1 貧しすぎて、私。
ぅ…、ゲホッ、ゲホッ!
何!? 臭っ! コゲ臭っっ!?
ベッドで眠っていた 私は ガバッと起き上がった。
…火事っ !?
建付けの悪い窓枠の隙間から、灰色の煙が部屋に流れ込んでいる。
大きくベッドを軋ませ、ベッドから飛び降り、部屋を出る時に目に入ったのは衣紋掛けに掛けられた晴れ着。
明日の成人式に私が着る予定の振袖だ。
三姉妹がいる親戚の家の振袖で、姉妹達が順々に成人式に着たのは勿論、その後 大学の謝恩会や友人の披露宴などにも何度も袖を通したという晴れ着。
確かにちょっと年季の入った感じは否めないが、遠縁で
しかも落ちぶれてゆく我家に皆が関わりたがっていない中、貸して貰えただけでもとても有難かった。
…そして、母が恥を忍んで どれだけ頭を下げて頼んでくれたのかと思うと色んな意味で涙が零れそうだ。
でも、その、晴れ着さえも今は構っている余裕はなかった。
ぅっグフッ!
煙を少し吸い込んだ。慌てて、両掌で鼻と口を覆い部屋から駆け出し、階段を転げ落ちるように降りる。
煙が充満している場所を避けて、家の外へと なんとか転がり出た。
ゲボッ、ゴホッ...ヴ...ゲホッゴホッゴホッ...!
咳が止まらす、目もシバシバして痛む。
路上に腹ばいになって喘いでいると、ザワザワと人に取り囲まれる気配がした。消防車のサイレンの音も近ずいてくる。
そう…こんな惨状で青ざめているのが、何を隠そう この私。
松宮 奏恵( マツミヤ カナエ ) 、明日 成人式を迎える 20歳。
両親は、先代から受け継いだ このパン屋 『ベーカリー小麦』を営んでいるが訳あって、まさに今!店を閉めなくてはならない窮地に追い詰められている。そして、私も
つい最近、通っていた短大を自主退学したばかりだ。
急ぎ正規社員での就職を探しながら、バイトを幾つかかけ持ちしている。
「カナエちゃん!ちょっと‥あなた、大丈夫なの!?」
かん高い声、お向かいのクリーニング店のおばさんだ。
「お宅の裏庭!あそこの、ほら!枯葉や不法投棄されたゴミやなんかの山に 付け火されたんじゃないの!? 今、消防車が放水してるわ!」
きょろきょろと辺りを見回しながら、興奮気味に早口で言っているのは、クリーニング店の隣の床屋のおばさん。
「だから 不衛生だしね、この辺りの環境も悪くなるから‥片付けてって、あなたのお母さんには言ってたのよ!それが こんな事にまでなるなんてね~」見ずとも、 顔を思いっきり顰めて言っているのが分かるのは ウチの三軒向こう隣の調剤薬局店の古株女性調剤員だ。
「どうやらボヤで済んだわ!ハァ~うちにも燃え移るんじゃないかと思った!!あのゴミ溜まりにタバコのポイ捨てじゃないかって、消防士の方が。」そこに そう言って駆けて来たのは、お隣の花屋のおばさんだった。
「お母さんは、どうしたの?」「…あのさ、お父さんは失踪したって本当なの?」
「お店、ずっと閉めてるわよね。もうこのまま閉店しちゃうのかしら?」
ここぞとばかりに皆から、矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
……いや、いや‥ 母さんも父さんも、たぶん かなり早朝から お金の工面で走り回っていて…
あっ! 振袖!? 大丈夫だったんだろうか?せっかく借して貰ったのに。 ぁあ~、、今頃、燻製みたいに煙に燻されて!?
ごっ、ごめんなさ~い!!!本当に。
皆さんに こんな迷惑もかけてしまって‥
体が小刻みに震えて声が出せずに
心の中で叫び、深く詫ていた。
何故…? どうしてこんなに? いつから我家はこんな風になったんだろう?
お兄ちゃん… ! お願い‥戻って来て。
頭が………朦朧としてきた…
気がつくと、結構な数の野次馬や近所の人達が遠巻きにこちらを見ている。
チリリ‐ン ♩ えっ? 鈴の音‥?
小さく鳴ったそれは、とても涼やかで透き通る美しい音色。
顔を上げて、痛む目を凝らすと 猫だ。仔猫。
この子がつけている首輪の鈴の音なの?
白く柔らかそうな毛並みの仔猫は、オッドアイの瞳でこちらを見つめている。オッドアイの瞳…白い猫。
巫女‥ちゃん?
うんん、巫女ちゃんは 成猫のはずだ。
自分を取り巻く喧騒の中に身を置きながら、私は何故か
その白い仔猫の輝く瞳にだけ意識が集中している。
美しい…その瞳…
吸い込まれそうだ。
グラリ!!と私の体が大きく揺れた。