しておかないといけない。
それに他に手段がないとはいえ、『異世界』のスキルまで使っちまっている。
『オギャー!オギャー!』
分かっている。エルも許せないよな。
俺たちの姫をあんな目に遭わせておいて、許せるわけがない。いつまでも色付きサングラスなんか付けられると思うな。
『従属スキル:マインドチェーン*リマインド』
暫く待つ。
このスキル、『マインドチェーン』は俺の派遣先である『異世界』で習得したものだ。
端的に説明すると、スキル発動者は効果の範囲内にいる動植物に向けて発動し、意志の強い思念を送る。命令と言っても過言ではない。その思念は対象者の中に入り込み、奥底にある本能とも呼べる階層にまで浸食する。
対象者はその思念をやり遂げることが自分の使命と思い込み、何を犠牲にしてもその思念に従う。例え自らの命であっても。
そして、アンサースキルでもある『マインドチェーン*リマインド』を発動させることで、対象者の進行状況を知ることができる。今においては、『姫を尾行しろ』という命令を遂行中であるため、リマインドで対象者を呼び戻し、波瀬らがどこに姫を連れ去ったかを突き止める。
ピーヒョロロロ。
トンビの泣き声が聞こえたかと思うと、真っ直ぐに急降下してきた。
恐らく、今のスキルの対象者はこいつなのだろう。
意識を失う直前、一つの大きな蜘蛛の巣、というよりもその住処の主である手のひらサイズの蜘蛛に目掛けてスキルを使った。
スキルを掛けられた蜘蛛は、『姫を尾行する』という使命を旨に動いた。しかし蜘蛛一匹じゃ、時速百キロで一般道を駆け抜ける車を尾行し続けることはできない。
だから、蜘蛛は機動力のある鳥に自分自身を食べさせた。
『マインドチェーン』は、対象者が何らかの理由でその命を失ったとき、命を奪った者が続きの使命を強制的に引き受けることになる。
「姫はどこにいる?」
そう言いながらトンビの額に自分の額を付けた。
トンビとそれ以外の者の記憶が、走馬灯のように流れ込んでくる。
一般道を進む黒いセダン。途中で高速に乗った。しかし数分後に降りている。しばらくまた一般道を進むと、都心に出てきた。セダンが停車する。車から波瀬と姫が降りる。二人は目の前の大きなビルに入っていった。
そこだ。あのビルに姫はいる。
情報を抜き取った俺は、トンビから手を放しスキルを解除した。
随分遠くに行かれたな。
この距離だと、『空中浮遊』や『重力操作』では半日以上かかってしまう。姉二人が帰ってくるまでに、姫を連れ戻せない。
波瀬らと対峙するためになるべく体力の消費は抑えたい。しかし、悠長なことを言っていると姫が何をさせられるか分からない。
俺は大きく深呼吸をし、覚悟を決める。
なりふり構ってられる状況じゃない。例えまた気を失うようなことがあっても、ここで何もせずに手をこまねいているよりかは百倍マシだ。
幸い、『マインドチェーン』で場所は分かっている。
『王』クラスのスキルでなくとも、『人道』クラスで事足りそうだ。
『オギャー!』
安心しろ。お前の母親は俺が必ず連れ戻す。
身体に負担をかけちまうが、少し我慢してくれ。
『アー!バブ』
よし、じゃあ行くか。
スキル『瞬間移動』
赤ん坊の身体は消えた。
「姫ちゃん。君は今から売られます」
普段じゃ考えられないような単語に、うまく反応することができない。
「う、売られるって」
「あと数分後に、世界的な人身売買のオークションが始まる。君はそこで自分の魅力を最大限に活かしながら出品されるんだ」
「そんな・・・」
「それくらい莫大な借金を抱えてるんだよ。普通に働いてたら返せない程のお金がね。定石を踏むなら、君の身体をバラバラにして多方面に売りさばくんだけど」
息を呑む。悲鳴すらあげられない。
「でも僕は君に可能性を感じるんだよ。バラさなくても、一級品となる可能性をね。未亡人好きな人多いから。だから親父に掛け合って、君自身を五体満足で売り出すことにしたんだ」
「・・・売られたらどうなるんですか?」
「買い手にもよるけど、まぁ大体金持ってる外国人が買うだろうな。そしたらその人に、一生尽くして使い物にならなくなるまで遊ばれる。運が良ければ、早めに病気もらって捨てられて、またこっちに戻ってこれるかもね」
どう考えても悲惨な未来。あまりに現実味がなさ過ぎて実感が沸かない。
「そんな悲しい顔しないでよ。大丈夫。オークションに出されるのは君一人じゃない。同じような状況の子たちが各地の事務所で出品されるんだ。リモートオークションってやつ。うちの事務所からも君以外にもう一人いる。仲間は大勢いるんだよ」
私のような人が大勢。その子たちは何をしたんだろう。
波瀬は徐に立ち上がると、ドアに付近にまで歩いていった。
「マリちゃーん、おいでー」
すると、部屋の入り口から若い女の子が入ってきた。
可愛い。
お人形さんみたい。
整った顔立ちにスラリとした手足、女性の私でもドキドキしてしまうほどスタイルが良い。
ピンクのキャミソール姿からは余分に色気を感じる。
こんな綺麗な子が、何でこんなところに。
「彼女の名前は、マリちゃん。君と一緒にオークションに出品される子さ。この子はとても簡単な話だよ。事業を経ち上げるために、うちの事務所からお金を借りた。しかし、相棒の子が失踪。最終的に経営が回らなくなって破産。そんなどうしようもなくなった時に、心優しい僕が登場したというわけさ」
波瀬は彼女の身体を舐めるように見回してから、自分の唇を舐めた。
彼女は無表情のままその美しい顔面を保っている。
「こんな良い女、本当は僕が欲しいんだけどな。親父が良い商品になるからって、味見すらさせてくれねぇ。少しくらいはいいよなぁ。僕、頑張ったし」
そう言うと、あろうことか彼女の豊満な胸を雑に揉み始めた。
思わず目を逸らす。性に対する耐性がないわけではないが、無防備な女の子が波瀬にいい様にされてしまう姿を見ていることはできなかった。
勝手に発情している波瀬とは違い、彼女は無反応を貫き通している。
強いなぁ。
もし私があんなことされたら、恐怖に身が竦んでしまう。
波瀬は自分の欲望を抑える気は無いのか、胸を揉みしだきながら、自分の腰を彼女の魅力的なお尻に押しつけた。
「若。それ以上はちょっと」
入り口付近に立ってる強面の男が波瀬の肩に手を乗せる。
部下に止められた波瀬は、部屋に響き渡るほどの舌打ちをし、彼女から離れていった。
彼女はなおも、凛々しく立っている。
「全くね。マリちゃんも姫ちゃんも、借金なんかをしてしまったばっかりにこんなことになっちゃって」
波瀬が独り言のように呟く。
借金。私が借りたわけではないお金。
すべての元凶。
自然とあの人の顔も蘇る。
私を好いてくれた人。私に愛を教えてくれた人。
ねぇ、冬馬さん。あなたは今どこにいるの?
「さて、そろそろ時間だ。お二人とも行こうか。これからの君たちの人生に今以上の幸福があらんことを」
波瀬は変にクサイ台詞を吐くと、ドアに向かっていった。
あぁ、ここで私の人としての人生が終わるんだ。
小さい頃から、お母さんにしっかりしなさいって言われ続けてたのに、結局何も出来なかったな。失敗ばかりでドジばっかり。
ようやく掴んだ幸せも、一瞬で無くなっちゃった。
子供たちの顔がよぎる。
このままだと、どこか見知らぬ外国に売り飛ばされて、あの子たちに一生会えなくなる。
まだエルの誕生日を一回もお祝いしてない。
まだ、天ちゃんとも月ちゃんとも心の底から繋がれてない。
あの子たちのこれからを側で見ていたい。
それだけが私の願い。
「わ、若!」
私たちがドアに向かって歩き始めたと同時に、細身のガラの悪い男が慌てて入ってきた。
「おいどうした。お前何でこんなところにいやがる」
「あ、あの。なんて言えばいいんでしょう。ちょっと、どうすればいいか」
「何がだ。何があった」
「いや、その」
男は息も絶え絶えのうえに思考もまとまっていないのか、伝えたいことをうまく伝えられずにいる。
「おい、いい加減にしろ!オークションまで時間がねぇんだよ!」
「分かってます!ただ、なんて言えばいいのか分からなくて」
「簡潔にそのまま話せ!」
「オ」
「お?」
「オムツ」
男は一言そう話すと、崩れるように気を失った。
オムツ?
「おいどうした!何があったんだよ。オムツってなんだ!」
どうしたのだろう。波瀬も他の屈強な男たちも誰も状況を理解できている様子は無かった。
そして次の瞬間、ドアの前にそれが現れた。
初めは何なのか分からなかった。
その物体の正体が分かっても、状況を理解できなかった。
認識ができても理解ができない。
誰も言葉を発することができなかった。
波瀬や周りにいる男たちはさることながら、何をされても無表情、無反応を突き通していた、マリちゃんでさえも、その大きめの二重瞼をさらに見開いていた。
しかし私は妙に落ち着ていた。明らかにおかしな状況で、不可解な現象が起きているにも関らず、私は不安定にグラついてた心が逆に落ち着いてしまった。
いつも見慣れているものを見たからかもしれない。
場の全員が驚愕し、空気の流れを止めたもの。
それは真っ白なオムツだった。
ドアの前で、真っ白なオムツが浮かんでいたのだ。