殺人的にドジな母親
まず初めに言っておく。
これは異世界転生ではない。
確かに俺は、日本や地球が絡むような、いわゆる『主軸となる世界』とは異なった世界にいた。
『別空間』であり『別次元』であり、『異世界』だ。
でも転生っていうのは、死んだ奴が生まれ変わることを言うんだろ。
なら俺は違う。
俺は前の世界で死んでないから。
俺が元々この世界にいたのは、今から百年とちょっと前。
大正十二年。俺は横浜の繁華街で居酒屋の店長をしていた。そこまで繁盛しているわけではなかったが、客がいない日も無かった。
九月一日。その日も店には数人の客が昼前から酒を飲んでいた。
十一時五十八分。マグニチュード七.八の地震が神奈川西部から相模湾にかけて発生した。
関東大震災だ。この世界に戻ってくるときに教えてもらった。
俺は客や従業員を逃がして、繁華街に残っている連中全てを誘導した。
今思えば、それは確かに『英雄たる素質』として充分だったのかもしれない。
本来ならそこで俺にも『憑依者』が憑き、この世界で偉大なる功績を残していたのかもしれない。
しかし何故そうならなかったのか。
人為的ミス。
いや、人ではないから、『神為的ミス』か。
では何故そう思うのか。
目が眩むような光に包まれ、俺が自分の身体から離れる瞬間、遠くで聞こえていた声。
「間違えたーー!」
美しく、透き通るような女性の声だった。
重たくなった瞼をようやく開けるようになるころには、すでに俺の魂は物質という概念が存在しない世界、『スピリチュアルワールド』に転移されていた。
俺は自分の状況を理解できないまま、シス教官に発見され『憑依者訓練所』に強制送還された。
訓練所では、『憑依者』としての基礎と知識、憑依の仕方やスキルの獲得まで全てを叩き込まれた。
我ながら、あの混乱の中でよく順応に対応できたと思う。
そしてそのまま当然の如く、『異世界』に派遣されたというわけだ。
任期は百年。その間で『異世界』で起きる最悪を回避できれば、元の世界に戻れるということだった。戻った後は、誰に憑依してもいいし仕事を続けてもいい。
『憑依者』が憑依できるのは『英雄たる素質』がある者のみ。
寿命は『憑依者』になる前の寿命に、五十年加算される。
さらには、『異世界』で獲得したスキルは持ち越せるという豪勢な退職手当がついている。
仕事を全うした俺は、元の世界に戻り、良い相棒を選び、余生を気ままに過ごそうかと考えていた。
そのはずなのに。
「エルちゃ~ん。お昼ご飯の時間でちゅよ~。いっぱいいっぱい食べて、おっきくなりましょうね~」
こんなことになってしまった。
『草柳 天使』それが、この身体の名前だ。天使と書いて『エル』と読む。
とんでもないネーミングセンスではあるが、愛情は充分と言っていいほど受けている。
まだ生まれて半年の乳児。髪の毛もまだ薄っすらとしかない。
この身体には入ってしまった理由、それは俺にも分からない。
ただ、あの時。憑依を試みたあの瞬間。俺の身に何かが起きた。
良くない何かが。
その謎を見つけることが、俺の当面の目標だろう。
「はい、あ~ん」
母親は俺の前にある離乳食を、紫色の子供用スプーンですくって俺の口に持ってきた。
仕方なく口を開けて食べる。
毎度のことだが、食感がデロデロとしていて気持ち悪い。
ただ、味のほうは中々いける。
そうなるようにスキル『通常感覚』を切っているだけだが。
五感は憑依した身体が主導権を握っている。そのため、『憑依者』は本体が足りない部分をスキルによって補うようにしている。
食事以外は『通常感覚』というスキルで、五感全てを常人程度に感じ取れるようにしているが、この極薄味の離乳食を毎食食べるためにはスキルを切っておかないと、ペースト状の粘土を食べているような感覚で毎日を過ごすことになってしまう。
「エルちゃんはお利巧ですね~。溢さず綺麗に食べれて、ママは鼻が高いな~」
この美しい母親にこうも褒められると、恥ずかしげもなく嬉しくなってしまう。
前の世界における俺の年齢は、この母親よりも十近く上だ。
年下の女性にバブるオッサンという、世間一般から見れば多方面から白い目で見られる現状に少々気が引ける。しかも今は半裸にオムツ。
完全なる変質者だ。
でも仕方がない。これはこの身体の主も求めていることだ。
断じて、俺だけの意思ではない。
『キャッキャッ!バブー』
ほらな、俺以外も喜んでる。
『憑依者』というものは、憑依した身体を乗っ取れるわけではない。
憑依対象者と共存するということ。一つの身体に居候するということなのだ。
それは強制的にできるものではなく、憑依した時点でその身体の主と対話を行い、了承を得られればそのまま共存。もし了承を得られなければ、また別の身体を求めて彷徨うということになる。
今回の場合、対話すべき対象が赤ん坊であるため、俺は了承なしに住まわせてもらっている。
だから、こいつの願いはなるべく叶えないといけない。
『オ、オギャ、オギャー!』
お腹が減ったら泣いて伝えるし、トイレがしたくなったら泣いて伝える。
今は少し部屋の温度が暑いようだ。
自分で言うのもなんだが、エルは相当優雅に暮らしていけてると思う。
俺はこいつの要望を叶えなかったことはない。
優秀な居候だ。
それに、様々な危険から守っている。
「さ、ママはそろそろ夕飯の支度をしてくるからね。エルちゃんは大人しくテレビ見ててね~」
母親はそのまま台所に向かうと、冷蔵庫からキャベツを取り出した。
「よーし、まず野菜作っちゃわないと。えっと。あ、あった。あ!」
その瞬間、常時発動しているスキル『危険感知』が異常なほどの警告音を出した。
俺はすぐさまスキル『防壁結解』を発動し、小さい体を取り囲む。
コツン、グサッ。
何かが頭上の結解に当たり、そのまま目の前に落ちてきた。
刃渡り三十センチはある肉切り包丁だった。
よほど切れ味がいいのか、机に思いっきり刺さってる。
何で野菜作るのに、こんなデカい切れ味のいい包丁使ってんだよ。
「あ、ごめんね~。怪我無かったかな?」
怪我はないが、寿命がいくらか縮んだ気がする。
エルなんか、ビビりすぎて泣くの止めたぞ。
「もう少し待っててね。ママ、急いで料理して、エルちゃんの元に行くから」
「ばぶばぶ!!」
『バブバブ!!』
俺とエルの波長が合った。
頼むから急がないでくれ!
母親は俺たちの頭を撫でると、そのまま台所に戻っていった。
エルの母親、本名を草柳 姫という。
現年齢は三十歳。しかし、透き通る白肌と作り物のような整った顔、その名に違わない美しい外見から、見た目年齢は二十代前半といったところだろう。ピッタリとした穴開きジーンズに深緑色のセーターという服装も、年齢の齟齬を発生させるのには充分な格好だ。
スタイルもいいし面倒見も良く、安心感溢れるお母さんで申し分ない。
問題なのは、その性格だ。
何をするにも気が抜けたように、おっとりとしている。
ふわふわして、いつでも宙に浮いている。
所謂、ドジということだ。
俺がエルの身体に入ってから、すでに数十回エルは死の危険に晒されている。死に直結するものでないものを含めたら、数百はいっているだろう。
全て、母親である姫のドジによるものだ。
この前なんか、部屋を温めるために閉め切った状態で練炭を焚いて、危うく二酸化炭素中毒で死ぬところだった。スキル『念力操作』で窓を開けれたから良かったものの、俺がいなかったらエルも姫も二人とも死んでいる。
二階建てのこの家は、姫の親戚が持て余している空き家らしいが、姫と子供三人が住むには充分な広さがある。
なのにこうも危険がありふれているとは。
「ふぅ~、夕食の準備終わったよ~。これでエルちゃんとまた遊べるね」
夕食の準備が終わるまでに、『危険感知』三回、『防壁結解』二回、『重力操作』一回を使った。
本当に、よく姉二人を無事に育てられてきたなと思う。
その度に、思い出す。
エルには二人の姉がいる。
姫はその二人と血は繋がっていない。
旦那もいない。
『バブバブ!』
あぁ、そうだったな。
「ばぶばぶ!」
「ん~?何かな~?」
「ばぶばぶ!ばぶばぶ!」
クッ。エルの願いをかなえるためとはいえ、やはりバブバブ口調はキツイものがある。
こちとら四十超えたオッサンなんだ。しかも異世界で百年も生活している。
本来の姿なら、恥ずか死しているところだ。
「あ、抱っこしてほしいのか~。エルちゃんは本当にママが好きでちゅね~」
俺たちの身体は再び姫の優しい温もりに包まれる。
「ばぶー」
『バブー』
心地がいい。
エルは抱っこが大好きだ。いつだって抱っこを求めている。
確かに、母親特有の包容力が、この疲れ切った身体を癒してくれる。
それに、姫は美人の上に胸が大きい。
俺もエルも男の子だ。やはりそういった意味では、抱っこが好きなのも頷ける。
もう一度言うが、エルも男の子なのだ。
『あー!バブバブ!』
一緒にするなって?生意気な奴め。でもお前だって、姫以外の女の人に抱かれても喜んでるじゃん。
『バ、バブバブ!バブ!」
誤魔化すなって。男の子はな、いつだってそういうのが好きなんだよ。
『あ、あー!あー!あー!』
あー悪かった悪かった。その話はまた今度にしとくよ。
心地いい時間が、ゆったりと過ぎていった。
すると突然、俺の『危険感知』が唸りを上げた。
何だ?何が迫っている?
方向は分かるが、まだ遠い。
『危険感知レベル2』
感知の範囲を五百メートル広げる。
感知している方向に意識を傾ける。
見つけた。何かが物凄いスピードで近づいてくる。
『危険感知レベル3』
『危険感知』スキルは迫ってくる危険を知らせてくれる。
レベル1では半径五十メートルの危険の方向。
レベル2で半径五百メートルの危険の方向。
レベル3では半径五キロメートルの危険の方向と、そのものの立体映像を脳裏に浮かび上がらせる。
これは、車?
黒塗りのセダン。あいつらか!
バレたのか?でも何故。
姫は外出する時も注意深く、なるべく顔を隠して出ていたはず。
一先ず、『危険感知』を停止させる。
レベル3は体力をかなり消耗する。赤ん坊の身体ではあまり長時間発動することができない。
姫に知らせなくては!
「ばぶばぶ!ばぶばぶ!」
「何々?どうしたの?」
姫は俺を抱き上げたまま、俺を揺さぶっていた。
「ばぶばぶ!ばーぶばぶ!」
「ん?ご飯?トイレ?」
「ばぶばぶ!」首を振る。
「ん~何だろう?」
「ばーぶばぶ!」俺は外に視線をやる。
「あ、分かった。お外に出たいのか。確かに今日は天気がいいからね~」
近いけどそうじゃない!
いつも阿吽の呼吸で俺の言うことが分かってくれる姫が、何故か今は意志が通じない。
「じゃあ待っててね。支度してくるから」
「ばぶばぶ!ばぶばぶ!」
待ってくれ!それじゃ間に合わない。
しかし俺の叫びは届かず、姫は部屋から出て行ってしまった。
俺はもう一度『危険感知』を発動させる。
今の会話でどのくらい距離が狭まった。
あとどれくらいの猶予がある。
ピンポーン。
すでに遅かった。あいつらはもう、玄関にいた。