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拡張される溝と、悪化する罅

 第六章


 法律家は、法の()と、それに加えて正義の()とを自分の象徴としてきたが、通常かれが剣を使用するのは、たんに外的なすべての影響を法から遠ざけるためではなく、むしろ秤の一方が下がらないときに、剣を一緒にその皿に入れるためなのである(あわれ、征服された者 vae victis)。


 1


 ユーゲンベニアの政権問題に関する報道は連日報じられたが、しかしその内容に、進展ではないにせよ、何かしらの変化が起こることは、それからの一週間に一度としてなかった。状況は膠着状態。前国王が掲示した要求の内容と、期日に対しての現国王、並びに政党側の反応は不明で、どういった対応を取るのかは、ユーゲンベニア国民でさえわかっていない。首都近郊では戒厳令発令の噂が囁かれ始め、唯一変化を挙げるとするのであれば、首都から離れ郊外へ逃げる国民が、数を増したということだろうか。

 押収されたゲーグマン将軍の声明に関しては、報じられていない。世界規模での報道規制によって、今も尚、隠匿されたままである。

 しかし、その扱いと対処に関しても変化はない。各国が対応策を講じているそうだが、議論は未だに会議室の机上から抜け出せないでいる。A国は、事態の鎮静化を目的として、自国の陸軍をユーゲンベニア国境付近に配備したという一報が世間に流されているが、その直前には国境を越えてゲーグマンを捜索していたので、この動きが進展ではなく後退であることは、細かな情報を知る者からしてみれば明らかであった。頼みの綱とも言えるA国でさえ、現状に臆し、兵力を前線から撤退させてしまった。

 期日まで、五日。

 そんな暗澹たる他所の国とは異なり、街では開拓際に向けての準備が始まっていた。

 大通りへの飾り付け。広場の設営。店を持つ者達は、開拓際の為の仕込み。街のあちらこちらで感じられる賑わいは日に日に膨れ上がり、それに伴い、活気と熱気に包まれてゆく。

 開拓際に上せた街で、海を挟んだ向こう側の国で今現在起きている問題について語り合う者は一人としておらず、誰もがその報道を、違う世界での出来事のように捉えていた。彼らにとってそれより重要なのは、やはり、目前に控えた開拓際だった。

 街は、一日毎に華やかになってゆく。

 施設では、ユーゲンベニアの問題が悪化した翌日から実戦を想定した演習のみが行われるようになった。個人のみで行う模擬実戦を、より実戦に近付けようと、演習場内の廃墟に標的をランダムに配置して個人のみで行われていた内容を、生徒達をその都度グループ分けし、複数対複数、或いは、複数対単独で互いの殲滅をする内容に変更された。また、標的もそれまでとは別の目的で使用された。生徒の数は少数だったので、より大勢との戦闘を想定して、標的は攻撃対象と保護対象の二種類に分類し、認識からの対応の速度の上達に使用された。標的を視認してから一秒以内に対応を起こさなかった場合は、標的からの攻撃を受けるものと設定し、減点。誤射によって保護対象を射撃した場合も減点。当然、対戦相手グループからの光線銃による射撃を受けた場合は、即座に失格。実戦であれば、死亡とされた。

 最初は減点の多かった生徒達だが、最近は上達が見られ、対応の遅れや誤射の数は減った。他の生徒達と同じ内容の訓練を行うようになったエレーナも、最近は好成績を記録している。

 生徒達にはまだ、個々の問題が残っている。また、新たな問題も確認された。

 ミリィは、相変わらず利き手と利き目に頼っている節が目立つ。演習の間、常に得手としている方のみを使って標的を制圧していた。成績だけを見るなら優秀なだけに、不安材料である。だが、任務への参加には一切の問題なし。彼女の評価シートには、そのように記載されている。

 シャルルは、近い距離の標的に対処する瞬間に。キャロは、攻撃対象と保護対象を同時に認識した瞬間に、遅れが見られた。どちらの不得手も、演習の数を重ねることで徐々に改善されつつあるのだが、管理官三人が合格だと意見を合致させるには、まだ届かない。だが、任務への参加には支障なしと、二人の評価シートにも記載される。

 サーシャは、単独での場合にのみ、発砲に躊躇いが見られ、対応の遅れによる減点が目立った。誰かとペアを組み行っている演習では的確なフォローを行い、後衛としては誰よりも抜きん出た才能を発揮していたのだが、単独では、行動に躊躇や、それに伴う無駄が多く、本来の俊敏さも半減していた。単独での行動や任務を想定したなら、誰よりも不安なのは、彼女だった。それが彼女の評価シートには、注意事項として記載される。

 エレーナは、速さと正確さの両立がまだできていない。片方に専念すると、片方が疎かになる。これは、以前から管理官同士共通の理解であった、年相応の性質だろうと考え、彼女には今後も集中力を養わせる訓練を義務付け、今後の成長を見守ることになった。任務への参加は不可能。彼女の評価シートに書かれた言葉は、それだった。

 その後も欠かさず行われた細胞の検査によって、それらに変化は一切見られないと、研究班から報告も受けている。細胞には劣化も変異も見られない。生徒達の心身にも異常は見られず、当初懸念されていた、医学的、生物学的な問題は、現在のところ確認されていない。

 施設は、概ね順調に機能をしていた。

 その日の訓練は、先週から導入された単独での模擬実戦だった。皆、慣れた様子でこなしてゆくが、配置した標的への対応速度をそれまでの一秒ではなく、その十分の一の一瞬に設定し、判断、行動の速度向上を目的に実施されていた。それぞれ、小銃、拳銃を持ち訓練を行うが、予備弾倉は与えず、手にした銃器で、そこに装填されている弾数と同じ数の標的を、攻撃対象か保護対象か確認した上で、殲滅する。つまり、一度の誤射があれば、その時点で作戦は失敗とされる。ミリィ、キャロ、サーシャと続き、シャルル、エレーナと、順番に訓練を行ったが、時間の短縮や予備弾倉がないこともあり、一巡目では成功者が出なかった。

「次、アイン」ニコロが家屋の前でアインを呼ぶ。彼は手にファイルを持ち、そちらだけを見ている。「準備は」

「完了しています」

 無機質な声に反応して、ニコロは顔を上げた。

 彼の前には、無機質な顔のアインが立っている。彼が見詰めているのは、これから突入をする家屋の扉だ。

 ニコロは、手にしたペンで額を掻いた。

「始め」挨拶でもするように、ニコロは開始の合図を送った。

 アインが扉を蹴破り、その姿が消える。僅かな風だけを残し、アインの姿は見えなくなった。

 これから先は、建物の中に配置した高速度カメラが彼の行動を記録してくれる。屋外で終了を待つ彼がどうにか捉えることができるのは、発砲の数くらいである。

 アインの姿が見えなくなって一呼吸の後、一発目の銃声が響いた。いや、銃声ではない。光線銃の、実際の銃の機構を再現するリコイルの音。その後も、断続的にその音が響き、途切れることがない。

 ふと、ニコロは視線を感じて、二巡目の順番を待っている他の生徒達を横目で見た。

 目に留まったのは、ミリィとシャルル、そして、サーシャ。三人は、ニコロがこれまでにあまり見たことのない眼差しで、廃墟を見ている。眉を八の字にして。サーシャに至っては両の腕を胸の前で重ねており、その姿はどことなく、怯えているように見えなくもない。

 廃墟の中で鳴るリコイルの音を聞きながら、ニコロは再びペンで額を掻く。最近の彼の癖だ。

 今日も、か。彼は、そう思った。

 三人の関係が、否、四人の関係が今のように余所余所しくなったのは、随分と前だ。確か、ユーゲンベニアの国勢が悪化した日を境にして、こうなってしまったと彼は記憶している。食堂の前ですれ違った、あの日だ。最初は、生徒達と言えど思春期の男女であるのだから、そういった、年齢が由来した特有の問題が起きたのだろうと楽観視し、さして気に留めないようにと考えていたのだが、しつこくアインに迫り、常に彼の横を占領していたミリィまでもが彼と距離を置くようになったとなれば、気掛かりである。

 異変は、管理官全員が認識していた。施設の各研究員に、何か心当たりはないかと訊ねて回ったのだが、全員が異変を察知してはいるものの、その原因まではわかっていなかった。

 関係の異変は、ペアで演習を行った時に、より顕著に浮き彫りになった。アインと組みとなった時、彼女達は委縮したように普段の能力を発揮しない。アインの動きについて行けない筈はないのだが、そうした時、彼女達は決まって、動きも判断も遅れるのだ。

 このことからゼフとメイから下された指示は、その状態の改善である。

 よりによって、一番厄介で面倒くさい役回りを押し付けられたものであると、ニコロは頭を抱えた。

 改善など、どのようにすればよいのか皆目見当がつかない。取り敢えず、この一週間はそういった理由もあって単独での演習を増やし、それぞれに距離を置いた訓練を行っているのだが、こうして見た限り、成果は見られないようだ。

 何があったのか、聞いた方がよいのだろうかと浅く考えながら、またペンで額を掻いた。

 彼がそう考えている間も、リコイルの音は途切れない。弾数は今の発砲で、丁度半分だ。

 ニコロは、食堂の前でサーシャが自分達に何かを話し掛けようとしていたことを思い出した。もし彼女が本当に何かを言い掛けていたのであれば、彼女を問い詰めれば何かがわかるのかもしれない。彼女が自分達に救いを求めて、何かを言おうとしていたのかもしれないのだから。

 今も同じ気持ちでいてくれているのかはわからないが、ニコロは今日の午後にサーシャから話を聞いてみることにした。聞いてみると、問題はあまりにつまらなく、小さな問題であるのかもしれないが、関係を修復しないまま有事を迎えることは避けたい。問題は、なるべく早くに解決しなくては。

 そうして自分の午後の予定をひとつ決めた時、リコイルの音が止まる。アインの光線銃に設定されていた弾数と同じ数が鳴り終えていた。

 ニコロは時計を確認。殲滅までの所要時間は、一分よりも数秒早い。正確な時間は、カメラのデータを受信している施設で把握しているであろうが、やはり彼の俊敏さは生徒達の比ではない。アインが出てきたら中に入り確認をするが、確認をする前から、誤射はないだろうと確信している。

 散歩でもするような足取りでアインが出てきた。

「終わりました」

 彼は短い言葉で報告をした。入れ替わりで、ニコロは内部へ入る。

 標的を確認しながら、その位置を変えていく。次の生徒の為に、どう配置しようかと浅く考えながら、それぞれ移動をさせた。

 全体を確認した後、ニコロは外へ戻る。瞳を刺すような晴天の陽光に、一瞬だけ目が眩んだ。見上げた空には、果てのない青さがどこまでも続いている。朝は風があったが、今は感じられない。今日は、とても暖かな一日となりそうである。

 波の音を聞く。海鳥が気持ちのよさそうな声で鳴いている。遠くの方からは、金槌を振り下ろす音。開拓際の準備をしている音だろう。

 ニコロは時計を見て時刻を確認する。あと三巡は演習が可能な時間が残っていた。

「それじゃあ、もう一度。ひとり、もう二回やろう」

 彼は離れた位置に居たアインにも声が届くよう、声を張った。

 順番は振り出しに戻り、ミリィが返事をして立ち上がった。彼女は慣れた様子で小銃を持ち上げ、早足でニコロの横へやって来ると、いつでもどうぞ、と笑んでそれを構え、開始の合図を待った。だが、そこでニコロは、用意していた拳銃を彼女に渡した。彼女の不得手を改善する為、標的の位置も調整してある。ミリィは少し不満げだったが、小銃と拳銃を交換する。どうぞ、と彼女はもう一度言った。

「始め」

 ニコロの合図と共に、ミリィは扉を押し開け、その姿は消える。後に、発砲。

 ニコロは空を見上げる。

 本当によい天気だと、彼は思った。


 2


 午前の訓練は定時で終わり、最後に、各自が使用した銃の手入れを各々で行った後、全員で施設へ戻った。生徒達はそのまま食堂へ向かい、ニコロは報告の為、執務室へ向かった。

 ドアを開けると、神妙な面持ちのゼフとメイが、彼を出迎えた。

 言葉を交わすより早く、ニコロは状況を察した。

 鼻を鳴らし、溜息。そして、ペンで額を掻く。

 ようやくか、と、彼の口が紡ぐ。

 施設の城壁で羽根を休める海鳥が、甲高い声で鳴いていた。


 3


 祈りの後に、生徒一同は食事を始める。今日の献立は、ハーブのサラダ。蒸し鶏とバジルの冷菜。子イカの煮込みに、ポルチェッタ。イカは黒いソースで煮込まれていて、誰もが初めて見る料理だったが、フランスバスクの郷土料理であるらしい。イカを、その墨で煮込んだ料理だという。ポルチェッタは、開拓際を目前に控えているので、それに合わせて作ったのだそうだ。

 ミリィが嬉しそうに肉に噛り付く。エレーナも口いっぱいに頬張りながら、頬が瞳にくっついてしまいそうな笑顔を浮かべた。

 普段は肉より魚を好んでいたサーシャも、今日はポルチェッタを選び、その味に頬を綻ばせた。

「美味しい」ミリィは声を裏返らせて歓喜する。「ああ、幸せだなあ。この日の為に生きているよね」

「何だか、ぐうたらなおじさんみたいだ」キャロが苦笑した。「ビールを手にしていたら、完璧なのに」

「ちょっと、キャロ」

「ははは、ごめん。ビールはまだ早いか」

「おじさん、じゃなくて、おばさん」

「そっち?」

「大事な問題だよ。あたしは可愛い女の子」

「可愛い女の子は、そんなに大口でお肉に噛り付きませんよ、ミリィさん」シャルルもポルチェッタを楽しみながら、躾の為に相手の手を叩くような口調で言った。「そのままだと、数年後にはオオカミになっていそう」

「えー。なるんなら、もっと可愛い動物がいい。猫とか」

「猫ですか。目つきはこの場の誰よりも似ているけれど……」

「猫だったら、喜んでなるよ」

 ミリィが誇らしげに言うと、それを聞いたサーシャが、くすりと笑う。「手に負えない猫になりそう」

「確かに」キャロも同意した。

「何それ。どうして?」

「ただでさえ気ままなあなたが、気ままが身上の猫になってしまったなら、とんでもなく大変そうだという意味よ」

 サーシャの言葉に、キャロはしきりに頷き、力強く賛同した。

 もしもミリィが猫になったなら、と頭の中でその状況を想像してみると、彼女を扱うことは途方もなく困難だった。彼女を猫として飼う際に、その身柄を手元に置いておく為に必要となるものは頑丈な首輪ではなく、堅牢だ。遠くへ行かないように拘束するのではなく、遠くへ行かないように幽閉をする。ミリィは、その時に右を見たか左を見たかの違いだけで、重要な行動さえ放棄してしまいかねない性質である。そんな彼女を扱う為に必要なものとは、そういった施設や設備であろうと、これは想像上の話ではあるのだが、やけにはっきりと、現実的に思い浮かんだのだ。

「ミリィは今のままで充分だよ。それ以上は、勘弁して」

 キャロからの言葉に、ミリィは膨れる。

「ひどい。今のままで充分可愛いって言ってくれるのかと思ったのに」

「それは、強請る相手が違うじゃないか。僕にではなく、アインに頼んでくれ」

 その時、瞬きを一度するくらいに一瞬の、間が開いた。

 キャロは胸中で首を傾ぐ。

 何か、おかしい。今日も何かがおかしいな。キャロは、そう感じた。

 最近、ミリィの様子がおかしく思える。余所余所しいと言うか、以前ならば、こういった状況になると真っ先にアインへと話の向きを転換し、そちらにすり寄っていた彼女が、最近はそうしていない。もしそうしたとしても、妙にぎこちないのだ。

 アイン以外は、皆ほぼ同じ時期に施設へやって来て、キャロとエレーナは少し遅れての合流だったが、それでももう数年も一緒だったからこそ、そんな変化が彼には目立って見えていた。キャロからの言葉に対するミリィの返答までの僅かな空白も、本当に一瞬だったが、気になる。それが今だけのものではなく、ここ暫く、その数が多いとなれば、尚更に。

「だいじょうぶ」わざとらしくミリィが、中身の乏しい笑顔を浮かべた。「アインにあたしの想いは、しっかりと伝わっているから、きっと可愛いって思っている。ね、アイン?」

 アインは、話をよく聞いていなかった。

「なに?」

「また聞いてなかったなー? もう、アインはいつもそうなんだから」

「ごめん」

「あたしを可愛いって思っているよね、って話」

「誰が?」

「アインが。もう、しっかりしてよ」

「ごめん。可愛いと思うよ」

 ミリィの笑顔もそうだが、アインの口調に込められる感情も、相変わらず乏しい。キャロは、彼を傍から眺めながら、そう思った。

 彼との会話には、決定的な何かが欠けている。それは、感情。彼の口から放たれるものには感情が欠落している。それは、アインが施設へやって来た時から感じてはいたのだが、そんな言葉を相手に屈することなく、相も変わらずに立ち向かい続けているミリィには正直感心していたのだ。どこまでを本心として彼女が語っているのかは定かではないが、アインが施設入りをして、もう数日で一月となるが、その間彼女が彼に向けていた想いとは、明らかに愛慕だった。

 それが最近、ぎこちない。

「下手な芝居みたいだよ、アイン」ミリィが笑いながら言った。「言い方がわざとらしい」

 キャロは、そう言ったミリィこそ言葉の節々がわざとらしく、下手な芝居のようだと思ったし、言いたくもあった。もしそうしたら、現状はきっと悪化するだろうなとも思っていたので、思い止まったが。

 視線を滑らせると、その会話を聞いているであろうシャルルとサーシャの姿がある。

 シャルルは、ある意味でいつも通りに、アインとは関わりを持たないよう努めた食事を、サーシャはいつも通りに、静かに、優美な食事スタイルで時を過ごしている。いつも通りに見える。

 だが、本当にいつも通りだろうか。会話には加わらない。そんな、目に見えない防御壁を自身の前に聳え立たせているように、彼には見えてしまう。いつも通りではないじゃないか。そう考えている自分も、いつも通りではないなと自覚しているが。

 全員、おかしな状態だな。どうしたのだろうか。

 彼が少し前から気に掛けているのは、それだった。

 普段通りに過ごしているのは、エレーナだけか。彼は、肉のかけらがついたまま一所懸命に食事をする妹の頬を拭き、自分も食事を続けた。

 ああ、違うか。彼は直前の自分の考えを変える。

 アインも、いつも通りか。


 4


 全員が食事を終えた時、管理官三人が食堂へやって来た。

 ニコロから、今日の夕食後、全員執務室へ来るようにと伝えられた。用件は、その場では明かさなかった。ただそれだけを伝えた後、三人は食堂を出て行った。三人とも昼食がまだである筈だが、食事をとらなかった。

 短いやり取りであったが、管理官三人は真剣な眼差しであったのは確かだった。普段は陽気なムードメーカーを担うゼフでさえも、笑みもなく去ってしまった。

 どうしたというのだろう。

 生徒一同顔を見合わせたが、いつもと違う管理官の様子が何に起因したものなのか、見当もつかなかった。自分達が既にいつもと違う状態なのだから、他の誰かの様子の違いを察知することなど、不可能に近しいものであるのだが。

 なにかあったのだろう。それしか頭の中に思い浮かばない。

 首を絞められているかのように、ひどく苦しそうに見えた管理官の顔。それが何より、気掛かりだった。


 5


 アインは、その日の午後を施設の中庭で過ごした。花壇の手前に座り、空を眺めていた。それ以外には、何もしなかった。

 雲ひとつない空は、どれだけ長い間眺めていても変化がなく、時間が止まっている錯覚を抱かせる。青一色の絵画の中に幽閉されているかのような感覚は、なんとも奇妙だった。

 その感覚が、快楽であるのか不快であるのかを、彼は大別できなかった。それは、ここに来て初めて抱いた感覚である。終ぞ体験したこともない感覚を二系統に分別して理解することが、彼には困難だった。そもそも彼は、施設へ来るまでの間に一度として自分の周囲で起こる現象が快楽であるのか不快であるのかなどと考えたことがない。それは不要なものだったからだ。重要なのは、危機を逃れて生存すること。そういった感覚の仕分けは、ここへ来て初めて経験した。よって、それに関して彼は、まだ基準値を定められていない。否、基準値というもの自体をまだ手に入れていないというのが、正確な現状と言えるだろう。基準値がないのだから、感受したものを振り分けることなど不可能だ。

 彼は、何も感じることなく、中庭から見える青の静止画に飲み込まれていた。

 気が付いた時、時刻は夕方を迎えていた。空の色はいつの間にか朱色に変化を始めている。結局今日も、快楽か不快かの基準値は理解ができなかったのだが、時間は止まっていなかったのだという理解だけは得られた。

 食堂では夕食の準備が整い、空腹でなくても食欲を刺激する香りが中庭にまで漂ってくる。

 アインは立ち上がる。午後は何もしていなかったので、さほど腹が減ってはいないが、やはり彼も、その香りには誘われる。一度部屋に戻ってから、食堂へ行こうと歩き始めた。

 中庭から管理棟へ移動。そこで、食堂へ向かうシャルルとミリィに出会った。彼が二人を認識すると、二人もアインに気付いた。

 二人は、驚かされたかのように僅かに震えた。そんな気が、アインにはした。

「アインもご飯?」ミリィが、まだ離れた位置に立つ彼に向けて、声を大きくさせた。その場から移動はせず、接近もしない。

 うん、と、アイン。

「そう。席、取っておく?」

 うん、と、アイン。

「わかった」ミリィは手を振った。「じゃあ、また後でね」

 うん、と、アイン。

 二人の姿は、退避に似た速い足取りで食堂の中に吸い込まれ、消えた。

 取り残される、アイン。

 彼は、胸に違和感を抱く。初めて感じる違和感だった。初めて感じる違和感だったのだが、それが快楽であるのか不快であるのかは、基準値を持っていない彼にでも、はっきりとわかった。

 これは、不快である。

 何故そう感じるのかは推測すらできないのだが、微かに痛む胸は、痛いと言うよりも、苦しく、そう、不快だった。

 それを彼は、過去に、どこかで経験していたような覚えがあったが、それが、いつ、どこでだったのかは思い出せなかった。

 それはいつ、どこでだっただろう。

 普段ならば即座に消去されている些末な疑問を、その時彼は、そうはしなかった。彼は無意識に、それを思考の、いつでも引き出せる位置に収納しておいた。

 その後にすぐ食堂へ向かわなかったのは、それが要因だろう。数分そこで直立して時間を経過させてから、彼は食堂に入った。

 食堂の中に人の姿はほとんどなかった。いつもの定位置に彼以外の生徒達が座っているだけで、それ以外には、調理場のスタッフが一人、手持ち無沙汰に立っているだけで、研究員の姿はない。そういえば、普段なら業務を終えて帰途に就く姿が散見されているのに、今日はそれが見られなかった。だが、昼食後の管理官のあの様子だ。きっと何か、例えば、普段よりも業務が増え、定時で業務を終了させられないことでもあったのだろう。

 彼が閑散とした食堂を進み着席すると、手持ち無沙汰にしていたスタッフが歩み寄り、今日の料理の内容を説明する。それを聞き、生徒達は各々選択をし、数分後に料理がテーブルに届けられ、祈りの後、夕食が始まった。

 周囲に人が居ないからなのか、その日は会話の少ない夕食だった。それに、少ないだけでなく、いつもとは少し違う、ぎこちなさや違和感が内包された会話が食堂に流れていた。

 いつも通りにアインの横に座るミリィが、殊更に話さなかった。全く話さなかった訳ではないが、彼女から率先して話題を挙げ、発展させ、継続させることがなかったのだ。正しく言うなら、今日は、ではなく、最近は、であるが。ここ暫くは、日毎に彼女がアインに話し掛ける頻度は数を減らしていた。今日は、それがより顕著だった。彼に接近すらしないのだから、当然だが。

 アインはいつものように、自分から率先して会話に加わることはなかったが、それらのぎこちなさや違和感が、少し前から感じていたものと同一であると観察しながら食事を進め、そして、終えた。

 全員の完食も、ほぼ同じタイミングだった。食事に要した時間は、普段の半分以下だ。それに、食後の寛ぎの時間もなく、誰かが言った、じゃあ、という一言で全員が席を立ち、食堂を退出した。

 食事を終え、アインは自室へ戻る。ニコロ達から言われていた執務室への出頭は、この後すぐにと、サーシャが決めた。誰も異論はなく、解散し、各自の部屋に戻った。 

 アインは部屋に戻ると、数秒だけ滞在した後、執務室へ向かう。部屋に戻る必要などなかったのだが、他の生徒がそうしたので、彼はそれに倣っただけだ。

 執務室へ向かう、その途中、廊下の窓から外を眺めた。

 城壁の上に浮かんだ空には、残照が滲んでいる。雲は、相変わらずない。

 夕刻の空は普段より僅かに色が濃いようで、燃やされたのか、赤く染められていた。

 執務室まで歩き、扉を叩く。回数は三回。返事は間を開けずに返された。入って、と、ニコロの声だった。

 アインは扉を開け、入室する。室内には既に、彼以外全員の生徒が揃っていた。彼は、自分が一番だろうと想定していたのだが、他の皆は、本当は自室へは戻らず、直接ここへやって来たのかもしれない。

 壁際に新兵のように整列しているその顔は、エレーナを覗いて、皆一様に強張っている。エレーナだけが、彼女の年齢であれば当然であろうが、これからこの場で何が起きるのか、何故自分達は呼び出されたのかがわかっていないようで、その顔は戸惑っており、自分以外の、普段とは違う表情をしている人間の顔を眺めていた。

 実際には、管理官以外の全員が、これからここで何が起きるのかを把握していないのだが、しかし、恐らく全員が、察しているだろう。

 ニコロ。ゼフ。メイ。三名の管理官は、生徒とは反対の壁側に立ち、何かの資料を眺めていた。

 アインも列に加わる。

 それを待って、ニコロは顔を上げた。

「それじゃあ」そこで一呼吸の間を取る。その間の後に、彼は生徒全員の顔を見た。「君達に伝えることがある」

 彼の声の神妙さに、誰かが唾を飲み込んだ。喉の鳴る音が、アインには聞こえた。

「任務だ」囁くように、ニコロは言った。

 無音のざわめきが生徒を中心に放たれる。

 やっぱり。全員がそう思った筈だ。少なくとも、アインはそう思った。

 生徒全員のその心中をしっかりと察知した後、ニコロは続ける。

「昨日本部で決定されて、今日の午前中に通達が来た。出発は、今晩中。目的地はユーゲンベニア。首都から北北西に、およそ13キロの位置にある、バルゴという町だ。首都に次いで、ユーゲンベニアでは発展している町で、任務の内容は、バルゴ内にある、ユーゲンベニア陸軍の軍事施設に侵入し、対象となる目標の確保。確保ができない場合は、殺害だ」

「質問があります」サーシャが、ニコロの言葉を遮って挙手する。

 ニコロは、質問を許可した。

「ユーゲンベニアの問題は、テレビでもよく見ているので、わかっています。ユーゲンベニアの政権問題に関与することは難しいと、どの番組でも言っていましたが」

「そうだね。ユーゲンベニアで起きている政権の問題は状況が複雑で、ユーゲンベニアが辿ってきた歴史が、それを更に難解にさせている。でも、サーシャ。今回は、そちらではないんだ。それだけの問題では、施設は動かない。続きを説明するから、最後まで辛抱して聞いてくれるかい?」

 彼が優しい口調でそう言うと、サーシャは頷き、従った。

 ニコロは咳払いをして、やはりペンで額を掻き、手元にある資料に再び視線を向けた。そうしている間に、続きを伝える役はゼフに移行した。

「まず、報道されていない情報を伝える」ゼフは片手をデスクに乗せ、そちらに体重を掛けた。資料はもう一方の手に持たれているが、そちらを見てはいない。「問題視されている前国王側に、国外から協力者がついた。上の人間は、この協力者の確保か、殺害を決定した。任務内容はそれだ」

 ゼフは、アインを一瞥した。

 その時、アインはその次に放たれるであろう言葉を察知した。彼は、拳を強く握る。

「対象は、オルム・ゲーグマン将軍だ。半年間姿を隠していたが、今回の一件で再び現れた」

 再び室内に広がる、無音のざわめき。

 続きを、今度はメイが語る。

「絶対に守ってもらわなければならないことは、目標はゲーグマン将軍の勢力だけであるということ。サーシャも言っていたように、ユーゲンベニアという国は、とても複雑な状況にあるから、私達施設であっても介入することができないの。もしもユーゲンベニア側に損害を与えるようなことになれば、事態は確実に戦争に発展してしまう。だから、絶対にゲーグマン将軍側、つまり、ユーゲンベニアに入国しているレクレアの関係者以外には、絶対に、何があっても手を出さないこと。ゲーグマン将軍の身柄確保だけを達成というのが、一番の理想ね。極力の努力をして」

 はい、と、返事をしたのはアインだけだった。

 しばしの、間。

 無音の室内。

 時間が経過しても、アイン以外に返事をする生徒はいなかった。

「詳しい予定を伝えるよ」説明の役割がニコロに戻される。彼は再び咳払いをして、ペンで額を掻いた。「今回の任務に就く人間は、もう決まっている。ミリィ。シャルル。それから、アイン。以上、三人だ。三人はこの説明の終了後に……」

「三人?」キャロの声は驚きの響きで、上擦っている。「全員じゃなくて?」

 ニコロは一度キャロに目を向けたが、またすぐに、手元の資料へとその視線は移動する。

「言ったように、ユーゲンベニア国内は緊迫している。前国王が示した期日まで、残り日数は少ない。ユーゲンベニアでは今、国民も周囲で起きる些細なことにさえ敏感になっている。そんな状況だから、少人数での現地潜入が命令されたんだ。目立たない為の措置だよ。今回の作戦が達成できるであろう人数、各個人のスキル。それらを総合してメンバーは決定された。いいね? わかったかい?」

 キャロは説明を受けて頷くが、その表情は明らかに納得をしていないものだった。

「それじゃあ、説明を続けるよ。ミリィ、シャルル、アインは、この後0時に施設を出発。港に待機している船でイオニア海を南下して、領海を越えた所で待機している国連の空母に合流。そこで必要な装備が支給される手筈だ。そこからは輸送機に乗り込んで……」

 その後もニコロは、淡々と説明を続けた。

 任務内容は、アインにとっては単純なものだった。

 0130時、国連所有の空母にて装備を調達。0200時、空母を出発。小型の輸送機で隣国国境付近へ移動し、そこからは複数の車両を経由して、0300時、ユーゲンベニア国内へ侵入。0415時、バルゴ市郊外2キロ地点に到着。車両は退去。作戦開始。0500時、作戦の成否を問わず、ユーゲンベニア国外へ退去し、回収地点にて輸送機を待って、帰還。

 無線は使用禁止。所持も認められていない。火器使用は、状況を見定めた上で各自が判断。帰還の為の輸送機の待機時間に延長はない。定刻を経過した場合は、そのまま輸送機のみが帰還する。

 標的はオルム・ゲーグマン将軍。並びに、必要と判断したなら、将軍側勢力。

 難しいことは何もない。単純な任務だ。

 アインは、そう考えた。

 ニコロは説明を終える。

 質問はないかと、生徒全員の顔を見て、彼は問う。

「ありません」

 そう答えたのは、アインだけだった。

 待てども、やはり他の生徒達の口は言葉を発さなかった。

 無音。

 静寂。

 肌触りの悪いそれの終わりは、ニコロの言葉。

「以上だ。解散」


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