変化による微々たる罅
第四章
正当化は、行為がなされた後の方が、事前に納得させる根拠を考えたり、またそれに対する反論を待ったりするよりは、はるかに容易に、しかも見事になされるし、暴力も言いつくろうことができるのである。
1
陽が高く、まだ空が明るい内に、アインとミリィは施設に戻った。指示されていた時刻は、五時。二人が街と施設を連結させている橋を渡り、門扉を潜ったのは、それより五分程早かった。
二人を出迎えた衛兵は出発の時と同じ人物で、二人の帰宅に彼は、大層驚いていた。どうやら、ミリィの時間に関する決め事へのルーズさを知っていたので、出発の時に口酸っぱく言ったものの、帰宅の時間は守られないだろうと踏んでいたようだ。その驚きの度合いは、二人の帰宅を見た時に、彼が自分の腕時計の盤面を三度も確認したことから窺い知れる。
だが実際には、定時に帰宅したのは偶然で、二人は砂浜を歩き、その後も町の中を散策していたのだが、見せるべき場所がミリィは思いつかなかったので、どこかに座り会話を楽しもうと目的の変更があり、その着席できる場所として選択されたのが施設の中で、そうして帰宅した結果がこの時刻だったというだけなのだが、彼女は驚く衛兵に対しそれは説明をせず、誇らしげに胸を張るのだった。
「まあ、あたしだって、こうして大人になっていくんだから」
「どうせ、街を歩いていてもつまらないから、帰って来たんだろう」衛兵はミリィを見て笑う。どうやら事実を察したようだ。「そうだろう?」と、確認の為にアインを見る。
アインは正直に頷いた。
「でも約束は守って、時間の前にちゃんと帰ったじゃない」
「それが普通なんだよ」衛兵はミリィと会話をしているが、まだアインを見ている。「それで、この後の予定は?」
「楽しいお喋り」
「どこで」
「この中の、どこか」
「夕食まで? あと一時間だな。切りのいい時間じゃないか」そこで彼は、ようやく視線を話し相手であるミリィに向けた。「二人のどっちかに帰って来たって言っておいてくれよ」
二人、というのは管理官を意味しているのだろうと、会話を眺めていたアインは察した。管理官は三人なので、誰か一人が外出をしているのだろうとも。
ミリィは衛兵からの要請に、不満げにわかったと返事をし、アインを施設の中に誘導した。不満げに返事をした理由は、直後に彼女が「大切な時間なのに」と小声で漏らしたのでわかった。その声はアインだけでなく、衛兵にも届いていただろう。
エントランスホールに入り、二人は二階へ向かう。そのまま管理官三人の部屋へ向かう前、二階に到着したところで、ミリィはアインに、ここで待っていてと言った。
「帰って来たって、あたしが言ってくるよ。二人で行かなきゃいけない訳じゃないから、大丈夫」
頷いたアインを確認した後、ミリィは二階の廊下を進み、正面のドアをノックした。そのノックに対する返答の声がアインには聞こえなかったが、その後にドアはミリィによって開けられたので、以後の会話は聞き取れた。
その室内に居た人物は、先ずはミリィの帰宅に驚き、次に現在の時刻にも驚く。それに対してミリィが自分を褒める言葉と、相手からの、夕食の時間までどこで何をしているのかという質問。衛兵と交わした会話と、発言者が違う以外には同じ内容のやり取りが聞こえた。そのやり取りから、そこに居るのはニコロだとわかった。執務室には二人の管理官が居るという話だったが、どうやらそうではないらしい。ゼフとメイの二人が外出をしているようだ。
ニコロからの質問に、この中のどこかと、やはり衛兵の時と同じ言葉で締め括ったミリィはドアを閉じ、小走りでアインの隣に戻った。
その後の目的地は中庭だと言って一階に下りるが、ミリィはそのまま女性の宿舎に向かった。その理由は着替えの為だと告げ、彼女だけがホールから立ち去る。アインはどこかへ移動をする必要がなかったので、その場で待機をすることにした。
ホールを行き来する人の姿は、朝や昼時に比べると異なり、半分くらいに減って見えた。その足が向かう先が地下ではなく、施設の外という点と、外へ出る人間は皆白衣を脱衣し、私服という点の違いもある。
今日の業務を終え、街の中にある施設の寮への帰路についているのだろう。研究員のタイムスケジュールがどのような構成であるのかをアインは知らないが、この様子と六時に夕食が始まるという情報から、このタイミングが一日の業務の節目なのだろうと理解した。夕食の提供の時間前に帰宅する理由は、追及しなかった。ここの食堂が食事を得られる唯一の場所である訳ではない。
アインをちらりと見ながら、アインではない他の誰かと別れの挨拶を交わし、その場を去る研究員達。どうやら、人の数や服装の相違はあれども、ここで自分に向けられる視線と、それに伴った雰囲気は変わりがないようだ。人数が減っているので、濃度は多少薄らいでいるが。
アインはただ、起立して待つ。
少しづつ、ホールの雰囲気を中和でもするように、昼時と同じように食堂から食事の匂いが流れ出ていた。
アインの頭の中には二つの疑問が浮かんでいた。
昼食時には未解決だった、夜の食事のスタイルの名称。だが、その疑問は彼の頭の中にコンマ一秒以下の瞬間しか滞在せずに消された。そして彼の頭を占有している疑問は、ミリィの戻りが遅いという一つになる。
彼は自分の右腕を見るが、今日彼は、腕時計を装着していなかったので現時刻を知れない。だが、体感で十分は経過していることはわかっていた。
着替えの為に部屋に戻ったにしては、そこからの戻りが遅い。着脱に時間を要するほどに多くの衣服を纏っていた訳ではないし、それだけ遠方に彼女の部屋がある訳でもない。
普段なら、即座に消去されたひとつ前の疑問と同じように、この重要性など皆無の疑問は直前のものよりも先に消されていただろうが、ホールから女性宿舎の彼女の部屋がある方向に視線を向けて、戻りの時間が遅いその原因を考えたことは、彼に表れた一つの変化と呼べた。それを彼自身が自覚した。命じられていた、新しい生活に慣れ、変化せよという言葉に対して表れた兆候かもしれない。
しかし、彼の身に表れた兆候は微々たるものだった。戻りが遅い原因の幾つかの可能性が彼の頭に浮かぶ。浮かんだが、次の瞬間にその可能性は消え、次のパターンが浮かぶ。それも次の瞬間には消える。彼の思考は複数の可能性を同時に処理することがなかった。それに、パターンを想像するだけで、疑問を解決させようとはしていない。その証拠に、彼の頭は考えるだけで、身体はこの場での待機を継続させている。
そんな時間を彼は過ごす。体内時計で時間の経過測定は続けていた。考え始めてから、もう少しで五分が、ミリィが自室へ向かってからは、十五分が経過する。
アインが想像できる、戻りが遅い原因のパターンが底をつきそうになった時、ようやくミリィが彼の前に戻った。
「待たせてごめんね」彼女はアインにウィンクを送る。「ちょっと、着替えに悩んじゃって」
着替えに悩んだ、と言っているが、彼女の衣服は変わっていない。
アインの視線から、彼が今そう考えていると察したミリィは、彼の前で身体を一回転させた。自分の着ている衣服の全体を、彼に見せたいらしい。
「これね、お気に入りの服なの。普段あんまり着ないんだ、汚れたりしちゃうのが怖くてね。前に着たのは一か月くらい前。で、今日久し振りに着て、なんだかテンションが、ぐーんって上がってさ」ミリィは右手を斜め上にスライドさせる。飛行機の離陸の表現のようだ。「でも、この後ご飯でしょう? それで汚したら嫌だなあって。でも、もう少し着ていたいなあって、テンションが、こう、ぐーんってね」彼女の手はもう一度離陸する。「それで悩んで、そうしていたら、こういう結果になりました」
アインは頷く。彼は戻りが遅くなった理由と、衛兵が言っていたミリィの時間に対してのルーズさを再度理解した。
ミリィはアインの手を握り移動を始める。だが、目的地は中庭ではなく、食堂の中だった。
また目的地が変更されたのだろうと考えるアインを、ミリィは昼食の時と同じテーブルに導いた。椅子は各テーブルに四脚ずつに戻されているので、そこに到着すると、彼女は最初に、やはり隣のテーブルから二脚を抜き取り、こちらに追加をした。
その音に気付いた食堂のスタッフが、キッチンから食堂に顔を出す。
「ちょっと、まだ早いよ」
スタッフは自分の手首を指差している。アインの体内時計では、夕食提供開始の時間まで、まだ三十分あった。スタッフはそれを言っているのだろう。
「大丈夫、大丈夫。早く来ただけ」ミリィは声を大きくし、スタッフに手を振った。「本当は中庭に行こうと思ってたんだけど、そっちに行って、お喋りして、で、またこっちに来るのが、ね」
「時間になるまで何もあげないし、何もしないからね」
「はーい。皆が揃うか、マンマがいいよって言ってくれるまで、待ってまーす」
そのスタッフは、自分に向けられた固有名詞に少し不服そうな顔をしたが、すぐにキッチンの中に消えてしまった。
「そういうわけだから、ここでトークタイム」ミリィはテーブルに肘をつき、両手で自分の頬を包むと、椅子の上にある上半身を左右に揺らす。「あと、皆を待って、ご飯も待ちます。いつも六時になったらここで待ち合わせをして、一緒にご飯を食べるの。来るのが早すぎたら、今みたいな感じ。これくらいの時間だったらね。もっと早くに来たら、邪魔だってマンマに言われて、追い返されちゃうの。あ、今の人がマンマね」
アインは頷き、壁に掛かっている時計で時刻を確認した。彼の体内時計との時差は殆どない。
その後にミリィは、夕食は一人一人が食べたい物を注文できるのだと教えてくれた。レストランのようなものだと説明をしたが、レストランと同じようにメニューがあるわけではなく、パスタ料理か、魚料理か、肉料理を選択し、日によって異なる該当の料理が提供されるそうだ。また、食材を豊富にストックしてはいないので、途中で内容が変更されたり、終了することもあるらしい。そうなった際は、町に出て金銭を支払い、食事をするしかないという。
そこまで説明をしたところで、キッチンからエレーナが姿を現した。出てくる時は、先程の女性、マンマと一緒だった。マンマはミリィとアインを指差し、合流するようにと、彼女の背中を押した。彼女はマンマに、ありがとうと言ってから、こちらのテーブルに到着をする。
どうして夕食の時間前にもかかわらず、エレーナがここに、それも、キッチンの中に居たのだろうとアインもミリィも考えたが、アインは、彼女の午後の予定が料理の勉強であったことを思い出し、それがこの時間まで継続していたのだと理解した。ミリィは、エレーナが着席して、マンマから沢山教わったと楽しげに言うまで、それを思い出せなかった。
この、予期していなかったエレーナの合流が、短いながらも、その後の時間を潤滑に進めてくれた。
ミリィの本心は、アインと一対一のプライベートな会話を希望していたのだが、アインにとっての会話は未だ質疑応答の域を超えていないので、彼女が望んでいる形式のやり取りは成されなかっただろうし、それに挑んだところで、夕食の時間の前に彼女の頭脳が引き出せる質問の数は、ゼロになっていただろう。
だから、それからの時間はエレーナのこれまでの時間の報告が主だった。
解散した後、すぐにキッチンへ戻り、今日教わる料理をマンマと相談して決めて、それがどういう料理なのかや、レシピの座学の後、実際に調理を行う。この流れを、三度行ったのだそうだ。つまり、彼女は新しい料理を三つ学んだのだと言う。その料理名を教えてくれたが、その全てがアインには通じなかった。初めて聞く単語だったからだ。料理の勉強を行うという事前情報がなければ、料理名とも理解できなかっただろう。
その説明が終わったところで、更に二人が合流する。それは、サーシャとキャロだった。二人は同時に食堂に表れた。時刻は、六時の十分前。
ミリィは、その珍しいシチュエーションに驚いた。キャロは、妹のエレーナの料理の勉強に付き添っていて、片付けか何かでキッチンに残っていると考えていたのだが、エレーナとは行動を共にしておらず、何故か、サーシャと共にやって来たからだ。二人がこれまでの時間を共有していたのであろうことは、感情に実直なキャロの表情を見れば明らかである。
どうして一緒にやって来たのかという疑問をミリィの口が放つ前に、キャロは、エレーナから午後の予定への同伴を断られたのだと言った。その後にサーシャが、空白になった隙間を埋める為に彼は図書室へ来て、供に読書をしていたのだと教えてくれた。ほのかに紅潮を残したキャロは、何も言わず、サーシャの説明に相槌を打った。
説明の後に、午後はどうだったかとサーシャは尋ねた。その質問の矛先は、エレーナについては既にキャロから聞いていたので、ミリィとアインにのみ向けられていたのだが、反応をしたのはエレーナで、彼女はミリィとアインに、さっきの話は秘密だと言った。それは小声ではなかったのでサーシャにもしっかりと届き、何が秘密なのかと矛先の向きを変えて聞くが、エレーナは、秘密だと返すだけで、それ以上の発言をしない。何か詳しく知っているのかとミリィを見たのだが、彼女はエレーナの発言の真意を察したのか、同じように、秘密としか言わなかった。
生徒同士の秘め事は禁止というルールよりも先に、サーシャはあることを思い出し、そして理解した。
エレーナは昼食後、午後の予定に関しては料理の勉強と言っていたが、何を作るのかは秘密だと言っていた。それと今の反応からすると、どうやら、うっかりと、ミリィとアインの二人には、その料理名を教えてしまったのだろう。秘密にしていたい理由はわからないが、自らの失態による情報の漏洩に気付いた彼女は、唯一の情報保有者である二人に、黙秘を願った。
サーシャは微笑み、頷き、それ以上を尋ねなかった。
だが、エレーナの言葉は続いた。話し足りなかったのだろう。内容はミリィとアインにしたものと同じだったが、そこから料理名が消去され、再編集されていた。
その説明が終わるのと、時計の針が六時を示すのと、シャルルがその場に到着をするのは、同時だった。
彼女は何も言わずにテーブルに到着し、着席をする。無言の彼女に、どうだったかとミリィが訊ねたが、彼女は、いつもと同じ、と言うだけで、それ以上の情報を発信しない。
その様子から、場の空気が淀みそうな気配をミリィは感知する。それまで和やかに交わされていた会話が途切れてしまいそうだった。
だが、ここでもエレーナの存在が要となって、会話は途切れず、肌触りも変わることなく、潤滑に進んだ。彼女は、まだ自分の午後の物語を聞かせていなかったシャルルにも、説明をする。三度目の説明は、繰り返していたことによって流暢で、また物語の音読のように変化していて、サーシャとキャロの時には含まれていなかった修飾語や比喩が加わり、さながら、料理を教わったことが一種の冒険譚であるかのようだった。これをこの後、管理官にも報告をするとなると、どのように発展をし、原形を止めなくなるのかと、アインとシャルル以外の全員が気にしたが、同時に、好奇心からそれを見てみたいとも思った。
エレーナの冒険譚が幕を下ろしたところで、そのタイミングを待っていた食堂のスタッフが、今日の夕食の説明をしに来てくれた。時刻は六時十五分。食堂に彼ら以外の人の姿があったが、ランチとは異なり、テーブルの半分は無人の状態だった。
スタッフによると、今日のパスタは、ポモドーロ。魚料理は、白身魚のパイ包み。肉料理は、鶏肉のローストだと教えてくれた。魚の種類は複数あり、パイで包んでしまったので、何が出てくるのかはわからないと、また味付けのソースは、魚料理が香草を加えたクリームソースで、肉料理はトマトソースと付け加える。
一番にメニューを決めたのはミリィで、彼女は肉料理を選択した。他に同じ料理がいい人はいるかと彼女が訊ねると、エレーナが挙手をした。次いで決めたのはキャロで、彼はパスタを選択し、ミリィと同じように同じ選択肢の人がいるかを確認したが、一つの挙手もなかった。よって、残りの三名、アイン、サーシャ、シャルルが魚料理と決定した。
実のところ、アインはメニューを決めかねていたのだが、手間も面倒もなく自動で決定されて、安堵する。
要望を聞き終えたスタッフは、一度キッチンへ戻り彼らのオーダーを伝達すると、人数分のバゲットの入った籠と、水の入ったボトルと人数分のグラス、そして、サラダを配った。バゲットとサラダは、夕食に何を選択しても共通して提供されるようだ。
各自のメインディッシュがテーブルに届くまで、エレーナの料理に関する会話が再び展開された。今度は、今聞いた今日の夕食三品について彼女が知っている情報の開示だった。それぞれどういった料理で、どのようなレシピで、どのようなアレンジが可能であるのか、他の国ではどのように変化するのかを、誇らしく語った。
選択した料理が最初に届いたのは、ミリィとエレーナ。その時にエレーナの言葉が途切れたので、ミリィはアインに身体を寄せ、今日のエレーナはご機嫌だと耳打ちをした。
「たぶん、今日の料理教室が大成功したんだよ。それで、あんなにハッピーなの。きっと、この後もずっと、このトークが続くよ。予想だともう三回はリピートするんじゃないかな」
そのミリィの予想通り、次に届けられたのは魚料理だったのだが、その間には肉料理に関して重点が置かれた講座が展開された。
ランチと同じで、夕食も、全員揃って食事を開始するのが習わしらしい。最後にキャロにパスタが届けられるまで誰も目の前の料理には手も付けず、エレーナの講座を聞いていた。この時は、魚料理に関する内容だった。その流れでパスタ料理の説明をしようとしていたが、それをサーシャが止めた。彼女は両手を胸の前で合わせ、シャルルを一瞥して、お祈りと言った。エレーナは昂ったままの口調で、はいと返事をした。
全員が祈りの姿勢をとる。
瞳を閉じる。
祈りの文言を、シャルルの口が紡ぐ。
今回は昼と違い、アインは、全員と同じタイミングでアーメンと言い、目を開けられた。全員と同じ祈りの状態ではないことは把握していたが。
直後に、エレーナの講座が再開した。誰もが予測していた通り、キャロが選択したパスタ料理に関しての説明だったが、他の二品と異なり、こちらは途中でパスタに関しての歴史に方向転換し、その後パスタの種類にまで広がり、その一つ一つの詳細に至ったので、食事中の会話は、これだけだった。時折一時停止するのだが、それは説明に集中するあまりに停止している彼女の手を、食事の為に動くようにとキャロが注意をした時のごく僅かな時間で、彼女の説明は一口を食したら、すぐに再開していた。よって、エレーナ以外の全員が七時前には食事を終えていたが、彼女が夕食を終えたのは、それから三十分以上も後のことだった。他のテーブルに座っていた人間も、一度入れ替わっている。
食後にエレーナは、デザートでも提供するように話を継続させようとしたのだが、それを察知したのか、彼女が、それでね、と言うコンマ一秒前にキャロは立ち上がり、食べ終えた自分と彼女の皿を持ち上げた。エレーナも立ち上がるが、不満そうな顔はしておらず、達成感に満ち溢れた表情だった。
次いで、シャルルが立ち、サーシャも続く。
「ああ、しまった」まだ着席をしているミリィは、頭を抱えていた。
皿を持ち、歩き始めていたサーシャが振り返る。
「どうしたの?」
「希望通りにはいかないんだね」
「誰の?」
「あたし」彼女は頬を膨らませている。
まだ着席をしているのは、彼女とアインだけ。食堂に最初に到着をしていた二人だ。
「アインとお喋りをする予定だったのに、エレーナの料理教室で終わっちゃったよ」
「今日の主役はエレーナだったんだから、仕方がないわ。それとも、このまま二人だけで、食後のお話を楽しむ?」
「あのテンションの後に? それは、いくらあたしでも、難しいなあ」
「二人は、午後一緒だったじゃない。それでは足りなかった?」
「午後だけじゃあ物足りなくて、それで、ここでお喋りの予定だったのが、こうなっちゃいました。ああ、あたしの力不足だね。反省、反省。明日は今日より一緒に居ようね、アイン」
「わかった」
それが、施設に戻ってからミリィと交わす、最初の言葉だった。
2
ニコロとゼフの午後の時間は、早送りでもされたのか、体感では三倍速で進行し、残照の時を通過して、陽が沈んだ。
昼食を終え、執務室に戻ってまず最初に行う、午前に行われた生徒の修学内容の日報作成は、ニコロの役目になった。決まりではないが、その日の授業を担当した管理官が日報も作成するのが暗黙のルールだったが、今日の担当をしたメイが不在なので、彼が受け持ったのだ。だが、そこに重要な内容が記載されることは、まずない。大抵、その日何を修学させたのかと、生徒の様子だけが記載される。過去、どの日付の日報をランダムに取り出しても、違いはない。唯一の違いは、日付と、学んだ内容だけである。
だが、今日はこれまでとは違う内容だった。アインが来た、というのが理由のひとつではあるが、一緒に執務室に戻ったゼフが、執務室の扉を閉めてから、人間関係も日報の一部に加え、データとして残した方がいい、と提案したからだった。
その時ゼフは、意味深で、複雑な笑みを浮かべていた。
その表情の意味をニコロは訝ったが、ゼフの提案は後々何かの役に立つと思い、受諾した。何の役に立つのかは、想像もできなかったが。
現在の人間関係の情報をゼフが提供してくれた。少し小声で。ニコロ以外の人間には聞かれないように配慮したのだろうが、何故彼がそうしたのかが、ニコロにはわからなかった。執務室の扉は閉じているし、もしその扉が開け放たれていたとしても、二階にある残りの部屋は倉庫の役割しかしてないので、人は居ない。余程に大きな声を出さなければ、一階にまで声は届かない。過剰すぎる警戒だ。そうニコロは感じたのだが、業務を優先して、自分のデスクに座り、アメーバのようなスクリーンセイバーを表示していたディスプレイと向き合った。
タッチディスプレイに触れ、開かれたままだったファイルの中から日報を前面に移動させる。
日報に書かれた人間関係に関するゼフからの情報は二つであるが、それはアインを中心としており、ミリィとシャルルが関与している。アインが中心であるが、その関係は綺麗な正三角形をしているので、意味合いとしては一つだった。ニコロは、書いた後でその関係の形状に気付いた。
薄々気付いてはいたが、ミリィは一方的にアインに好意を寄せている。逆にシャルルは、一方的にアインを嫌悪している。
ニコロはキーボードを叩きながら、シャルルとアインの関係が不安だと言ったが、ゼフは反対の意見だった。彼は、ミリィとアインの関係の方が不安であるらしい。
理由は、ミリィが、ではなく、アインが原因だった。
ゼフは端的に、且つ直接的に、アインが普通の人間関係に溶け込めるとは思えないと言った。それが、ミリィとアインの関係に何かしらの不和をもたらしはしないだろうかと懸念しているらしい。
「なにせ、相手はロボットみたいな奴だ。そんな相手と仲良く会話をするのは、相当なストレスだろう」ゼフはコーヒーマシンでコーヒーを淹れ、自分のデスクに戻る。その液体を口に含むのは、まだ先だろう。「あのミリィも、いつまで持ち堪えられるかね。心配だ」
その言葉をニコロは無視し、話題を切り替えた。何故シャルルが、アインを嫌悪しているのかについてである。
ゼフは、一度咳払いをしてから、昨晩の出来事を簡潔に説明した。この時の声が、それまでで一番小さな声だった。
「え。水泳場で?」説明を受け、ニコロは目を大きく開いた。「ちょっと待ってくれ。それは嘘や冗談じゃないだろうね? 誇張とかもされていないだろうね?」
「冗談なら、もっと面白く言うさ」
「そうか、そんなことがあったのか……」聞かされてようやく、アインが今日他の皆と合流した時に起きた、あの一件の詳細を理解した。「なるほどね。納得したよ。しかし、……この先が大変だ」気分が少しだけ重たくなる。
ニコロはキーを叩き日報の作成を続けるが、今聞かされた情報に関してだけは、記載しないことにした。シャルルとアインの関係は、今現在、良好ではない。それ以外に特筆して記載する項目はないと打ち込む。精密な記述ではないが、嘘でもない。
生徒に関する日々の記録は、異常が起きない限り、これだけである。自由時間となる午後に関しては、個々に聞いて確認はするものの、記録してはいない。自由な時間と名付けているのに、それをデータに残し管理するのは、詐欺に等しくなってしまい、それではまるで、囚人の扱いと同じになってしまう。
ニコロは日報を保存して、最小化させる。次いでメールのチェックを行うが、受信していたメールは一通だけで、それは今日の朝アインのサンプルを要求した研究員からで、サンプル採取のお礼と、施設で管理していたサンプルとの照合や変化の有無は午後に行うという報告だけで、わざわざメールとして送信しなければならない内容ではなかったので、一読だけして彼は、返信もせず、その作業を終えた。ディスプレイに広がっている他のフォルダも開き、複数のファイルの確認もする。しかし、施設の全てのスタッフと共有しているそれらのどれかひとつにも、変化はなかった。
パソコン等の設備が備わっているのは執務室と地下研究室だけで、それらのストレージは研究室よりも更に地下に設置され、そこに蓄積されたデータを全員が共有している。メールもそのネットワーク内でやり取りされているのだが、これは業務連絡の為だけの回線で、外部への接続や展開をしていない、施設内の端末同士を連結させる為だけの、極めてローカルなネットワークだった。外部に接続を許されている端末は執務室にある残りひとつのパソコンなのだが、これも特別な仕様で、本部とのやり取りにしか使用していない。糸電話のように古めかしいシステムだ。だがこれらは全て、外部からの介入は不可能とするセキュリティによって構成されているので、その点は最先端の技術と評価できた。
共有しているデータは、変更があればポップアップで知らされるが、今この時点ではなかった。ニコロは、画面上で重なっているフォルダとファイルを手前から順に、一瞥して最小化という作業を数分間行った。去年の12月に時を止めたファイルを発見したのは、この時だった。
機械的に動いていた彼の指が止まる。
生徒に関する記録は、二種類。今彼が作成した修学内容に関するものと、実技に関するものの二種類で、時を止めていたのは、後者である。実技に関した記録。
だが、時を止めていられるのはあと僅かな間だけ。来週、いや、早ければ明日か明後日にも、記録は更新させられるだろう。
息を吐き、ニコロはそのフォルダも最小化した。気分がもう少し、重くなった気がした。
コーヒーを飲もうと彼は立ち上がる。執務室に戻ってから三十分ほど。先程ゼフが淹れていたコーヒーを自分のカップに注いでデスクに戻ると、それと交代するタイミングで、ゼフが立ち上がった。彼は、ようやく飲める温度に低下したコーヒーを飲み干してから、「演習場へ行く」と言った。そこは長く放置されているので、様子を見てくるそうだ。彼は散歩に行くような足取りで執務室を出て行った。
ゼフが言っていた様子を見てくるとは、演習場という空間に対して使われた目的語ではなく、そこに保管されている銃器に対して使われているのだろうと、ニコロは解釈した。だとすると、ゼフが執務室に帰ってくるのは遅くなるだろう。あそこに保管されている銃器の数も、銃一丁に対して必要とされる平均的なメンテナンス時間も把握している。
それからニコロは、コーヒーをデスクの横に置いて、ずっとディスプレイと向き合っていた。二度、地下のスタッフから確認と質問のメールが届いたが、それは大した内容ではなかったので、一回のレスポンスだけで完結した。それ以外は、前日までの生徒達のデータの再確認に時間を使用した。部屋からは一歩も出なかった。デスクの前からの移動もなかった。横に置いたコーヒーの存在を思い出して、それに口を付けた時、かなり冷めてしまっていたので淹れ直そうと思って立ち上がった時、窓の外が既に暗くなっていることに気付いた。時間の速度が速かったと感じたのは、この時だ。それは、今日の執務室の環境が影響したのだろう。普段は、ゼフとメイもいる空間だが、今日は彼だけ。当然会話などは発生せず、意識は業務にしか向けられないので、普段よりも集中ができた。
途中でミリィが帰宅の報告に来た。予想していなかった時間の帰宅に驚いたが、業務の手は止めなかった。この後はどうするのかと尋ねはしたものの、彼の手はキーを叩き、目はディスプレイを見ていた。ランチの際に、ゼフから注意を受けていたと思い出して、ミリィを見て会話するべきかと思い、そうしたのだが、既にミリィはこちらに背を向け、退出する時だった。
まあ、急に変化するというのは困難なものだと言い訳をして、業務を再開する。「アインにも、自分がそう言ったではないか」頭の中で自分に言う。「変わる努力が大切だ」
それから暫くして、時計を見る。六時を過ぎていた。ミリィの帰宅から既に一時間以上が過ぎていたとは。彼は再び、今日の時間は早いな、と感じた。
普段なら夕食に向かう時刻だが、確認途中のファイルがあったので、そちらを継続をした。コーヒーは空だが、おかわりはやめた。それを飲んでしまうと、空腹感が遠退き、夕食を美味しく摂取できなくなってしまう気がしたからだ。
ゼフが戻ったのは、ニコロが予想をした通り、それから更に一時間後の、普段と比較するとかなり遅い時間だった。戻った彼の指先は、オイルで黒ずんでいた。そういう色の手袋をはめているのかと勘違いできるくらいに汚れていて、やはり、全ての銃器の整備をしてきたのだそうだ。これも予想通りだった。
ゼフが手を洗ってから、二人は食堂へ向かう。メイを待つべきだろうかという小さな議論が生じたのだが、帰宅はもっと遅くなるだろうと結論付け、彼女の帰宅ではなく、夕食が優先された。
時刻は、八時の少し前。階下に下りると、話し声と食事の音が耳に届いたが、昼食の時のような賑やかさではない。遅い時間なので、そこにいる人間の数は少ないだろう。ホールにも人の姿がない。殆どの研究員は既に業務を終えて帰宅している時間だ。夕食も施設で食べる人間の割合は少ないので、普段通りのデシベルの音がそこにあった。
食堂に入ると、ニコロは最初に生徒の姿を探した。いつも通り、奥の席に発見する。ゼフからの報告もあったので、そうなっているだろうと思っていたが、予想通り、ミリィとアインが隣り合わせで、シャルルはアインの対角位置に座っていた。
会話が盛り上がっていたのかはわからなかった。生徒達は既に食事を終えていて、ニコロとゼフが来た時が、彼らが席を立つタイミングだった。
昼と同じように入れ替わりになる生徒達にゼフが、「今日はどうだった」と聞いた。
サーシャは、本を一冊読み終えたと答えた、ゼフは、何の本を読んだのかまでは聞かなかった。
次にキャロは、いつも通りだったと言うのだが、その直後にサーシャが、一緒に図書室で読書をしていたと、彼の言葉を訂正した。ニコロは、キャロの午後の予定がエレーナの付き添いだと記憶していたので、どうして予定が変更されたのか彼に聞いてみたが、エレーナから付き添いが不要と言われた結果だと教えてくれたのは、これもサーシャだった。
その説明の流れでエレーナの午後についてに話は進行するのだが、彼女は、秘密だと言った。確認の為にニコロはサーシャを見たのだが、彼女も、秘密なのだと返事をした。聞いても教えてくれないのだとも補足してくれる。午後はクッキング。そこで何を覚えたのかを秘密にしたいのだろう。だが、秘密にする理由をニコロは追求しない。確信はないが、秘密にしている理由を予想できたからだ。この場でエレーナの午後の予定がクッキングであることを忘れているのはゼフだけで、そんな彼を見て、ニコロは微笑んだ。それをゼフは、微笑ましいね、という意味を含んだ笑みだと受け取り、同じく笑うのだが、ニコロはその意味で微笑んだ訳ではなかった。正しい意思疎通がされていなかったが、無事に完結をした。
次に報告をしたのは、シャルル。彼女は、部屋でゆっくりと過ごしたらしい。事前情報があったので、彼女にもそれ以上の質問の追加はしない。
ミリィは、アインとずっと一緒だったと言った。彼女とアインは外出をしていたので、彼女には追加の質問が行われた。
「どこに行っていたんだ?」聞いたのは、ゼフ。
「街を、ぐるっと一周」ミリィは右手の人差し指を肩の辺りでくるりと回す。「いろんなところに行ったんですよ。ジェラートも食べました。後は、もう、ずっとお喋りですよ」
「へえ、ずっと」ゼフは更に質問を続ける。「どんな話を?」
「え? ええと……」彼女は天井を眺めた。記憶を遡っているらしい。「まあ、いろいろですね。本当にいろいろ。沢山お話をしすぎて、覚えてないです」
「そうか、いろいろか。話した内容を聞いてもいいか?」
「はいはい。もう沢山。エベレストを越えちゃうくらい沢山ですよ」
「ああ、もういいぞ。わかった。覚えてないくらい沢山話したってことか。そいつは、いい一日だったじゃないか」どうせ彼女が一方的に話していただけだろうと想像してから、ゼフはアインを見る。「で、お前さんは? 施設で過ごす初日はどうだった?」
「異常ありませんでした」
アインは、ゼフからの質問に僅かな間も挟まずに返答した。
やり取りを見ていたニコロは、首の後ろを掻く。本心としては声を出して笑いたい気持ちだったが、それを堪えていた。
「いや、そうじゃなくて……」ゼフはアインに追加で何かを言おうとしたのだが、やめる。「いや、いいよ。それじゃあ、また明日。この席、使って構わないか?」
どうぞ、とサーシャが言った。
生徒達はニコロとゼフに一礼をしてから、食堂を去った。
二人は、それまで彼らが使用していたテーブルに着席して、食堂を見渡す。状況の確認の為ではなく、食堂のスタッフを探す為である。
ゼフが食堂スタッフを見つけて、手を挙げて呼んだ。やって来たのは、昼に会話をした若い女性だった。
今日の料理の内容を聞き、二人は肉料理を選択した。パスタがランチの時にマンマが特別に作ってくれたポモドーロだったので選択肢は必然的に二択になり、二人とも、魚より肉を好いていたからだ。
二人のオーダーを聞いて、女性は今回もゼフと幾つかの会話を交わしてから去った。その後に、別のスタッフがバゲットとサラダを持ってきてくれて、そのスタッフはゼフに、水かワインかと尋ねた。挨拶のような頻度で交わされるジョークで、その後にゼフがどう答えようとも、水が提供される決まりだった。
程なくして、二人がオーダーした料理が届けられる。
二人は、演習場の状況の報告をしながら食事をした。
建物に異常はなかったそうだ。冬の間メンテナンスをしていなかった銃器も細かにチェックしたが、正常な状態だったとゼフは報告した。弾薬等のストックも問題ないらしい。実技が再開されたとしても、すぐに不足する心配はないそうだ。
食堂で二人の間で交わされた会話は、それだけだった。
食事を終えたのは、九時丁度。彼らが食堂を去ると、そこは無人になる。キッチンの中からする音も、少し前から小さくなっていた。食べ終えた食器をキッチンに運ぶと、そこにいたのはマンマ一人だけだった。気付かない内に、他のキッチンスタッフは業務を終えて、宿舎か町の寮へ帰宅していた。
夕食の礼を二人は彼女へ言う。彼女は調理用の台で自分の夕食を食べていた。右手にはワイングラスを持っている。
気を付けて、とニコロは言った。見付からないように、とも付け加える。
マンマは、左手の人差し指を唇に当てる。彼女はまだ勤務時間内だった。
今日は秘密が多い一日だと、ニコロは感じた。
執務室に戻ると、ディスプレイに変化があり、ポップアップが、各部署からの日報が送られてきていると教えてくれていた。アインが来た初日だからか、普段よりも受信したファイルの数と容量が多い気がする。
ニコロは無言でゼフを見た後、ジェスチャーだけでファイルのチェックを命令する。今日の最後の業務のスタートである。
各部署の日報の確認は、概ね目を通すだけで終了するのだが、地下の研究員が作成した日報は、いつも文学作品を読まされているのではないかと錯覚するほど文字密度が濃いか、論文と間違えられるくらいに多くの数式に埋め尽くされている。ランダムに分割して確認していったが、それらは今日は運悪く、多くがニコロの担当になってしまった。
今日の日報の主役はどの部署も、アインに関する情報、或いは、アインに関係した今後の対応に関してばかりが記載されていた。例の、事前に入手していたサンプルと今朝採取したサンプルに関しても、報告書が届いていた。それらは同一のもので、劣化を含む変化は見られないそうだ。言葉にすれば単純だが、双方の遺伝子配列や血中成分の量、パーセンテージが記述されていたので、理解には時間を要した。
ニコロは溜息を我慢しながら日報を読み進めた。読み終えた日報は、各部署毎にファイリングしていく。
メイが帰宅したのは、日報の確認が終了したタイミングで、時刻は十時少し前だった。
彼女は、ひどく疲弊していた。執務室の扉を開け、脱いだ上着を自分のデスクの椅子の背もたれに放り投げる。鞄も同じ勢いでデスクに置き、椅子に自由落下の速度で落ち、深い溜息をした。彼女の口はまだ、帰宅の言葉を発していない。それが彼女の疲弊の深刻さを、より顕著にしていた。
「お疲れ様」
ニコロが彼女に歩み寄る。手には彼女のカップが握られていて、その中にはコーヒーが注がれていた。どうぞ、と彼女のデスクに置いてから、彼は自分のデスクへ戻った。
「労う前に、おかえりなさい、って言葉が聞きたかったわ」ようやく彼女は、口を発声の為に使用する。「でも、ありがとう。コーヒーは嬉しい」一口啜り、思い出した。「ただいま」
「思っていたより早かったね。日付が変わるまで帰ってこないんじゃないかと思っていたよ。夕食は?」
「この後に食べるわ。……そりゃあ、早いわよ。本部に着いたらすぐに会議室。色々言われて、解散と同時に、車に乗って、帰宅。観光なんてしてないわ」
その言葉を聞いて、ゼフは笑う。
「ブーメランみたいだ。投げたら帰ってくる」
「ゼフみたいに、下手なブーメランじゃないからよ。二人はもう、夕食終わったわよね、こんな時間だし」
「ああ、ニコロも言っただろう? お前はもっと遅いと思っていたから、先に食ったよ。それで、なんだって? 下手?」
「投げても帰ってこない。どこに飛んでいくのかもわからない」
「おいおい、そりゃああんまりだ」
「事実でしょう? そうか、二人は食べ終わったのね。もうこんな時間だし、食堂には誰も居なさそうよね。どうしようかしら」
メイは、窓の外に目を向けた。窓の外には黒色の空があるだけだが、そこには疎らな星が輝いていて、それが、彼女の疲弊した肉体を少しだけ癒してくれる気がした。
食堂に行けば、まだキッチンの人間が誰かしら残っているだろうか。いつもなら、殆どのスタッフが食事を終え、キッチンの片付けも終わる時間だ。そんな時間に自分だけ遅れて行って料理を頼むのは忍びないし、そもそも、誰かが残っている可能性が低い。
どうしようかと悩んでいるメイに提案をするのはニコロで、その内容は意外なものだった。
「一流の味でなくてもいいなら、簡単に何かを作ろうか」彼は自分のデスクの前に立ち、メイを見下ろす角度で言う。「部屋には火口があるんだ。材料だけ貰ってきて、何かを作るよ」
「あら。いいのかしら、シェフ」驚きながら、メイはコーヒーを啜る。「コーヒーまで出してくれるし、どうしたの? いつからここはグランメゾンに?」
「シェフはよしてくれ。それに、味は期待しないでくれよ」
「でも、キッチンにまだ誰か残っているかしら? 材料を貰えるかもわからないでしょう? 勝手に持ち出したりしたら、とんでもなく怒られるわと」
「それなら大丈夫だよ。安心して」
ニコロはゼフを見て頷く。ゼフも同じように頷いた。それを見たメイは、どうやら何かしらの心当たりがあるのだろうと解釈した。
「じゃあ、お願い。注文はしないわ。ニコロに任せる。美味しいのをお願い」
「それが注文だよ」
「俺もいいか」部屋を出ようとしていたニコロへ向けて、ゼフも注文を試みる。
その声を聴いたニコロは、呆れ顔を浮かべた。
「ゼフ。君は僕と一緒に食べなかったかい? それとも、君には腹が幾つもあるのかい?」
「腹じゃない。肝臓の方だ。メイ。飲むだろう?」
「お酒? 仕事は?」メイは、椅子に身体を沈めたままの姿勢で聞き返す。
「今日の分は終了」ゼフは自分のデスクのディスプレイを指差した。「後は、部屋に帰って寝るだけだ」
「私は、二人に報告しないといけないことがあるんだけど」
「本部帰りからの報告っていうのは、嫌な予感がしてならない。ニコロ、どうする。メイの土産は、きっと悪い情報だと思うんだが」
「ああ、そうだろうね。それは、僕も同意見だ」
「だったら、酒を飲みながらじゃないと聞いていられない。悪いものはアルコールで消毒だ」
メイはニコロを見る。どうするかの判断を委ねていた。
彼は、酒に関しては拒否したいところではあったが、ゼフの発言に一部同意してしまった為にそれが少し困難だったので、肩を竦めた。
メイもニコロと同じように肩を竦める。ここでも無言の意思疎通ができた。
「わかった」ニコロが言う。「酒のつまみになる何かも貰ってくるよ。ただし、飲み物は君が頼むよ?」
「オーケー」
ニコロは扉を閉めて食堂へ向かった。
ゼフはのそりと怠惰に立ち上がるが、その場で背伸びをしている。移動をする為の準備運動だろうか。
メイはカップを両手で握り締めるように持ち、自分のデスクから窓際のソファーに移動して、そこにもやはり、身体を深く沈めた。二人掛けが向かい合わせに置かれているソファーの片方を、彼女一人で占有した。表現としては、着席ではなく、寝そべるが適切な状態の姿勢だった。
そんな姿勢の彼女へ向けて、飲料の調達の為にようやく部屋を出ようと動き始めていたゼフが、「何が飲みたい」と訊ねた。メイは少し考えるが、「何でもいい」と答える。
「そちらにお任せするわ」
「何でもいいか。よし、わかった」
「あ、ちょっと待って」ゼフを呼び止める。「ハードリカーを持ってきたりしないわよね?」
「飲みたいならそうするが?」
「私は、夕食と一緒に飲むのよ」
「じゃあ、そう言ってくれ」
「白がいいわ。きついのが飲みたいなら、一人でどうぞ」
「なんでもいいと言ったくせに」言っているのは文句だが、顔は笑っていた。
「疲れているの。無駄な体力を使いたくない」
「白だな。了解した」ゼフは笑んだまま扉を開け、外に出る。「銘柄まで指定しないよな? 俺のセラーから気に入りそうなのを持ってくる」
「紹興酒は?」メイが彼の背中に聞く。
ゼフは振り返った。彼の顔には疑問が浮かんでいた。
「ショーコーシュ?」ゼフは聞こえた単語を繰り返す。「なんだ、それ?」
「知らないの? 中国のお酒よ。ないなら、いいわ」
「好きなのか」
「食事と一緒に飲むならね。あなた、私が何人だと思っているのよ」
「中国人。ちなみに、そいつは美味い酒かい?」
「ゼフは嫌いな味よ。チンザノや、……シェリーに似ている。たまに無性に飲みたくなるのよ」
「疲れた時とかに?」ゼフは聞きながら頷く。チンザノもシェリーも、彼が好まない分類の酒だ。
「それ以外の時も、どんな時も、普段から」メイは入口でこちらを見ているゼフを見る。「禁断症状かしら」
「違いないだろうな。それとも、中毒だ」彼は、メイが言った酒の名前を頭の中で復唱する。漢字表記はわからないが、品名だけは覚えておこうと思っていた。「中国の酒か。機会があったら、セラーに追加しておこう。ひょっとしたら、俺も気に入るかもしれない」そして再び動き始める。
「その時は、きちんと甕で買ってちょうだい」彼の背中に、メイはまた言葉を放つ。当然、ゼフの足は再度の停止を余儀なくされる。
「カメ?」停止の後、二歩、部屋に戻る。
「ああ、やっぱりいいわ。今のは忘れて。説明を始めたら時間が掛かるし、その間に飢え死にしちゃう。早くしてよ、ソムリエ。客を待たせるなんていけないことだわ」
「そうなるように仕向けているのは誰だよ」
「あなた」ゼフを指差す。
「お前だ」ゼフは笑窪を作り、それをメイに見せる。
「早くして。この会話だけで体力を使い果たしそうだわ」
「苦情は支配人へどうぞ。もうすぐ戻るのが支配人だ。それじゃあ、少しだけ待っていてくれ」
返事の代わりにメイは、手をひらひらと振った。
ゼフは音を立てないように扉を閉め、退室した。
それから少しの間、彼女は室内で一人になる。
両手で握り締めていたカップを持ち上げ、啜る。その後、ゆっくりと息を吸い、吐き出した。栄養剤や薬膳といったものが世の中には溢れているが、今の彼女にとって、この両手に握られている液体がそれにあたる。ひょっとしたら、この世の何よりも、彼女を癒してくれる。体の芯にまで深く根付いていた疲労等が流され、除去されていく感覚を、彼女は感じていた。
ソファーから身体を起こし、カップを前のローテーブルに置く。ふと思い出し、立ち上がってデスクに戻ると、放り投げていた鞄を開けて、中から通達書を取り出した。通達書は二冊。どちらも同じ厚みで、クリップで束ねられている。その二冊をデスクの右側に置く。鞄の中に、包装された荷物がまだ残されているのを発見したのは、その時だ。
サーシャに頼まれていた土産である。焼き菓子の詰め合わせを買ってきていたのだが、疲労のせいで忘れていた。だが、今から彼女に渡しに行くだけの余力が彼女にはない。まるでない訳ではないが、カフェインの効果で僅かに回復した体力をそちらに割くという選択肢を取りたくなかった。それに、億劫だ。それが、一番正直な気持ちだったかもしれない。
明日の朝一番に渡そうと決め、その包みはデスクの左側に置いた。夜も遅い。こんな時間にサーシャの部屋へ行っては迷惑だろう、という言い訳を複数回頭の中で呟きながら。
鞄の置き場をデスクの椅子に変更し、彼女は再びソファへ向かう。そして、ソファへダイブ。やや硬いクッションはぎしりと鳴いたが、それでも彼女を抱き留めてくれた。
コーヒーをもう一度啜る。この液体はやはり、彼女の疲労を解してくれる。だが今度は、それが少しばかり、過剰に作用してしまった。
もっと楽な姿勢で、もっと癒されなければ。そう考えたメイは、座面に寝転んだ。先程までと異なり、一方の肘掛けに頭を乗せ、もう一方から両足を投げ出すという、完全な就寝の姿勢である。
ニコロが戻ってきたのは、この瞬間だった。
だが彼は、室内からメイの姿が消えていたので、どうしてしまったのだろうと訝った。今は座面に対して平行の姿勢である彼女の姿は、途中にあるデスクが邪魔をして、入口から姿を確認できなかった。どうしたのだろう。どこかへ行ったのだろうか。そう考えながら二歩前進したところで彼は、ソファーに寝ている彼女の姿を見付けて、笑った。
「飢えに耐えかねて、ソファを食べないでおくれよ」
「失礼ね。食べるなら、もっと高級なやつを食べるわ」メイは寝転んだままニコロを見る。そして、彼が手にしている食材の量に驚いた。「あら、そんなに? すごい収穫ね。豪華なパーティーが出来そうじゃない」
ニコロは、結構な量の食材を抱えていた。ボールに入れて食堂から調達してきたその量は、一人分とは思えない。そのボールの大きさは、目算だが直径が30センチ程で、そこから上に食材が頭を出している。またそれとは別に、プレートも持っていた。メイにはその上が見えなかったが、何かが盛り付けられていることはわかった。ゼフが依頼した、酒の供の何かが、その上で山になっているらしい。
「そんなに食べられるかしら」
「事情を話したらマンマが、これくらいは持って行けと言ってくれてね」
「いつもなら、そんなこと言わないのに、珍しい」
「今日は特別なんだ。ちょっとした取引があってね」ニコロは意味深に唇を斜めにする。
「いけない取引?」
「彼女を守る約束に対しての、謝礼」
「なにそれ」メイは吹き出す。体力がまた少し回復した気がした。
「何もしなくても食べられるものもあるんだけど、先にそういうのを食べておくかい?」
ニコロがプレートを掲げる。やはり、そこにはそういった類の品が盛られているようだが、メイは少し悩んだ。
「シェフは、何を作ってくれるのかしら?」
ニコロはボールの中を見て食材を確認する。
「魚と貝を貰った。それと疲れているようだから、スープにしよう。トマト、オニオン、ズッキーニ入りだ」
「ズッパディペッシェ」メイは右手を掲げ、親指を立てる。「最高。それなら、辛抱するわ」
「姫の口に合うように頑張ろう。すぐに作るから待っていてくれ」
ニコロは、メイが寝そべるソファの横の、狭い空間に入る。そこが、簡易的な調理場である。
ワイシャツの袖のボタンを外し、腕まくりをする。火口に着火。鍋を乗せ、水を注ぐ。慣れた手つきで野菜を切り、魚と貝も投入。弱火で数分の過熱を行ってバジルの葉を鍋に入れると、室内はたちまち、得も言われぬ香りに包まれた。
そうしていると、ゼフが戻ってきた。彼は左手にグラスを三脚、右手には二本のボトルを持っていた。ボトルを二本持った手で器用にドアを開けると、彼もニコロと同じように、最初にメイの姿を探した。
だが彼は、ニコロのような反応をしなかった。ソファに寝そべるメイを見付けると、彼女に気付かれないように忍び寄り、手にしていたボトルを彼女の頬に押し付けたのだ。
メイは、よく冷えたボトルの温度に悲鳴を上げた。寝ていたソファーからも飛び上がる。
「ちょっと。疲れている人間に何をするのよ」彼女はゼフを睨む。「蹴るわよ」事実、それができるくらいには体力が回復していた。
「蹴らないでくれ。愛情表現だって」
「よく言うわよ」
「なんて格好をしてるんだ。生徒が見たら幻滅するんじゃないか? お前、仕事のできるいい女って評判なんだぜ」
「ファーストレディだって、たまにはソファで寝るわ」
「ソファの質が違うんだよ」ゼフは部屋の中に満ちていた香りを確認する。「いい匂いだな、ニコロ」
「煮込んで火が通ったら完成だ。残り、……そうだね、三分くらいかな」彼はゼフの右手にあるボトルの数を確認した。「ゼフ、二本も?」
「三人いたら飲むだろう。一本じゃあ足りない。三本は、いくら何でも問題がある気がしてね。それで、シェフ、他の料理は?」
「バゲットと、アンチョビと、プロシュート。それと、ゼッポリーニだ」それらが乗ったプレートを指差す。
ゼッポリーニという単語を聞き、ゼフは歓喜した。彼の好物だ。
「ゼッポリーニがあるって?」彼は身体を上下させる。「さすが、シェフ。最高だね。素晴らしいよ」
「作ったのは、君が贔屓にしているプライベートシェフだ」
「プライベートシェフ? 誰だ?」
「誰だ、は彼女に失礼だよ」
「彼女は、誰だ?」
「エレーナ」
「エレーナ?」
「ああ。今日の午後に、アマレッティを焼いたんだそうだ。君がまた焼いてくれと言ったから」
ゼフが、食堂で擦れ違った時には忘れていたエレーナの午後の予定を思い出したのは、このタイミングだった。
だが、それを聞いて即座に反応をしたのは、メイだった。彼女は、わざとらしく口笛を吹く。それは、からかいの色の濃い音色だった。
「色男」彼女は口笛の後、わざとらしく拍手もした。「それと、おめでとう」
「よせよせ。二人ともやめてくれ」ゼフは視線を左右に振る。彼は今、メイとニコロの中間にいるので、両方からの攻撃を防御するには、そうするしかなかった。「俺はもっと大人にもてたい」
「とにかく、それで食堂に行って、アマレッティを焼くついでに新しい料理を勉強した。マンマから聞いたんだけど、何を教えてほしいかと聞いたら、ゼフ、君の好物が何かと、彼女は最初に聞いたんだそうだ。マンマが、思いつく限りの君の好物をピックアップして、それから二つ勉強をした。その後にまだ時間があったから、他に何か知りたいかと聞かれて、君の一番の好物は何かと聞かれたので、彼女はそれを覚えた。それが、そうだよ。それに、一番の好物だから沢山作ったんだそうだ」
「だからそのプレートは、そんなに山盛りなのね」メイは寝そべったまま、ソファの上で首だけを振って納得した。細目にした視線はまだゼフに向けられており、それも先程の口笛と同じで、からかいの色が濃い。
「あの時に、秘密だと言っていた理由だ」ニコロは、ゼフと手元の鍋を交互に見ている。「僕はある程度予想をしていたんだけれど、その予想通りだった。彼女は君を驚かせたかったんだろうね。だから、サーシャ達にも秘密にしていた。どうだい、驚いたかい?」
「驚いたは、まあ、驚いたが、対応できない程じゃない」
「エレーナに、君がどんな反応をしていたか報告しなくちゃいけないんだが……」
追い打ちをかけられるゼフは、複雑な表情を浮かべていた。苦笑いに似た表情だ。
「しかし、よりにもよって覚えた料理が、酒のつまみか。パスタやリゾットを覚えりゃあいいのに」
ゼフは表情を変えず苦言を呈するのだが、その後の行動はそれと合致しておらず、彼はプレートに近寄ると、香ばしく狐色に揚がったゼッポリーニを、僅かな躊躇いもなく、口に投げ入れた。
その味に目を剥くのは、直後だ。
「おお」彼は呻く。それは、声とも吐息とも聞こえる歓喜の響きをしていた。「これは美味い」もう一つ摂取する。「これをエレーナが? 本当か? 買った商品だっていうジョークじゃないだろうな?」
空腹に苦しむメイは、ゼフの行動と言葉に対して不満と怨言を混ぜ合わせた声を出す。同時に足も動かした。
「ちょっと、空腹で倒れている人間の前で、そういうことをする? 本当に蹴るわよ?」
「美味いよ、これ。マジで美味いんだ」
ゼフはゼッポリーニをもう一つ持ち上げて、メイによく見えるように振るのだが、それは見せられただけで手渡されることはなく、そのまま彼に食された。
ゼフ、と再び呼ばれたメイの声には、一層の不満と怨言が込められていた。足も動く。ヒールの踵で彼を刺そうとしている動きだ。
そのやり取りにニコロは、呆れ笑いをする。
「その一口でストップだよ、ゼフ。もう少し待てないのか。キックだけじゃなくて、ナイフを投げつけられても知らないぞ」
「言うが、ニコロ。こいつは、店で食うのと同じか、ともすれば、それよりも美味いぞ」
「ニコロ、ナイフを頂戴」
「ナイフが飛んでくる前に、もう一つ食おうかな」
「わかったから、それでおしまい」ニコロは自分が調理している料理の味見をした。塩とバジルをもう少し追加して、もう一度味見をする。「今の反応をエレーナに提出する報告書にするからね。それじゃあ、ほら、グラスを並べてワインを開けて、君が今食べた皿をテーブルへ。そうしていたら、こっちも完成だ」
「オーケー。ナイフは恐ろしいからな。仕方ない」
ゼフは明らかに後ろ髪を引かれている様子だったが、グラスを置き、慣れた手つきでワインを抜栓し、テーブルのセッティングを始めた。ワインはメイの要望通りに白ワインで、二本は違う銘柄である。プレートに乗ったプロシュート等もテーブルへ運ばれた。
ゼフはメイの向かいに座った。ワインをグラスへ注ぎ、寝そべったままの彼女へ手渡す。
そこでようやく起き上がるメイは、「ありがとう」と溢すように言った。ゼフは片目を瞑り、「どういたしまして」と返す。次に、残り二脚のグラスにもワインを注いだ。
予告の通り、そのタイミングでニコロが作る主菜は完成した。
「さあ、出来上がったぞ」ニコロは、鍋のまま料理をテーブルへ運んだ。「我らがお姫様の舌を満足させられるかな」
おどけるように言ってゼフの隣に座るニコロの表情は、どこか自慢げにも見えた。
夜、十時半。管理官三人だけの、ささやかな晩餐会である。
「素晴らしいシェフに」メイがクラスを掲げた。
「シェフに」ゼフもグラスを掲げ、その視線は隣のニコロへ。
「次からは、有料」ニコロもグラスを掲げ、乾杯。
珍しい状況での食事である。三人全員がそう思いながら、ワインを口に含んだ。
小腹が空いた時にキッチンで簡単に何かを作り、個人で軽食を取ることはあるが、こうして管理官全員が執務室のテーブルを囲む機会はなかった。晩酌であれば、昨晩のゼフとメイのように大抵が食堂で催される。ましてや、軽食でも晩酌でもなく、きちんとした料理を作っての食事となれば、尚更である。
ニコロが鍋から魚と野菜を掬い、皿に盛ってメイへ手渡す。ゼフは、プレートに乗った山盛りのゼッポリーニを頬張りながら、速いペースでワインを口に流し込んでいる。今のところ彼の喉を通過したものは、ワインとゼッポリーニだけである。
メイはワインをもう一口味わってから、ニコロの手料理を口に運ぶ。先ずは、スープ。飲み込んだ彼女の瞳が円形になった。んー、と鼻から抜ける声を出す。二口目は具材も食べ、同じ声を出し、美味いと称賛した。
ニコロは誉めすぎだと謙遜するが、やはり自慢げな、誇らしげな表情だ。
「空腹は最高の調味料だから、そう感じるだけさ」彼はパンにアンチョビを乗せて食べる。
「いいえ、本当に美味しい。すごいわね、料理が上手いとは知らなかった」
「実を言うと、僕の母は料理が得意ではなくてね」
気恥かしそうに彼は説明を始めた。
彼の母親は、調理が嫌いなのではないが、好んでキッチンに立とうとしない性格なのだったそうだ。当時はレトルトの食品が普及していたこともあり、母親から提供される料理は、そういったものが主であった。それ故、食卓に並ぶ品は極端に偏り、レトルトではないものが食べたいと強請っても母親はキッチンに立たず、そんな生活が続いた結果、彼はやむなく母親の代わりにキッチンに立ち、自分が食べたい品を自分で調理する機会が多くなった。彼がまだ、十代半ばの頃である。そうした幼少期を過ごしていると、次第に様々な料理を覚えていったらしい。
「でも、そうしていると母は、より一層キッチンに立たなくなってね。それが、僕が家を出てからの問題だった。じゃあ、食べたい料理がある時、誰がそれを作るのか。解決策は単純だ。僕には兄弟が居ないから、必然的にキッチンは、父の空間になった。かなり頑張ったらしい。後から聞いたんだけど、料理の本を沢山買って勉強をしたんだそうだ。そんな父が最近ついに、小さいレストランをやりたいと言っているんだ」
「いいことじゃない」メイは頷く。「料理の上手な男はもてるわよ」
そして彼女は意地悪い眼差しで、ゼフを一瞥した。会話はニコロと交わされていたが、その言葉の矛先は、ゼフへと向けられていた。
それをしっかりと感知したゼフは、ふん、と拗ねたような息を吐きだして、ゼッポリーニをもう一つ口に放り投げる。彼はニコロと対照的で、料理がまるでできない。これまでに自分で料理をした回数を数えると、その数は片手で数えられる程度だ。
「料理ができなくても、料理の上手な妻が居ればいい」
「相手が居ないじゃないか」苦笑しながらニコロはワインを飲む。「誰か候補でも?」
「何を言っているの」意外そうな顔をする、メイ。「居るじゃない。可愛いのが」
「可愛いの?」ゼフはすぐさまに、続けられるであろう言葉を察し、ストップ、とメイの発言を制した。「いや、もういい。もう言うな。何も言うな」
「ああ、いいじゃないか」ニコロもメイの言わんとするところを悟り、くつくつと笑っている。「料理が上手で、気も利いて、若いだなんて、素晴らしい相手だ」
「馬鹿を言え。またエレーナのことだろう。よせよ、あいつが大人になるのを待てって言うのか」
「女の子が大人になるのなんて、あっという間よ」満面の笑みのメイからの追撃。「気付いたら、子供じゃなくなっている」
「子供は子供だ。年齢差だってある。大きな問題だ。ああ、もうよしてくれ。からかうな。折角の酒が不味くなる」
「子供は子供ですって? そう思っているのは、大人だけなのよ」
「メイ、ストップ。ストップだ」
「ストップということは、後で再開していいのね」
「メイ」
「はいはい、わかったわよ。じゃあゼフに関しての話は終了ね」メイは二度のの拍手をする。「からかうっていうのは、いい食事のスパイスだったんだけど、残念だわ」
「楽しんでいたのはそっちだけじゃないか」
「ヒールで蹴られたり、ナイフを投げられるよりはよかったんじゃないかしら」
「どっちもよくない。それより、折角の晩餐を楽しまないか。頼むよ、まったく」
「はいはい、了解」メイは、ゼフの言った「頼むよ」という懇願に思わず笑ってしまった。「じゃあ、食事を楽しみましょう」そう言って、一度手を叩く。それまでの会話の終了。その合図だ。彼女は再びワインを飲み、食事も口に運んだ。
「そう言えば、本部では何が?」ゼフは、鍋から自分の分の魚と野菜を皿によそいながら訊ねた。本当は本心から聞きたい情報ではなかったのだが、彼としては、直前の話題が呼び戻されない為にも、話題の切り替えが必要で、その切り替え先として一番に彼の脳裏に浮かんだのが、その質問だった。「どんな話をしたんだ? 悪い知らせなんだろう?」
聞かれてメイは、口の中に入れた食事を飲み込み、首肯した。次に、ゼフが絶賛していたゼッポリーニを手に取ると、「今話した方がいいのかしら」と聞き返す。
手にしたゼッポリーニを食べ、ワインを飲むと、彼女のグラスは空になった。
「食事を楽しむんじゃなかったの? 悪い知らせよ。食事を不味くしかねないわよ」
メイからの質問に返答をするのは、ニコロ。彼は、勿論と言って頷く。
「食事を楽しむのが最優先だが、ゼフの頭にアルコールが到達したら、後が大変だ。それなら、そうなる前の方がいい」
ニコロはメイのグラスにワインを注ぎ足し、言った。そのまま、ゼフ、自分のグラスにも注ぎ足すと、一本目のワインは空になる。
「楽しい話は禁止だと言ったり、食事を楽しもうと言ったり、悪い話を強請ったり、せわしないディナーね」
「楽しんでいたのは、そっちだけだ」ゼフは顔に浮かぶ皴を濃くして言い返す。
「ごめんなさい。で、ゼフ。そっちから聞いてきたっていうことは、あなたも同意見っていうことでいいわね」
「ああ、同意見だ」自分に降りかかる危機からの回避が本音だが、それは言わない。「美味い料理があるなら、悪い話を少しは和らげてくれるかもしれないしな」自分の皿を指差すが、それは湯気が目立ち、まだ彼が楽しめる温度ではなかった。
「確かに、中和してくれるものがあるのは安心だものね」
「それに、酔って明日には忘れているかもしれない」
「それは面倒だわ。酔う前に話しておきたいっていうのには賛成だけれど、今から話すことを忘れないでよ。いいわね、ゼフ? 二度目の説明はしないから。それじゃあ、……ちょっと待って」
メイは立ち上がり、自分のデスクへ向かうと、先程出しておいた通達書を持ち上げ、ソファへ戻った。
通達書は二冊。その一方を、前に座るニコロに手渡した。
ニコロは、彼にしては珍しく気怠そうな所作でそれを受け取ると、晩酌を一時中断し、内容の確認を始めた。
書類は一部しかない為、ゼフはニコロの横で肩越しに書面を覗き込んでいる。彼も晩酌を一時中断させていた。
メイだけが食事を続け、その書類が手渡されるまでの経緯を話し始めた。
「連中は、いい知らせだと言って、それを、よこしたわ」説明の冒頭に彼女は、心の底から何者かを侮蔑する口調で言った。言葉は単語毎に区切られ、強調されている。「上層部で、本格的にここの実用化が決定されて、それに関しての体制や規約が定められたんだそうよ。今日は、その報告だった」
「実用と、それに関しての体制?」ニコロは聞いた言葉を復唱し、一瞬で表情を険しくした。「それが、いい知らせだって? 嘘だろう? 冗談にも聞こえない」
「連中は、いい知らせと悪い知らせの区別がつかないのよ。ジョークを聞いても笑わない人間に、何かを期待したって無駄よ」
メイの報告は、彼女が再びワインを飲んでから続けられた。
本部で彼女は、過去に行われた自分達に深く関係した戦力を投入した戦績を上層部が厳密に協議し、その成果から、何条かの規約を設けた上で、今後は生徒達を本格的に実戦投入すると議決されたと聞かされ、今ニコロの手にある書類一式を手渡された。その際に、メイや現場の人間の意見はどうだ、といった質問は、一度として発生しなかったそうだ。
規約には、生徒達の実用は、いかなる国家、組織、勢力も介入ができない状況であることが大前提であると定められ、目的が利己的ではなく、世界的に重要、且つ、重大な危機に対面していると認められた上で、上層部総員過半数以上の賛同を得た場合とされていた。その他にも膨大な規約があり、それらは細かい文字で隙間なく書類に記されていた。
これは、案件ではなく決定事項なのだとメイは聞かされ、ニコロに渡した書類にも、やはり同様に書かれている。生徒達は、上層部の決定により、今後は戦略的に活用されることになると、遠回しな表現と難解な文体で、正確に。
「信じられない」ニコロは書類を持っていない方の手で頭を抱えた。「過ちをどうして教訓にできないんだ」
「ニコロ。わかっていたことだろう。昼にも話したじゃないか」
ゼフはニコロの肩に手を乗せ、宥めるように揉んだ。だがニコロは、ゼフのその手を払い、言葉を荒げる。
「だが、ゼフ。考えろ。アインが来たのはいつだ? 先月か? 去年か? 違うだろう。昨日、昨日だ。そのタイミングで、こんなことがあっていいと思うかい?」
「落ち着け、ニコロ」
「上の人間はこれを前提にアインを確保して、ここへ来させた。そうとしか考えられない。こうする為に、アインを」
「考えろ」ゼフは人差し指を立て、ニコロの顔の前に置いた。「小さな子供と、サンタクロースと、誠実な上司が道を歩いていると、10ユーロを見つけた。誰がそれを拾ったか」
「子供」即答するのは、メイ。「他の二人は存在していない」
「正解だ。上の人間は、やっぱり下を見ていないとわかったんだから、それだけでも収穫だ。それに施設は、最終的な目標地点をそこだと定めた上で設立された。遅かれ早かれ、いつかは決定される内容だったんだ。それが、今日だった。それだけの話だ」
「だが、こんなタイミングで」そこでニコロは言葉を止める。
くそ、と舌を打ち彼は乱暴に両肘をテーブルに乗せ、深い息を吐く。もう一度頭を抱えると、今度はそのまま左右に振った。どうにかして、渦を巻いている脳内の混乱を沈めようとしているらしい。
「これは決定されたんだよね、メイ?」その状態のまま、ニコロは再確認をする。
彼の目線は、メイへ。
その瞳は彼らしくなく鋭利で、彼が今憤慨していることが明らかだった。
「そうよ」メイは空のグラスを持ち上げる。そして、「ごめんなさい」と言葉を付け加える。彼女が謝る必要はないのだが。
ニコロは、すぐさまに謝罪した。すまないと呟き、瞳が向く先を書類に戻す。言い方が悪かった。すまないと、聞き取りが困難な声量で謝罪は続いた。
この時に彼は、今自分が手にしているものが、報告書ではなく、通達書という名詞であると思い出し、そこに込められている影響力と強制力を認識した。ここに記載されている内容は、命令なのだ。
メイは、持ち上げていた空のグラスをゼフに向けて振る。
ゼフは、メイの仕草の意図を理解し、二本目のワインを抜栓した。
ニコロは強い憤りに身を浸したまま、書類を読み進める。
記された内容は、以下の通りであった。
本規約は、細胞保有者の活用に関して記したものであり、その運用にあたり総員が厳守する規約とする。また、本規約は正当に定められた議会代表者を通じ、我らと我らの子孫の為に、諸国との協和による成果と、わが国全土に亘って自由が齎す恵沢を確保し、本議会の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすると決意し、本規約が定める条項の凡てを、その遵守の為に定め、主権は連盟各国と、そこに生存するあらゆる国民に存することを宣言し、本規約を確定する。
冒頭部分では、そのような宣言がなされていた。生徒、そして施設という存在は、戦争をなくす為の存在であり、その為の兵力であると明言している。普通の人間を犠牲にしかねない際に、これを利用すると。そのように受け止められる。
文章は続く。
その権威は、あらゆる国民に由来し、その権力は、国民の代表者がこれを行使し、その福利をあらゆる国民が享受する。これは人類普遍の原理であり、本規約は、かかる原理に基づくものである。我らは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。本規約の厳守は絶対であり、如何なる場合にも、本規約に離反した細胞保有者の活用は認めず、細胞保有者の活動はこれを元に決定されるものとする。また細胞保有者、及び関係各所、各員は、本規約に従い行動することを絶対と定める。
その後も、事細かに定められた規約が続く。何かが起きて規約の隙間を突かれることのないように定められた規約は、読み進めていると、その抜け目のなさに脱帽する。以前に行われた細胞保有者の実験的な投入から、まだ長い年月の経過をしていない。それで、この規約が完成したと言うのだから、上層部が生徒達の活用に注いでいる熱意は尋常ではなく、彼らの頭の中には、これを活用しないという考えなど存在していないのだろうと痛感させられた。ひょっとしたら、この規約は実験投入よりも以前から既に完成していたのではないのかとさえ、思えてくる。発表されたのが今日であっただけで、実際には、何年も前に、それこそ大戦中から存在していた規約なのではないか。
規約は、中盤から細胞保有者の使用が認められる状況に関しての説明となった。その部分が、他の部分よりページ数も文字数も多い。
ひとつ。対象に対してあらゆる国家、組織、機関も介入が不可能であり、本規約の活用が適当であると連盟各国代表の賛同が規定割合以上得られた場合にのみ本規約は適用されるものとし、如何なる憲法、法令及び詔勅を以てしても、これに認められない場合、如何なる存在も本規約を行使することを禁ずる。
ひとつ。対象の及ぼす人的被害と損害、環境被害と損害、経済的被害と損失が極めて甚大であり、対象が我らと我らの子孫の生存を脅かし、これによって共和が脅かされんとされ、これの排除は、人道的な視野から見て適当であると、連盟各国代表の賛同が規定割合以上認められ、且つ、本議会内でも規定割合以上の許可が得られた場合。但し、対象が本規約○○条に定めた宗教、及び思想で重要な役割を担い、代用が存在せず、対象外へ特定の影響を及ぼし、対象の損失が該当宗教、思想、及び諸国民に被害を及ぼす可能性が懸念される場合には、連盟各国代表総員の賛同と、本議会総員の許可と定める。
読み進めると、それまで明言されていなかった規定割合に関しての記載を発見する。
連盟各国代表の賛同は、全体の90パーセントと定め、非解答の場合は却下であると認める。議会での許可も同様と定める。
通達書はまだ続いていたが、ニコロは読破を諦め、書類をテーブルに投げ捨てた。彼が読んだ内容は、二冊に分けられている全体の一割以下だ。
先程空になった自分のグラスを持ち上げる。いつの間にか、グラスの中には次の白ワインが注がれていた。ゼフが注ぎ足してくれていたのだが、彼はそれを一気に飲み干した。
先程のメイと同じように、彼は空のグラスを持ち上げて左右に振る。
そのグラスにゼフがワインを注ぎ足そうとするのを、メイが無言で制した。今のニコロは、自暴自棄の悪い状態だ。そんな彼にアルコールを与えるのはよくないという判断だったのだが、ニコロは自分の近くにまで接近していたボトルをゼフの手から奪取し、自分のグラスをその中にある液体で満たした。
「何も見ていなかったか」
ニコロは、浮遊感を感じ始めている頭の中に浮上した単語を呟いた。確認の為である。だが、そうではないと、彼の意識は即座に訂正する。
「足元を見ていた」
それも違う。訂正する。
「それしか見ていなかった」
彼も自分の足元を見る。アルコールのせいだろう。視野が狭まっているのを自覚した。
足元の認識。
それだけの認識。
それ故に構成された命令。
それのみに関与する命令。
それに従う対象。
従わなければならない対象。
足元を見た彼は、確かな孤独を感じていた。
3
ボトルを奪われたゼフは、ニコロが放り投げた書類を持ち上げる。彼は瞳を細めて、ニコロが読破を諦めた個所から先を確認した。
長たらしい文章で構成されたこの書類は、施設全体は今後、この規約の操り人形となれと命令している。それだけわかれば充分だった。ゼフは、そう考える。それ以上の情報は不必要で、規約のどこにも、生徒達の行動を決定する役割が自分達に備わっているとは書かれていない。それに、はっきりとそう書かれてもいる。冒頭部分だ。本規約の厳守は絶対であり、如何なる場合にも、本規約に離反した細胞保有者の活用は認めず、細胞保有者の活動はこれを元に決定されるものとする。また細胞保有者、及び関係各所、各員は 本規約に従い行動することと定める。そう。はっきりと書かれていた。規約に従い、これを遵守しろと。命令に従えと。
その後のワインと料理の味を、三人はよく覚えていない。こんなにも複雑な感情を抱きながら何かを食べ、何かを飲むのは初めての経験だった。ゼフが用意した二本のボトルは、一時間も経たずに空になっていた。
食後にゼフは、執務室のテレビを点けた。気分転換になればと思いそうしたのだが、テレビではユーゲンベニアの国勢に関するニュースが流れていた。
現国王を追放した政党は、前国王を次期国王へ再び就任させる動きを見せ、現国王へ正式な辞任表明を要求。現国王は退陣を徹底して拒否し、それを支持する軍幹部と共に奮起し、政党に奪われた議事堂を砲撃した。ニュースでは、その際の映像が鮮明に流されている。ユーゲンベニアを行進する軍人。炎と粉塵。そして黒煙を上げて燃える議事堂。声明を発表する現国王。
政党を反逆者と罵り、自分の思想は神と共にあり、また、正義も神と共にある。現国王は声高に演説し、この争いは、自分が王座に戻ることでのみ収集されるのだと力強く宣言している。
こうして政権問題は、内戦という状況に悪化した。
首都では街を歩く人の姿が消え、戦車が道を塞ぐようになった。雨の代わりに、鉛が降る。首都近郊では、深刻な水不足が叫ばれているというのに。
A国をはじめとした各国は、ユーゲンベニアに対しての介入は慎重な審議を重ねた上で検討するとしているそうで、今現在は、目立った行動を各機関、各軍に指示してはいないという。A国軍がユーゲンベニア入りしたという、ゼフが知っている話は報道されなかった。情報規制が徹底されているらしい。
チャンネルを変えたが、どの局も流すニュースは同じ内容だった。波立ったニコロの気分を落ち着かせる映像は、見られそうもない。
ゼフはテレビを消す。そして、気付いた。
この王座問題のせいで、最近レクレア復興に向けての動きや、ゲーグマン将軍に関しての報道は、殆ど見られなくなっていた。