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回帰する日に顕在する罅

 第七章


 だがひとは、「侍女が明かりを掲げて貴婦人を導くのか、それとも裾をとって後からしたがうのか」、正しく見てはいないのである


 1


 その晩、アインを除く全員がサーシャの部屋に集まった。管理室で解散をした後、そうしようと決めた訳ではなく、各自が各々の判断でそうしていた。

 だが、火の灯っていない暖炉の前に座る誰もが、口を開かなかった。日が沈んでから、外の陽気は少しずつ変化し、今は風が強まり、時折窓を叩いている。夜陰で見えないが、雲が浮かんでいるだろう。その雲は風によって流されているに違いない。自らの意思によってではなく、他の何かの影響で、横方向へ。

 エレーナは少し前に眠ってしまい、キャロの膝を枕にして寝息を立てている。室内にある物音と言えば、それくらいのものであった。

 その日、やはり彼女達に会話はなかった。

 空気は、執務室を後にしてから時間が進む度に質量を増し、肩に圧し掛かっている。その重さは、唾棄したくもあるいつかの、忌むべき懐郷だ。ミリィも、シャルルも、サーシャも、キャロも、それを実感し、その所為で、言葉を失っていた。

 その晩は、ローラが施設を発った日に、やはり、酷似していた。

 その場にローラが居ない。それだけが違うが、それ以外は同じだ。

「同じ、なんだよね」沈黙に耐えかねたキャロが、魘されるように口を開いた。

 だが、沈黙は変わらない。誰も言葉を返そうとしない。

 彼はゆっくりと、深く、息をした。

「同じなんだよね」

「なに」繰り返されたキャロの言葉を受け止めたサーシャが、ようやく応じる。だが、それは彼を窘める為のものだった。少なくとも、普段の口調ではなく、温度の低い声色だ。「同じだから、なに」

「いや、その……」その口振りに気圧されたキャロは、続ける言葉に戸惑う。「なに、って言われると、その、……何でもないんだけれど……」

「よしてちょうだい。そんな、縁起でもない」

「そういうつもりで言ったんじゃ……」

「つもりがなくてもよ」

「やめてよ」ミリィが二人の会話を遮る。「喧嘩しているみたいじゃない。そういうの、やめて。そんなことをする理由の方が、ないじゃない」

 キャロは口を固く閉ざして黙した。サーシャは、苦しそうな顔で俯く。

 二人とも、ごめんなさい、という言葉を言わなければならない気がしていたのだが、何故か口を開けなかった。

「だいじょうぶ」ミリィは、自分の手の平を眺めている。「だいじょうぶだよ。何でもないよ。だって、今回は三人だよ? あたしだけなら不安だろうけど、今回はシャルルが一緒だし、それに、アインが」

 そこで彼女の言葉は途切れた。

 再び、沈黙。

 風が窓を叩き、窓の隙間からは波の音が入り込んでくる。

 随分と長く感じられる沈黙。それを次に破ったのは、シャルルだった。

「今回は、ローラさんの時と違います」彼女は自分に言い聞かせる口調で言った。「ミリィさんも言ったように、編成が違います。任務の内容だって違う。下手なことをしなければ、訓練通りにやれば、私達に危険なんてないでしょう」

 シャルルはそうして、ぎこちなく微笑み、そのぎこちない形状の笑みが空気をより重たくしたのだが、彼女自身はそれに気付けなかった。場が少しでも和み、柔らかな質感の空気になればという配慮が彼女が笑んだ理由だったが、効果は逆方向に発揮された。

「うん、そうだろうけど……」キャロは、この場の誰よりも不安げである。それに、シャルルの笑みの逆効果に誰よりも苛まれていた。自分が作戦に参加しないことが、その原因だろう。

 彼は、あの日の晩に、自分は今、シャルルが言った言葉と同じことを考えていたと思い出した。訓練通りにやれば、ローラに危険などない。誰よりも優秀だったローラ。そんな彼女に危険など降りかかる筈がない。彼はあの晩、自分にそう言い聞かせて、彼女の出発を見送った。

 だが、ローラは死んでしまった。

 どうしてそうなってしまったのかは聞かされていない。ローラは施設を出て、そして帰らぬ人となってしまった。結末は、弾道兵器による空爆。出発から結末までの間の経緯は、誰も知らない。ただ彼女はそれによって、死亡した。遺体さえ、未だに施設に帰ってきていない。

 キャロは苦しみ悶えている中で、ミリィとシャルルは、あの晩に彼の頭の中にあった言葉を、同じように言った。

 そこまで一緒であるなら、ともすれば。

 彼はそう考え、背が震える。

 頭に浮かびあがった想像を、彼は振り払った。これは、よくない想像だ。縁起でもない。こんなことを考えてはいけない。

「だいじょうぶ」ミリィが言った。自分の為に、自分に言い聞かせる為に、まだ自分の手の平を眺めたまま、言った。彼女は暫くの間、ずっとその姿勢だ。その手の中に、何か大切なものでもあるのだろうか。だいじょうぶ、という言葉もこれで何度目だろう。彼女はその数を数えていない。「絶対に、だいじょうぶ。ねえ、そうでしょう? みんなもそう思うでしょう? だから、言って。だいじょうぶって。お願い。だいじょうぶって、言って」

 ミリィはそこで、ようやく顔を上げ、その場の全員を見た。その表情は、シャルルと同じ形状。それを全員に向けた。

 キャロを見る。

 彼の膝で眠るエレーナを見る。

 サーシャを見る。

 共に作戦に就く、シャルルを見る。

「キャロ。あたし達はだいじょうぶだよね?」

「うん」僅かな間も挟まぬよう、彼はすぐに返事をした。「だいじょうぶ。そう信じる」

「サーシャ。あたし達はだいじょうぶだよね?」

「ええ」サーシャは不安げな顔を隠し、努めて明るい口調で言った。頬が僅かに震えてしまったが。「きっと、そうでしょうね」

「シャルル。あたし達はだいじょうぶだよね?」

「私は……」深呼吸をした。「ええ、そう信じるだけです」

 それぞれの返事を聞き、ミリィは微笑む。それまでの笑顔とは異なり、ようやく少しだけ、自然な形状になった。本当に少しだけだが。

「よかった。みんながそう言ってくれたんなら、きっとそうなんだよ」もう一度笑う。

 ミリィが浮かべたその笑みには、今の状況下で浮かべる笑顔としては違和感があった。それは先程までと異なり、屈託のない、普段通りのものに近付いたからだ。明るく、無邪気で、爛漫たる眩さを放つそれは、作戦に参加しないキャロとサーシャに罪悪感を抱かせ、息苦しさをもう一度呼び戻させる。

 反して、共に向かうシャルルは、抱いていた不安と恐怖心を曖昧にさせる。

 シャルルは、困惑していた。俯き、それまでの虚偽の笑みを消し、今現在の心境に最も適した、空虚な表情を浮かべる。

 自分はこれから戦地へ赴く。その場所は、彼女がこれまで生きてきた世界とは真逆の、言わば異世界である。自分はこれから違う世界へ向かう。今回の作戦をそのように解釈していた。

 彼女は、これまでの演習の内容を頭の中で復習していた。銃の構え。撃ち方。標的の狙い方。一対一の対処法。一対多となった時の、最善となる対処法。彼女達がの身に宿る特別な力の使い方。何度も頭の中で復習をする。心身には夥しい煩慮が宿り、そのせいで、失敗を犯さない模範的な演習ばかりを無意識に想像している。彼女の頭の中では、それまでに彼女が打ち抜いてきた標的が本物の人間の姿に変わっていた。今、彼女の頭の中では、想像上ではあるが、何十人もの人間が彼女によって射殺されている。頭の中では、任務成功のシミュレーションだけが繰り返されている。失敗や危機的状況は、脳内から追放されていた。そうしていないと、不安と恐怖に心を食われ、気が触れてしまう。

 今、シャルルの理性や自制心といったものは、細い糸を引っ張ったように、ふとしたきっかけで切れてしまう脆弱さだった。冷静ではいられない。だと言うのに、ミリィは普段通りだ。そのように、シャルルには見える。普段通りの笑みを浮かべている、ミリィ。内心はそうではない。シャルルと同じように、胸の内はざわめいているのかもしれない。彼女と同じように頭の中で過去の演習を復習し、必死に平静を保っている、或いは、そうであるように取り繕っている。きっとそうだろう。そうでなくてはおかしい。

 だがミリィは、普段通りに笑んだ。その努力をした。

 張り詰めていたシャルルの心に、ミリィの笑みが入り込む。

 何故だか、気分が軽くなった。

 ミリィの姿を見て、心が揉み解される。

 そうだ。いつものように、標的を撃ち抜く。それだけだ。

 シャルルの胸を支配していた不安や恐怖が、蒸発する。

 彼女の頭の中にそれまで居た、想像上の人間も、蒸発する。彼女が脳内シミュレーションで射殺していた人間だ。標的は、いつも通りの木の板に戻されていた。

 彼女は笑った。今度は、先程より随分と、自然に笑うことができた。

「今までの訓練を思い出して下さい」シャルルは、キャロを見て言った。「平均で30人のテロリストの殲滅訓練を、かれこれ何十回やったと思います?」

「それは……」

 キャロは、やはり続く言葉に戸惑う。彼は、今日の午前の訓練を思い出す。難易度を上げられた内容で、彼は数回の失敗があった。訓練だから今こうしていられるが、あれが実戦だったら、そうはならない。

 再び彼の脳裏に悪性の想像が浮上し、今度は実際に頭を振って、それを消去させようとしたが、今回浮上した映像は過剰に鮮明で、意図的な忘却が困難だった。

 言葉を返せないまま、キャロはサーシャの方を向いた。サーシャも、同じタイミングで彼の方を向くところだった。見合わせた二人の表情は、互いに困惑の色を未だに残しているが、数分前までとは意味合いを変えていた。二人とも今は、目の前にあるミリィとシャルルの笑顔、その自然な形状に、自分達はどう対処してよいのかがわからず、困惑しているのだ。

「だいじょうぶです」そんな二人に、シャルルが言う。「お二人とも、そう仰ったじゃないですか。ミリィさんに聞かれて、だいじょうぶだと」

「そうだよ。今まで通りにやればいいんだもん」ミリィも二人を見て、言った。「だいじょうぶ。心配なんて、何もないよ」

「私が心配しているのは、それだけじゃないの」サーシャが声を震わせながら言葉を絞り出す。それまでも頭の片隅に居座っていた不安要素。彼女達の関係に不和を齎していた、今彼女が最も重要な案件であると認識している件を、意を決して、口にしようとした。「私は、アインが」

 その言葉を遮って、壁掛け時計が鐘を鳴らした。

 サーシャは肩を震わせる。

 キャロが時計の針を見る。

 日付が変わった。

 そして、時間通りに部屋のドアがノックされる。

 キャロとサーシャだけが、ドアを見た。

 ミリィとシャルルは、なんの変化もない。

「はい」シャルルが返事をした。

「入っても、いいかい」

 声は、ニコロ。

 ドアを叩いたのも、彼。

 彼の声は、少し緊張しているようだった。

「どうぞ」

 シャルルとミリィが立ち上がるのと、ドアが開くのは、同時だった。

 扉の向こうには、真剣な面持ちのニコロが立っていた。

 彼の横には、アイン。

 ニコロは、いつかと同じスーツを着ていた。

 グレーのシングル。

 タイはワインレッド。

 出発の夜、様々な要素が、いつかと同じだった。

 ローラは居ない。

 アインが居る。

 違いは、それだけ。


 2


 三人を乗せた船が暗い海の向こうへ去っていく。その輪郭は、間もなく夜陰に飲み込まれ、見えなくなった。

 辺りには、いつも通りの風景が広がっている。施設の城壁。弓の形の海岸線。見送った管理官の姿。何もかもが、いつも通りの姿だった。振り返った先に佇む施設。その中に、今だけ三人の生徒が居ないだけ。

 見送りを終え、ゼフが歩き出す。メイも、その後に続いた。

 ニコロは、二人よりも少しだけ長い時間、船が消えていった方角を眺めていたが、やがて、海の向こうに未練を残しているような足取りで、停泊所を後にした。

 数歩歩いたところでニコロの目に留まったのは、街の明りだった。この時間、いつもは疎らに灯る程度だが、今晩はいつもよりもその数が多い。特に、街の中心。大通りには、光で道をなぞるように明りが連なっており、夜も遅いというのに、煌々と灯っていた。耳を澄ませば、人々の喧騒も聞こえる。

「開拓際ね」メイがニコロの様子に気付き、教えてくれた。「大通りの装飾は終わったみたい。町は、もうお祭りモードよ」

 そう、とニコロは曖昧な返事を返した。

 潮の香りのせいだろうか。

 彼は、息苦しかった。


 3


 ミリィとシャルルが去った室内に残されたキャロとサーシャは、置物のように座ったまま、僅かな身動ぎもしなかった。部屋は、またしても無人に近い静寂に抱擁されている。エレーナの寝息に、二人の浅い吐息が重なる。音は、それだけ。

 時計の針は、一時を指し示している。

 キャロは、何かを言わなければならないような気がしていたのだが、何を言えばよいのかがはっきりとわからないまま、それだけの時間を経過させてしまっていた。なんと、無駄な時間だったのだろう。彼は自分を叱咤した。これは、浪費だ。何か言わないといけない。そうでなくとも、何かしらの行動をしなくてはならなかった。その意志があったというのに、彼は言葉を発しなかった。動かなかった。

 彼は、自身の膝で眠っているエレーナの髪を撫でる。撫でられ、エレーナの寝息が少し変化する。しかし目は覚まさない。もう一度撫でてみる。それをしばし続けた。

「そろそろ、部屋に戻るよ」

 ようやく、彼は言った。それは結果的には、発言と行動であることに間違いないのだが、彼の頭の中にあった意志とはまるで違う、言わば、逃避だった。会話の糸口になるような話題を、彼は持っていない。何を言えばよいのかも、これだけの時間を浪費していながら解明できなかった。それに、今この状況で何かしらの会話をすることは、自粛すべきだろう。時間もこんな深夜だ。サーシャが普段何時に眠っているのかは知らないが、彼女と共に居たいという素直な感情も自粛をすべきであると自覚していたので、今は自室へ戻ることが、自分の為すべき行動としては最善だろう。それが、逃避であっても。

「じゃあ、また明日」

 キャロはエレーナを起こしてしまわないよう、ゆっくりと膝の上から彼女を下ろす。

「エレーナは、今日は私の部屋に泊めるわ」サーシャは、エレーナを抱き抱えようとしたキャロに言うが、彼女の視線は自分の膝に、この一時間ずっと固定されている。「起こすのは可哀そうでしょう? そのままでいいわよ。ベッドも広いし、エレーナ一人くらいなら支障ないわ」

「そう?」

 キャロは考える。何だか、申し訳ない気もするが、確かに熟睡しているエレーナを起こさないようにして彼女の部屋に運ぶのは苦労するだろう。

「それじゃあ、ごめん。お願いしてもいいかな」

「ええ。それに、起きた時に誰も居ないというのも、可哀そうだし」

「そうだね」

 キャロは部屋を出ようと、扉へ歩を向けた。

 ドアノブを回す。

 彼の頭の中に、サーシャへのひとつの質問が浮かんだのは、その時だった。これまでの時間に形にならなかったものが、今、はっきりとした形状で彼の思考の中に出現した。

 ドアノブを回そうとしていた手を止め、そのままの姿勢で、背中越しにサーシャに訊ねた。

「ねえ。ひとつ、聞いても、いいかな」

 サーシャからの返事はない。だが、衣擦れの音だけは聞こえた。きっと、サーシャがこちらを向いた音だろう。そう解釈して、彼はそのままの姿勢で、単刀直入に、頭の中ではっきりとした形を成したものを、言葉に変換させた。

「アインと、何かあった?」

 息を飲む音がした。呼吸の音とは違う。

 彼は自分の耳に意識を集中させる。サーシャに背を向けたままで。

「どうして?」サーシャが聞き返す。

「そう思った」

「……どうして?」

「どうしてって」キャロは僅かに思案する。「ぎこちない。そう思ったんだ」

「そうかしら」

「話している時とか、食事をしている時とか」

「そうかしら」

「……訓練の時も」

「そう、かしら」

 キャロは、後ろでサーシャが動いた音を聞いた。床が小さく軋む音。そして、足音。恐らく、エレーナをベッドに移したのだろう。その後には、ベッドのスプリングが沈む音も聞こえた。

「気のせいよ」サーシャは、そのままエレーナの眠る横に腰を下ろす。その音もした。「いつもと同じよ。何もおかしくないわ。ぎこちないだなんて、そんな……」

「君じゃない」キャロは、サーシャの言葉を遮る。「ミリィだよ」

 息を飲む音。今度は先程よりも、はっきりとした音になっていた。

 その音でキャロは、彼女からの返答を待たずして、理解した。

「やっぱり、何かがあったんだ」

「何もないわ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「嘘だ」

「嘘じゃないわ。本当よ」

「信じられない」

「いつもと同じじゃない」

「同じ?」

「ええ、同じ」

「いつもと?」

「ええ」

「それなら、どうしてさっき」出発の直前に、アインの名を口にしたのか。

「アインのことを知っている?」サーシャはキャロの言葉を遮り、唐突に話題を変えた。「アインのことよ」

「アインのこと?」キャロは話題の変化に戸惑う。「そりゃあ、知っているよ」

「本当に?」

「だって、もう随分と一緒に生活しているじゃないか」

「そう。一緒に暮らしている彼のことを、あなたは知っているのかと思って聞いたの」

「わからないな。どうして急にアインの話を?」

「全部を知っているの?」

「全部?」

「ごめんなさい。何でもないわ」

「何でもない?」

「ただ、聞きたかっただけ」

「それが答え?」

 キャロはそこで振り返り、ベッドに腰を下ろし置物のように動かないサーシャを見た。彼が振り返ったからなのか、彼女は沈黙する。僅かにも動かず、項垂れの姿勢で、自分の爪先を見詰めている。

「それが答えなんだね?」キャロは、もう一度聞く。「どうしてミリィは……」

「もう寝るわ」キャロの言葉に被せて、彼女は少し、語調を強めた。「こんな時間だし」

「え? あ、うん。……そうだね」

 そう言われては、キャロは会話を続けることができない。彼の本心は、自分はまだ彼女から得たい返答を何ひとつとして受け取れていないので、明確な答えが得られるまで彼女の部屋に滞在していたいというものだったのだが、今のサーシャの言葉は、自分に向けられた、部屋から退去の要望であると思えたが為に、彼の性格上、従わざるを得なかった。それに、彼には今の言葉が要望ではなく、命令にも感じられていた。彼にしてみれば、彼の方から自発的にこれだけの問い掛けを続けていたこと自体が珍しいことだった。そんな希少な状態から普段の状態に戻されたと言える現状で、彼がサーシャからの要望、或いは命令を拒否して、この部屋に尚も滞在して会話を継続させることは、不可能だった。

「ごめん」キャロは謝罪する。謝罪の後で、そうする必要があったのか考えた。だが、言葉を言い直しはしなかった。謝罪の後にそんなことを考えるという現象も稀である。彼は、今の自分は珍しい状態だと自覚しながら、再度の謝罪をする。「ごめん。変なことを聞いたね。ごめん」

「いいえ。こちらこそ、おかしなことを……」

「いいよ。気にしてない」キャロはサーシャの言葉を制した。その後に彼女が謝罪をする気がしたからだ。彼女からの謝罪の言葉は、聞きたくなかった。「それじゃあ、もう行くよ」

 胸の内側に暗雲のような蟠りを残したまま、キャロは頬を掻いた。本当に、今の自分はどうしてしまったのだろうと考える。サーシャの言葉を制するだなんて、今の自分は、珍しいと形容するより、おかしいと形容した方が適切なのかもしれない。いつもなら、それがどんな言葉であれ、彼女の声であるならば聞いていたい、堪能していたいと思うのだが。

「おやすみなさい」さようならと言うように、サーシャは言う。

「おやすみ」キャロは右手を肩の位置に持ち上げ、小さく振った。「よい夢を」

「あなたも」

「エレーナをよろしく」

「ええ」

「また明日」

「ええ」

「おやすみ……」

 キャロはドアを開け、退室する。部屋を出る時、ベッドの軋む音が聞こえた。サーシャが寝転んだのだろう。

 ドアを閉め、その場に数秒だけ佇んだまま、動かなかった。

 周囲に流れるのは、静寂。いつもならこの時間でも、施設の人間が誰かしら起きていて、何かの作業や、食堂で晩酌に興じているのだが、その音が聞こえない。どうやら宿舎には今、彼らしか居ないようだ。管理官も全員、地下に居るのだろう。それが、ここ暫くの施設の状態だった。夕食を終え、深夜になっても、地下では業務が継続していた。

 なるほど。珍しい状態であるのは、僕だけではなかったのか。そう考えながら、彼は足音を立てないよう、慎重な足取りで自室へ戻りながら、鋭敏にしていた聴覚を平素に戻す。

 ここ暫くのミリィは、様子がおかしかった。今の自分もそうだった。それもそうだ。施設がいつもと違ったんだ。周りがおかしければ、それに影響を受けてしまうのは道理だろう。

 彼は、少しだけど納得をした。胸の内の不快感も、僅かだが緩和される。シャルルからの、あの質問の意図だけは、今もよくわからないが。

 自室に着いてキャロは、時計の針に目を向けた。

 何事もなければ、三人は空母に到着する時刻だ。


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