いぶされた空気
ドスンッ‼
小屋の近くで、作業をしていると、地鳴りがしたので後ろを振り返ってみると、いきなり抱き着かれる。
「ケトル様! ただいま、戻りました‼」
「お! おう、帰ったかモルフィ」
彼女を救ってから十年、この杜に来てから十五年の歳月が過ぎた。
娘として育て始めたモルフィ、最初は警戒していたが、次第に心をひらき、今ではこうして実の親子のように暮らしている。
ちょっとだけ、想像していた父と娘とは違い、甘えてくるが嫌ではない。 むしろ、もっと甘えて良いと思うぞ!
スリスリと胸板に顔を埋めてくるモルフィ、人間の年齢でいうと二十歳を迎えたばかり、まだまだあどけなさが残っているが、戦闘力に関しては、とっくの昔に俺を抜いていた。
「ね、ねぇ、ケトル様……見てください! この大きなボアを!」
「お、おう、凄いじゃないか」
彼女の背後には、魔獣になりかけの大きなボアがいた。 既にこと切れており、俺やヘラオよりも大きいので、かなり強いと思われる。
それを傷一つ負うことなく倒し、なおかつ、ここまで持ってくる力強さ! うん、確実に俺より強いよね。
「あらあら、凄いじゃないですかモルフィ」
「あ! ヘラオ、どこに行ってたのよ」
川から戻ってきたヘラオがボアを見て、感心していた。
「いや、お見事。一撃で絶命させておりますね」
「えへへへ、そうでしょ、頑張ったんだから」
鬼の力を宿した人間、その力は予想以上でもし、戦時中に俺の配下になっていたら、もっと有利に戦局を動かせたと思えると程の力をもっていた。
怪力、瞬発力、魔力は他の魔族に比べ低いが、それをチャラにできるだけの武力をもっている。
「よっし、血抜きと肉を冷やしながら解体するので、小川までもっていきましょう」
「了解しました! ケトル様はここにいてね。弱っちいんだから、ウロチョロしちゃだめですよ」
「へいへい!」
なんだアイツら! 俺をバカにしてやがる。 そりゃあ確かに、弱いよ? ぶっちゃけ、小さいボア一体でも真正面からやり合えば、負ける自信あるもんね。
そんなことを考えていると、なんだか落ち込んできた。
「はぁ、バカか俺は」
よっこらせっと、地面を掘っていく。 この長い期間をかけて、ようやく安定した作物が採れるようになってきた。
それに、杜の魔獣たちは殆ど掌握済みなので、別にちょっと出かけても問題ないのだが……。
離れていく背中を見つめてしまう。
魔王が倒れ、勇者が誕生し十年、もし、その勇者が赤子からならば、まだ時期ではない。
青年以上ならば、とっくに人間側は動いていると思われた。
つまり、勇者がこちらの世界にやってきたが、まだ大人と子どもの間ほどの年齢だと推測される。
「堪え性のない人間が、勇者を放っておくわけないもんなぁ」
立派に英才教育された勇者、どういったいきさつでこちらの世界に来ているのかは不明で、定期的に登場するので、雑草よりも厄介な存在である。
「ま、勇者がいなければ、人間はとっくに滅んでいたのか」
そう考えれば、勇者と言うのはこの世界のバランスを保つうえで重要な要素の一つなのかもしれない。
しかし、それはあくまで世界規模での問題であり、我々魔族にとっては邪魔でしかない。
「俺は既に魔族でもないんだけどな」
中途半端な立ち位置に、呆れてしまう。 だが、あの暗黒の時代に戻るよりマシだ。
そう、俺は今流行りのスローライフというのを、満喫している。
獣を狩り(主にモルフィとヘラオ)、たまに襲われる魔獣を倒し!(主にモルフィとヘラオが) 楽しい生活を送っていた。
「十分すぎるな、なんいせよ。この杜には人間も魔族も手は出さないさ」
絶対不可侵、禁足地として知られているこの杜に、誰も近寄らない。 モルフィを助けて以来、部外者が入ってきたことなどは無かった。
信頼する部下と、娘に囲まれながら過ごす空間は、特別居心地がよい。
「ずっと続けばいいのにな」
そう思っていた。 夜に、獲れたての肉を食べているときに、ヘラオが妙なことを呟き、その言葉が俺の心にずっとこびりついていた。
「川の水が少しだけ、いつもと違うように思えましたね」
「えぇ? そう? 私はいつもと同じだと思ったけどね」
変化というのは、常に微妙に日常を浸食していく。 気付かれず、されど大胆に。
全てが明るみに出たときには、終わってしまっている可能性だって十分にある。
だから、この十五年間という月日でヘラオが違和感を口にしたのは、数少ない。
「明日、小川に行ってみる」
「え? ケトル様が? 違うといっても、具体的にどこが――」
「行くと言っているんだ、たまに、俺だって川で魚ぐらい釣りたいもんだよ」
俺の言葉に頷くモルフィとヘラオ。 明日、確かめてみるか……。 この胸のざわめきが、どうか気のせいであるようにと、杜の暗さに願わずにはいられなかった。