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順応の始まり(後)


 6


 ナポレオンの生涯を学び終えた一同は教科書を閉じ、それを見計らっていたようなタイミングで、エレーナは目を覚ました。

 彼女は、見知らぬ人物がその場にいることに驚いたが、キャロがアインのことを耳打ちで説明すると、以前にニコロ達から仲間が増えると聞かされていたことを幼い彼女も思い出し、まだ少しの眠気を残す頭で、アインがその仲間なのだと理解した。

 彼女はスカートの裾を両の指先で摘み、ませた仕草で自己紹介をしたのだが、そのすぐ後には、キャロの陰に隠れてしまった。自分がした挨拶行為に照れたか、恥ずかしかったのだろう。それは、初対面であるアインを含めた全員が察知した。エレーナは頬に朱を散らし、兄の体に抱き付いた。

「エレーナはキャロが大好きなの」ミリィが教えてくれる。「いつもこうやってくっついてる。エレーナを探す時は、キャロを探すといいよ」

 そう説明した彼女は、教科書を放り投げ、手足を大きく広げて後ろに倒れた。寝そべる彼女を、芝が受け止める。その感触を感じて彼女は、ああ、と漏らした。

 太陽はもうじき空の頂点に到達する。雲も何も、遮るもののない日差しの眩さで、彼女は目を開けていられなかった。瞑っていても、その明るさは目蓋越しに伝えられている。そのまま目を閉じていると、心地の良い気温も相まって、再び眠れそうだった。

「ああ、勉強で疲れたから、今すぐ眠れそう」ミリィは、寝言を言うように呟いた。

「授業の時間の半分は寝ていたくせに、よく言うよ」棘を刺すキャロは、寝そべるミリィを見ながら、自分に抱きついて身を隠しているエレーナの頭を撫でている。「たっぷり寝ていたじゃないか」

「半分は起きてた」心地良さを阻害されたミリィは、頬を膨らませる。瞼は閉じたままだが。「アインが来てからは、ちゃんと起きてたじゃない」

 そう言って、うっすらと目蓋を開きキャロを睨むが、寝そべる彼女の位置からだと、立っているキャロは逆光で、黒い塊にしか見えなかった。

「その頃には半分以上が終わっていたんだよ」と、黒い塊が言う。

「ぜんぶ、ねてた」

 そう言ったのは、エレーナ。キャロに頭を撫でられている彼女は、爪先立ちで挙手をし、自分の手の位置をより高くしようとしている。

「そうだね。全部寝ていたね」どこか誇らしげな発言をした実妹を見て笑むキャロは、より感情を込めて彼女の頭を撫でた。撫でられるエレーナは、くすぐったそうな表情になる。「でも、ちゃんと起きていないといけないよ。勉強の時間なんだから」

「それ、あたしにも言ってる?」ミリィが身体を起こして聞いた。

「勿論、そうだよ」

「だから、半分は起きていたって言ったじゃない」

「起きていても、教科書を見ているのと勉強をしているのは別よ」サーシャが時計を見ながら会話に入り込む。彼女の時計は、左手首に盤面が内側になるように巻かれていた。「文字は読むもので、風景ではないわ」

 その言葉を聞き、ミリィは首を傾いだ。サーシャの言葉は普段から、とても難しいことを言われている気分にさせる。もしくは、言葉遊びとも受け取れるニュアンスが含まれていて、感情を真っ直ぐに装飾なく発するミリィには、少し難解だった。

「何、それ。どういう意味?」ミリィはサーシャの言葉を頭の中でもう一度繰り返すが、リピートされただけで、訳されない。「文字? 風景?」

「そのままの意味よ」サーシャは淑やかに微笑み、その笑みと同じ仕草でゆっくり立ち上がる。「それじゃあ、私は執務室に行って、終わったことを報告してくるわ」

「僕も行くよ」

 キャロが慌てた様子で申し出るが、サーシャは首を振ってそれを断った。

「キャロは、アインに施設の中を案内してちょうだい。ニコロさんからもお願いされていたでしょう?」

「え。ああ、そうか。……うん」残念そうに引き下がる。本当は、申し出と同時にサーシャに接近もしたかったのだが、彼の腰にはレーナがくっついているので、それは叶わなかった。「わかった」と言った彼は、二つの目的が達成できず、落胆した。

「それなら、あたしも」ミリィは座ったまま自分の膝を抱き、人形のように左右に揺れながら、自慢するよう。「施設の中のことなら、あたしに任せて。知らないことなんてないから、まかせてよ」

 彼女は、その言葉の前半部分を強調していた。

 それまでの会話をただ傍観していたアインだったが、彼はミリィからの視線を感じて、今の言葉は自分に向けて放たれたのだと気が付いた。彼女は、右手をアインに向けて突き出し、親指を立てている。だが、その動作の意味はわからない。それにアインは、どう返答してよいのかも、そもそも、返答すべきなのかどうかの判断もつけられずいた。しかし、返答は必要だろうと判断をした彼は、首を上下に動かすだけの、いつも通りの返答をした。それは彼にとって、イエスでもノーでもなく、意味を内包していない、ただの動作だったのだが、ミリィはそれを了承と受け止めたようで、アインに向けていたグッドサインを上下に振った。アインには、何が、どういう意味でグッドとされたのかもわからなかったが、これには反応をしなかった。

 次いで、エレーナが高い声で、わたしも行く、と言った。彼女は先程よりも背伸びをして、自分の手の平の位置を更に高くしている。それでも、アインやキャロの顔には届きそうにない。

 エレーナのその挙手に、ミリィの顔は陰る。

「えー。エレーナも? やだあ。子供は来ないでよ」

「やだ。やだやだ!」エレーナは飛び跳ね、地面を蹴る。「いく! いっしょ!」

 ミリィは背中を丸め、溜息をつく。駄々をこねたエレーナを宥めるのは困難であると知っていたし、その困難な行為に貴重な時間を割くのは賢明ではないと判断した。それに、エレーナが今言っている一緒の対象となっているのは、自分やアインではなく、キャロだ。彼の動向まで拒否するのは無理だ。その為にはサーシャの説得も必要なので、更に時間を割いてしまう。

「仕方ないなあ。わかったよ。まったくもう」

 ミリィの諦観を受けて、やった、と、頭上に高く上げていた手を胸元で握るエレーナ。それを見てサーシャは、小さな問題は無事に解決したと安堵し、歩き出す。

「仲良くやってちょうだいね。お願いよ。それじゃあ、また食堂で」

 歩き出すが、彼女は何かを忘れているような気がして立ち止まる。それは、何か大切なことだった気がする。

 振り返ると、そこにはシャルルの姿があった。

 ああ、そうだ。彼女はようやく思い出した。迂闊である。もう少しで、また一大事を招きかねなかった。

「ねえ、シャルル」サーシャは即座に、彼女を呼んだ。

「は、はい」呼ばれたシャルルは、過敏な動きで振り向いた。名前を呼ばれただけなのだが、今日の彼女の反応速度は、やはり異常な速度だ。「何でしょうか?」

「一緒に来て」サーシャは、自分の言葉が命令口調になっていると感じたので、訂正する。「執務室へ、一緒に来てくれる?」

「どうして……」

「嫌ならいいの」シャルルに背を向け、歩き出すサーシャ。「誘っただけだから」

 シャルルは逡巡の後、サーシャの後を追った。

 去った後の後方では、ミリィが何やら説明を始めたようだったが、その声もやがて聞こえなくなる。遠ざかりながらもしっかりと聞かなければならない内容の話は発せられていないだろうから、特に気にせずに、二人はその場から立ち去った。

 シャルルは、サーシャに連行されるような並びで執務室へ向かった。

 中庭から建物の中へ入り、食堂の横を通過する時、中からニンニクを炒める香りがした。フライパンを揺する音も聞こえている。食堂は、昼食の準備の最中であるらしい。

「今日のランチは何かしら」サーシャが振り返らずに聞いた。

「さあ、何でしょう」シャルルは問われた内容について何も考えず、ただ言葉を返す。「わかりません」

「お腹が空いたわ」

「そうですね」言葉だけを返す、シャルル。

「この時間のこの場所は苦手。だって、意地悪をされているようなんだもの。お腹が空いているのに、匂いだけでおあずけだなんて」

「そうですね」

「いい匂いね」「そうですね」「お腹が空いたわ」「そうですね」「今日のランチは何かしら」「そうですね」

 と、会話の流れとしては、サーシャからの言葉に肯定の返事をしたように傍目には聞こえただろうが、ただ言葉を返しただけで、会話ではない。返される単語は、そうですね、だけだ。それにシャルルは、感情の起伏のせいか、いつもこの時間には健康的に感じている空腹感をまるで感じていない。寧ろ、満腹感を通り越して過食気味な気分である。それも踏まえて、会話は成立をしていない。オウム返ししか成立しない。

「明日は、テストの日よね」サーシャは、会話が途切れてしまわないように続ける。はい、か、いいえ、だけで返されない問いをした方がよいだろうかという判断から、質問内容を幾つかピックアップし、その中から選ばれたのが、明日が数学のテストであるという予定だった。「シャルルは、どの辺りを勉強しているのかしら」こう問えば、シャルルは何か、言葉として返答してくれるだろう。

 数学は、生徒の年齢に応じて授業内容が異なっている。教鞭をとっているのはメイで、各自の学力に合わせて問題が与えられている。教科書は殆ど使用されない。用いられているのは、メイが作成した個別のテキストである。サーシャは先週、微分と積分の意味を理解して、それから派生して正弦波やフーリエ級数といった難題にも向き合い始めたのだが、他の生徒が何を学ばされているのかは知らなかった。エレーナが四則を織り交ぜた計算を学んでいる最中であることは知っていた。数学の勉強をしている時、エレーナは両手の指を使って、解が両手の指の本数より大きくなる計算に四苦八苦しているところを、よく見ていた。

 サーシャは何年か前まで、数学を学ぶことは将来的に役に立つのだろうと信じていたのだが、学ぶ内容が難解になるにつれ、疑問を抱くようになっていた。少なくとも、今彼女が学んでいる内容が日常生活で何かの役に立つとは、到底思えない。少し前に、シャルルの機嫌の良し悪しの測定で、その抽象に使用された程度だ。

「確率のことを、少しづつ」シャルルは、口から言葉を落とすようにぽつぽつと言った。サーシャの希望通りに会話は進んでくれたようだ。「興味があったので、メイさんにお願いをして」

「確率? どんなことを学ぶの?」

「まだ始めたばかりで……」

「そう。でも、いいわね。何かの役に立ちそう」

 サーシャには、自分が学ばされている内容よりもシャルルが学んでいる内容の方に興味が沸いた。そちらの方が、きっと何かの役に立つ知識であるに違いないと思えたのだ。それに、シャルルは能動的である。慣性運動で学んでいるだけの自分とは姿勢が異なっている。

「私は、自分が学んでいる内容が何の為の知識なのかがわからないの」サーシャは、自分が考えていた思いを打ち明けるように言った。「小説を読んでいた方が、よっぽど大事な知識を得られそう。ねえ、そう思わないかしら」

「そうですね」

 返されたシャルルの声は、言葉と言うよりも、やはり、ただの音だった。意味を内包していない。彼女の症状の回復は一時的なもので、既に再発をしたらしい。今の彼女は、ボタンを押すと決まった言葉だけを発する玩具みたいだ。

 前を歩くサーシャは立ち止まり、呆れ声を漏らして振り返る。場所は廊下が終わり、管理棟のエントランスロビーである。

「もう。どうしてしまったの?」

 シャルルは前を見て歩いていなかったので、危うくサーシャに追突するところだった。慌てて立ち止まり、動揺の面持ちで顔を上げた。

「どう、とは?」

「何があったの? 昨日の夜に」

「それは」シャルルは頬を赤くした。

「嘘は言わないで」サーシャは本題に踏み込む。「さっきも聞いたでしょう? 昨日の夜に何があったの?」

「ですから、何も……」

「彼が嫌いなの?」次いで、単刀直入に切り込む。

 シャルルの口から、呻き声のような音が漏れる。

「か、か、彼、とは?」

「彼は、彼よ。アイン」

「ああ、彼ですか」シャルルは狼狽していた。視線があちらこちらをさまよっている。「彼、ですか……」

「嫌いなの?」

「どうして、そんな」

「あんな言い争いをしていたから」

「言い争いだなんて」

「教えてシャルル。彼が嫌いなの?」

「そういうわけでは」落ち着かないシャルルは、言いかけた言葉を訂正する。「あの、……今は」そう言って、頷く。顎を引くように。

「どうして?」

 追及されて、シャルルは再度、沈黙した。唇を噛んで、必死に無言を維持する。

「どうして言えないの?」サーシャは、穏やかな口調の維持を意識しながら、シャルルに一歩詰め寄った。「隠さなければならないことなの? 今までそんなことなかったじゃない。一緒に暮らしているのだから、秘密や内緒はなしだと決めたのに」

 それは、彼女達がこの暮らしを初めてから自然と決まったルールだった。基本的に施設での生活は自由であるが、唯一の決まり事として生徒全員が守っていることが、それである。互いに隠し事はしない。それは今のところ破られていないと、サーシャは思っていた。誰かに聞いて確かめたことはないが、少なくとも、彼女は秘密を抱えてはいない。他の生徒も同様だと信じていた。だが今、そのルールが破られようとしている。

「彼と何かあったの? アインと、昨日の夜に」

 シャルルはもう一度呻く。今度は悲鳴に似た、高い音がした。

 シャルルは、こんな時のサーシャが苦手である。サーシャは、うろたえるということを知らない。いつでも冷静で、落ち着いている。喜怒哀楽の内、真ん中にある二つを表面に出すこともない。内心では抱いているのかもしれないが、それを表情や仕草から感じることは、これまでに一度としてなかった。よって、人を叱る時や諭す時、その感情を表に出さないが故の威圧感が、サーシャの全身からは溢れ出ているように感じられるのだ。その圧迫感たるや、どんな強者も平伏を余儀なくされるだろう。

 大人に叱られるよりも、サーシャに叱られる方が何倍、何十倍、ともすれば何千倍、何万倍も恐ろしいとシャルルは常々思っていたのだが、それを今、再認識させられている。

 サーシャは白銀の瞳で、じっとシャルルを見詰めている。視線が他の方向へ逸れる様子はない。

 サーシャからも、その瞳からも逃げられないと悟ったシャルルは、遂に降参をする。

「わかりました」シャルルは俯き気味に言う。「でも、このことは他の誰にも言わないで下さい」

「秘密や内緒はなしだと……」

「サーシャさんにはお話しします。でも、サーシャさんだけです」

「わかったわ。言わない」本心は了承したくなかったのだが、物事の進展の為には仕方がないと諦める。「約束するわ」

「絶対ですよ」

「ええ。それで、何があったの? 教えて」

「ええと、その」シャルルの声は、また不明瞭になる。「……事故が」

「え?」不明瞭すぎた声は、サーシャに聞き取れない。「何て言ったの?」

 シャルルは、落ち着きなく彷徨う自分の瞳とサーシャの眼差しが交差しないように顔の向きを変え、斜め下を見ながら同じ言葉を繰り返す。

「ですから、事故が」

 こんなに近い位置だというのに、耳を澄まさなければシャルルの声を聞き取れない。

「事故?」その単語だけはどうにかして聞き取れた。「事故と言ったの?」

 聞き返すとシャルルは、うんと頷いた。

「どんな事故?」

「それも言わなくては駄目なのですか?」シャルルは、胸の前で忙しなく指を絡ませ、目尻を少し潤ませている。「それは無理です。やめてください」

「問題を解決する為よ」

「自分一人で解決できます」

「私には教えてくれるんじゃなかったの?」

「それは……」

「解決するまでの間ずっとそんな眼差しをされていては、その視線で誰かが死んでしまいそうよ」

「そんな、大袈裟な」シャルルは顔を上げ、その時初めてサーシャと目線を合わせた。「私の目は銃ではありません」

「シャルル。あなた、自分が怒っている時や不機嫌な時、どんな目をしているか鏡で見たことがあるかしら」

「誰だってないでしょう」

「機会があれば見てみるといいわ。メデューサも石になってしまいそうよ」

「大袈裟です」シャルルは、更に顔を赤くする。「本当に、大袈裟なんですから……」

「でも、みんなが困るのは本当」

 シャルルは上下の唇をぴたりと合わせ、口を山の形にした。頭をフル回転させ、どうすればよいのかを必死に考えるが、どうしようもないと観念して息を吐き出すのは、その直後だった。

 だが説明の前に、彼女はサーシャに懇願した。

「あの、お願いがあります」

「お願い?」

「はい、ええと、……他の人には、言わないで下さい」

 その懇願にサーシャは、こくりと頷いた。それは先程締結された約束ではないかという言葉は、彼女の頭の中に浮かぶだけに止まる

 話し始める前にシャルルは、彼女にとっての安全確認の為に周囲を見渡した。ロビーに今、人はいない。彼女達二人だけである。食堂の方向も確認したが、そちらにも人の姿はない。厨房に人はいるが、間には無人の食堂があるので、他の誰かに聞かれる危険性はなさそうである。

 深くゆっくりと呼吸をして、少しだが気持ちを落ち着かせた後、シャルルは語った。

「その、私、日課として……」シャルルの説明は深呼吸の後もたどたどしい。それどころか、不明瞭さには磨きがかかっていた。「……を」

 恐らく、一番肝心であろう部分が聞こえなかった。

「何を?」サーシャは首を傾け、シャルルの顔を覗き込み、聞こえなかった単語を訊ねた。「何を日課に?」

 シャルルは身体の向きを変え、サーシャの視線から逃げた。

「……沐浴です」

「沐浴?」

「身を清める、為の……」

「沐浴。……ああ、あなたの日課だものね」

 サーシャは、昨晩のことを思い出した。

 彼女の部屋は、シャルルの部屋の隣。シャルルが部屋を出た時にドアの開く音がしたので、その時刻を覚えていた。古い建物なので、シャルルの部屋のドアが開閉すると、サーシャの部屋は少しだけ震動する。恐らく、すべての部屋がそのようになっているのだろう。

 昨晩シャルルが部屋を出たのは、夜の10時を少し過ぎた頃だった。毎晩その時刻になると彼女が水泳場へ向かうことを知っていたので、昨晩もその為に部屋を出たのだろうと思い、サーシャは自室での読書を続けた。シャルルが部屋に戻って来た時刻は知らない。部屋を出た時よりも激しいドアの開閉があったので戻ったことを知ってはいたが、その時の衝撃があまりに強かったので、時刻の確認を失念していたのだ。だが、部屋を出てから30分くらい後のことだろう。毎晩そのサイクルでドアは開閉されていたから、多少の誤差はあるだろうが間違いはない筈だ。

 シャルルが説明の始まりをそこにしたということは、やはり懸念していた通り、何かがあったのはその時らしい。

 シャルルは毎晩、眠る前に水泳場へ向かう。その目的は言ったように、沐浴だ。宗教上の日課であることは前に聞かされていたが、その教派に関してまでは知らなかった。シャルルがキリスト教であることは知っているが、巨木の枝葉のように幅広く広がった派閥のどれであるのかまで訊ねたことはない。毎晩沐浴を欠かさないから、キリスト教の中でも厳格な部類なのであろうと推測できたが、家柄としても個人としても宗教と関わりのなかったサーシャは、これまでにそれ以上を知ろうと思わなかったのだ。よって、沐浴と聞いても彼女は、それを入浴と分けて考えられない。知識として最低限の沐浴の情報を持ってはいるが、現実にその行為を行ったり見たりしたことがない。きっとこれから先もないだろうと、彼女は予想している。

 シャルルのそこから先の説明は、非常に簡潔だった。

 沐浴の最中に、アインが現れた。

 彼女の説明は、それで終了する。

 あまりに簡潔すぎたので、サーシャは首を傾けた。恐らく、最も肝心な部分が今の説明には欠如していると考えたのだが、それを追求するより先に、彼女は素朴な疑問をシャルルにぶつけることにした。

「水着を着ていたのではないの?」

 彼女はやはり、沐浴というものを正しくイメージすることができない。彼女の頭の中で沐浴と入浴には相違があれど、水泳とは差異がなく、それらの概念が混在し、渦を巻いていた。

 問われたがシャルルは、俯いたまま返事をしなかった。それに、首のあたりまで赤くなっている。

 それを見たサーシャは、まさかと思いながら確認をした。

「着ていなかったの?」

 頷くシャルル。

 その返答に、サーシャは大いに驚く。

「裸で?」サーシャの声は思わずして大きくなる。

「だって大切な行為です」顔を上げたシャルルは突然早口になり、直前のサーシャの言葉を掻き消して説明をした。「身を清めるのに何かを纏っていてはいけませんし、小さな頃からそうしていました。小さな頃から、ええ、ずっとそうしていました。とても大事な行為なんです。それなのに、ああ、大事な行為なのに、あんなことが」口調は徐々に失速を始めるが、同時に悔しさが混ざり始め、怒りの響きも滲みだす。「ああ、もう。それなのに、よりにもよって、あの人があの場所に居ただなんて。大事な時に、あの人が、あの場所に……」そして遂に、彼女の心に発生したそれらの成分は、占有面積を心の全域に達した。「ああ、もう!」

 シャルルは腰の位置で拳を震わせ、踵でロビーの床を蹴った。

「なら、場所を変えたらよいのではないかしら」サーシャはシャルルの様子に気圧されるが、どうにかして絞り出せた提案をした。「あなたの部屋にもシャワーはあるのだから」

「駄目です。沐浴と入浴は違います。簡易化なんてできません」

「そうなの?」

「そうです。まさかサーシャさんはこれまで、沐浴を入浴や水泳と勘違いしていたのですか」

「ごめんなさい。私は無宗教なの」

 サーシャは正直に明かし、同時に、それまではっきりと理解していなかった沐浴という行為を、忘れないように記憶した。沐浴と入浴は、イコールではない。水泳ともイコールではない。何かに役立つ知識であるとは思えなかったが、彼女はその言葉を頭の中で幾度か繰り返した。少なくとも、今後、今のような状態になったシャルルをコントロールする際には、微力ながら役立つかもしれない。

「でも、シャルル。それなら悪いのは彼だけではないのでは?」沐浴の情報を瞬きをする間に記憶し終えたサーシャは、聞かされた限りの状況を踏まえて、そのように考えていた。「シャルルの無用心さも、原因じゃないかしら」

 シャルルは息を飲み、サーシャの言葉に驚いた。瞳は綺麗な円形をしている。

「私が悪いと?」

「私は、そう思うのだけれど」

「そんなことありません!」シャルルは力強い声で反論する。その声量は遂に、自身の観測史上で最大の音量である。「あの人は立って見ていたのです! 気付いたら立ち去ればいいのに、黙って見ていたんです! 信じられません!」

 サーシャは、再びシャルルの剣幕に気圧された。

「よい方向に考えたらどうかしら」一歩後退る、サーシャ。「見蕩れる程に、シャルルの裸が美しかった証拠かもしれないわ」

 言いながら、彼女は頭の中でシャルルの裸体を想像した。実際にシャルルの裸体を見たことはないのだが。

「その時、彼はどんな顔をしていたの?」

「顔?」

「彼は、どんな顔であなたを見ていたのかしら」

「それは、ええと、その……」

 シャルルは、思い返してみる。

 彼女にとっては、あまりに衝撃的な事件だった為、鮮明に思い出すことは容易ではなかったのだが、それでも彼が、無感情な瞳でこちらを見ていたことは、何故だか即座に思い出せた。人の裸体に欲情しているというような眼差しではなく、風景を眺めているような眼差しでこちらを見ていた。

 そうだ。あれは、人を見ている目ではなかった。

 そう思い出すとシャルルは、余計に腹が立った。その原因はわからない。

 しかしサーシャは、予想外にも、よかったじゃない、と言葉を返すのだ。

「よかった?」シャルルは自分の耳を疑う。「今、よかったと仰いましたか?」

「ええ、言ったわ」平然とした顔で頷くサーシャ。「嫌な顔をされなかったのでしょう? それに、それが見間違いでなかったのなら、シャルルの裸が水泳場から見える夜景と同じくらいに綺麗だったということの証明じゃない。あそこから見える天蓋越しの夜空は、素晴らしいから」

 サーシャは、未だに見たことのないシャルルの裸体を羨望した。頭の中で水を浴びているシャルルの身体は、とても美しい。自分の身体には女性としての起伏が足りていないと感じているサーシャは、シャルルの身体に過剰な装飾を施して想像をしていた。

 現実には、両者にそれほどの違いはない。成長途中である二人の身体に差はなく、形容するなら双方とも、なだらかという単語が適当なのだが、それを彼女は知らない。

「羨ましいわ」サーシャは身体を隠すように教科書を持つ。「本当に羨ましい。そう思うわ」

「冗談を言わないで下さい」シャルルは強く握っていた拳の握力をより強くした。転じて顔からは、赤色が消えつつある。

「ならシャルルは、眉の間に皺を寄せて、不快な顔をされたかったの?」

「そうは言っていません」

「なら、よかったじゃない」

「サーシャさんは自分が見られていないから、そう言えるんです」

「私はいつだって、自分の意見しか言えないわ」サーシャはくるりと身体の向きを変え、執務室を目指す移動を再開させる。「境遇によって意見を変えられるほど、私は器用じゃないもの」

「いいえ。きっと怒ります」シャルルはサーシャを追い、彼女よりも一歩だけ前に出てその顔を覗いた。「自分の裸を見られたら、誰でも怒ります」

「私はシャルルほど綺麗な身体じゃないわ。見て得をするようなものじゃないの」教科書で隠した自分の身体を見下ろし、小さな溜息を、ひとつ。「羨ましいわよ、見蕩れられるだなんて」

「ねぇ、それ何の話?」

 唐突に、二人の会話に挟まれる声があった。

 それは、メイのものだ。

 メイの声は上から聞こえた。二人が見上げると、鞄を手に持ち、ロビーの階段を下りてくるメイと目が合う。彼女は微笑んでいたが、それは苦笑いだった。

「裸がどうのと、部屋の前まで聞こえていたわよ。ゼフに聞かれないように気をつけて」

 メイの言葉に、今まで以上にシャルルは慌てた。瞳は、それまでで一番大きく、奇麗な円形になる。

「そんな! 聞こえていましたか?」

「部屋の前までは」

「本当ですか?」

「ええ。何の話をしていたの?」

「それは」サーシャが口を開く。

「なんでもありません」シャルルが即座に遮った。「終了の報告に来ました。言われた通り、ナポレオンの生涯を勉強しました。以上です」自分の言葉に誰も口を挟めないよう、とんでもない早さで報告を終えた。

「まあ追及はしないけれど」メイは指先で顎を触り、笑みを続けた。今度は苦笑ではない。顎を振れていた指先は、唇に当てられる。「内緒の話はもう少し小さな声でしないといけないわ」

 言われてシャルルは俯く。返事も、その先の言葉も思い浮かべられなかった。とんでもない失態を犯してしまった。昨日に続いて今日までもか。彼女は自責に苛まれていた。

「ミリィとエレーナは、最後まで寝ていました」サーシャが会話の切れ目に滑り込む。シャルルの救済の為だ。彼女は、今のシャルルの状態を、推測ではあれ、ほんの少しだけ察していた。「こんな天気でしたので、とても気持ちよさそうに。あ、ミリィは途中から……」

「いつも通りだったのね?」

「はい、いつも通りです。全体を三等分して、三分の二は寝ていて、三分の一だけ起きていました。本人は、半分は起きていたと言っていますけれど」

「相変わらずなんだから、あの子は、もう。……勉強は大事だと、何度言ったかしら」

 その言葉を聞いてサーシャは、先程の、今自分が学んでいる内容が、いつ、何の役に立つのかという疑問をメイに訊ねてみようかと考えたのだが、やめた。きっと何かの役に立つ。そう返される気がしたからだ。

 その問いの代わりにサーシャは、メイの服装について尋ねる。

「メイさんは、これから外出ですか?」

 階段を下り切って二人の前に立つメイの服装は、普段はあまり見ないスーツ姿だった。朝は違う服を着ていたので、これまでの間に着替えたのだろう。タイトなスカートからは、彼女が滅多に人に見せない素足がすらりと伸びていた。

 メイは、本部に用があり出掛けるところだと言った。

「ランチの前に出発ですか?」サーシャはメイの足を眺めながら聞いた。直前の会話のせいで、どうしても同性の身体の輪郭に目が行ってしまう。「大変ですね。お食事はどうされるんですか?」

「嫌なことは早く終わらせたいの。遅くに行ったら、帰って来るのも遅くなるでしょう? それが嫌だから早くに出発するの。ランチは何かを買って、車の中で済ませるわ」

「そうでしたか。お気を付けて」

 サーシャは頭を下げ、シャルルも同じように頭を下げた。

「ああ、そうだ」歩き出そうとしたメイは、思い出したように聞く。「何か、お土産が欲しくない?」

 頭を上げた二人は、怪訝そうな面持ちで互いに顔を見合わせた。

「お土産ですか?」サーシャは、下を向いて位置がずれた眼鏡を指で押し上げながら聞く。「どうしてですか?」

「ミリィには昨日、ニコロからプレゼントがあったんでしょう? 聞いたわ。人気のチョコレートだっけ。だから、今度はあなた達に。不公平にならないようにね」

 そう言ってメイは、片方の目を瞑った。

 そう言えば先程ミリィは、ニコロから貰ったチョコレートがどうのと言っていた。その時は特に気にしなかったが、考えれば彼女だけがプレゼントを貰ったということになる。それも、ニコロから。そう考えると、サーシャは羨ましさではなく、妬ましさを感じてしまう。

 やはり表情には出ないが、彼女は嫉妬した。

 悔しいのはそれと合わせて、欲しいものはないかと聞かれても、欲しいものが何一つ思い付かなかったことだ。サーシャは、自分の無欲さを恨む。じっくり考えても、何も思い浮かばないのだ。幾つかの書籍が一瞬だけ頭に浮かんだのだが、土産として強請るものではないだろうから、それは即座に除外されていた。

 彼女は諦める。思考に要した時間は、瞬き二回の間。彼女にしてみれば熟考である。

「それなら、みんなで食べられる焼き菓子がいいです」

 メイは瞬きをした。驚いているようだ。

「個人的に欲しい物を言って構わないのよ?」

「いいえ、みんなで食べられる物がいいです。その方が喧嘩になりませんし、それに、今欲しい何かが思いつかないんです」

「そう。シャルルは?」

「え、あ、はい。あの、私も、……サーシャさんと同じ意見です。はい……」

 メイはシャルルの落ち着かない様子を訝ったが、深く追求はしなかった。先程聞こえていた会話の内容と関係しているのだろう。だとすると、思春期の少女の会話に不用意に大人が立ち入るのは無粋だ。

 メイは満足気に頷いた。

「二人とも偉いわね。私だったら、どんなに時間が掛かっても自分が欲しい物を考えて、それを要求していたわ」メイは敬服の念を抱きながら、その要請を受諾した。「オーケー。何か美味しいお土産を探してくるわ。楽しみにしていて」

「はい。ありがとうございます」

 サーシャは再び、行儀良く頭を下げた。

 頭を下げるその瞬間に、今更になって彼女の頭の中に一つ、欲しいものが思い浮かんだ。しまったと胸中で唇を噛む。だが改めて強請るにもいかず、彼女はゆっくりと、身体を起こした。

 手を振って彼女達から遠ざかるメイからは、花のような香りがした。きっと、香水だろう。

 管理棟を出る時メイは一度振り返り、まだ自分を見ている二人に向けて、行ってきますと言った。サーシャとシャルルは、声を揃えて返事をした。

 メイを外に出した管理棟の大きな扉が、音を立てて閉まる。

 そして、数秒が経過。

 静止したままの二人の周囲に不思議な沈黙が流れる。

 それに気付いたのは、シャルルだった。横を見ると、サーシャが自分を見ており、眼鏡越しにこちらを見るその瞳には、何かメッセージめいたものを感じたので、彼女は怪訝そうに訊ねた。

「なんですか。そんな、黙って見つめるなんて」

「さっきの話がまだ終わっていないわ」サーシャはそのままの眼差しと姿勢で返答する。

「さっきの」はっとしてシャルルは、短い息を漏らす。「いいじゃないですか、その話はおしまいです」

「おしまいで構わないのだけれど、彼とは仲良くしてほしいの。一方的に彼に非がある訳ではないのは確かなのだから」

 言われてシャルルは唇を噛む。

「これから一緒に生活をするのよ。この場所で」サーシャが追い打ちをかける。「みんなが困るわ」

「ああ、もう、わかりました」シャルルは観念し、天井を見上げた。「サーシャさんがそう言うのなら、努力はします。ええ、努力は。極力の努力は」

 シャルルは言葉の最後、努力という部分を強調した。本心では、最小限の努力と言いたかった。

「ありがとう」サーシャは満足げに微笑む。「そう言ってくれて嬉しい。安心もするわ」

「約束はちゃんと守ってくださいね」

「ええ。勿論」

 サーシャは再び歩き出す。その足は階段を上に向かっている。シャルルもその後を追った。その位置関係は相変わらず連行されているようである。

 歩きながらシャルルは考えた。サーシャの尋問からの流れで言葉を返したものの、しかし、あんな事件があった後で、果たして自分は本当にアインと仲良くなれるのだろうか。事件には大小がある。今回の一件は、彼女にとっては極めて大きく深刻な内容である。

 そんな事件の後に仲良くだなんて。

 いったいどのような関係を築けばよいのか。彼女はぼんやりと、自分達が和解し、仲良く交流している様を想像してみた。それには途方もない努力や勇気が必要だったが、階段を一段上がる間に達成された。

 その光景は、中庭で二人が談笑をしている、というものだった。

 天気は穏やかな快晴。空には絵のような雲が浮かんでいる。風はないのに足元では草花が揺れていた。中庭の中心には円形のテーブルがあり、アフタヌーンティーのセットが並んでいる。二人は向かい合わせに腰掛け、笑顔で会話をしている。とても仲良さそうに、朗らかな笑顔で。

 想像をしてシャルルは、それを想像できた自分に腹が立った。


 7


 中庭に残ったアイン達は、その後の行動を決めかねていた。アインに施設の案内を、と言われたが、どこを案内して何を見せればよいのかを、案内役に任命されたミリィとキャロが思い付かなかったからだ。

 少しの時間、腕を組み思案していたキャロは、アインに施設の中で既に見た所はあるのかと質問をした。

 アインは、水泳場は見たと告げた。食堂も見たと言った時、ふと気になることがあったので、彼としては非常に珍しく自発的な質問をした。

「マンマっていうのは誰?」

 ニコロもその名前を言っていたが、アインはそれが、固有名詞なのか役職名なのかがわからなかった。

「食堂の、……何て言うんだろう。料理長かな? そういう人だよ」キャロが組んだ腕を解きながら言った。

「料理がすごく上手なの」ミリィが説明の続きを受け持つ。「何でも作れちゃうんだよ。すごいんだから」

「誰かの母親?」

 アインは、そんな筈はないだろうと思いながらも、ミリィとキャロを交互に見て質問を続ける。連続で彼が何かを問うのは、奇跡的と称しても虚偽にならない確率だ。

 キャロを見た時にアインは、エレーナとも目が合ったのだが、彼女は彼の視線から逃げ、兄の後ろに隠れた。

「まさか」ミリィは数秒笑って、続ける。「お母さんみたいに料理が上手だからそう呼んでるの。最初に言い始めたのは、あたし。そう思ったから呼んでみたんだけど、マンマはそうやって呼ばれるのが好きじゃないみたい」

 ミリィはそこで唐突に立ち上がり、腕を組んで胸を反らすと口調を芝居じみたものに変えた。

「あたしは、あんた達みたいな子供を産んだ覚えはないよ」

 それが、マンマという人物の真似なのだろうとアインは推測した。それが似ているかどうかは彼にはわからないが、キャロが吹き出すように笑い、エレーナも兄の後ろで肩を揺らして笑っているので、どうやらミリィの真似は、マンマと呼ばれる人物の特徴を捉えているのだろうと理解した。

 アインにとっては余計な情報だったが、彼は取り敢えず、それらを記憶しておく。不要であれば、追々頭の中から削除すればいい。

 ミリィが、他に知りたいことはないかとアインに詰め寄るが、彼は、ない、と短い言葉だけで答えた。それに対して、それでは困ると、彼女は不服そうにする。

「何か希望を出してくれなきゃ、案内ができない」

 その言葉は、まるで自分が責められているかのようで、アインは無表情のまま困惑した。だが、ないものはないのだから仕方がない。施設に関しては知らないことばかりだが、ならば、その中で何が知りたいかと聞かれても即答はできない。マンマに関して質問をしたということも、繰り返すが、彼にしてみれば奇跡に類されるものだ。彼はこれまでに、質問はないかと聞かれて、あると返した経験が極めて少ない。

 コンピューターに酷似した彼の思考は、いつも質問をする前に、その問いを考察する。それは追求するべきか、そうではないか。彼の思考は、大概にして後者を選択していた。速急に理解をせねば重大な問題が発生する、例えば生死に関与するような疑問は、これまでに一度として彼の前に出現してはいない。そうすると、質問は彼自身の中で消化され、結果として、このような状況下ではいつだって、ないと回答するのだ。それは条件反射に近い。

 彼の思考は、あらゆる疑問が生きる為には不要だと位置付けている。疑問が解決したからといって何かが変わるとは思えない。アインにとって身の回りにある疑問とは、全てが瑣末なものだった。よって、質問を出せと言われても、出現しない。

 ミリィからの強要に対してどうすべきだろうと考え悩んでいると、唐突にミリィが、彼の腕を掴んだ。

「じゃあ、施設を一周しよう」ミリィは、身体を押し付けるようにアインの腕にしがみ付く。「外は無理だけど、ぐるっと」人差し指で空中に円を描いた。「ここを一周。どう?」

「外?」アインがその言葉に反応した。

「そう、外。このお城の外にも施設が管理している場所があるんだよ。射撃訓練や、戦闘訓練ができる演習場。聞いてない? ええと……」彼女は周囲を見渡し、東の方角を指差す。水泳上のある方向だ。「向こう側だよ。町の反対。入り江になっていて、そこに演習場があるの。射撃場は地下だけど、古い建物があって、訓練はそこでやるんだ。最近はやってないけどね」

 アインは、昨日車内で交わしたニコロとの会話を思い返す。ニコロは、日々の予定に関して、午前は決められた勉強をすることが義務であると語っていた。その時、実技もあるとも言っていた。その実技というのが、射撃訓練を含めた演習場で行われる課目なのだろう。

「最近は、本当に行ってないなあ」

 ミリィはそのように補足して、演習場での実技訓練が最近では稀な科目になっていると明かした。最後に演習場へ行ったのは、まだ寒い季節だったそうで、それ以来、演習場へは行っていないと言う。

「まあ、仕方がないんだろうけど……」

 そう言って、彼女は表情を陰らせた。その表情は、彼女にとってはとても珍しいものだったのだが、彼女との交流の日がまだ浅いアインは、それを知らない。何がどう仕方がないのかも、彼は知らなかった。だがミリィだけでなく、キャロも同じような表情をしていることには気付いた。

 演習場での実技訓練が現在は休止されていることには、何かしらの事情があるのだろう。その事情が何であるのかまで、彼は考察しなかった。それも彼にしてみれば、瑣末な事柄だった。

「お腹が空いたね」

 ミリィは、表情を誤魔化すように会話を切り替える。

 相変わらず、彼女の思考は曲芸的である。また、表情もそれに従順である。今、彼女の表情に直前に見せた陰りの色は浮かんでいない。

「そうだね、お腹は空いた」キャロが一呼吸の後にミリィの会話の後を追った。彼の表情はまだ僅かに淀んでいるだろうか。「でも、まだ少し早いかな」

「今何時?」笑顔のミリィが問う。

「さあ」キャロは腕を前に出し、彼女に自分の手首がよく見えるようにした。「時計がないから、わからない。でも、さっきは11時25分だった」

「さっきって?」

「サーシャが……」そこで言葉を区切り、言い直す。「サーシャとシャルルが行った時」

「どうしてわかるの?」

「見えたんだ。サーシャの時計が。ほら、彼女一度時計を見ただろう? その時に、ちらっと。確かに11時25分だった」

「へえ。よく見ていたね。相変わらず」

「え、ああ。まあ、うん……」彼は不規則なリズムで頷く。

「まだ12時前かあ。もう過ぎていると思っていた」

 ミリィは、自分の腹部を撫でながらアインを見た。彼女はまだアインに自分の身体を押しつけている。

「どうして?」

 ミリィはアインからの言葉を期待していたのだが、その問いはキャロからだった。アインは発言している人間の顔を交互に見ているだけで、その口が呼吸以外に使用される気配はない。密着状態であることに対しての反応も、相変わらずない。

「あたしのお腹の時間」ミリィは誇らしげに言う。胸も張った。

「ああ。それは、さぞ不正確だろうね」キャロはむせるように笑う。

「失礼ね。それなりに正確だよ。サーシャの時計が異常なの。だって、サーシャって毎日時計を合わせているんでしょう? 秒針まで合わせているんじゃない?」

「まさか」

「なくはないよ。きっと、サーシャの時計が世界の標準時間だ。それか、サーシャが標準時間」

「それより、施設を一周するって話は?」キャロが、逸れた会話を修正しようとする。「行くなら早くしないと鐘が鳴るよ」

 アインは今の発言に出現した、鐘とは何だろうと考えたが、やはり口に出して質問はしない。

「そうだった。いけない。忘れてたよ」

 ミリィは思い出したように言った。彼女は実際に、直前の話の内容を忘れていた。彼女は、自分自身の会話に振り回されることが頻繁にある。直前の会話を記憶しておくことが不得手なのだ。

「行くの? 行かないの?」急かすようにキャロが聞く。「どっちにするの」

「行くよ」急かされたことにミリィは腹を立て、わざとらしく頬を膨らませると、ようやくアインから離れ、地べたに置いたままにしていた教科書を持ち上げた。「当然でしょ。行くに決まっているじゃない。ほら、早く」

 ミリィは、仕返しのようにキャロを急かした。キャロは肩を竦めてから、自分の教科書とエレーナの教科書を一緒に持った。二人の教科書を重ねた状態で比較すると、キャロの教科書の方が痛んでいることがわかる。エレーナの教科書は滅多に開かれないからか、真新しい。まだ新品のアインの教科書と、区別がつきそうもない。

 ミリィが離れたことでようやく自由を得たアインも、自分の教科書を芝生の上から拾い上げる為に屈むのだが、その時彼は、エレーナと再び視線を交錯させた。エレーナはやはり、すぐにキャロの陰に隠れてしまうのだが、今回はその状態から、アインに向けて小さく手を振るという行為が追加された。

 しかし、アインには振られたその手の平にどんな意味が含まれているのかがわからず、視線を逸らし、見なかったことにする。

 エレーナは意外そうな顔を一瞬だけした後、自分の足元を眺めて悲しげな表情を浮かべた。

 視線を逸らした時、アインは女性宿舎の二階部分の窓を見た。意図的ではなく、偶然、目がそちらに向いただけなのだが、彼は無意識の条件反射で、その映像を記憶して、観察した。時間にしては一瞬。窓にはカーテン。部屋ごとにその模様は異なっている。いや、例外が一か所。カーテンが備わっていない部屋が一つだけある。誰もその部屋を使用していないのだろう。

 そして、中庭からの移動を先導するのはミリィだったが、目的地をどこに定めて歩き始めたのかは、アインは当然として、誰も知らなかった。彼女は、中庭から管理棟へと戻り、途中で食堂の様子を確認した後、正面玄関から外に出た。キャロが発言していた通り昼食の時間にはまだ早いらしく、食堂の中に人の姿はなかった。

 そこで彼女は進路に悩むが、そのまま女性用の宿舎の方へ進路をとった。後ろの三人は、それに従って行進をする。

「ねえ」手を後ろで組み、軽やかな足取りで進むミリィが、数歩歩いたところで後ろの誰かに声を掛けた。「もう少し笑おうよ」

 自分に向けて放たれた言葉だとアインは理解したが、返答はしなかった。

 ミリィは、お辞儀みたいな前傾姿勢で振り返る。

「笑顔。スマイル」アインの顔を見上げ、彼女は目と口を三日月の形にした。「昨日も今日も、ちっとも笑わないじゃない」

「そうかな」無表情のまま、アインは聞き返す。

「そうだよ。何だか暗い。いい顔が台無しだよ」

 現在、自分の顔が笑顔の形状ではないことは自覚していたが、しかしそれは昨日と今日に限ったものではない。彼のこれまでの歴史をどれだけ遡上しても、そこに、笑う、という行為は記録されていない。彼はこれまでに、笑うという行為を行ったことがないのだから当然である。

 それに彼は、いい顔というものがどんな顔であるのかもわからなかった。試験的に、ミリィの今の表情を真似してみたが、持ち上がったのは顔のパーツの内、右頬の一端だけ。彼は顔の筋肉を、それ以上に操作ができない。

「それは、わざとらしい」ミリィ、は自分の腹部を抱えて笑った。「それに怖いよ。映画だったら、悪いヒットマンか、マフィアのボスの、うーん、……その息子? そんな感じ。勿体ないなあ、笑えばもっといい男だよ。あたしが全力で認めちゃうよ。ほら、あれと違って、いい男」

 歯を見せ意地悪い表情を浮かべた彼女は、気付かれないようにキャロを指差した。

 その指は見えなかったが、しかし自分へ向けられた嘲弄を聞き逃さなかったキャロは憤慨する。

「ちょっと、ミリィ。誰が何だって?」

「別に、何も。何も言ってないよ?」

 彼女は誤魔化すつもりだったのだが、笑いが堪えきれず、言葉も肩も小刻みに震えていた。

「自分のことを話している声はよく聞こえるものなんだよ」

 キャロは目つきを鋭くするが、そうして完成した表情は、とても違和感のあるものだった。彼の顔は柔和という形容が最適であり、鋭利さとは無縁な形状なのだ。

「えー、聞こえないなあ」ミリィは両耳を塞ぐ。「聞こえない、聞こえない」

「わたし、きこえた」そこでエレーナが、元気良く挙手をする。「アインのほうが、キャロよりかっこいいっていった」

「おお、エレーナは耳がいいね。正解」

「ちゃんと聞こえてるじゃないか」キャロは、瞳の両端がより鋭くなるように努力する。

「ごめん、やっぱり聞こえない」ミリィは耳を塞いだまま振り向く。

「ミリィ」

「あはは、ごめんキャロ。でも大丈夫。アインには敵わないけど、キャロも、いい男だよ」耳を塞ぐのをやめて、ミリィは胸の前で拍手をした。意味のない拍手だ。「ニコロさんにも敵わないけど」

 キャロは、この後に言われるであろう言葉を先読みする。

「ゼフさんにも敵わないって言いたいんだろう」

「正解だよ。それでね、アイン」と言って、彼女は目の前にある渡り廊下と、その先にある女性用の宿舎を指差した。「ここが、あたし達、女の子の宿舎ね」

 ミリィは、会話の内容を施設の案内に引き戻したのだが、直前の会話との間に僅かな間も挟まず説明を始めたので、他の人間がその様子を眺めていたなら、そこで話題の入れ替えが行われたとは認識しずらいだろう。曲芸的と呼べた。

 キャロは、本当はまだ直前の会話に対して物申したかったのだが、彼女のこういった話題転換の速度、転換先の予測の困難さと、会話の引き戻しの困難さも十分に理解していたので、それまで執拗に彼に向けられていた揶揄は終了、消滅したのだと噛み締め、ミリィの先導に従った。もし、彼がそれを諦めずに挑んでいたなら、達成には途方もない時間が使用され、時計の針は容易に一回りさせていただろう。

 ミリィの女性宿舎に関する説明は続く。それは、アインにとって既知の情報が殆どだったが、新しい情報も僅かだが含まれていた。

 男性宿舎は、渡り廊下を過ぎたらそこから先には個人個人の部屋が割り当てられているだけだったが、女性側の一階部分には、共有設備としての浴場が備えられているのだそうだ。位置は、渡り投下を過ぎてから九十度曲がるまでの範囲。五つの部屋数分の広さである。。

「誰かと一緒に入るのが嫌じゃなければ、誰でも使えるよ」ミリィは、嫌じゃなければ、という箇所を強調した。

 アインは、大衆浴場という文化が浸透していない国があることを思い出す。どうやら施設の中にはそういった生活習慣の国の人間が多く含まれているらしい。キャロ自身も、部屋にシャワーが備わっているので、ここはあまり使っていないと言った。

 しかし何故、両方が宿舎であるのに一方にのみその設備を設け、もう一方には設けられていないのかについては、ミリィによると、男性用の宿舎はその昔、城に仕える使用人の居住スペースだったのだそうだ。生活に不便がないよう最低限の改装はされたのだが、室内にシャワーを設置することが認められた改築の限界で、何世紀も前に建造された城であるという性質上、それ以上の改装や改築、それこそ一階にある部屋の壁を取り除き、一部屋に連結させて浴場にするといった工事には許可が必要で、当然それは申請されたのだが、あっさりと棄却され、今に至っている。よって、施設に在籍している男性は、シャワーが備えられた以外には、それほど当時の使用人と変わらない環境で暮らしているのだそうだ。

 その反面、女性用の宿舎は昔から来賓客の為に使われていた場所なので、建築された時点で既に、その部分には入浴設備が配備されていた。部屋毎にどうにかして設置されたシャワーとは異なり、その見栄えは今いるエントランスのホール同様に、絢爛たる装飾が施されているという。その比較対象にミリィは、この国でも格式高く有名なホテルを挙げた。そのホテルのスウィートに匹敵する豪華な見た目なのだと自慢げに説明をする。だが、そのホテルに行ったことがなければ、ホテルの内部を見たこともないとも、彼女は付け加えた。

 そこでミリィは、話が脱線して浴場の説明からホテルの話題に切り替わっていると気付き、話題の軌道修正を行う。

「そういう建物だから、広いお風呂があるの」ミリィは上を見て言う。彼女の手は頬の横で指折りしていて、説明する内容を数えているようだった。「でも、何時から何時までが女の子の時間で、何時から何時までが男の子の時間って分けられているから、間違わないようにね」

 だが、その時間がどうしても思い出せなかった。伝えるべき重要な部分だとわかっているのだが、そもそも彼女も自室のシャワーを主に使用しており、浴場へ行くのは月に数回程度だった。

「肝心の部分の説明がないじゃないか」助け舟として、キャロが正確な時間を教えてくれた。「……まあ、女の子はみんな部屋のシャワーで大丈夫らしいよ。実は、シャワーもあっちの方が少しだけ広いんだ。僕たちの部屋より、二回りくらいかな。だから、使っているのは僕達、男くらいだと思うよ。女の子が使っているところは、見たことがないな。あ、いや、……変な意味ではなくてね」言って、顔を赤くした。余計な発言をしてしまった。そのせいで彼の頭の中では、女性が入浴をしている光景が再生される。

 キャロは左右に頭を振り、頭の中に勝手に浮かび上がってきた映像を掻き消そうと奮闘する。彼の頭の中では、彼が施設の中で顔と名前を知っている全ての女性が湯船に浸かって入浴をしていた。湯気が過剰に多い妄想だったが、そんな中で、サーシャの姿だけは鮮明だった。

 彼は、想像したサーシャの裸体を振り払うことに最も苦労した。

「今度機会があれば、一緒に入ろう」ミリィはアインに接近する。誘惑のつもりの接近だった。「ねえ、どう? 入る?」

「何に?」平静を保ったアインが聞く。

「何に、って、何?」

「何に入るんだろう」

「やだなあ。お風呂にだよ」

「他にも設備があるみたいだ」

「設備? ああ、ここに? ううん、他にはないよ。あるのはみんなの部屋だけ」

「施設にいる人の数と合わない気がする」

「うん。ほとんどの人は、町にある施設の寮で暮らしてるよ。そっちの方が、こっちよりも格段に部屋が広いの」

 ミリィは、宿舎で生活をしている人間と、どこが誰の部屋であるのかを説明した。

 二階建ての宿舎の残りの一階には、施設で仕事をしているスタッフが暮らしている。だが、これは男性宿舎も同じなのだが、一階部分は居住用ではなく、やむを得ずに泊まり込む必要が生じた際に活用されているのだそうだ。実際に居住の為に使われているのは二階部分で、管理棟から最も遠い位置に、管理官のメイの部屋。そこから順に、ミリィの部屋、サーシャの部屋、シャルルの部屋、空室と並び、そこで九十度曲がり、エレーナの部屋、空室、マンマと呼ばれている例の食堂スタッフ、それ以外の食堂スタッフ、食堂スタッフと続く。

 そこでアインは、自分が得ている情報と今の説明との相違を発見した。

「空室なのにカーテンが掛かっていた」確認を目的として、アインは呟く。

 今彼らが立っているのは廊下側なので窓は見えないが、それは彼が、直前に偶然観察して得られた情報だ。中庭で彼は、確かに、二階の窓にはカーテンが備わっていて、それがないのは一部屋だけだと確認していた。それなのに今の説明では空室は二部屋であるとされていた。説明と一致していないのは、シャルルの部屋とミリィの部屋の間の空間。空室だとミリィは言ったが、アインの瞳は、そこにも確かにカーテンが掛けられていることを確認していた。矛盾している。無人の部屋にもカーテンを備える習慣があるならおかしくはないが、カーテンを備えていない空室があるので、それも矛盾する。

「ああ、うん。そうだね……」ミリィは歯切れの悪い返事をした。表情は日陰に入ったかのように陰る。先程も見せた表情だ。「ええとね。あそこは……」

 その時、彼方で鐘の音が鳴った。

 鐘は町の方で響いており、その音が都合良く会話を遮る。

 アインは、音の発生源であろう方向を見る。低い音は施設の城壁で反響し幾重かに重なって聞こえたので、正確な探知ではないだろうが、彼が見た方向で概ね間違いなく、鐘は鳴っているのだろう。

 町の中心にある教会の時計塔が鳴らす鐘だと教えてくれたのは、エレーナだった。毎日正午に、一度だけ鳴る。施設だけではなく、この町のすべての住人が、その鐘を合図にランチを始めるのだそうだ。時計を持たない人間でもその瞬間に、この町の標準時間を知ることができると、彼女はキャロの腰に抱き付いたまま教えてくれた。

 先程言っていた鐘とはこれのことかと、アインは理解した。

 ただし、その鐘は教会の神父がろくに調整をしていない自身の時計を基準にして鳴らされていて、それは正確とは程遠いのだと補足するのは、キャロ。時報の役割を担っているにもかかわらず、鳴らすことを忘れることも稀にあるらしい。その頻度は、週に一度から月に一度の範囲内だとも教えてくれた。

「さあ、ランチだ。行こう行こう」ミリィが普段通り、直前の話題を投げ捨て、切り替えた。彼女はにこりと微笑み、アインの手を取って再び管理棟へ向かおうとする。「目的地は食堂だよ。さあ、行こう」

 うん、と、アイン。

 彼は、何も気にせずに従った。

 キャロとエレーナも、後を追う。

 直前の会話は、水蒸気のように風に溶け、消えていた。

 自然な消滅ではない。

 作為的な消滅。アインは、そう感じた。

 鳴った鐘が要因である。

 そうでないことも、感じていた。


 8


 先程までは無人だった食堂には既に多くの人が集まり、アイン達が来た時には、ほぼ全ての席に人が着席をしていた。前日に確認をした、四名掛けのテーブルが平行に八つ並んだ中から空席を見付けるのは困難な人口密度で、響いているのは喧騒に近い賑やかさだ。

 見た限りの観察だが、既に昼食を始めている大人達は、それぞれ繋がりの深い仲間とテーブルを共有し、食事と話題を共有をしているようだ。その交流はひとつのテーブルの上で完了しているらしく、隣のテーブルの誰かと会話をしている人間は見当たらない。

 施設に幾つの部署が存在しているのかを把握していないが、現在の食堂の様子をアインは、民族的だと感じた。同じ血筋の人種であれば互いに交流を持ち、連携を築く。だが、異なるならば接触も、交流も、連結もない。唯一共通しているものを挙げるなら、着衣しているのが白衣という点だけだ。

 昨日見た衛兵も、同じ服の人間と食事をしていた。その制服はその二人しか着衣しておらず、この空間では除け者や希少民族を連想させる。その印象をより強くさせる要因が、彼らが着席している位置だ。彼らは追いやられたかのように、食堂の隅で食事をしている。

 そして、それより希少な衣服の種類をアインは知る。ニコロのようにスーツを着ている人間は、ここに今、一人もいない。どうやら、施設で一番の少数民族は、彼であるらしい。割合を想像するに、全体の九割は白衣の集団で、残りの一割を均等に、生徒、衛兵、管理官と振り分けられているようだ。

 アインは、施設の人間が一堂に会した光景を見て、ここがやはり学校ではなかったのだと認識した。

 アインが食堂の入り口でそういった観察をしていると、ミリィが食堂の中にサーシャとシャルルを見付け、大きく手を挙げ、おーいと声を張り上げた。彼は、その声を切っ掛けにして食堂の観察をやめ、ミリィを見てから、彼女の視線を辿り、サーシャとシャルルを発見する。

 二人は奥まった位置のテーブルに隣り合わせで座り、ミリィの声に答えて手を振り返していた。衛兵のテーブルの隣で、そのテーブルには二人以外に誰も座っていないが、その他にまだ四脚の椅子が並べられている。他のテーブルよりも二脚多いが、それは衛兵のテーブルから移動してきたものだった。彼らの席には着席している二人の椅子以外には何もテーブルを囲んでいない。生徒全員が同じテーブルで食事をできるようにという配慮だろう。

「行こう」ミリィはアインの手を握り、彼を引っ張ってその席へ向かった。キャロとエレーナは、ゆっくりとその後を追う。

 アインは、食事をしているスタッフに接触してしまわないように身体を横にして慎重に進むが、殆どのスタッフは、彼が後ろを通過する時、僅かにも触れていないのに、食事の手や会話を止め、物珍しげに彼の背を眺めた。

 その視線は今朝もロビーで味わったものであるが、彼は気に留めず、テーブルに向かった。それに、施設のスタッフの顔と名前は一致こそしていないが、朝に地下へ言った際に一度遠目にではあるが見ているし、スタッフも同様、一度は彼を見ている。どちらにも免疫力が備わっている。

 サーシャとシャルルが待つテーブルの上には、まだ一枚の皿も置かれていなかった。水の入ったボトルと空のグラスが人数分置かれているだけである。

 ミリィは、二人が先に食事を始めているだろうと予想していただけに、そこに到着をして直ぐ驚いた。首の運動でもするようにテーブルの上をぐるりと眺めた後、サーシャの後ろに立ち、聞く。

「まだ食べてなかったんだ。どうして?」

「待っていたのよ」サーシャは絵画のように座ったまま、口だけを動かす。「みんなで食べたいじゃない。折角なんだから」

「別に気にしなくてよかったのに」

「気にしたのはあなたじゃなくて、アインよ」

「ああ。アインね。あたしじゃないんだ」

「みんなで食べる初めての食事でしょう? だから、みんな一緒がいいじゃない」サーシャはアインを見る。その瞳は、食堂に入ってから彼に向けられていたものと異なり、柔らかで温かい。

「さすが、サーシャ。偉い」ミリィは座っているサーシャの肩に手を乗せた。反対の手は、まだアインと繋がっている。「あたしだったら、空腹に負けて食べているよ。すごいなあ」

「ミリィもすごいじゃない」サーシャはミリィとアインの手の繋がりを見た。「この短時間で、そんなに親密な間柄になったの?」

 サーシャの言葉にはからかいの意が含まれていたのだが、ミリィはそれに気付かなかったのか、鼻を鳴らし、誇らしげに胸を張った。

「まあね。私の魅力にかかれば、このくらいは簡単よ」

「それにしては、彼の表情に喜びが見られないのだけれど」

「よろこび? え、なに。喜びって言った?」

「ええ。ほら、見てみたらどうかしら。彼の顔」

「そう?」ミリィは真横の少し高い位置にあるアインの顔を観察する。「うーん。確かに、そうかも……」

「それだと、逮捕されたか、刑務所に連行されているみたい」

「ええ? それは、ひどいよ」

「どこを案内したの?」

「え? なに?」

「どこを案内したの、って」

「ええと、何の話?」

「アインに、施設を案内するって話だったじゃない」

「ああ、それね」ミリィは天井を見て、少し前の出来事を思い出そうとした。「ええと……」

「大した案内はできなかったよ」ミリィがそうしている隙に、遅れてその場に到着したキャロが、サーシャに歩み寄り、説明する。「そっちの宿舎に浴場があるとか、どこが誰の部屋とか。後は、……ああ、そうそう。演習場の場所とかも話したよ」

「まあ」サーシャは手の平で口を隠し、わざとらしく驚いた。「ひとつの場所を、随分と丁寧に説明したのね」

「うん、そうだね」キャロはその後の単語を強調する。「ミリィが、すごく、よく、喋った。いつも通りに」

「すごく、よく、喋ったのね」

 サーシャもキャロと同じく、強調した発音で繰り返した。それを聞いてミリィは瞳を細める。言葉が強調されたことと、それがされた意図を、彼女なりに察したようだ。

「ねえ。ひょっとして、意地悪を言われてる?」

「まさか。手を繋ぐくらいに仲よくなったのなら、それはいいことだわ」

「手が早い、とも言います」シャルルが小声で、しかし刺々しく呟く。「そんなに気安く、女性の手を……」

 その声はサーシャにしか聞こえなかった。その他の耳にまでは、食堂内の喧騒が邪魔をして届かない。

 サーシャが横を向くと、シャルルは不機嫌そうな顔で、瞳を言葉と同じ鋭さにして、ミリィとアインの手の重なりを凝視していた。だが、不機嫌さのレベルは自己紹介の時に比べれば、少しは回復しているだろうか。

「そんな目をしないで」サーシャはシャルルに身体を寄せ、囁く。「手を繋いでいるだけじゃない」

「でも……」

「さっきの約束」声を少し低くする。「忘れないで」

 シャルルは短く呻いた。この短時間に彼女の喉がこのように幾度も鳴るのは、人生で初めてのことだ。その音が聞こえたのは、それぞれの位置関係や喧騒から、聞かれたとしてもサーシャだけだろう。彼女にしてみれば不名誉でしかないその呻きが何であったのかと周囲から指摘される危険はない。だが、呻き、喉を鳴らしたことは自分自身がよく理解しており、何故このような心身状態となったのかも理解しているシャルルは、敗北感などの悔しさから、膝に乗せた手を強く握った。瞳は鋭いまま、その手を見ている。

「わかっています」

「本当に怖い眼差し」サーシャは呆れるように笑う。「メデューサも石に……」

「もう、その喩えはいいですから」シャルルは握った手でサーシャの肩を軽く叩き、その言葉の後を遮った。「よして下さい、もう、本当に」

「何の話をしているの?」ミリィが二人のやり取りに気付いた。彼女はサーシャの後ろから、サーシャとシャルルの中間へと立ち位置を移動する。

「普段と同じお話よ」サーシャの説明は簡潔だ。また、シャルルとの約束も守られている。「私とシャルルの、いつもと、何も違わないお話」

「えー。気になるなあ」

「何が気になるの?」

「秘密の話?」

「日常会話」

「教えて、教えて」

「さあ、ランチにしましょう」サーシャは話題をすり替えた。「今日も美味しそうよ。来て、アイン。ランチは、ビュッフェスタイルなの」

 静かに立ち上がったサーシャはアインを呼び、人が多く移動の自由度の低くなった食堂内を歩き始める。しかし、彼女の呼び声に最も早く反応をしたのは、キャロだった。彼はその場の誰よりも早く首肯し、エレーナを急かして歩き出す。アインは、ミリィと繋いでいた手を解き、その後を追った。

 その時ミリィは、あ、と短い声を漏らした。その声には、ちょっと待って、どうして手を解いたの、あたしと一緒じゃないの、といった複数の感情が込められていたのだが、その声も感情も喧騒に消され、アインには届かず、行ってしまった。

 ミリィは寂しげに手の平を眺める。直前まで握っていたアインの手の感触が、そこにはもう、残っていない。あっという間に蒸発してしまった。

 彼女は、肺の中を空にする気概で深く息を吐いた。もう少しだけでも、彼と手を繋いでいたかった。そんなことを考えながら、彼女はもう一度、息を吐き出す。二度目のそれは、彼が振り返らずに行ってしまったことに対してのものだ。最初のものよりも、そちらの方が深い息だった。

 憂鬱な吐息を終わらせて顔を上げると、彼女はシャルルからの視線に気付いた。シャルルは着席したまま、カッターナイフのような眼差しでミリィを見ていた。いや、その鋭利さは、見ると言うより、凝視と呼べた。或いは、敵視。

「何? どうかした?」ミリィは首を傾ぐ。

「べつに」シャルルは顔を反対に向けた。「なんでもありません」

「うそだ。何か言いたそう」

「気のせいです」

「気のせいじゃないよ」

 ミリィは鋭利な眼差しを気にも留めず、互いの顔が向き合うように執拗にシャルルの顔を追いかけるのだが、シャルルは忙しなく首を動かし、ミリィ以上の執拗さで互いの顔が向き合わないようにするものだから、ミリィはシャルルの左右の行き来を繰り返すことになってしまう。

 昔、今の自分の動きに似たおもちゃがあったな、とミリィは思い出した。それはあまり可愛げのない見た目のぬいぐるみで、どういう仕組みかは知らないが、置いた場所を中心に、回ったり起き上がったりを繰り返すものだった。見た目は、人を小馬鹿にした表情をしていたのだが、そのひょうきんな顔も彼女は気に入っていて、動きとしては単純な動きの繰り返ししかしないのだが、長く眺めていても不思議と飽きなかったので、暇さえあれば見続けていた。今の自分の動きは、それによく似ている。

「やっぱり、怒っているね」

 頭の中でぬいぐるみの形状を思い出しながら、ミリィはシャルルの表情の観察を続ける。ぬいぐるみは確か、シャルルの髪に似た毛並みだった気がする。ウェーブしていた筈だ。

「気のせいです」

 直前にも言った言葉を先程よりも強い語調で言い放つと、シャルルはテーブルに手を突いて立ち上がった。

 その動作の素早さに驚き、ミリィは直前まで考えていたぬいぐるみのことを忘れてしまう。シャルルが、テーブルを破壊する為に強く叩いたのかと思える速度だったからだ。

 シャルルは、何かを踏み潰すような足取りでサーシャ達を追う。

 ミリィは、明らかに普段と様子の異なるシャルルの後ろを歩きながら、推理をしてみた。

 シャルルは、どうしてしまったのだろう?

 ミリィは、シャルルの機嫌が今のようになった瞬間を探ろうとした。いつ不機嫌になったのかがわかれば、何故不機嫌になったのかもわかるだろうと思ったのだ。

 彼女は、身体の後ろで両手を握って記憶を遡る。記憶は朝の挨拶を交わした時にまで巻き戻されるが、その時のシャルルの様子は、思い出せなかった。おはよう、と言い合ったかどうかさえ思い出せない。だが、アインが中庭に来てからのことは覚えていた。どんな言葉がその場で交わされていたのかも覚えている。その時、シャルルの機嫌は既に悪そうだった。いや。明らかに不機嫌だった。あの訳のわからない口論もあったし、自分とアインが会話している時には、先程と同等か、それ以上に鋭利な眼差しで、妬ましそうに睨んでいたではないか。

 ミリィは、その時の彼女の様子を、そのように誤認していた。鋭利であった点は事実だが、その原因に妬みはほんの少しも含まれていない。

 そして、この誤認が、彼女を誤った結論に導いてしまう。

「ああ、わかった」ミリィは胸の前で手を打った。「羨ましかったんでしょう。シャルルも、アインと手を繋ぎたかったんだね」

 立ち止まったシャルルは振り返り、悲鳴のような声で否定をした。


 9


 前を歩くサーシャが、ランチはビュッフェ形式だと説明してくれたが、アインはそれが何であるのかがわからなかった。

 こちらよ、と彼女に呼ばれて、アインは、キャロとエレーナを追い抜き、サーシャの横に並ぶ。キャロはエレーナの歩行速度に合わせているので、目的の場所に到着をした時には順番が入れ替わったのだ。

 案内された先には大きな皿が並び、その皿には様々な料理が盛り付けられていた。昨晩見た際には椅子が備えられていないと確認した壁際の長方形のテーブルだ。彼は、この中から好きな料理を取れということなのだろうと判断したが、これがそのビュッフェ形式と呼ばれるものであるのならば、この他に何形式があるのだろうと考える。そもそも、ビュッフェ、という言葉が何語なのかが疑問だった。料理の前には『Buffet』と書かれた小さな黒板があったが、彼の知っている『Buffet』という単語は、食事の場に使用される意味を持っていない。彼の知る『Buffet』という単語は、殴る、虐待する、戦う。そういった、粗野で野蛮な意味だった。

 だが、彼にしてみればその疑問も些末なものである。深く考える必要はない。それがどんな意味であるのかなど、ここを訪れれば食事が支給されるという現実の前では、重要性がない。彼は、暴力的な響きを纏った料理を眺めながら、浮かんだ疑問を思考から消去した。

 今日の料理をサーシャが説明をしてくれる。今日は、ラタトゥイユ、豆のサラダ、カプレーゼ、アクアパッツァという名称のものだそうだ。アインはそれぞれの料理を物珍しそうに観察した。こうした料理を食べるのは初めてだ。勿論、見るのも。

 もう一つ大皿があったが、これはアインが到着した時点で、ほぼ空の状態だったので、何が盛り付けられていたのかがわからないが、サーシャが魚料理も肉料理もあると言っていたので、それは恐らく何かの肉を使用した料理だったのだろう。目の前の大皿に、肉を使用した料理は見当たらなかった。

 バゲットは籠に入れられ、香ばしい香りを漂わせており、温かい。それは昨日も嗅いだ香りだったが、この距離で吸い込むと、より甘く感じられた。

 サーシャが盛り付け皿を一枚、アインに手渡す。彼女が持っている皿には、既にバゲットが一切れ乗っていた。アインも、それと同じようにバゲットを取り、同じ位置に乗せた。

 彼女はカプレーゼをよそいながら、施設での食事の朝、昼、夜の違いを説明する。朝は簡素で、バゲットとサラダが食べられる。種類はそれのみ。サラダの内容は日によって無作為に提供され、昼食はこのようなビュッフェ形式。夜は簡単なメニューがあり、そこから好きな料理を選択できるのだそうだ。

 彼は、やや身構えてサーシャの声を聞いた。アインの耳はまだ、ビュッフェという単語に馴染めていない。その流れで彼は、夜の料理が何形式なのかと考えるが、その疑問も即座に消去した。

 頷きだけをサーシャに返し、アインもカプレーゼを取ろうとする。その様子に気付いたサーシャは、アインの分も掬い、彼の皿に乗せてくれた。

「ありがとう」彼は儀式的に言った。

「どういたしまして」サーシャは首を斜めに傾け、微笑む。

 後ろからキャロとエレーナが追い付いた。ミリィとシャルルは、二人のもう少し後方だ。キャロが羨望の眼差しでアインを見ているが、アインはそれを気に留めなかった。

 サーシャは次の皿を目指して進み、アインも横にスライドする。目の前で、料理が彼を通り過ぎて行った。

 空になっていた例の皿が彼に接近したのでそれを眺めていると、彼の視線に気付いたサーシャが、肉料理はいつも人気なのだと教えてくれた。彼女は今、魚料理を取ろうとしている。

「お肉が好きなの?」彼女が聞く。アインが肉料理の皿を見ていたので、そう思ったらしい。

 アインは、首を横方向に振った。

「じゃあ、お魚が好き?」

 今度は首を縦に動かそうとしたのだが、言葉での返答が必要だと思い、アインは行動を思い留まった。

「どちらかと言えば、そうかもしれない」

「そう。珍しいわね。男の子は、お肉が好きなものだと思っていた」

 サーシャは、視線を魚料理に戻した。魚は色の鮮やかな野菜と共に煮込まれており、得も言われぬ香りを放っていた。そこにはニンニクの香りも混じっている。サーシャが先程嗅いだのは、これの香りだったのだろう。

 サーシャは魚が好きなのだが、取る量は少量にした。

 アインは、彼女を真似て同じ量を皿に乗せた。

 それを見たサーシャが、意外そうな顔をする。

「小食なのね」

 言われてから、彼は自分の皿の状況を確認する。

 確かに、少ないだろうか。サーシャを真似して取っていたら、彼女と同じ量になっていた。そこまで真似る必要はなかったのだと理解して、彼はもう少しだけ魚を持ち上げ、自分の皿に追加した。

 サーシャが移動をする。彼も、同じ方向にスライド。料理がまた、彼の前を通り過ぎる。

「あー」

 泣き声のような声がしたので、アインはそちらを向いた。それはミリィの声で、彼女はこちらを、正確には、肉料理が乗っていたであろう大皿を見ていた。

「ない。空っぽだ」

「来るのが遅かったからね」彼女より一つ前を行くキャロが、彼女を宥める。「仕方がないよ」

「しかたがないよ」エレーナがキャロの真似をした。

「今日はお肉が食べたかった」ミリィは肩を落とし、ひどく落胆してバゲットを取った。「どうして人数分ないのかなあ。あ、それとも誰か、十人分くらい食べた? だとしたら、おしおきだ。あたしからの、壮絶なおしおきだ」

「野菜は残っているわよ」先頭位置から最後尾へ向けて、サーシャが声を大きくする。「お肉の味が、少しは感じられるかも」

「味だけじゃない。本物じゃなきゃ嫌なの」舌を出して言い返すミリィは、バゲットをもうひとつ皿に追加して、余程に空腹だったのか、取ったばかりのそのバゲットをその場で頬張る。「あ、そうだ」と、少ない咀嚼でバゲットを飲み込むと、料理を取り終えてサーシャと共にテーブルへ戻ろうとしていたアインを呼び止める。「ねえ。あたし、横ね」

 アインは足を止め、振り返り、ミリィを見る。

「横だよ。横」ミリィは、アインが自分を見ていることを確認してから、料理の獲得と言葉を続ける。「アインの横には誰も座らせないでね。右でも左でもいいけど、アインのどっちかの横は、あたしの席。オーケー?」

 そう言ってミリィは、左目を瞑る。

 アインは首肯だけして、サーシャを追った。サーシャは既に先程のテーブルに戻り、先程までと同様の姿勢で、他の生徒が戻るのを静かに待っている。

 アインはテーブルに戻ると、彼女の左隣に座った。彼が座ると、サーシャはテーブルの上に乗っていたグラスに、すべて同一の量になるよう、神経質そうに水を注いだ。

「食べ始めるのは、みんなが揃ってから」水を継ぎ終えた彼女が言った。「もう少しだけ待ってちょうだい」

 彼は頷き、そして彼女と同じ姿勢で、しばらくの時間待つことにした。それから全員が揃うまでに会話はなく、僅かな身動ぎも起こらなかった。

 戻って来たキャロは、お辞儀をしてからぎこちなく、サーシャの右隣に座った。エレーナは彼の横。背が低いせいで、対角線上にいるアインからは、エレーナの顔しか見えない。どうやら施設には、彼女の為のサイズの椅子が存在していないらしい。食堂の家具は、今の彼女には大きすぎた。

 ミリィは言っていた通り、アインの横に座った。シャルルは、その隣。エレーナとミリィの間に着席する。

 全員が揃ったのでアインは食事を開始しようとフォークを持ち上げるのだが、「まだよ」とサーシャが言って、それを制した。

 彼は、動かし始めたばかりの手を止める。フォークもテーブルに戻した。

「お祈りをしてからなの。もう少しだけ待ってちょうだい」

 彼にとってそれは、聞き慣れない単語だった。

 見回すと、全員の手はナイフやフォークを握らず、胸の前で握り合わされていた。

 彼は言葉の意味を悟り、その場の全員に倣って、胸の前で手を握った。

「クリスチャンはシャルルだけなんだけど、献身的な人だから、こうしているの」サーシャが、そう説明をする。一人でもそういう習慣の人間が集団に含まれているのであれば、全員で祈りを捧げた方がよいだろうと話し合って決めたのだそうだ。

「だから、正しいやり方でお祈りをしているのはシャルルだけ」そのように説明を続けて、サーシャは両目を閉じる。「私達は彼女の真似をしているだけ。お祈りの言葉も、ごめんなさい、よく知らないの。アインもそれで構わないわ。同じようにして」

「食事ができることに、きちんと感謝をしながら」シャルルが相変わらず刺々しい口調で補足した。「真似るだけでなく、感謝を」

 食事の前に祈る意味をアインはまだ理解できていなかったのだが、この食事に感謝をしろ、という最低限の情報は得られた。

 うん、と、アインは頷く。

 シャルルとアインだけが、まだ目を開けている。その他全員は目蓋を下ろし、既に祈りの準備を整えていた。

 浅く息を吸い込むシャルルも、目蓋を閉じた。

「天にまします我らが父よ」

 彼女は、謳うように祈りを始める。

 彼女の声を聞きながら、アインも目を閉じた。

 シャルルの声は、澄んだ響きだった。濁っていない。それを例えるなら、鈴のような音色だ。思い返すと、これまでに聞いた彼女の声とは、刺々しく敵意のある声と、昨晩の甲高い悲鳴だけなので、普段の彼女の声というものを、アインは今初めて聞いたことになる。

 その声を聞きながら彼は、自分が日本国籍であるということを他人事のように思い出した。ならば、自分にとっては仏教的な祈りが適当なのだろうが、仏教徒がどのように祈るのかも、彼は知らない。それに昨今では、国籍と宗教の関係性は皆無で、双方の繋がりは雑然としていると聞いたことがある。日本では、仏教と並んでキリスト教の信者が多くなり、勢力的には拮抗から優勢に転じつつあるらしい。世界的にも、キリストを信仰している人間が増殖している。その拡大は細菌の成長のように、他を浸蝕して広まっている。戦場でも、様々な国籍の兵士の首に十字架が下げられているのを見てきた。

 ならば、記録としては日本人である自分が周囲に倣い、こうしていても何ら問題はないのだろうが、祈りという行為が、アインにはどこか、心地悪かった。

 それは、食事の前に祈るというのが初めての体験だからだ。彼は、これまでに一度として誰かを、或いは何かに対して祈ったことがない。祈ることで問題が解決をするのならそうしていただろうが、これまでの彼の周囲の環境では、解決する為に必要なこととは、自らが行動を起こすこと。それが、全てだった。自分の行動。それが全て。祈りは、立ち塞がる問題を解決してはくれない。

 そんなことを考えていると、自分は今、ただ瞳を閉じているだけなのだと気付く。

 これは、祈りではない。

 初めての体験でも、それに気付けた。

 祈りとは、神に向けて捧げられるものであって、考えるものではない。祈祷と瞑想は、思考の方向性にって区別されていると認識している。自己の外部へ意識が向いていれば祈祷で、内部へ向いているならば瞑想。彼の思考は今、自身の内側に向いている。ならば、これは後者だ。

 祈れと言われた。感謝をしろとも言われていたが、今ここで行われているのは、祈りである。ならば、感謝をしつつ、自分の意識を外部へ向けてみようと考えた。姿形を知らない神という存在の姿を想像し、ぼんやりとしたその偶像へ意識を向けようと努力する。戦地で、様々な国籍の兵士が崇めていた偶像だ。敵対関係にある双方の兵士達が、唯一共有していた、信仰の対象。

 彼が思い描いた神は、両手に拳銃を握り締めていた。

 その理由は、わからない。

「父と子と、聖霊の御名において」シャルルの鈴の音。「アーメン」

 他の生徒達も、同じ言葉を続けた。

 アーメン。アーメン。アーメン。

 その声で、アインの中の偶像は消滅する。消滅した後では、自分がどんな形を想像していたのか思い出せないが、どことなく、自分と似た姿をしていたという朧気な記憶だけが、頭の片隅に残渣のように残されていた。

 目を開くと、彼以外の全員が胸の前で十字を切っていた。その目蓋は、まだ閉ざされたままである。

 アインは、瞳を開くのが早すぎた上に、アーメンと言うタイミングを逃し、十字さえ切り損ねてしまったらしい。それでも一応、或いは仕方なく、彼は自分にさえ聞こえない声でアーメンと呟き、胸の前で十字を切った。

 祈りの後、エレーナが一番にフォークを持ち上げた。自分と高さの合っていないテーブルを相手にしながら器用に料理を掬い、口に運んでいる。そんな彼女の横では、キャロがエレーナのバゲットを彼女が食べ易いサイズに小さくカットしていた。彼は妹に対して、過剰な過保護であるらしい。

 アインもフォークを持ち上げて食事を始める。最初に口に入れたのは、魚の煮込み料理。それは、まだ温かい。

 ミリィは、ちぎったバゲットに料理を乗せて頬張っている。そんな彼女が、口に放り込んだ一口目を飲み込んだ後、口を開いた。

「そう言えば、そろそろだね」

 全員が首を傾げた。彼女が何を思い出した上で、もうそろそろであると言ったのかがわからなかった。

「そろそろって、何が?」キャロがエレーナの補助を終え、ようやく自分の食事を始めながら聞く。「何のこと?」

「何って、決まってるじゃない」ミリィは大袈裟に驚いてみせた。「開拓際だよ。来月じゃなかった? いや、来月だよ。ね」彼女は横のアインを見るが、即座に直前の言葉を訂正する。「開拓際っていうのが、来月あるの」

「ああ、開拓際か」キャロは料理を頬張る。きちんと咀嚼し、飲み込んでから頷き、サーシャを見た。「来月の終わりだっけ?」

 会話に招かれたサーシャは、首を縦に一度だけ、ゆっくりと振った。彼女の食事は、この場の誰よりも綺麗である。この場の、とは、このテーブルという範囲ではなく、食堂全体を指し示している。彼女の料理の食べ方は、さながら宮廷での晩餐だ。今の首肯も、彼女から溢れ出る美麗さを際立たせている。

 そんなサーシャは、発言の前にナプキンで唇を優雅に拭った。

「そうね。前夜祭と後夜祭があって、三日間。そうよね、ミリィ?」

 ミリィは口の中に豪快に料理を詰めながら頷くと、水で料理を胃袋に流し込んだ。彼女とサーシャの食事スタイルは対極で、この地球の直径よりも遠く離れた位置関係らしい。

「そう。楽しみだね。今年もいろんなお店が出るんだろうなあ」ミリィは次の料理を口に入れる。

 アインは、食事を一時的に中断して会話に耳を傾けた。その様子に気付いたミリィが、お祭りだ、と説明してくれた。

「この町で一番大きなお祭りなんだよ」彼女はアインの顔を覗き込み、肩を接触させて説明を続ける。「この町にはね、大きなお祭りが三つあるんだよ」指を折り、数を数える。「一つは、クリスマス。もう一つはハロウィンで、それと、開拓際。この三つ」

「四つです」シャルルが注釈で会話に加わる。「イースターを忘れています」

「イースターは、人気がないじゃない」即座に返されるミリィの言葉。「人気があるのは、今の三つ」

「人気って」シャルルは手の平からフォークを落としそうになった。彼女がミリィの言葉にショックを受けていることは明らかである。「なんて人でしょう。イースターですよ?」

「だって、そうじゃない。それって、町で大きく取り扱われることもないし、あたしの知る限り、それを大事にしているのは、シャルルだけ。町で何かが行われることもないでしょう? パーティーみたいなことしてる? してないよ?」

「そうですけど……」シャルルは俯き、言葉をテーブルにこぼす。だが、すぐに顔を上げ反論を試みる。「でも、大事な復活の主日です」

「たまごが、何かあるんだよね」ミリィは少ない知識の中から、イースターに関する情報を引き出すが、引き出せたのはそれだけだった。

「ええ、そうです」シャルルが背筋を地面に対して垂直にし、胸を張る。「復活祭ですよ。イエス・キリストの。そして……」

「それは、今はいいから」会話を断絶させ、ミリィは再びアインと向き合う。「それでね……」

「ちょっと!」

 シャルルはそこで、喉元まで出かけた言葉を飲み込み、唇を噛むように閉ざした。どうにか発せられるのを止められたのは叱責の言葉で、その言葉の後に彼女は、イースターに関する情報を正しくミリィに教えようとしていたのだが、ミリィを相手にしてそれを完遂することは不可能だと気付いた彼女は、口先を尖らせて食事を再開し、少し乱暴にフォークを魚に突き刺して、口に運んだ。複数の感情のせいで、彼女は、今日の料理は味が薄いと感じていた。

 ミリィは、開拓際の歴史について語る。

 開拓際の歴史は、今から数世紀遡り、その当時国土の全体に広まっていた戦災から逃れる為に、生まれ育った土地を捨てて移民となった祖先達が、戦災に突き飛ばされるように本土を南下し、終戦の間際、山脈と海に囲われ、地図上からも人間の視界からも死角となっていたこの土地を発見し、この場所を安住の地として居を構えたことを由来としている。祖先がこの地に一歩目を踏み入れた日が、残された文献から来月の末日であるとわかって以降、その日をこの町固有の祝日として祝う習慣になったのだそうだ。

 この土地は大陸南端に位置しているが、こういった経緯から、住民の血筋の起源は北部にあり、文化には南北のものが入り混じり、独自の進化を果たしていた。それを顕著に感じられるのが、開拓際であるらしい。

 ミリィはそこで会話の内容を、歴史から食文化に切り替える。

 アインは聞き洩らしがないよう、彼女の声に集中している。

「ポルチェッタって知っている?」ミリィは器用に、説明を途切れさせずに食事をしている。話しながらも口には食事が運ばれ、言葉は続く。「豚の丸焼きなんだけど」

「仔豚だよ」訂正するのは、エレーナ。「豚のこども。おとなじゃないよ」

「ああ、うん、そう。仔豚。そう言わなかった?」ミリィは一瞬だけエレーナを見るが、本当に一瞬だけだった。視線はすぐに、アインに戻る。「まあ、いいや。それで、とにかく、それが開拓際のメインイベントなんだよ。タダで食べられるの。町には大広場があって、そこで焼くの」

 そうなんだ、という意味合いを込めて、アインは頷く。

「元々は、北の料理なんだ。ね、エレーナ?」

 ミリィは、皿の上にある料理をフォークでつつきながら、エレーナに聞いた。アインからは首から上しか見えていないエレーナの顔が、一度だけ前に傾いた。

 その料理は本来北部の郷土料理で、南部では、食卓で見ないことがない訳ではないが、祭事の折に振舞われる風習はない。その他にもこの町の起源が北部にあることの証拠は、やはり食文化から感じられるのだと、エレーナが舌足らずな口調で細かに説明をした。

 アインは料理のことなど何ひとつわからないが、それでもエレーナの料理に関する知識は優れていると理解できた。彼女の説明は、辞書に記載された文面のように正確だったからだ。

「エレーナは、料理が上手なんだ」エレーナの横で、キャロが自慢をするように言う。「前に焼き菓子を作ってくれたんだけど、これがすごく美味しかったんだ。作るだけじゃなくて料理に関する知識も、今みたいに、他の皆より沢山持ってる。凄いだろう?」

 うん、と、アイン。

 彼は、エレーナから聞かされたばかりの幾つかの料理名を頭の中で繰り返したが、口頭説明だけだったので、それがどんな料理であるのかは想像できなかった。仔豚の丸焼きに関しては、その名の通りの形状しか想像できない。

 彼がそうしていると、食事はいつの間にか終盤となっていた。全員の料理は、皿の上から胃袋の中への移動を終え、一番に食事を終えたサーシャは、空になった皿の上にフォークを斜めに置き、両手を重ねて膝の上に乗せてその場の様子を眺めている。

 彼女の動きを視界の隅で確認したアインは、少し前に既に温度を失っていた料理の最後の一口を口の中へ放り込み、少ない咀嚼で飲み込んだ。

 豪快な食事スタイルだったミリィが、現在では誰よりも食事の速度が遅い。説明をある程度終えてからは、ずっと皿の上の料理をつつくだけだった。どうやら、彼女の食事ペースにはF1マシンのような加速度があるが、燃費がとても悪いらしい。彼女の性格から考えれば、彼女らしいとも言える。彼女の皿に盛られた料理は、今ようやく半分に差し掛かるところだった。

「去年は、キャロが道端で寝ちゃって大変だったんだ」彼女は、捗らない食事を続けながら頬杖をつく。「初日にお酒を飲んで、酔っ払っちゃって、それで、次の日は気持ちが悪いって言って、開拓際には行かなかったの。三日目は、……あれ、三日目はどうしたんだっけ?」

「初日にジュースだと嘘をついてワインを飲ませたのは、君じゃないか」叱るように言うキャロも食事を終え、フォークを皿の上に置いた。「二日目は君の言う通り、気持ち悪いのが続いていたから、ずっと寝ていた。三日目は、君の横に居ると同じことをされそうだったから、君が見える場所にはいなかった。君が見えたら逃げたんだ。あの時、どれだけ気持ちが悪かったか、君は知らないだろう」

「知らない。あたしはキャロじゃないもん」

「本当に、散々な開拓際だった。あんなのは、二度と味わいたくないよ」

「顔が真っ青だったものね」サーシャが軽く握った拳を口に重ね、くすりと笑む。「キャロには申し訳ないけれど、去年の開拓際で一番面白かったのは、それだったわ。覚えていないでしょうけれど、キャロ、あなたは、看板に話しかけていたのよ。誰かと勘違いをして、ずっと看板と会話を。あれは本当に可笑しかったわ」

「ええ? そんなことを、僕が?」彼の顔が急速に赤くなった。

「ワイン一杯で情けない」ミリィがふんと鼻を鳴らし、瞳を細めてキャロを見た。「ワインをボトルで何本も飲んだわけじゃないんだよ? たったの一杯であんなことになる? 情けない、情けない」

 赤い顔のキャロは反論をしようと彼女を睨むのだが、相変わらず彼の瞳はそういった感情には不向きな形状だし、今は赤色が前面に表れているので、余計に、睨んでいるという風には見えなかった。

 実のところ彼は、ミリィにからかわれている現状よりも、サーシャが去年の彼の失態を目撃し、尚且つ、今もしっかりと覚えていることが最大の無念だった。彼女のことだから、ぼんやりとした記憶ではなく、今も鮮明な映像で覚えているだろう。そして、それを自分が覚えていないという点も恥ずかしいし、悔しい。それが原因だろう。顔が赤くなるだけでなく、自分の体温が身体の内側から徐々に上昇していると感じていた。その火照りを冷ます為に、彼はグラスの水を一気に飲み干した。

「君と違って、アルコールに慣れていないんだ」彼の口は山形に変形している。「僕はもう、金輪際お酒を飲まない」

「のまない」エレーナがキャロの言葉の最後だけを真似た。

「お子様だねえ」ミリィは肩を上下させて笑っている。「お酒を飲めないのは、キャロだけなんじゃない?」

「エレーナも飲めないよ」

「のめない」

 キャロが言うと、エレーナは再びキャロの言葉の最後だけを真似た。これが、最近の彼女のお気に入りである。

「エレーナは仕方がないよ。飲んだら逮捕される」

 ミリィの言葉を聞いてアインは、この国とその周辺の国々が他の地域に比べて飲酒に関して寛大な規制を執っていることを思い出した。法令では十八歳の誕生日を迎えたなら飲酒は認められていた筈なので、やはりアルコール摂取が禁じられているのは、話の通り、この場ではエレーナだけだった。

「アインは、お酒飲めるの?」ミリィが質問をしてきた。彼女は料理の存在を思い出して食事を再開させるが、相変わらずゆったりとした速度である。「何のお酒が好き? 日本のお酒? ビール? ワイン?」

「飲んだことがないよ」アインは素早く返答した。

「お酒を?」

「そうじゃなくて、日本の……」

「ああ、サケってやつだよね」ミリィはアインの言葉の終わりを待たずに話す。「お米から作られてるやつでしょう? あれは、あたしも飲んだことがないなあ。でも、そうだなあ。アインは、ウィスキー」

 アインは首を横に傾ける。ミリィが話している内容がまったくわからなかったからだ。

 言葉をそのまま受け止めるなら、自分が液体だと言われているのだろう。或いは、高アルコールの液体だと。どちらにしても、液体だと言われていることに違いはないが、彼は液体ではない。隠語か、暗号か、ジョークだろうか。

 アインがそのように考えていると、ミリィは、イメージだと言葉を加えた。

「アインのイメージがウィスキーって思ったの。ちなみに、シャルルはワイン。サーシャはウォッカね」

「僕には、人が液体に見えない」

「何を言っているのさ」ミリィは吹き出して笑う。「あたしだって、アインはアインにしか見えてないよ。イメージだって言ったじゃない。イメージだよ。わかる? イメージ」

「イメージ」アインは言葉を繰り返す。そうすれば彼女の言葉の意味が理解できるかもしれないと思ったからだ。「ああ、イメージか」

「そう、イメージ。そういう雰囲気がするって話」

 説明をされてもアインには、彼女が言うイメージというものの共有ができなかった。

「それは、私達の国籍が原料でしょうね」両手を膝の上に乗せたままのサーシャが、アインを見ていた。彼のフォローをしてくれているらしい。「イメージの原料、そのきっかけになった要因よ。フランス生まれだから、シャルルはワイン。ロシアの生まれだから、私はウォッカ」そして確認の為、ミリィを見る。「そうでしょう?」

「そうかなあ?」ミリィは顎に指をあてて斜め上を見た。「国籍かあ。そうかもしれない。よくわからないけど」

「きっと、そうよ。だって、私はウォッカなんて飲んだことがないもの。お酒だって好きではないし」

「勿体ないよ。サーシャはお酒が似合うのに」

「キャロは? シャルルはワイン。私はウォッカ。それじゃあ、キャロは?」

「ジュース」即答するミリィ。

「それもイメージよ。去年の開拓際の」

 サーシャはそこで、誰にも気付かれなかったが、微かに笑った。彼女は再び、去年の映像を思い出していた。

 同時にキャロは、去年の開拓際という単語の影響を受け、平素の色に戻りつつあった顔を、また赤くする。

「うん、それは大正解かも」ミリィは頷くが、口は発言にしか使用されず、食事はまだ、半量を残したまま減っていない。

「イメージは先入観でしかない」サーシャが偉人の名言を教えるように言う。「まだ得ていない情報や物にイメージなんて想い描けないわ。目で見たもの、聞いた音、触れた何かを、それまでに自分が経験したものの中から、似通った、でもそれとは異なる何かと繋ぎ合わせる。これは、あれに似ている、あれは、それに似ている。そういう、自己完結によって形成された先入観。でもそれは主観的だから、大抵の場合、事実と異なる形をしているの」

「そうかなあ。先入観ねえ。こっちのイメージは、合っているんだけど……」ミリィの視線はキャロへと移動する。

 言われたキャロは、彼女から顔を背けた。彼女からの攻撃を回避する為の行動だったが、そうすると偶然、サーシャと目が合った。

「それは去年があるからよ」サーシャは、偶然合わさったキャロとの視線をそのままにして続ける。「去年のことが、ミリィのイメージの元よ。あんなトラブルがなければ、きっと、キャロのイメージもワインになっていたと思うわ。イタリアの国籍なんだもの。ジュースは可哀そうよ。エレーナなら、まだしもね」

「ふうん」鼻を鳴らし頷く彼女は、自分の皿に残されていた料理を口に運ぶ。食事の再開だが、終了はまだ先だ。「イメージって、そんな簡単に何かの影響を受けるの?」

「簡単に変わってしまうわ。そうね、例えば嫌いだった人なのに、ふとした瞬間、その感情が逆転するとか」

「ああ! それはある!」ミリィは大きな声と共に手を叩く。「ドラマや映画でよくあるね。ふとしたきっかけで恋人同士になっちゃうやつ」

「それと同じよ」

「でも、それは感情の話でしょ? イメージの話じゃないよ」

「その二つは、とても似ていると思うの」サーシャは顔を上に向けて、目を瞑った。そして空想でもしているようなその姿勢で、言葉を続ける。「イメージと感情は、その変わり方が似ているんだわ。この人への感情は、あれに似ていて、これにも似ている。なら、この感情はそれでもある。例えば……」そこで彼女は少しの躊躇をしたのだが、頭に浮かんでいた言葉をそのまま紡ぐ。「あの人が嫌い。息苦しいくらいに嫌い。でも、ある時、ふとしたきっかけで、その息苦しさは好きな人と話をするときの感覚に似ている、と知るの。きっかけは、イメージと同じで、その後に経験した、似通っているけれど、それとは違う何か。息苦しく感じるくらいに嫌いなのに、好きな人と話す時も息苦しい。異なる感情が、息苦しいという共通項によって、連結させられる。イコールになる。あの人に向けられる感情には嫌悪だけでなく恋慕も含まれている。……きっかけに大きさは関係がないのよ。特別なきっかけであれ、些細なきっかけであれ、それは確かに、何かに影響を与える。そして、何かを別の形状や状態にする。でもそれは、同じもの。イコールだから」

「ドラマや映画の話です」早口で会話に割り込んだのは、シャルルだった。「そんなこと、ある筈がありません。空想です。絵空事です。絶対にありません。絶対です」

 その言葉の速度に、ミリィは珍しく気圧された。

「どうしたの?」まばたきをしながら、ミリィはシャルルの顔を覗き込んだ。「どうしてそんなに、むきになっているの?」

 はっとしたシャルルは、一瞬だけ息を止め、慌ててミリィから顔を背けた。

 彼女は不覚にも、またしても想像をしてしまっていた。それは先程、サーシャと二人で会話をした際に思い浮かべた光景で、彼女が今言った、ドラマや映画のように、仲違いしていた二人が惹かれ合い恋仲になった、その後の光景である。

 シャルルは今までに一度として、異性とそのような間柄になったことがない。彼女はまだ、恋愛を頭の中でしか経験していない。その希少な経験の相手が、アインなのである。

 顔が熱を帯びている。それを感じたシャルルは急いで水を飲むが、その水は随分とぬるかった。

「シャルル、顔が赤いよ」ミリィは何気なく指摘した。彼女は、まだシャルルの横顔を観察している。彼女の測定結果は、今現在、シャルルの方がキャロよりも顔を赤くしているというものだった。

「気のせいです」シャルルが返す言葉はやはり早く、いつもより落ち着きのない響きをしていた。「いつも通りの私です」

 普段と違う状態にある。いつも通りでないということは、シャルル自身が一番よく理解をしていた。胸の鼓動は明らかな加速をしており、その音は、筋肉や骨格を伝わって鼓膜にしっかりと届けられていた。

 彼女は、胸に両手を当てる。手の平に自分の脈拍が感じられた。

 よりにもよって、今までで最も胸を高鳴らせる想像上の恋人がアインであるとは、なんて事態だ。心底悔しい。否、大事だ。絶望的な惨事と言って問題はない。

 今は落ち着こう。落ち着こう。このおかしな考えは、ただの考えで、想像にしか過ぎない。想像ならば、忘れれば解決する。そんな単純な対処法さえ、彼女は今、考えられないでいる。

 シャルルと、アイン。

 恋仲の二人。

 高まる鼓動。

 なんだ、これは。これは、なんだ。どうした、どうしてしまった。私は今、どうなってしまったんだ。彼女の頭の中では、そんな疑問符が、ハリケーンのように吹き荒れていた。

 彼女は飲み干したばかりのグラスに水を注ぎ足し、それも一気に飲み干した。

 シャルルがそうしている隙に、食堂の中からは喧騒が消えていく。

 この場で一番多かった白衣の集団が席を立ち、テーブルの上を片付けて仕事場へと戻っていった。彼らが席を立つのは、息を合わせたかのように同じタイミングだった。その動きは、やはり民族的だった。

 彼らが去ると、食堂は閑散とした雰囲気に変貌する。隅でひっそりと食事をしていた衛兵の姿は、白衣の集団よりも先に消えていた。彼らは食事中と同じように、ひっそりと食堂を去ったようだ。

 集団が去った食堂は今、訪れた時よりも広く感じられる。

「それより、午後はどうするの?」サーシャが聞く。周囲が静かになったので、彼女の声量が増したように聞こえた。「何か予定が?」

「何もないよ」シャルルを観察していたミリィが、サーシャを見ずに言った。瞳はまだシャルルを捉えている。食事は残り25パーセント程の残量だ。「サーシャは?」

「私は図書室へ。読みかけの本があるの」

「へえ、そうなんだ」興味なさげに打たれるミリィの相槌。その後、何かを思い出した彼女は、シャルルの観察を終了させ、アインに視線の向きを変えた。同時に、食事の残りも思い出す。彼女は口を大きく開いて、残されていた食事を口に放り込んだ。ペースを上げて飲み込み、「ねえ、アイン」と、声を掛ける。

 名前を呼ばれて、アインはミリィへ顔を向ける。

「途中だったよね。施設の案内、まだ途中だった」

 うん、と、アイン。

 だが、彼の認識では案内だけでなく、これまでの会話の全てが、中断されたか逸れたかで、一様にして完結していない。直前の、イメージや感情の議題もそうだ。シャルルの小言の影響で一時停止しているというのが、彼の認識だった。彼はまだ、このメンバー間で完結した会話というものを見ていなかった。今に至るまでの間の会話を彼は頭の中に留めているのだが、どれもが古いビデオテープのように小刻みな振動を伴う一時停止をしたままである。

 それらをどう処理すればよいのか。

「施設は本当に広いんだよ」ミリィは両腕を広げた。「地下もあるし、プールもある。そうだ、いい天気だから一緒にプールで泳ごうよ。水着ある?」

「持っていない」

 答えながら、彼は視線を動かした。

 彼の視線の先には、シャルルがいる。彼女は、プール、という単語に過敏すぎる反応を示し、その身体を置物のように硬直させていた。彼が視線をそちらへ向けたのは、その凍結の瞬間が見えたからなのだが、彼女の身体が再活動する様子はない。事実凍っているのなら、解凍には時間を要するだろう。

「そうか、それは残念」ミリィは広げていた両腕を元に戻した。「でも、午後はさっきの続き。デートだよ、デート」そして、ようやく最後の一口を食べ終える。「はい、ごちそうさま。神様、ありがとう。おしまい、おしまい」

 そこでアインはようやく、会話は一時停止ではなく、終了していたのだと気付いた。それは、終了と呼ぶよりも消滅に近かったが、再開されることはないだろう。そう判断して彼は、一時停止していたものを完全に消滅させた。頭の中に残留していたものが、ブレーカーを落とすように、僅かな余韻も残さずに消えた。恐らく、これから先、ここで交わされる会話というものは、今後もこういった完結を迎えるのだろう。これからは、今の経験を活かせるだろう。彼はそう考える。それが何の役に立つのかは定かではないが。

「みんなは?」サーシャが、ミリィ以外の全員に聞く。

「僕は、エレーナの付き添い」キャロは、エレーナを見ながら言った。

「つきそい」エレーナは兄を見上げ、笑窪をつくり、やはり、言葉の最後を繰り返す。

「付き添い? 何か作るの?」サーシャが聞く。

「僕が、じゃないよ」

「じゃないよ」

「聞かなくてもわかるわよ」サーシャはキャロと会話をしつつ、エレーナを見た。「エレーナが作るのでしょう? 頑張って」

「何かは知らないけど、何かを作るみたい」キャロは口を横に引っ張って笑う。「何を作るのか、聞いても教えてくれないんだ」

 彼の横でエレーナは、頬に浮かんでいる窪みをより深くした。その時だけは兄の言葉を真似ず、どこか誇らしげに、ひみつ、と言った。

「何を作るのかしら。楽しみね」サーシャはエレーナに微笑みを送る。「それで、ええと、シャルル。シャルルは、……いいえ、何でもないわ」

 サーシャは、凍結したままのシャルルにだけは聞かなかった。


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