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交流による溝と、罅

 第五章


 「ある小国がある大国の連関を断ち切る場所にあり、しかもこの連関を保つことがその大国の維持にとって必要であるとする。ところで大国は、その小国を服従させ、自国に合併するといった権利をもつであろうか。」


 1


 翌日、勉強の為にあてていた午前の時間の使われ方が今後変更されることに関しては、メイから生徒達に伝えられた。彼女自身が、サーシャに土産を手渡さなくてはならなかったので、そのついでにと、役目を引き受けてくれた。

 メイからの伝達に、生徒達は僅かな動揺をしながら、了解をした。了解をした上で、どのように変更されるのかという質問が返されたが、まだ調整中だと前置きした上で、一時的に中断されていた実技の数が増え、それもより実戦に即した内容が加わるだろうと、メイは伝えた。

 急な変更となるので、今日はいつも通りに過ごしてもらうことにした。これは、管理官三人の合致した意見で、昨日の今日で実技を開始するには、事前の準備が完全ではなく、そんな状況だというのに強行をして何かの問題があっては一大事であると話し合い、変更したカリキュラムを適用させるのは、明日からであるとも伝える。今日最終的な調整をして、明日は演習場で射撃訓練を行う予定であると。予定ではあるが、銃器の整備は昨日既に完了しているので、ほぼほぼ決定であるとも付け加えられた。

 それ以外に予定されている内容についての質問が、生徒側から続けられる。

 メイは、昨晩管理官同士で話し合い、リストアップされた項目を明かした。射撃だけではなく、狙撃訓練、模擬実戦、体術、格闘技。その他、専門知識に関してであり、今日中にそれらをどういったルーティーンで実施していくかも決め、伝達すると。

 続けて、この変更の理由に関して、生徒側から説明が求められた。

 メイは正直に、上層部の改革によるものだとも告げた。

 生徒達の動揺が強まった。

 恐らく生徒達自身、こういう日がいつかは来るだろうと予見していたのだろう。表情から、そんな感情が見受けられた。この日が遂に訪れた。訪れてしまった。それを痛感している重苦しい顔は、見るに堪えない。

 そんな中で、アインだけは表情を変えなかった。一通りの説明を終えた時、他の生徒達は、皆一様に首を絞められたような重苦しい顔をしていたというのに。

 生徒達のその重苦しい顔を見たメイは、ローラに命令が下された時も、このような表情をしていただろうかと思い出す。

 これ以上自分は、この場にいない方がよいだろう。

 その考えに至ったメイは、詳しい内容は明日、とだけ言い残し、去った。

 そして翌日から、予定通りに演習場に隣接した射撃場での射撃訓練が開始された。

 射撃訓練は二週間継続して行われ、それによってそれぞれの生徒達の銃器に関する徳性が把握できた。それと並行して、各々の身体能力も測定し、データを取る。模擬実戦も、それらの半分ほどの割合だが、行われた。施設敷地内の廃墟で行われ、それは屋外なので、この時は近隣に銃声等が届かないようにとの配慮から、標的にポインタを付け、それが出現したら光線銃で応戦するという仕組みだが、通常の光線銃ではなく、射撃による反動が伴い、残弾数の概念も実装されたものだった。それらの訓練によって得られた、現在の生徒達の技術、能力は次のように記録された。

 ミリィは、拳銃での命中精度が誰よりも高かったが、小銃になると精度が下がった。両手で抱えての射撃が不得手であるようだ。また、利き手や利き目でも精度が左右することも判明。それは、模擬実戦で確認された。拳銃の構えを左右逆転させると、弾道が僅かに逸れる癖が見られた。あらゆる局面でも通用するよう、その克服が課題とされた。だが、身体能力には一切の問題なし。測定した握力168キロ。打力879キロ。脚力632キロ。跳躍力8メートル以上、100メートル4秒フラット。反射神経、極めて良好。

 シャルルは、ミリィの逆だった。以前からわかっていたことだったが、彼女は体術、格闘技、主に、接近戦を不得手としている。その反面、射撃に関しては銃の種類を問わずに抜きん出た才があり、スコープ不使用、裸眼での遠距離射撃、狙撃に関しては、どういった状況でも辣腕さを発揮し、模擬実戦の際に誰よりも標的への反応速度が速く、正確なのは彼女だった。彼女の視力や聴力、反射神経といった感覚は常人ならざる鋭敏さで、また、未だに成長途中であることも判明した。

 サーシャは、オールラウンドに才能を発揮した。大きく評価される個所はないが、問題もない。身体能力ではミリィに劣ったが、体力面では勝っている。彼女は、フルマラソンの距離を全力疾走した後でも、息を乱さなかった。

 キャロは、ミリィに似た素質を持っていたが、時折集中力が途切れるのが問題と判明。誰かの前だと意気込み、よいところを見せようとして、イージーミスが見られた。特に、模擬実戦の際に顕著だった。それ以外に問題がないだけに、早急な改善が求められると、管理官三人は意見を合致させた。

 エレーナは、年齢的に落ち着かないのが難点だったが、射撃に関しては、幼齢であることを踏まえ少ない試行数ではあるが、大きな問題がないと確認できた。彼女の問題点は、彼女の成長に合わせて対応していく以外に改善策がないと判断。即戦力としての使用は当面困難であると評価された。だが、肉体面で誰よりも抜きん出ているのは、彼女だった。握力264キロ。打力は1トンを超え、脚力は786キロ。それを聞いてエレーナは、大層喜んだ。スーパーマンにも勝てると、満面の笑顔だった。

 アインは言うまでもなく、全てにおいて良好。一切の問題なし。

 また、それまでは週に一度だった細胞の状態確認の為の採血を、毎訓練後に変更し、実戦訓練によって生徒の状態に変化が見られないかどうかを診察した。結果は、現在、生徒の心身にも細胞にも、大きな変化は見られないことが確認された。短い計測期間ではあるが、生徒達の細胞は連日活動をさせても安定した状態であるらしい。一切の問題なしと、連日地下の研究員からの報告書が届く。

 こうして完成した生徒達のデータは、すべて本部へ提出され、現在の戦力として登録、管理された。


 2


 その日も、地下射撃場で全員が射撃訓練を行った。今日の付き添いの管理官は、ニコロ。彼は訓練の間、生徒達が黙々と的に銃弾を撃ち込み、穴を開けていく様子を黙って見守っていた。

 腕時計を見る。時刻はもう間もなくで正午。予定していた終了時間を大分過ぎていた。今日のノルマを終了し、みんなを昼食の為に施設へ戻さなくては大変だと気付く。

 彼は顔を上げ、全体を確認した。

 シャルルは小銃を構えていたが、丁度弾倉が空になった。予備の弾倉を手に持ち、空の弾倉を外している。キャロも手持ちの弾倉が空になってしまったので、一度発射台から離れ、薬莢の補充を行っていた。エレーナは、今日は射撃訓練を行わせていない。彼女には、集中力を養わせる為に薬莢の補充を繰り返し行わせていた。

 ニコロは三人に、そこで終了して片付けをするように指示を出した。

 その指示に気付いたサーシャが、射撃を中断して、イヤーマフを外してニコロの方を向く。そんな彼女に気付いたミリィも、同じく手を止めた。サーシャが構えていたのは小銃。ミリィは拳銃。どちらも二人には大きすぎるサイズだ。

「二人は、今ある弾を撃ち終えたら終わりだ」ニコロは、隣り合っているミリィとサーシャに近寄る。「サーシャは、そのまま。ミリィは、そうだね。残りは左で構えて」

「えー」ミリィは、情けない声で不平を漏らす。「左の構えは苦手なんだけどなあ。知っているでしょ? ニコロさんのいじわる」

「勿論知っているよ。だからこそ、やるんだ」

「右で構えたら百発百中なのに」

「苦手なことは克服しなきゃいけないよ」

「やらなきゃダメ?」

「文句を言うなら、今日のティータイムをお預けにするように、メイに言っておくけど?」

「それはあんまりだよ、ニコロさん」

 ミリィは大袈裟な身振りで頭を抱えたが、口を尖らせ、渋々構えを逆にして的を睨んだ。

 拳銃を構える。

 右手で握っていたグリップを、左手に変える。

 目標、50メートル先。的、人型。

 サークル、2箇所。胸部、頭部。

 頭部に照準を定め、集中。

 発砲。

 弾丸は直進し、命中する。空いた穴は、的に描かれたサークルの、やや左。その後の残弾も、同様の結果だった。

 ミリィの弾倉が空になるのと同時に、サーシャも全弾を撃ち尽くした。二人は、同時にイヤーマフを外す。

「おかしいなあ」ミリィは弾倉を抜き出し、安全装置を掛けながら首を傾いだ。「どうして右と左とで、こんなに差が出るの? おかしいよ」

「おかしくなんかないわ」サーシャも弾倉を抜き、安全装置を掛ける。「利き手がどちらかというのもあるでしょうけれど、構えを逆にしたら、見ている目も逆になるでしょう?」

「利き目ってやつ? でも、撃つ時は両目が開いているよ。両方の目で見ている」

「そうでもないのよ。それに、ほら、覚えていない? 右目と左目は、いつだって違う何かを見ているものなのよ」

「え? ……ああ、前にも言っていたっけ、それ。えっと、いつ聞いたのか覚えてないんだけど、でも、それ意味がわからないよ。どっちの目も同じものを見ているようにしか考えられないもん」

「きっといつかは、わかるんじゃないかしら。それが、今じゃないだけよ」

「わかった時あたしは、おばあちゃんになってるね」

 おどけるように言い、二人は笑った。

 そして、発射台から離れてそれぞれの銃と弾倉を倉庫に片付けた。ニコロは、二人が銃と弾倉を収納したのを見て、倉庫に施錠しようと鍵を取り出すが、その時、まだ銃声が止まないことに気付き、振り返り、射撃場を見た。

 射撃場の一番奥で、アインだけがまだ射撃を行っていた。集中しているせいか、イヤーマフの防音のせいか、自分以外の全員が既に射撃を止めていることに気付いていないようだ。

 的を睨む双眸は鋭利だが、表情はない。ただ引き金を引き続け、淡々と撃ち続け、的の中心を撃ち抜く行為を何の気概も抱かずに続ける彼は、人ならざる者、といった形容詞が的確であった。そうでないなら、銃を撃ち続ける機械だ。

 ニコロは後ろから歩み寄り、弾倉が空になったのを見計らって、アインの肩に手を置いた。

 アインはゆっくり、機械のように振り向く。後ろに立っているのがニコロだと気付くと、銃を発射台に置き、イヤーマフを外した。

「終わりだよ。昼食の時間だ」ニコロは、アインが置いた銃を取り、弾倉を抜く。「そうしないと、空腹の誰かが暴れかねない」

「はい」

「君はみんなと施設へ戻っていてくれ」

「はい。銃も片付けておきます」

「それは、僕がやっておくよ。ここの片付けがあるからね。きちんとやっておかないと、ゼフに叱られてしまうんだ」

「僕も一緒にやります」

「君はいいから。先に戻っていて大丈夫だ。それに、言っただろう? 誰かが空腹で暴れたら大変だって」

 ニコロは、笑いながら後ろを指差した。その先に居るミリィが大声で二人を呼ぶのは、それと同時だった。

「はーやーくー。お腹すいたー」

 ニコロはアインに、手の動きだけで、行きなさいと伝えた。

「そういうことだよ。状況はわかっただろう? さあ、行ってくれ。僕もすぐに行くから」

「はい」

 返事をしてアインは発射台から離れるが、その後、数歩で足が止まる。

「ニコロさん」振り返らずに、アインは背後のニコロに聞く。「質問をしてもいいでしょうか。聞きたいことがあります」

「なんだい?」

 聞き返すニコロも、アインの方を向いていない。互いに背中を向け合っていた。

「この訓練は、何の為でしょうか」

 アインからの問いに、ニコロは一瞬言葉に詰まった。

「前に伝えたとおりだよ」酸欠のような感覚を感じながら、ニコロは言う。「上の体制が変わった」

「僕は、また昔のように?」

「すまないと思っている」

「何の話でしょうか」

「君に、ここは前までと違う場所だと説明をした」

「それは嘘ではないと思います」

「銃を握らせている」

「握っているだけです」

「何度も撃たせた」

「撃っているのは的です。的を射抜くのと人を射抜くのには、違いがあります」

「恨んでいないのか」

「誰をですか」

「僕を」

「その理由がわかりません」

「僕は嘘をついた」

「嘘ではないと思います」

「今は的だが、いつかは……」

「仕方のないことです」そこでアインは、振り返る。「ニコロさん、もう一つ、いいでしょうか」

 ニコロも振り返った。中空で視線が交わる。

「提案があります」アインの口は無機質に動く。

「提案?」ニコロは、眉根を寄せた。

 はい、と、アイン。

「射撃訓練以外にも、銃器の構造も学ばせた方がいいかと思います」

「構造?」

 はい、と、アイン。

「もしもの時に、自分の銃の整備ができなくては、どんな兵士も役に立ちません。彼女達は、まだ銃を解体して組み上げることができません。そういった面も学んだ方が、後々の役に立つかと」

「君の経験からの提案かい?」

 はい、と、アイン。

 ニコロは顎を揉み、考えた。

「そうか。……そうだね。君の言う通りだ。今後はそういった内容を増やそうと、ゼフとメイにも伝えておくよ」

 はい、と、アイン。

 だが、彼は直立のままで、動こうとしない。

「他にも提案が?」

「他の皆が、手話が可能かが知りたいです」

「可能だ。しばらく授業を行っていなかったけれど、会話は成り立つよ。エレーナは別だけれど」

「モールス符号はどうでしょうか」

「手話には劣るけれど、同じだ」

「不測の事態の為に、そちらも提案をしたいです」

「どちらが優先的かな」

「モールス符号が僅かに優先的かと思います。意思疎通可能なまでに」

「経験からの提案だね」

 はい、と、アイン。

「わかった」息を吐きながら頷く、ニコロ。「それじゃあ、行って。みんながお待ちだ。そろそろ、あのお姫様も暴れる頃合いだよ」

 はい、と、アイン。

 彼は踵を返し、相変わらず機械のような足取りで、ミリィ達の後を追った。

 そして、生徒全員が射撃場を去ると、その場に滞在しているのはニコロだけとなる。彼は、そのまま暫くの時間を、直立したままで過ごした。当然として、物音はない。無音の中、彼は直立していた。

 直立の彼は、最近、アインの口数が増えたようだと感じていた。環境の変化に馴染んだのかどうかは知らないが、最近は今のように、彼から声を掛けてくることが多い。それは主に、訓練の際である。それはつまり、アインにしてみれば、彼にとってこれまでの日常だった環境から大きく道を逸らした施設での生活から、彼がこれまで日常としていた環境に回帰し、彼が自然な状態で行動ができている為だと考えられる。

 ニコロは、アインが使用していた拳銃を眺めた。その銃が狙っていた的の確認も、行う。

 的までの距離は、50メートル。的は人型。色は、黒。

 サークルが2箇所。胸部と、頭部。

 全弾の命中を確認。

 頭部と胸部。その中心に穴がひとつずつ。彼が撃った弾丸は、一ミリのズレもなく、的の中心を貫通していた。よって、複数の穴がない。

 その他の生徒が撃ち抜いた的も確認する。どれも狙いに大きなミスは見られない。ミリィの最後の数発も、確かに中心から逸れてはいるものの、合格点を与えて問題がないレベルだ。

 それに、的までの距離。50メートルの距離を、誰ひとりスコープを使用せずに照準を定め、この結果を出したのだ。まだ幼い、あの子達が。

 彼は再び、直立のまま停止する。

 そんな彼の体の奥深くから、耐え難い憤りと悲しみが沸々と湧いてくる。

 これが自分の仕事か。

 自分が成すべきことが、これか。

 唇を噛み、彼は発射台を殴った。


 3


 今日の昼食は、蒸しイモのサラダ、キノコの炒め物、エビとホタテのフリット、鶏のワイン煮込みに、ミネストローネ。食堂の中は、いつも通りによい香りに包まれていて、先程までは空腹を感じていなかったアインも、その香りには参り、周囲には聞こえなかったが、腹を鳴らした。

 一目散に料理の元へ向かったミリィの皿には、大きな鶏肉が一本、どんと乗っている。それ以外に野菜の姿はない。一番大きな肉を獲得したのだと、彼女は誇らしく胸を張った。

 サーシャとシャルルは、キノコとフリットを多く取った。それと、ミネストローネ。キャロは、全部を少量ずつ。エレーナは、サラダとミネストローネだけ。彼女は、キャロと少しずつ分け合って食べるのだそうだ。

 アインも一通りを少量ずつ皿に盛り、全員で席に座る。

 いつもの通り、食前の祈り。

 そして、食事。

「もうすぐだねー」

 食べ始めてすぐに、ミリィが笑んで言った。

「もうすぐだねー」

 エレーナが、ミリィの真似をして言う。最近は、キャロの言葉のリピートだけでは飽きてしまったのか、他の誰かの言葉の最後を真似することが多くなっていた。

 ミリィは、エレーナが自分の言葉を繰り返してくれたことに反応して、互いに顔と声を合わせ、もう一度言った。「ねー」と。そう言うと、エレーナも「ねー」と言う。「ねー」「ねー」と、その後も規則的なリズムを保ちつつ、二人の何の意味も含まない無意味な言葉の往復は続けられるのだが、その場では誰も、その行動に反応をしなかった。

 アインは、いつも通りに黙々と食事をしている。キャロは、エレーナが食事で衣服やテーブルを汚さないようにと気を払っているが、繰り返されている行動には反応をしていない。サーシャに関しては、実は反応をしてはいたのだが、反応をしては大事に巻き込まれかねないという判断から、敢えて傍目からは反応をしたと悟られないように振る舞い、無視をして、静かに食事を続けていた。

 シャルルもサーシャと同じ様にと思っていたのだが、彼女はサーシャと異なり、一度だけミリィの方を向いてしまったのが大きな失敗だった。ミリィは、一秒にも満たない一瞬のシャルルからの視線をしっかりと察知し、エレーナとの結託をより強固にして、照準をシャルルに固定した。

 それからは、リズムを速めた二人からの言葉の集中砲火が、シャルルへ向けて放たれた。「もうすぐだねー」「ねー」「ねー」「もうすぐだねー」「ねー」その意味不明の連続が、シャルルに降りかかる。

 シャルルは、必死に二人からの攻撃に耐え、どうにかして食事に集中しようと努力をしたのだが、その言葉の連撃は終了する様子が皆無であった為、彼女は遂に降参し、「何のことを話しているのです」と訊ねた。

 もしもその時に、彼女がその決断をしなかったなら、ミリィとエレーナの言葉の砲撃は食事の時間延々と続けられ、ともすれば、今日一日、或いは、永劫に続いていたかもしれない。それを止める為なのだ。仕方がなかった。私が矢面に立った理由は、それである。彼女は、敗北感と供に、自分の行いを称えていた。

「もうすぐだもうすぐだと、なんなんですか」犠牲の役となったシャルルは、仕方なくミリィを真っ直ぐに見る。「そんなに何度も繰り返して、何がもうすぐなんですか」

 その言葉にミリィは大層驚き、大袈裟な所作でテーブルに手を突くと、シャルルの方へ身を乗り出した。

「うそ」ミリィの声は裏返る。「それ本気で言っているの?」

「いってるの?」エレーナは、その言葉も真似る。

「だって、それしか言っていないじゃないですか。そればかり繰り返して、一体何のことなのか……」

 エレーナの言葉の繰り返しに少しばかり苛立ちながらも、努めて冷静に、シャルルは質問を続けた。

「開拓際」声高らかに、ついでにフォークも高らかに掲げる、ミリィ。

「かいたくさい」これも真似をするエレーナ。しかし、動きまで真似ようとしたが、それはキャロに腕を掴まれ、制されてしまった。

「駄目だよ、エレーナ。行儀よく食べて」叱るように忠告するキャロは、次いでミリィを見て、「君もだよ」と叱責する。「君にもテーブルマナーを教えなくちゃいけないみたいじゃないか」

「ごめんごめん。つい気分が高揚しちゃって」

「しちゃって」エレーナは、やはり繰り返す。

「開拓際?」シャルルが聞く。

 彼女の視線はキャロへ向けられ、それには、自分へ向けられていた集中砲火の一部を制止してくれてありがとう、の意図が込められていたのだが、キャロはエレーナを制止するのに集中しており、シャルルからの視線には気付かなかった。また、彼が正式に会話に加わった訳ではないので、二人からの攻撃は依然、シャルルにしか向けられていない。

「そうだよ。あと2週間で開拓際」ミリィは、掲げたフォークをテーブルの上に戻す。「ほら、前に話したじゃない。忘れちゃった?」

「わすれちゃった?」

「もう、エレーナ。真似はわかりましたから、よしてください。ええと、開拓際ですか。ああ、そう言えば、そうですね」

 説明を受けてシャルルは、開拓際がもう間もなくだったことを思い出した。施設の体制変更や毎日の課題の激変などがあって忘れていたが、今日は14日。今年の開拓際まで、残り二週間である。

「そうでしたね。あと2週間で開拓際でした」

「月末の3日間よね?」それまで沈黙と食事だけを続けていたサーシャが、会話に加わった。これでようやく、シャルルへ向いていた言葉の銃口は分散される。

「そう。あと少しなの」ミリィは大きく頷いた。「楽しみだよね。今年はどんな屋台が並ぶんだろう? 楽しみだなあ、楽しみだなあ」

「ミリィは、いつでも食べ物のことばかりね」息を吐くようにサーシャは微笑む。

「だって、お祭りと言ったら屋台だよ」

「開拓際は、お祭りではなくてお祝いなのよ」

「でも、お祭りじゃない」

「そうだけれど、祝う心を忘れるのはよくないわ。それと、感謝の心も」言いながら、無宗教な自分もやがて訪れる日を、祝いの日ではなく、祭りの一つであると認識していたのだが、サーシャはそれを告白しなかった。「忘れるのはよくないわ」

「忘れてなんかないよ」

「嘘。忘れていたわ、絶対」

「忘れてないってば。ご先祖様、ありがとうございますって思ってるもん」

「でも一番は、食べ物でしょう?」

「でもでも、サーシャも楽しみだよね? 屋台が沢山で、飾り付けがされた大通り。それに、あの賑やかさ。楽しみでしょ?」

「ほら、屋台。食べ物が一番じゃない」

「でも、でも、でも、楽しみでしょ? ねえサーシャ、楽しみでしょ? ね?」

「ええ」サーシャは事務的な返事をした。

「何その反応」ミリィは、その僅かに硬い返事に頬を膨らませる。「それに、イマイチそうな声。楽しみにしてないみたい」

「あなたみたいに騒げないだけ。あなたの喜び方がずば抜けているのよ。楽しみにはしているわ。とってもね」

「本当に?」

「本当よ。とても楽しみ」

「でしょー?」

 ミリィは、満面の笑顔で声を弾ませ、椅子の上で体も弾ませた。それは、どんな歓喜の表現も色褪せてしまう程に楽しげで、そんな彼女を基準に他者と喜びの度合いを比較しようとすると、サーシャの言う通り、どんな相手も彼女に勝てそうもない。

 ミリィは、鼻歌を歌いながら料理を頬張り、何かを思い出してキャロを見た。

「キャロも楽しみだよね?」

 にやり、と彼女は笑む。それまでエレーナの世話に専念していたキャロを、強引に会話に引き込む作戦だった。

 対してキャロは、複雑な顔をした。言葉の裏側に込めた皮肉がひしひしと伝わり感じられたので、彼は瞳を細めてミリィを睨んだ。

「そういう言い方をするか、君が」

「去年も楽しかったもんね?」

「知らない」

「楽しかったよね? ね?」

「知らない。覚えてない」

「え、記憶喪失?」ミリィはわざとらしく驚く。「去年の、ほら、開拓祭で……」

「ああ、もう、わかったよ」キャロは、両手を挙げて降参した。「僕がワインを飲まされた時の話だろう。君がジュースだと嘘を言って、僕にワインを飲ませた、あの話。あの時、どれだけ気持ち悪かったことか……」

 不快そうに彼はパンを口に放り込む。彼は今、あの時の感覚を思い出し、美味しい料理を食べている最中だというのに、胸のやや上の方で少しの気持ち悪さを感じていた。

「あんなのは、二度とごめんだ。あんな気分、もう味わいたくないよ」

「ねえ、キャロ。今年は何を飲もうか? リクエストがあったら聞いてあげるよ?」

 ミリィはキャロに接近するが、キャロは彼女を押し退けた。

「よし、決めた。今年の開拓際は、絶対にミリィの横を歩かない」

「ええっ? なに、それ」

「開拓際を楽しむための措置」

「道端で寝ないようにする措置?」

「しつこくそういうことを言っている間は、絶対に別行動。一緒だなんて、とんでもない」

「ふーんだ、けち。つまんないの。でもいいんだ。キャロと一緒になんて最初から考えてないもん。ね、アイン?」

 唐突に声を掛けられたアインは、話を聞いていなかった。ただ食事を行っていただけだったので、名前を呼ばれて反応はしたものの、名前を呼ばれるに至った経緯がわからなかった。

「何の話だろう」手にパンを持ったまま、彼は聞き返す。

「聞いてなかったの? 開拓際」

「開拓際?」

「そう。前に話したやつだよ」

 彼は記憶の底の方から、以前に彼女達と交わした開拓際に関しての情報を引っ張り出した。確かに、その名称が含まれた会話を交わしていた記憶がある。施設に来てすぐの頃だっただろうか。

「それが、どうしたのだろう」

「一緒に見て回ろうねって話。本当に聞いてなかったの?」

「誰とだろう」

「やだなあ。あたしとアインが、に決まってるじゃない」

「決まっていなかったようですけど?」シャルルが嫌味たっぷりに言う。「何せ彼は、開拓際のことを忘れていたようですから」

「忘れていたけど、決めていたの」

「決めていたのは、ミリィさんだけですね」

「そんなことないもん」ふん、と鼻を鳴らして反論するミリィは、頬を膨らませ、シャルルをじろりと見つめた。「シャルルはどうして、そんなつっけんどんな言い方なの?」

「どうしてって、何もありませんけど」

「アインのことを話す時は、いつもそんなだ。アインを取られて拗ねてるの?」

「なっ!」瞬時に赤面したシャルルは、飛び跳ねるように立ち上がった。「そんなわけ……!」

「シャルル、食事中よ」サーシャが即座に注意する。それは注意と呼ぶよりも、制止に近かった。シャルルがもし車両であるのならば、ブレーキを目一杯に踏むような。「暴れるように動いては、駄目」続く彼女の言葉は、静かだが、重みもある。

「え、ええ、わかっていますとも!」シャルルは唇を噛み締めながら、着席をする。

 だが、ミリィからの言葉の攻撃はそれでも止まらない。

「ちょっと、シャルル。何してるの?」

「ミリィさん、あなたが……」

「アインを取られて、拗ねてるんだ」

「ミリィさん!」

 声を荒げ再び立ち上がるシャルルに、サーシャはもう一度、シャルル、と名前を呼び彼女を止めた。

 だが今度は、その言葉の次を、ミリィが代行する。

「食事中ですよー?」

「わかっています! 立っただけです!」

 顔全体を熟れたリンゴよりも赤々と紅潮させるシャルル。必死に平静を装い、狼狽をひた隠しにしながら席に座り、顔の火照りを冷まそうと一気に水を飲んだ。

「とにかく」シャルルの声は裏返る。咳払いをして、仕切り直してから言い直す。「とにかく、そんなことは、これっぽっちも、考えていませんから」

「へえ」

 その相槌を打ったのはミリィではなく、意外にもサーシャだった。

「そんなことは考えていないのね。そんなこと、は。では、何を考えていたのかしら」サーシャは、飲み干されたシャルルのグラスに水を注ぎ足した。そのまま小声で、彼女にだけ聞こえる声量で囁いた。「もう何週間も経つのだから、ほとぼりが冷めてもいい頃合いだと思っていたのだけれど……」

 その言葉に、シャルルは一度息を止めた。

「もう何週間も経った、ではなく、まだほんの何週間です」呼吸を再開し、深呼吸をしながら、彼女は言葉を返す。返されるその声も小さかったが、声の僅かな裏返りは続いている。「僅かな時間です。本当に、ちょっとした時間しか……」

「だからって、毎日毎日、敵意を剥き出しにして」

「敵意だなんて……」

「なに?」二人の会話に、ミリィが加わろうとした。「なんの話?」

「あなたには、関係ありません」

 シャルルは鋭く一喝し、ミリィを退治する。

 ミリィは、つまらなさそうな顔で食事を続けた。撤退を認めたようである。

 ミリィの撤退を確認してから、シャルルは自身の内側にまだ僅かばかり残留していた熱りを冷まそうと、再び水を飲んだ。

「敵意なんかじゃありません」下唇を出し不貞腐れたような表情の彼女の言葉は、誰かに向けられたものではなく、また、自分に向けられたものでもなく、不明瞭で、もごもごと単語を咀嚼しているかのようで、聞き取り難い。「そんな、殺伐としたものではありません。そんなものでは、決して、ええ、ありません……」

「まだ意識しているの?」

 辛うじて聞き取ったサーシャが確認を試みる。

 するとシャルルは、小さく喉を鳴らした。

 否定しようとした。だが、その為に発しようとした言葉が喉につかえて、それが彼女の呼吸を止めていた。

 否定できない。それが彼女の回答だった。だが、それは好意や悪意という簡単な分類では整然と纏められない。アインという人間が彼女の付近にいる場合、彼女の意識は彼に向いている。言葉にすれば単純なのだが、彼女にはそれが何故なのかがわからないのだ。

 シャルルは小さく首肯した。両手は、膝の上で強めに握られている。

「でも、違います」言い訳をするように、彼女は早口になる。「だからと言って嫌悪しているという訳ではないのです」

「そう」サーシャは、穏やかな瞳をシャルルへ向けている。

「その辺りのことは、わきまえているつもりです。個人の感情が……」

「個人の感情が、集団に不和をもたらしてはならない」

「そう、それです。だから、なるべく彼とも話をするように……」

「話をしている?」

「そのつもりです」

「最近は、どんな?」

「え?」

「え、じゃないわ。最近はどんな話を?」

「彼と、ですか?」

「そう」

「それは」シャルルは考える。「その……」更に考える。「ええと……」熟考。

 これといった会話を交わしたことはないという結論が、彼女の思考に浮き上がった。

 だが、そう答えることは面恥であると考えたシャルルは、別の返答を選択する。

「おはようや、さようならを」

 それを聞いたサーシャは、目に見えて明らかな呆れ顔で溜息を溢した。

「それは、会話ではないわ。挨拶よ」

「でも、交わしていることに変わりはありません。トークです」

「そうね。大目に見るなら」

「ほら。ちゃんとしています」

「でも大切なのは、それを、あなたから、しているか」

 小声ながらもやはり威圧感のあるサーシャの囁き。その圧力に気圧され、シャルルは顎を引いて黙した。

 サーシャは、シャルルのその沈黙が、彼女から挨拶をしたことは一度もない、という意味を内包した返答なのだと解釈する。

「あなたから声を掛けていないのなら、それは、話をするようにしている、とは言えないわ。これだけの時間が経ったのだから、あなたが彼に歩み寄らなくては」

「まだ、二週間しか……」

「いいから聞いて」サーシャは、シャルルの反論を遮る。「そうしているあなたは曖昧よ」

「曖昧?」

「ええ、曖昧。本当に、アインを意識しているように見えるわ」

「意識している?」

「彼を愛しているみたい。そういう意味よ」

「はい?」

 シャルルは、煙が出てもおかしくないくらいに顔を赤くした。頬だけではなく、顔全体をだ。事実彼女は、自分の顔が鉄を溶かせるくらいに熱くなっていると感じている。その熱は首から胴に伝わり、体の芯にまで到達していた。

 今彼女は全身を、彼女にとっては不明確な原因によって、熱せられている。

 その変化をしっかりと確認したサーシャは、ほら、とシャルルの顔を指摘する。

「今あなた、自分がどんな顔をしているのかわかっている? その反応は、まるで恋をしている少女のようだわ」

「冗談を言わないで下さい」動揺から、シャルルの声は僅かに大きくなる。それは、鳴音に似た音だ。「あり得ません。あり得ません、絶対です」

「でも、文学の世界ではよくある話よ」

「空想と現実は違います」

「その言葉は、文豪に失礼よ。実体験に基づいた史実であるとされる作品も多いわ。そうではない、妄想が生んだ作品の方が多いのは、事実だけれど」

「ほら、そうでしょう」揚足を取るように返す、シャルル。「そんなこと、現実では起こらないのです」

「でも、最初は仲違いしていた二人が惹かれ合い、結ばれる作品は人気があるわ。ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』のように……」

「人気があるだけでしょう?」

「人気があるということは、需要があるということよ」

「それだけのことです」

「それだけ、だなんて、簡単に一蹴しないで。需要があるということは、誰もがそういう出逢いや恋愛を求めているということよ」

「それを、サーシャさんが今、妄想だと仰たではありませんか」

「ジェームズ・アレンが残した言葉に……」

「ジェームズ・アレン?」

「イギリスの作家よ。気高い夢を見よ。あなたは、あなたが夢見た者になる。あなたの理想は、あなたがやがて何になるかの予言である。想い描いたものが妄想や空想であれ、強く願っていれば、いつかは実現する、と語っているわ」

「でも、実現しないことだってあります」

「ねえ、シャルル。あなた、アインと親しくなって、恋仲になってしまうなんて自分の未来を想像できる?」

「恋だなんて……」

「想像よ。想像するだけ」

「ええと、その」シャルルは、膝の上で握られている両手の力を少し強めた。「想像する、だけなら……」

 それは、初めて出会った時に一度だけ試みている。腹が立ったが、それは可能だった。

 サーシャは、その返事を聞いて満足げに頷く。

「あなたが頭で思い浮かべる出来事のすべては、あなたのその両手と想いと信念でもって実現可能である。そんな言葉もあるわ」

「想像しただけじゃないですか」

「それが答えなのよ。あなたが本当に彼を嫌っているのなら、一瞬だってそんな想像はできないわ」

「でも……」

「彼と仲睦まじく過ごす日を、あなたは想像できた。それをあなたは、無意識にでこそあれ、望んでいた」

「そんな」シャルルは目を見開く。「私と彼が、そんな」

「それを、シャルル。あなたの両の手が叶えるのよ。それができるの。あなたの、その手は」

 首まで赤く染まったままのシャルルは、そんな言葉を残した偉人を、頭に思い付く限りの侮蔑の言葉で罵った。目の前に居たなら、偉人の頬を打ってやりたい気分だ。そんな言葉を今に残しさえしなければ、今こうしてサーシャから、こんな尋問を受けていなかった。尋問がないものにならなかったとしても、それでもこのように、鋭利な言葉の刃物で自分の弱点をちくりちくりと刺されることはなかった筈だ。

 過去の偉人や文豪という人間は、なんて傍迷惑なことをしてくれたのか。

「そんな出来事は、絶対に実現しません」シャルルは力強く断言する。

 今彼女の心中は、轟々と荒れ狂っていた。例えるなら世紀末のような、世界の破滅を連想させるような荒々しさである。この尋問の最初に抱かされた羞恥心に、憤慨が加わった。逆に、冷静という、普段の彼女の安定した状況が今は消えている。中和してくれる要素がないのだ。それら全てが相乗的に作用し、彼女の心の中では、それらが激しく渦を巻いていた。

「しません。ありえません」シャルルは必死に言う同時に、平静さも必死に繕って。「彼とだなんて。ないです。絶対です」

「絶対?」サーシャの声は、より小さくなる。

「絶対です。天と地が逆さまになっても、起こりえません」

「そう。でもね、シャルル。恋はいつだって抱くものではなく、気付くと抱いているものよ。自分でも気付かない内に」

「それも誰かの言葉ですか。偉人か、文豪か。どちらです?」

 また何かを言われるのだろうと身構えるシャルルは、じろりとサーシャを見詰めた。

 しかしサーシャは、いいえ、と言って首を振った。そして、経験談だと、どこか嬉しそうに言うのだ。

 その予想外の返答にシャルルは、思考を一時停止させる。そして、聞いた言葉を頭の中で繰り返した。今、何と言っただろう。経験談。彼女はそう言っただろうか。経験談。誰の? 彼女の? 経験談? そのリピートを数回繰り返した。そのお陰で、ハリケーンのようだった彼女の心中が静まり、その瞬間彼女は、はっ、として、サーシャに詰め寄った。

「まさか」

「え?」豹変した様子に、サーシャは驚く。

「誰ですか?」

「え?」しまった、と直前の発言を悔やむが、時は既に遅かった。

「お相手です」シャルルは更に接近をする。「そういう意味ですよね、今の言葉は」

「ええと、あの……」

「はぐらかすのは駄目ですよ。お相手は誰なんですか」

「嫌よ、シャルル」サーシャは、接近したシャルルの肩を柔らかく叩く。「誰にも言えないわ。願い事は、誰かに言うと遠退いてしまうのよ」

「ここまで聞いてしまったら、名前も知りたくなってしまいます」

「駄目。言えない」

「大丈夫です。他の人には言いませんから」

「誰にも言わなくても駄目なのよ。願い事は……」

「誰かに言うと遠退いてしまう。それはさっき言いましたよ。さあ、誰なのかを」

「絶対に言えないったら」

「隠し事は禁止でしょう?」

「それは」言い返そうとしたが、それをサーシャはできなかった。二週間前に、彼女がシャルルに言った言葉だったからだ。「待って。ちょっと待って。お願い」彼女は、そうとしか返せない。

「駄目です。さあ」シャルルは、更にサーシャに接近する。

「ねー。何の話?」サーシャとシャルルが内密に行っていた互いへの尋問を遮ったのは、ミリィだった。「何を話してるの? さっきから、二人で。教えてよー」

 彼女は首を傾け、二人を見ている。小声だったので内容は聞き取れていなかったが、シャルルとサーシャが何を話しているのかが気になってならなかったようだ。

 それに、二人の様子。最初は不満そうにしていたシャルルは今、目の前に好物を差し出された空腹の動物のように嬉々としており、反対にサーシャは、最初は裁判官のようにしていたのが一転し、今は狼狽している。更には、よくサーシャを観察すると、狼狽しつつも、どこか喜んでいるようにも見える。その証拠に、彼女の頬には笑窪が見えている。

 その状況に、ミリィは興味が湧いていた。

 そんな彼女がシャルルと結託し、共に自分を尋問するようになっては、勢力として分が悪い。そういう関係になってしまったなら、言い逃れも誤魔化しもできない。不可能だ。サーシャは、自分の置かれた現状が極限の危機であることを察知した。

 だがサーシャは、ミリィの活用次第では、彼女が自分にとっての救済になるとも察知する。その手段は一瞬で脳内に浮上し、それを実行すればこちらにとって不利益になることは絶対にないとも判断する。彼女は即座に、危機回避行動に移行した。

「シャルルが、アインと話をしたいそうなの」そんな出任せを、サーシャは早口で告げた。

「は?」シャルルはあまりの展開に、戸惑うよりも先に混乱をした。サーシャの行動は彼女にとって、予想だにしないものだった。

 ミリィはサーシャの嘘に、へえ、と感嘆する。彼女は、サーシャの言葉をすべて信じていた。

「シャルルが? 珍しい」ミリィは胸の前で二回の拍手をする。「驚きの発言だね」

「そうなの、さっきからそう言っていて」サーシャは状況打開の為に、不自然でないように振る舞う。

「言っていません!」悲鳴に近いシャルルの否定。

「え? 言ってないの?」ミリィは拍手の姿勢のまま制止した。

「言っていません!」

「嘘よ。言っていたわ」サーシャの攻撃は、徐々に強力になる。「恥ずかしがっているだけなの」

「ああ、なるほど」納得してミリィは、胸の前で再び手を叩いた。

「恥ずかしがってなんていません!」シャルルの声は最早、ホール全体に響き渡るくらいに、キンと発せられていた。

「ええ?」噛み合わない会話にミリィは困惑する。「どっちなの? 話したいの? 話したくないの?」

「話しなんて、したく……」

 ない。

 そう言い放とうとした時、サーシャがそっと、耳打ちをする。

「個人の感情が、集団に不和をもたらしてはならないのではなかったかしら?」

 言葉を飲み込み、シャルルは呻いた。

 じろり、とサーシャを睨むが、サーシャはシャルルの視線には気付かぬ素振りで、料理を口に運んでいる。先程形勢を逆転させた筈が、今再び、状況はシャルルに分の悪い展開に戻っていた。

 唸り、しばし打開策を捻り出そうとするも、その為の良案は皆無であろうと観念したシャルルは、アインを見る。しかしそれは、見ると形容するよりも、睨むという表現が適切だ。それくらいに、シャルルの瞳は鋭い。

「じゃあ、ひとつだけ。」言葉も同様に、鋭利な響きである。「仕方がありません」

「何? 何を話したいの?」

「どうして、ミリィさんが間に入るんですか。あなたに話しているんじゃありません」

「通訳」

「いりませんっ」

「ふーん」ミリィは頭の後ろに手を回し、エレーナと顔を見合わせる。「今日もシャルルは怒ってるねー」

「おこってるねー」

「怒っていません!」言葉で鋭く威嚇した後、シャルルは咳払いをする。「では」と前置き、少しばかり考え、彼女はぎこちなく問うた。

「趣味は、なんですか」

「は?」何て愚鈍な質問だと思い、ミリィは呆れる。「何、その質問」

「いいじゃないですか、人が何を聞こうと!」

「初対面での会話みたいだよ」

「じゃあ、ミリィさんは彼の趣味を知っているんですか?」

「知らない」ミリィは一切の躊躇もなく、言い切った。

 ほうら、とシャルルは勝ち誇る。

「私は、皆さんが知らないだろうと思って、そう訊ねたんです。さあ、質問に答えて」シャルルは、テーブルに手を乗せ、アインを凝視する。さあ、と更に追い打ちをかけた。「早く答えて。趣味は」

「まるで尋問」サーシャが苦笑する。

「いや、拷問じゃない?」ミリィも苦笑していた。

「趣味」アインは視線を下に向け、自分の皿を見つめながらしばし考えた。「ごめん。わからない」

 その返事は、予想外だった。そういった返答は、誰も予想をしていなかったので、皆顔を見合わせ、互いの顔に疑問符が浮かんでいることを確認した。

「わからない?」シャルルが聞く。

 うん、と、アイン。

「でも、考えたら何かあるでしょう?」シャルルは、更に聞いた。

「よく考えないと言えないなら、それを、そうとは呼べない」

「それでは、ないと言っているようなものじゃないですか」

「そうだね。ないんだろう。僕には」

「趣味はない?」

「僕にはそういったものがない。ただ、ここで生きているだけだ」

「そんな、冗談を……」

「冗談を言えるほど、器用じゃない。本当のことだよ」

 そう言って彼は、対話をしているシャルルを見詰めた。

 シャルルを見る、アインの瞳。

 シャルルは、背中に冷気を吹きつけられたかのような感覚を感じ、震えた。

 アインが施設入りをしてから二週間。その間に彼と会話を交わすことが殆どなかったシャルルだが、そんな彼女にも、否、そんな彼女だからこそ、気付けることがあった。

 彼はいつでも、空っぽなのだ。

 そんな瞳をしている。

 言葉や仕草にだけではなく、そこに込められるべき感情の色というものを、アインの瞳はいつでも欠いている。愉楽の光沢も悲愴の濁りも、憤りの鋭利さも、そこに宿っていない。だからこそシャルルは、彼の眼差しを空っぽだと感じる。

 その双眸からは、何も感じられない。

 その瞳は、まるで……。

 シャルルは、思い浮かんだ形容を振り払った。

 彼女は急遽、話を変える。

「では、その……」背には先程の冷気が未だに残り、言葉はスムーズに流れ出ない。「ええと、その。……そう、では、食べ物は?」

「食べ物?」

「そう。何が好きとか、嫌いとか」

「前に、魚が好きだと言っていたわね」サーシャが、彼が施設へ来た日の会話を思い出した。

「ああ、うん。そういえば、言ってたね」ミリィもその話を覚えていた。

 うん、と、アイン。

「魚は好きだ」彼は、まだシャルルを見たままで話す。「あと何か他にも、と聞かれたら、スパイス」

「スパイス?」シャルルが聞き返した。

 うん、と、アイン。

 返されるのは首肯だが、会話が続いているとシャルルは実感する。そして、自分からアインへ声を掛けている珍しさも、同時に実感していた。

「スパイスって言いますと、ペッパーのような?」珍しいシャルルからの質問は、継続する。

 うん、と、アイン。

「辛いものがお好きなんですか」また聞き返した。本当に珍しいことである。

 アインは再び頷き、これまでは、スパイスと縁のない生活だったからだと、その理由を説明した。

「どうしてスパイスが?」

「それまで食べたことがなかった」

「食べたことがなかった?」問う、シャルル。

 うん、と、アイン。

「では、初めて食べたスパイスは?」再び問う、シャルル。

「チリペッパー」

「チリペッパー?」

「グリーンペッパーやベルペッパーだと騙されて」

「そのままを?」

 うん、と、アイン。

「辛かったでしょう」

 うん、と、アイン。

「それなのに好きに?」

「辛かったけれど、美味しいと感じた」

「珍しいこともあるものですね」今の自分も珍しいと感じながら、シャルルは頷いた。「普通は嫌な思いをしたら、嫌いになるものでしょう」

「じゃあ、チャイニーズとかが好きなのかなあ?」ミリィが、アインの顔を覗き込むように質問をする。「ほら、中国の料理って辛いじゃない?」

 アインが何かを答えようとしたが、それよりも早く、彼よりもはっきりとした声で、違う、とエレーナが言った。

「中国の料理は、ぜんぶ辛いんじゃない」

「え、そうなの?」ミリィは、速い速度で瞬きをする。「中国の料理は辛いよ。そうだよね?」

「辛いのはね、えっと、……シセンの料理で、他の場所だと辛くない」

「へえ、そうなんだ。知らなかった。てっきり中国の料理は全部辛いんだと思ってた」適当に相槌を打ち、ミリィは再びシャルルを見る。「それじゃあ、シャルル。次の質問は?」

「まだ私が聞かなければならないんですか」シャルルは頬を膨らませていた。

「もうないんなら、あたしが質問するけど」逆にミリィは、笑窪を浮かべていた。

「ご自由にどうぞ」

 放り投げるようにシャルルは言ったが、彼女は内心で胸を撫で下ろしていた。これで、本意ではなかったアインとの会話も終了である。

「じゃあ、あたしから質問」ミリィは、天井を眺めてしばし考えた。「好きな人のタイプは?」

「ばかばかしい質問」うっかりと、シャルルは言ってしまった。会話は終了だと自分で認識していたのに、自分から、続く会話に参加をしてしまった。

「なんで? ばかばかしくなんてないよ。シャルルみたいなのが好みって言われるかもしれないんだよ?」

「そんなこと……!」言い返す直前、またしても頬に熱が帯びるのを感じ、慌てて顔を背ける。「ありえませんっ」

「ありえなくは、ないじゃない」と、サーシャ。

「そうだねえ。人の好みはそれぞれだから」腕組をして頷く、ミリィ。

「だから、そんなことは……」

「シャルル。聞いているのはあなたにではなく、アインによ?」宥めるサーシャ。

「サーシャさん。それは、まあ、そうですけど」

「それに、ここにいる誰かだと言うと決まったわけでもないのだし、あくまで、どういう人が好みなのかという話。ねえ、アイン。どうかしら」

 サーシャがそう聞いている隙に、ミリィがアインに急接近した。

「あたしって言ってもいいんだよ」

「ミリィ。アピールは禁止」

「えー。サーシャのケチ」

「どう? どういう人が好みなの?」

 アインは、しばし沈黙し、考えた。

「ごめん。よくわからない」

「前にも聞いたことのあるような答えね」サーシャは、溜息をつきながら呆れ笑いをした。返答がどんなものになるかは予想していたが、こうも予想通りだと、反応に困る。「じゃあ、恋愛感情でなくて、どういう人に惹かれるか、っていう質問ならどうかしら」

「みんな」と、アインは即答。

「みんな?」

 うん、と、アイン。

「ミリィも、私も、それと、シャルルも?」

 うん、と、アイン。

 返事を聞いて、ミリィが嬉しそうにアインに飛びついた。彼女はアインに抱き付く。

「あたしのことが好きって言った? やだ、どうしよう。急に告白なんて恥ずかしいじゃない」

 ミリィは、おどけて何でもないように振舞っているが、頬に朱色が散るのは誤魔化せていない。それに、まんざらでもなく、本心から今の返答を喜んでいる様子は明らかだ。

「みんなだと言っていましたよ」シャルルが刺々しく訂正する。

「何、シャルル。やきもち? 嫉妬? 怒っちゃって、やーねー」

「違います!」

「でもアインもやるなあ。プレイボーイみたいな答えだよ。みんな、だなんて」

「そうかな」アインが問い返す。

「そうだよ。でも、ちょっと複雑な気分。あたしだけって言ってほしかったなあ」

「駄目だよミリィ」キャロが注意をする。「強要は駄目。注文をつけるのも駄目。そうしたら、それこそ尋問じゃないか」

「だって、そう言ってほしかったんだもん」ミリィは、口をすぼませた。

「なら、そう言われる努力を。勝利は、それの為に根気よく努力している者の元に訪れる。ナポレオンの残した言葉にもあるだろう?」

「キャロ、なにそれ? サーシャみたい。キャロでも本を読むんだ」

「最近は、よくね。……僕でも本を読む? どういう意味だい、ミリィ?」

「らしくない。似会わない。格好つけてる」

「失礼だな、君は」

「だって、キャロが本だなんて、なんだか胡散臭いよ。嘘をついてない?」

「あら、本当のことよ」サーシャがキャロを擁護する。「最近は、よく一緒に」

「一緒に?」

「ええ。午後はよく二人で図書室に。知らなかった?」

「初耳。へー。キャロが読書。ふーん」

「なんだよ、その目は」キャロは、ミリィからの粘性のある視線を避ける為に瞳を泳がせた。少しだけ嫌な予感を感じていた。

「サーシャと、二人でねえ。ふーん。へー」ミリィはじろりとキャロを観察した後、サーシャを見て、警告を耳打ちする。耳打ちだが、キャロにはしっかりと聞こえるように。「気を付けなよ。キャロってばいやらしいんだから」

「なんてことを言うんだ、君は!」キャロは憤慨し、即座にミリィに反論する。

「本当じゃない。それに、イタリアの男は、みんな女ったらしだって言うし」

「そ、そんなことない! イタリア人がみんなそうだってことは、ないよ!」

「どうだろう? 柄にもなく本を読むなんて、何かを狙っているんだよ。絶対にそうだよ」

「そうだったの?」サーシャは身を引いてキャロを見た。

「サーシャ、違うよ。僕はそんな……」

「いつか隙をついて、がばっと襲うんだ。サーシャを」

「ミリィ!」

「キャロ。今度からは別々に本を読みましょう」サーシャは、胸の前で手を合わせ、身を案じているという素振りを如実に表した。「一緒は、やめましょう」

「サーシャ。そんな」キャロは、泣きそうな顔で肩を落とした。

 そんな彼の反応を見て、サーシャはついに堪えきれなくなり、笑った。ミリィも同様に笑った。キャロとアイン以外の全員が、笑った。

「冗談だよ、冗談」手を振りながら、ミリィが言う。「キャロにそんな度胸があるとは思えないもん」

「私も冗談よ」サーシャは朗らかに笑む。「キャロがそういう人ではないと知っているし、信じているわ」

「サーシャ。ああ、よかった」キャロは、サーシャの言葉に頬が綻ぶ。「本当に、よかった」神様ありがとう、という言葉が出かけたが、どうにかそれは踏み止まった。言えば、大袈裟だと揶揄され、また攻撃をされかねないと思ったからだ。心の中では、何度か呟いたが。

 そして会話を仕切り直すべく、その合図にミリィは手を叩いた。その数は、三回。

「はい、じゃあ次の質問がある人」

 ミリィが全員に聞くと、挙手をしたのは、サーシャだった。

「あなたの昔のお友達について知りたいわ」

「昔の友達」

 アインは首を傾げた。語尾が上がらないが、疑問形であるらしい。

 サーシャは、ええ、と頷く。

「あなたの交友関係。どんな人がいて、どういう関係だったのか」

 アインは、しばし沈黙する。

「友達という関係の人は居なかった。居るのは僕と同じで傭兵ばかりだった」

 サーシャは、はっとした。彼が施設へ来るより以前は紛争地帯で傭兵として扱われていたことを思い出す。

 しまった、と彼女は思った。過去の傷に触れるような質問をしてしまったと悔恨した。彼が施設へ来た初日に、ニコロからは、施設へ来るよりも前には悪い思い出しかないから、そういった質問は好ましくないと言われていた。

「ごめんなさい」サーシャは謝罪する。「昔のことはあまり聞かない方がよかったものね」

「いや、構わないよ。みんなが気にしている程、僕は気にしていない」

「それでも、ごめんなさい」

「ねえ」と、ミリィが聞く。「チリペッパーの人は? チリペッパーの人は仲がよかったように聞こえたよ?」

 確かに思い返せば、チリペッパーをピーマンだと騙されて食べさせられたという件は、その相手とアインとが仲のよい間柄であったことを物語っているように思える。友人関係であれば相当に親密で、親友だと形容してよい関係でなくては起こらない悪戯だろう。だとすれば、その誰かとは、アインが自覚していないだけで、友人に区分してよい人間の筈だ。

 その人物に関して、ミリィが詰め寄った。

「ねえ。その人のことを聞かせてよ。男の人? 女の人?」

「女の子だった」

 彼は、自分が施設に来る前まで雇われていた戦地で出会い、交流のあったその少女のことを説明した。

 少女の名前は、リル・エリリス。ドイツ国籍の16歳。何故彼女がその年齢で銃を握り、傭兵となったのかは知らないが、幼い頃から人形ではなく銃を抱えて眠る生活を送っていた彼女は、同世代の男子よりも銃の扱いに長けた優秀な兵士だったそうだ。そんな彼女は、いつもアインの傍に居た。行動中。待機中。どんな時も、彼の横には彼女が居た。

「僕の傍が安全だと考えていたからだろう」アインは、その理由をそのように推測している。「僕は、細胞の保有者だ。視力と聴力は、通常兵の目視による哨戒より早く危険や異変を察知できる。僕の傍は安全だから、彼女は……」

「そうは思えないわ」サーシャが、彼の言葉を遮るように呟く。

 彼は、彼女を見た。

 彼女は、彼を見ていた。

「そういう思惑だけであなたの傍にいたのなら、そんな悪戯をしないわ」

「どうして」

「もし本当にそれが目的だったら、あなたに嫌われてしまう恐れのある悪戯なんてするかしら」

 アインは沈黙した後、首を横に振った。

 そうでしょう、と、サーシャ。

「その人は、あなたと仲よくなりたかったのよ。だから、その人はあなたの友達よ」

「そうなんだろうか」

「そうよ。絶対にそう。悪戯の度が、少し過ぎるようだけれど」

「まるで、ミリィみたいだ」キャロが、横目でミリィを見ていた。

「あたし?」心外だと言いたげな顔で、ミリィは反論する。「あたし、そんなことしないよ」

「僕はされたよ。去年の……」

「キャロだけ特別。アインにはしない。他の人にもしない。キャロだけ」

「なんだよ、それ」

「その人は、今どうしているのかしら?」シャルルが何気なく聞いた。「あなたと一緒に居たのでしょう? それなら、あなたと一緒に保護を? どこか別の、その、一般の保護施設に?」

「どうなったのかは、わからない」

 彼は、何でもない口調で語る。

「最期の瞬間は、大きな爆発だった。どこかの軍が撃った弾道ミサイルが着弾して、僕達が居た場所は一瞬で、瓦礫と、炎と、黒煙に変わってしまった。僕は、爆風で100メートル以上吹き飛ばされていた。すぐに彼女を探したが、彼女はどこにも居なかった。死んでしまったのだろう。それが彼女との最後だ」

 誰もが、言葉を失った。


 4


 ゼフとメイの二人は、ニコロが演習場から戻るのを待って昼食へ向かった。

 今日の生徒達の様子については、簡潔に伝達された。

 異常なし。

 いつも通りのシンプルな言葉で、最近は報告にそれ以外の言葉は使用されていない。唯一いつもと異なる点を挙げるならば、ニコロが少しばかり陰鬱であったことだろうが、彼は、最近その様な状態であることが多いので、これも異常なしに纏められ、午前の業務連絡は終了する。

 執務室を出る時にゼフが、今後は訓練に実戦的な項目をより多くしようと提案をした。射撃訓練より、模擬戦闘の訓練が生徒達には重要だろうという彼の見解だった。

 それに関して異論はないと、メイは賛同した。ニコロも同様に返答し、午後は明日以降の課題内容の調整をすることに決めた。そして、それが丁度よいタイミングだったので、射撃場でアインから出された提案について、ニコロは伝えた。

「銃の構造や、扱いに関してか」ゼフが感心したように言う。「まあ、道理だな。引き金を引けば弾が出る。それだけの知識じゃあ不安だ。明日からそれも加えよう」

 手話やモールス符号に関しても伝えると、今度はメイが反応をするが、彼女はゼフと違い、眉根を寄せている。

「覚えさせなければならないことが一気に増えるわね。大変そう」

 メイが執務室のドアを閉めながら、溜息を混じらせ、疲弊した声を出した。

 ニコロとゼフは、彼女より先に退室し、既に食堂へ向けて歩き始めていた。食堂から漏れる料理の香りと談笑が届く。香りだけでは今日の料理内容はわからないが、きっと美味であろうと明らかな芳醇さだった。

「大変そう?」前を歩くゼフが振り返り、メイに聞く。「どっちが?」

「両方よ。覚える方も大変だろうけど、教えるのはもっと大変」

「シェイクスピアを覚えさせるよりは楽さ」

「ゼフはそうでしょうけど、私は違うの。手話やモールスはいいけど、銃の構造はね」

「座学の方が得意って?」

「か弱い女が銃だなんて」

「誰が、何?」ゼフは、おどけて聞こえなかった振りをする。「なんだって?」

「ゼフ」メイは彼を睨んだ。

「おお、怖い」口笛を吹く、ゼフ。

 その口笛を聞き、メイは右の拳を持ち上げた。威嚇しているらしい。

「こう見えて、そうなの」彼女の視線は鋭い。

「こう見えて、ね」ゼフは自然な装いで返すが、威嚇や視線の鋭さはしっかりと受け止めていたので、どこか哀愁を帯びた瞳で頷いた。「ふうん。そうか、そうか」

「ああ、もうわかったわよ」メイは瞳をより鋭くさせる。「どうせ、か弱いなんて神様が何かの間違いでもしないと、私には似合わないでしょうね」

「怒るなよ。折角の顔が台無しだ」

「この会話の流れで、よく言うわよ」メイは両腕を組む。彼女の威嚇は続いていた。

「本当だって。君は、……綺麗だ」

「失格」メイは組んでいた両腕を解き、指先をゼフの胸元に突き立てた。「言葉に詰まるようじゃ駄目ね。スムーズに、自然に、心を込めて」

「手厳しい評価だ」ゼフは、手を振る。降参。ごめん。その意思表示に見える。

「だが、大変なのは確かだ」ニコロが、二人の間で苦笑をしながら言った。「今までのように、撃つだけではなくなるからね。それぞれの得手、不得手が、はっきりしてくるだろう」

 メイは、ゼフに突き立てていた指先を自分の顎へと移し、そこを撫でながら、生徒ひとりひとりがそうしている場面を想像してみた。

「サーシャやシャルルは、そういうのが苦手そう。特にシャルル」

「指が汚れると言いかねない」ニコロも、同じ想像をしていた。

「言いかねない、ではなくて、言うわよ。絶対」

「絶対か。本当に、絶対?」

「ええ、絶対。どれだけ長い間、あの子達と一緒に居ると思っているの? 性格は把握しているわ」

 その発言に、わお、とゼフが大袈裟に反応をした。

「まるで母親の発言だ」

「私が母親なら、父親はどっち?」

「ニコロだ」ゼフは、顎先をニコロへ向ける。

「おい、ゼフ。育児放棄は感心しないな」

「よしてくれ、ニコロ。せめて伯父にしてくれ」

 そうしている内に、三人は食堂の前に到着した。

 入れ替わるように、生徒達とすれ違う。

 皆一様にして、沈んだ顔をしている。ように見えた。

 それは管理官三人が、同じ瞬間に、同じ様に察知した。食事を終えて満足をした少年少女達。とても、そうは見えなかった。

 ゼフが、片手を持ち上げて声を掛ける。よう、と。その言葉を投げ掛ける時、生徒達の暗い顔が和らげばと、彼は手と同様に声のトーンを上げ、いつもより陽気に振舞っていた。

「今日もお疲れ」明るく言いながら、彼は生徒達の様子を注視している。

「あ、ゼフさん……」

 ゼフの声に反応をしたのは、ミリィだった。今双方は、向かい合わせに立っているのだが、ゼフの声がその耳に届くまで、そこに立つ管理官三人の存在に、誰も気付かなかったようだ。

 そして、陽気さが最大の取り柄で特徴でもあるミリィでさえもが、浮かない顔をしている。

 朝の訓練から今に至るまでの間に、何かがあった。ゼフがそう悟ったのは、ミリィのその表情を見た時だ。しかし、朝の訓練では異常がなかったと、ニコロから報告を受けている。そうなると、何かがあったのは、このランチタイムであると考えざるを得ない。それ以外の可能性は存在しない。

 ゼフは、一同の様子をより注視する。

「どうした。みんな元気がなさそうだな」声のトーンを意識して聞いた。「顔が暗くないか? ミリィ。お前までそんな顔をするなんて、珍しい」

「え、そうですか?」

「あれか。今日も好きな料理が取れなかったとかで、へこんでいるのか」

 彼は、わざとらしくからかう。そうすればいつもならば、彼女は、彼にコメディ気味に反論し、場は和むのだ。

 だが、ミリィが返す言葉と表情は、彼以上にわざとらしい芝居だった。

 誰の目から見ても明らかな作り笑顔を浮かべ、声色も無理矢理に上げ、何でもないように振舞ったのだ。

「そんなことないですよ。やだなあ、ゼフさん。あたしは、いつも通りじゃないですか」

「そうか?」

「そうですよ」

「元気がなさそうに見えるぞ」

「だから、いつも通りですってば。いつも通り。それに、あたしから元気を取ったら何も残らないじゃないですか」

 ミリィからの言葉に、ゼフは喉を鳴らして呻いた。

 彼女の言葉を真実とするなら、今この場所に、ミリィという人物は居ない、何も残っていないことになる。

 ゼフは、ニコロに目配せをし、何か心当たりはないだろうかと確認したが、ニコロもゼフと同じように、生徒達の様子に困惑しているようだった。ニコロは、首を横に振る。何も知らない。その返答である。

 次いで、メイにも目をやるが、結果は同じだった。首を横に振る。何も知らない。わからない。何かがあったのは、確実だが。

 一体、どうしてしまったのか。

「それじゃあ、あたし達は先に」

 管理官三人は生徒達にもう少し話を聞きたかったのだが、それより先にミリィが逃げるように歩き出した。お辞儀をすると、そのまま顔を上げず、下を向いて、早足で。

 彼女の後を追うように、キャロとエレーナも、管理官三人にお辞儀をして去る。

 その様子は、自分の顔を管理官に見られたくない、という意思表示にしか見えなかった。そうであるのなら、生徒達は今、自分が人には見せられない、見られたくない顔をしていることを、自身で理解している。その証明か。

 シャルルは、何か言いたげな表情でその後も少しだけこちらを見ていたのだが、最終的には何も言わず、他の生徒達と同じような姿勢で、その場を去った。

 アインも一礼の後に、立ち去る。彼は下を向かず、いつものように直立の姿勢で。

 最後に残ったのは、サーシャ。彼女だけが、まだこちらを複雑な表情で見ている。何かの過ちでも犯してしまったかのような、後悔や自責が罪悪感の呵責の中で掻き混ぜられているようで苦しげな彼女の顔は、今にも窒息してしまいそうだった。

 施設の誰よりも色の白い彼女の肌が、今は青く見える。

「あの、すみません」彼女は喘ぐように口を開いた。本当に窒息してしまいそうな声だ。「お伺いしたいことが……」

 管理官三人は、聞き返す前に顔を見合わせる。

「何だい?」聞き返したのは、ニコロ。

「その、……ええと、ですね」

 彼女は俯き、言葉をそこで途切れさせる。

「どうしたんだい?」もう一度問う、ニコロ。

 しかし、サーシャの唇は、音を紡がない。

 奇妙な沈黙が、辺りを抱擁した。その時間は数秒だっただろうが、重い空気の影響で、その十倍程に感じられた。

「すみません」息苦しそうなサーシャの声。「やっぱり、なんでもないです」

「え?」僅かに裏返る、ニコロの声。「なんでもない? なんでもないって?」

「ええ。すみません。なんでもありません」

「いや、でも……」

「お手間をお掛けしてすみませんでした。私もこれで失礼します。すみませんでした」

 深く頭を下げ、彼女もまた、逃げるように退散した。

 残された三人は、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、その背中を見詰めた。

「何だろうね」彼女の背を見送ったゼフが、頭を掻く。「何かあったな。ニコロ、心当たりは?」

「ないよ」ニコロは腕を組み、午前中の生徒達の様子をもう一度思い返した。「さっきまでは、何ともないようにしていたんだが。食事中に何かあったのかな?」

「それ以外にないだろう、この状況で」

「喧嘩でもしたのかしら」メイが、生徒全員が去っていった方向を眺めながら

言った。そうではないだろうと考えていたが。

「喧嘩ねえ」ゼフも、メイと同じ方向を見る。

「それだけならいいんだけど」ニコロも、同じ方を。今その方向には、もう誰も居ない。

 三人は、不安や混乱を混ぜ合わせた心地悪さを抱かされたまま、食堂に入った。

 それぞれが、食べたい料理を皿に取りテーブルに着くと、食堂の中で食事をしている人間の姿は減り、先程までの賑やかな談笑も減少していく。厨房で鍋や食器の片付けをしている音も次第に聞こえなくなると、食堂は一転して、静かな空間に変わった。

 三人が食事を終える時には、食堂には彼らしか居なくなっていた。厨房には誰かしらスタッフが残っているだろうが姿は見えず、その気配も感じられない。

 それくらいの静けさに転じた食堂で、食後の休息がてらにのんびりしながら、明日以降のことに関して話をしていると、突然、それまでの静寂を打ち壊すように、男性スタッフが慌てた様子で駆け込んで来た。施設入り口に常駐している衛兵だった。

 その彼の血相は、どうしたと聞かなくても、何か大きな問題が起きたのだと理解するのが容易な色だった。

 彼は呼吸を荒くして食堂を見渡し、三人の姿を見つけると、ユーゲンベニアで動きがあったと早口で捲し立てた。

 あまりに唐突な報告と内容に、三人は驚く。

 議事堂を砲撃して以降ユーゲンベニア国内のどこかに潜伏し、姿を隠していた現国王が、政党と前国王に対して、今月の末日までに武装解除と王座の返還を要求したらしい。期日までに要求が認められない場合、現国王を支持しているユーゲンベニア国軍は、前国王側に対して武力行使に出るという声明も発表したそうだ。その為の準備は既に整っているとも宣言したことから、これは実質的な宣戦布告であると、国内外のマスメディアは一斉に報じた。

 衛兵は、この続きが問題だと、顔を青くして続ける。

「ユーゲンベニアの国営テレビに、それとは別の声明を収録したテープが送られてきた。これは、ユーゲンベニア国内で一度だけ放送されたが、すぐに国連が押収して、今は厳重に管理されている」

「何があった?」ニコロは表情を険しくする。

「ゲーグマン将軍が、現国王を支持し、武力提供をすると発表した」

「なんだって?」ゼフは思わず立ち上がり、右の手でテーブルを叩く。彼の椅子は音を立てて倒れた。「ゲーグマンが? 嘘だろ!」

 男性は、残念そうに首を振った。横方向に。

「本当だ。今、各国がこれに関してどう動くべきかを審議している。将軍の身柄はどうにかして拘束したいところだが、ユーゲンベニアの政権問題に関与することはできないから、頭を抱えているそうだ」

「最悪で、最高な隠れ蓑」メイが、侮蔑を込めて囁く。「何かの取引をしたのね。王座奪還に手を貸す代わりに、レクレア奪還の協力をしろとか、そんなところかしら」

 言葉の終わりにメイは、まるで舌を噛み千切るように舌打ちをした。

 ユーゲンベニアの政権問題は、国内での問題から一気に国際的な問題に、状況次第では世界の危機的問題に発展してしまった。この問題が彼らにとって順調に進めば、最終的にゲーグマンはユーゲンベニアと同盟関係を結ぶだろう。そうするとゲーグマンは、強硬的な中立国という後ろ盾を得ることになり、他国はこれまで同様に手を出すことができなくなる。迂闊に手を出しユーゲンベニア側の人間や施設に被害が発生すれば、久しく起きていない、戦争という惨事に発展する可能性が極めて大きくなる。それは、現状を知った全ての国が理解しているであろうから、流石にどの国家も、組織も、介入ができない。

 事態は、極めて深刻である。

 ニコロは思う。上層部が生徒達の投入を強行的に決定した理由は、ゲーグマンの一件がこのように悪化する可能性を見越した上だったのだろうと。

 頭に浮かぶのは、規約の一節。施設が動くことが認められる条件。あらゆる国家、組織、機関の介入が不可能であると判断された時。それは、今、この状況ではないか。

 各国の現状は、この大事を押収したテープと共に盥回しにしているのだそうだ。衛兵の彼が憤りを強く滲ませた言葉で教えてくれた。どの国も迂闊に何かしらの干渉をして、開戦の狼煙を上げるのが自国になってしまわないようにと、動こうとしない。戦争の惨禍は避けたいが、自国が恋しいのは万国共通のようだ。

 ニコロは、深々と息を吐き出す。

「いよいよだな」

 誰かが、そう言った気がした。

 自分の口が動いていたな、とも感じた。


 5


 昼食の後、自室に戻ったシャルルは、ベッドに腰を下ろすと深い溜息を吐いた。

 午後は外出などせずに、自室で過ごそうと決めた。外は快晴。しかし、その陽気を全身に浴びようという気持ちになれなかったからだ。

 彼女の気分は沈み、暗く陰鬱だった。外の陽気とは真逆である。彼女の胸の内には、暗雲が立ち込んでいる。心を風景にしたなら、きっとそのようなものだろう。その暗雲が何を齎すのかは不明だが、晴れやかな陽気の午後をこんな気分で過ごすのは、初めてだった。

 否、以前に一度だけ。一度だけ経験していただろうか。

 彼女は記憶を遡る。

 その日がいつだったかは、直ぐに思い出せた。

 ローラが施設を出発した日だ。

 あの時も、こんな気分だった。今の彼女の心の状況は、その時と酷似している。あの時は、その翌日にまでその状況は続き、ローラの死亡を知らされた時、症状は更に悪化した。自分は心を抜き取られ、空っぽになった。そこに、汚物でも詰め込まれたかのような気持ち悪さがあった。混濁していた。そのように、彼女は記憶している。どんなに空気を吸い込んでも息苦しく、吐き気を感じ、原因不明の頭痛に苛まれ、胸は無数の棘を突き立てられたのか、痛かった。

 今の彼女の容態は、その時と同じだ。

 息苦しい。

 気持ちが悪い。

 頭が、胸が、痛い。

 体の中が澱んでいる。

「あの人は、なんて目を……」

 ぽつりと、呟く。

 その言葉は、無意識に唇からこぼれていた。

 頭と心の中では、今もアインが最後に放った言葉を反芻している。

「死んでしまったのだろう」

「それが彼女との、最後」

「死んでしまった」

「最後」

 シャルルの心を濁しているのは、それらの言葉だった。

 その言葉をアインは、無表情に言ったのだ。いや、表情だけではない。感情まで、無だっただろう。何も考えず、何の想いも抱かずに言い放った。まるで、業務の報告でもするように。そんなことが、人にできるものなのだろうか。他人ではなく、少なくとも自分と親しい間柄にあった誰かが死んでしまったという悲話を、無感情な言葉で話すことが、果たしてできるのだろうか。あんなにも空っぽな眼差しと、言葉で。

 だが、現に彼は、それを行った。彼はそのように、リル・エリリスという少女の生涯を語った。それが信じられない。ローラのことを思い出すだけで今も悲しみが蘇り、こうして胸には棘を突き立てられたような痛みや苦しさを感じる彼女には、それが信じられないのだ。

「あの人は、一体どれだけのものを失っているというの」

 独り呟き、そして、自問する。

 彼が失ったものとは、何であろう。

 リル・エリリスという名の少女だろうか。

 違う。そうじゃない。シャルルは暗雲の中に、それを見付けた。

 本来ならば人と呼ばれる生物が持っていなければならない、多くのもの。人として持っていなければならない、貴重なもの。感情。心。きっと、アインはそれらを失っている。きっと、だなんて曖昧な言葉を用いる必要などなく、それは、どう見ても明らかだ。彼は、空っぽなのだから。

 彼は、人として持っていなければならない多くのものを失っている。

 では、それらを失っているのであれば、彼を人と呼んでよいのだろうか。自分と同じ生き物であると、安易に括ってよいのだろうか。

 シャルルは、深く息を吐いた。胸の痛み、息苦しさは、一秒毎に悪化している。

 アインがこれまでにその肌で感じ、その耳で聞き、その瞳で見た世界がどういった場所であったのかは、想像しかできない。シャルルが知るそれらの場所は、映画や書物の中にしか存在せず、それらはフィクションでしかない。そんな想像上にしか存在していない世界と、アインが暮らし、見てきた世界とが同一であるとは思えない。まったくの別物だと、断定できる。

 そうなると、彼女は想像できなくなる。

 そんな想像もつかない、過酷で、残虐な世界で、何が彼を、今のようにしたのか。

 考えている内にシャルルは、アインという人間がわからなくなった。アインという名前も、本名ではない。そう考えると、彼女の中に記録されているアインという人物像の輪郭はぼやけ、曖昧になり、蒸発してしまう。

 しかし、希薄になりつつある筈のアインのあの眼差しだけは、何故か、今も目の前にあるかのように思い出せる。リル・エリリスという少女の顛末を語った時の、あの、生きている人間の瞳とは思えない双眸が。抑揚のない、彼の口から発せられていた音も。

 それらに苛まれていると、彼女はようやく、胸を刺す痛みや息苦しさの名前を理解した。

 恐怖。

 そうだ。

 これは、恐怖だ。

 恐怖が、今、自分の首を絞めている。頭を潰さんとしている。胸を刺している。

 彼女は今、アインという存在を、怖いと感じている。

「どうして、こんな気持ちに……」

 呟いたその時、部屋のドアが外側から叩かれた。

 ノックされた数は、二回。

 シャルルの体が震えた。ドアが叩かれた音は小さかったのだが、その音に対する彼女の反応は過敏だった。

「はい」平静を保とうと、彼女はそこで一度、呼吸をする。「どなたですか」

「私」扉の向こうから届いたのは、サーシャの声。「ミリィも一緒なの。入っても構わないかしら」

 シャルルは、部屋を見回す。散らかっていたり、見られて困る物があったりしたなら片付けようと思ったのだが、室内は普段通りに整理されている。それに、彼女は見られて困るような物を持っていないし、部屋を散らかすことも、散らかる程の私物も持っていない。

「どうぞ」

 ベッドに座ったまま返事をすると、ドアが躊躇いがちに開けられた。

 ドアと壁の隙間から覗き込むように、サーシャとミリィが立っている。ドアの開放だけでなく、入室も躊躇っているように見えた。

 どことなく、様子がおかしいだろうか。もっとも、今自分を観察している人がいたなら、その人も自分に対し、同じように感じているだろうが。

「どうぞ」シャルルは、もう一度言う。「どうしたのですか、入って構いませんよ」

「私は、来るつもりはなかったのだけれど」サーシャが、複雑な顔でミリィを示す。入室する素振りは、まだ見られない。「その、ミリィが……」

「ミリィさんが? どうしたんです?」

「ほら、ミリィ」サーシャが、自分の後ろに立っていたミリィを前に出るように促す「言うのはあなたよ。ほら……」。

「ええと、その、……ね」しかしミリィの足は、その場から動こうとしない。「あのね、入って話をしてもいい?」

「どうぞと言ったではありませんか」シャルルは、声色を高めた。「中に入ってください。それとも、そことここでお話をしたいのですか?」

 さあ、とシャルルにしては珍しく強めの口調に急かされて入室した二人は、窓の前に置かれた椅子に座った。しかし、その先、会話は生まれない。入室はしたものの、着席をした二人は膝の上に手を乗せ、両手の指を絡ませている。視線は、その場の誰かを見るでもなく、無意味に絡み合う自分の指先を眺めるだけだった。

 やはり、様子がおかしい。

 シャルルは、そう感じる。

 自分も、そうである。

 彼女はもう一度、その自己分析をした。二度目の自己分析で、錯覚だろうが、彼女の体を蝕んでいた不快感は、ほんの少し和らいだ気がした。逆に今は、二人の様子が彼女の心をそわつかせている。

 様子のおかしい二人を眺めるシャルルは、その二人に見られないよう小さな仕草で胸を撫で、心の乱れを鎮めようとした。それでどうにかなるとは思っていないが、気休め程度にはなるだろう。

 普段通りではない三人が、数秒、沈黙で過ごした。

「あのね」そわつくミリィが、俯いたまま口を開く。「シャルル、……さっきの話なんだけど……」

「さっき?」

「アインの話」

 その言葉は、シャルルを震わせた。

 やはり、そうだったか。彼女は、膝に乗せた手を無意識に強く握り締める。

「彼の話が、どうしました?」なるべく平静を装い、シャルルは問い返す。

「ええとね、……あのね、どう思った?」

「どうって……」

「私は、気にしないようにと考えていたの」サーシャが小声で会話に入り込む。彼女は、口元を隠すように左手を口に当てていた。泣いているように見える姿勢だ。「でも、ミリィが気になると言って、最初はね、私の部屋に来たのよ。それでね。その、……私は、ミリィの為になるようなことを言えなくて、でも、気になると言われて、正直に言うと、私も気になっていたの。だから……」

「気になって、それで、私の部屋に?」

 シャルルの問いに、ミリィは、苦しげに頷いた。遅れて、サーシャの首も縦に動く。

「ねえ、教えて」ミリィの声は、普段よりワントーン低い。それに、少し震えている。「シャルルは、どう思った? サーシャは、どう思った?」

 シャルルは、黙する。

 サーシャも、同様だった。

 その質問に対し、どのように答えればよいのか、シャルルは見当がつかない。ミリィがどういった解答を欲してこの場に来たのか。それも、わからない。二人が訪れる直前に自分が考えていた内容をそのまま答えていいのであればそうするのだが、何故か、それを躊躇ってしまった。

 恐怖心を抱いたとは、言えない。そう感じていたからだ。

 そうしていると、ミリィの方から会話を続けてきた。

「あたしはね。すごく怖いって感じた」

「怖い?」

 シャルルは驚いた。

 同じだ。

 自分と同じではないか。

 シャルルが目を見開いてミリィを見ると、ミリィは、そのまま自分の思いを、拙く、不規則なリズムで紡いでいく。過剰に瞬きをしながら、声を震わせて。

「うん、怖かった。すごく怖かった」ミリィは、そこで呼吸をする。「でもね、違うの。怖いっていうのは、ええと、その、……アインが話してくれた内容が怖かったとか、そういうのじゃないの。もっと単純に、その、……あのね、……アインが」

 彼女の言葉は、そこで途切れる。

 沈黙が、再び部屋に広がる。

 そこから先の言葉が、ミリィは言えないらしい。彼女の口は息を止めるように固く閉ざされ、開こうとしない。

 室内には、沈黙しか響いていない。

「……怖かった?」

 シャルルが沈黙を脱しようと聞くと、ミリィは驚かされたような速度で、顔を上げた。その表情も、その形状をしている。だが、直後には顔を歪め、頷いた。頷き、そのまま顔は下を向いてしまう。

 やはり、同じだ。

 シャルルは理解した。

 皆、自分と同じ感情を抱き、苦悶していたのだ。

 恐怖。

 アインに対しての恐怖。

 だが、何故そう感じ、そして、何故それが胸を裂き、息を詰まらせ、苦しくさせるのかがわからないことも、こうして集まり、誰かの意見を求めていることから、自分と同じなのだとわかる。

 シャルルはミリィと同じ様に下を向き、自室に戻ってからというもの、これで何度目になるかわからなくなった、深い息をした。

「正直に言います」シャルルは、床の木目を眺めながら囁く。「私も、あなたと同じです。怖いと感じました。彼を、怖いと」

「シャルルも?」

 シャルルは、木目を見詰めたままで頷く。

「ねえ。どうして、そんな風に感じちゃうんだろう」ミリィが聞く。

「それがわかっていれば、こんな風に苦しんでいません」

「嫌だよ。あたし、こんな気持ちのままでいるなんて嫌だよ。こんなの苦しいよ、嫌だよ。どうして? どうしてアインを怖いって感じるの? ねえ、どうして?」

「わかりません」シャルルは、突き放すように言葉を返した。

 理由をわかっていれば苦悶などしない。理由がわからないからこそ、人は苦悶するのである。そう考えると、今こうして苦しくなっていることだけは明らかになるのかもしれない。全員が、自分の現状を理解していないのだ。

 アインを恐れている。最も重要なその疑問符の原因が何であるのかという謎は、しっかりと残されたままであるが。

 シャルルがミリィの問い掛けを突き放したことで、室内はまた、無人のような静けさに包まれた。この部屋では、どれくらいの無音が流れたのだろうか。互いの息遣いしか耳には入ってこない。そして、この無音の時間は、ひどく重たい。

 静けさに押し潰されそうになった頃、サーシャが口を開く。それまでの時間は数秒だったか、数分だったか、数時間だったか。今の彼女達は、それすらも感じ取れない程に苛まれていた。

 サーシャは窓の外、彼女達の心の様子など知りもせずに青々と照る、空の彼方を遠望した。

「私は、ローラのことを思い出したわ」

 シャルルとミリィは、同時にサーシャを見た。シャルルの位置からだと、窓枠のキャンパスに閉じ込められたサーシャの姿は、シルエットだけの絵画に見えた。

「私も思い出しました」シャルルは、目を細めて視線を僅かに逸らす。「あの日の気持ちに、どこか似ていると」

「あたしも」頷く、ミリィ。「でも、似ているけど、なんだか違う」

 ミリィの言葉に、シャルルも頷く。「そう。どこか違う」

「違う」サーシャも、同じ言葉を溢す。

 シャルルは、もう一度床の木目を見た。

「何が違うのか。それがわからない……」

「違うわ、シャルル」サーシャが首を振った。「そうじゃないの」

「そうじゃない?」

 シャルルは、サーシャを見た。サーシャは窓の外から室内へと視線を移したが、今し方の自分と同じように、床を眺めていて、こちらを見てはいない。

 この部屋に三人が集ってからというもの、それぞれ、互いの視線が絡まったことは殆どない。

「私はね、その、……違うことを、考えてしまったの」

 互いの瞳を交えぬまま、サーシャは語り始めた。

 彼女の声は震えている。嗚咽のようだ。

「考えすぎかもしれないとは、自覚しているわ。世界中では、今も大戦の名残のように争いが続いている。地図の上で、争いが行われている場所に色を塗っていったなら、色を塗らずに済む場所なんてどこにもないと、前に何かの本で読んだわ。それくらいに、この世界は争いで満ち溢れていると。だから、そう考えてしまうのは愚かな憶測だろうって、そう思っているわ。でも、……でもね。根拠はないのだけれど、それでも、考えてしまうの。だって、……同じに思えてならないんだもの」

「同じ?」ミリィが、恐々と聞き返す。

「なにが、ですか?」無意識にシャルルも、同じ口調になる。

「聞かされた話」

 サーシャの唇が放つ音。その震えが、より強くなった。

 シャルルは、膝の上で握った手を更に小さくさせた。握る力が強くなる。息苦しさが、明らかに増していた。

 空気が、より重くなる。

 震えるサーシャの声が語り始めるのは、複数回の呼吸を終えた後だ。

「私は、世界中で起きている紛争や戦争を、テレビと新聞でしか見たことがないわ。お父さんとお母さんが昔、大戦に行ったという話も、親戚のおばさんから聞かされた。その戦争も、私はテレビと新聞でしか知らない。今起きている数多くの紛争だって、そう。それでしか知らない。でも、私は」そこで一瞬、言葉を詰まらせた。「私は、……私は、ローラが派遣された場所とアインが居た場所というのが、同じだとしか考えられないの」

「同じ?」即座に反応をするシャルルは、瞳の開きを大きくする。「そんな……」考えすぎだ、と言おうとした。

 しかし、サーシャの言葉はそれよりも早く、続く言葉を遮るように続けられる。

「考えすぎだと言えるの? 可能性はまったくのゼロだと、本心から言える? ローラが派遣された日、ニュースではアメリカ軍が敵地に対して行った空爆が報道されていたわ。ローラが死んでしまったという報告は、その翌日」

 その日のことを再び思い出し、シャルルはまた、陰鬱な気持ちと息苦しさに喘ぐ。直前に言おうとしていた言葉も消滅し、ただ身を硬くするしかできなくなった。

 その日と、その翌日のことは、はっきりと思い出せる。先程もそうだった。思い出した映像は、忌まわしくも色褪せず、きっとこの先何年が経過しても風化とは無縁で、鮮明に思い出せるのだろう。

 ローラが出発した日。

 報道。

 翌日の、悲報。

 ニコロの口から告げられた言葉も、一字一句記憶している。今もそうであるように、これから先もずっと、鮮明なままなのだろう。きっと。永遠に。

「その後で、アインが保護されて、ここに来た」サーシャは続ける。「彼は、戦地で保護されたと教えられたけれど、その彼の口から、空爆と聞かされたのよ。昔の話ではなく、ここに来る直前の話として。私は、そういう報道を、ひとつしか知らない。二人もそうでしょう?」

 シャルルとミリィは、ぎこちなく頷く。

「ローラの派遣先と、アインが最後に居た戦場は同じ。アインは、私達の敵に雇われていたのよ」

「そんな風に言うのはよくないよ」サーシャの言葉に、ミリィが反論した。「その言い方だと、まるで……」

「わかっているわ」サーシャはやはり、相手の言葉を遮るタイミングと口調で返す。「彼が敵兵だったとしても、雇われていただけ。それに、今も敵であるという訳ではないわ。でも、私は考えてしまうの。ローラは、……あの人は、誰よりも優れていた。私達の中の、誰よりも。そんなローラが死んでしまうなんて、私は信じられない。普通の人がローラを、……そんなこと、信じられない。でも、……でも」

「やめて!」ミリィは甲高い声でサーシャの言葉を遮った。「サーシャ、おかしいよ! 何を考えているのさ! アインが、ローラを? そう言いたいの? やめてよサーシャ! やめて!」

「だって、そうじゃない!」ミリィと同じ様に、サーシャも声を荒げる。

 彼女がそのような声を出すことなど滅多にないだけに、ミリィもシャルルも、悲鳴にも似た彼女の声に身を硬直させ、強制的な沈黙を強いられた。

 シャルルは、まだサーシャの姿をしっかりと見られていないが、小刻みに震えている肩と、今にも途切れてしまいそうな不規則なリズムの息遣いは確認ができた。泣いているのだろうか。否、きっと彼女は今、そうしている。涙を流している。

「そうとしか考えられないの」サーシャの声は鎮まったが、今度はあまりにも細く、弱弱しくなる。「そうとしか考えられないから、怖い。私は、そうとしか考えられない、そんな私が、怖いの」

 その場の全員が、そこで完全に言葉を失った。

 思い静寂が、三人を抱擁する。

 三人を窒息させる。

 三人の、胸を刺す。

 サーシャは、蔓延した肌触りの悪い沈黙が、自分の言葉に対しての二人の同意、或いは納得だろうと解釈した。異論があるのなら、これだけの間を置かずに語られている筈だ。その言葉が返される気配がない。どれだけ待てども、それが返されることはないだろう。

「何も知らないのね、私達は」彼女は最後に、吐息と共に囁いた。「彼のことを、何も」

 二人の視線が自分に向くのを、サーシャは感じた。彼女は、まだ床を見詰めている。

「今日を迎えるまでの二週間、私達は彼のことを、何ひとつ知らなかった。今だってそう。私達は、彼の本当の名前さえ知らないんだもの」

 そんな彼が、ローラを殺害したのだとしても、何ら、おかしくはない。

 サーシャは、或いは三人はそう考え、彫刻のように佇み、そのまま動くことはなかった。


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