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順応の始まり(前)

 第二章


 地球の表面は球面で、人間はこの地表の上を無限に分散していくことはできず、結局は並存して互いに忍耐しあわなければならないが、ところで人間はもともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない。



 1


 翌朝アインは、前日ニコロから指示されていた時刻に管理棟へ向かった。指定されたのは十時。現在はそれより十分早い。時間の指定と共に、朝の九時から待ち合わせの時間までの間は食堂で朝食が食べられるという説明も受けていたのだが、摂取したいという気分でも、空腹でもなかったので、アインはそれを実行せず、起床から指定の時間までは自室で何もせずに過ごしていた。

 天気は快晴。雲は少なく、風が穏やかに流れていると、自室の窓からも、渡り廊下からも確認をした。

 少し早く指定のエントランスホールに到着し、その隅に立っていると、頭上から彼を呼ぶ声がした。見上げると、声の主であるニコロが二階部分からアインを見ていた。彼の装いは、昨日と色が違うが、似た形状のスーツである。

「おはよう」ニコロは、眩しそうな顔で挨拶をした。「昨日はよく眠れたかい?」

 うん、と、アイン。

 そう返した後で、昨晩出会った管理官、メイ・リンからの言葉を思い出した。

「よく眠りました」首肯のみだった返答に、言葉を付け足す。「こんなに寝たのは久し振りです」

 どうにか言葉を紡いだが、その口調はぎこちなかったかもしれない。彼は、自分の発した言葉の響きや音程に違和感があった。不要な情報を発信することに、彼の口はまだ慣れていないらしい。

 ニコロはアインに、二階へ来るよう手の動きで促した。アインは指示に従い、階段を上がりニコロの元へ向かった。

 ニコロの先導で二階の一番奥にある部屋へ向かう。食堂などがあった廊下の真上に位置する廊下だが、一階と異なり部屋数は三つ。廊下の左右と正面なので、廊下の長さは一階の半分しかない。扉の位置や管理棟の平面図から推測すると、部屋は正面の部屋よりも左右にある部屋の方が広いだろう。その正面の部屋のドアには、オフィスと書かれたプレートが嵌め込まれていた。左右に、それらはない。

 ニコロは、オフィスのドアをノックせずに開ける。

 ドアを開けた先の部屋は、推測した通り、それ程に広くはなかった。アインの部屋よりは広いが、それでも面積は二倍あるかどうかといった程度で、入室してすぐの位置に配されている机が室内の大半を支配しているせいで、余計に狭く感じられる。机は向かい合わせに、計四つある。この室内で自由な空間とは、机と壁の間にある僅かな隙間だけだった。部屋の奥には、高さの低いテーブルとそれを挟んで二人掛けのソファがあったが、それも無理矢理に詰め込んだような配置だった。

 室内をよく観察すると、そのテーブルとソファの先には壁の一部分がくり抜かれた空間があったが、アインはそこが何であるのかを想像したり推測したりすることはしなかった。広さとしては、人が一人立っていられる程だろう。それよりも彼は、室内の他の部分の観察を優先した。

 四つの机の上には、それぞれディスプレイが乗っている。今は、その全てがスクリーンセイバーを表示しており、ディスプレイの前には同数のキーボードとマウスもあるので、それがテレビではなくパソコンなのだと判断できたが、パソコンの本体である部分は、部屋の中には見当たらなかった。

 それがどういった性能の物かはわからないが、アンティーク扱いされるような古い物でないことは、精密機器に精通していないアインにもわかった。

 彼が理解できなかったのは、管理官は三人と聞かされていたが、四台用意されているパソコンに関してだったが、彼は、その理由は自分には関係ない問題だと判断して、疑問は即座に、頭の中で消去された。

 彼の観察は続くが、部屋の中にあるのは、それだけだった。それ以外にそこにあるのはコーヒーの香りくらいであるが、香りは物体ではないので、それ以外に物はないと言える。窮屈だが、シンプルな空間だ。

 ゼフとメイの二人がデスクで仕事をしていた。メイが先にアインに気付き、顔を上げた彼女は、仕事の手を止めた。ゼフの机が入り口に最も近いのだが、彼の机は入り口に背を向けているので、彼がアインに気付くのは、メイのその動作に気付き、どうしたのだろうかと訝って振り向いた時だった。

 二人とも、自分の手元にはカップが置かれている。コーヒーの香りの元だ。

「おはよう」メイが微笑み、手を振った。

「よう」ゼフは短いその言葉を、口からこぼすように言う。

「おはようございます」アインは直立のまま、二人に言葉を返した。

 アインのその言葉を聞いたメイは、振っていた手を机に乗せて頬杖をつくと、感心したように、へえ、と息を漏らした。

「すごいわね」オーバーなアクセントで言う。「頷くだけじゃないんだ」

 うん、と、アイン。

 その後に彼は思い出し、はい、と言葉を追加した。先程ニコロにしたのと同じ一連の工程だ。

「ああ、それはそうよね。ある意味で期待通り」メイは口元を隠した。笑っているらしい。「まあ、すぐには治らないでしょうね。大丈夫、気にしないわ。それじゃあ、ええと、昨日も自己紹介したけれど、もう一度。メイ・リンよ。よろしく」そう言って、もう一度手を振る。

「俺は省略するぞ」ゼフは、椅子の背に片腕を乗せて言った。「まさか、昨日の今日で、もう名前を忘れたなんてことはないだろう?」

「昨日?」ニコロが、メイとゼフを交互に見ながら聞いた。「昨日会ったのかい?」

「ああ。いろいろと、……いろいろとあってな」ゼフは意地悪い笑顔を作り、その表情のまま、アインを呼んだ。同時に、自分の頬を指差す。「ここ、大丈夫か?」

 うん、と、アイン。

 その返事を聞いたメイとゼフは、二通りの意味合いで笑った。その場で笑っていないのはニコロとアインだけだったが、会話の意味を理解していないのはニコロだけだった。アインは無表情のままだが、二人が昨晩のプールでの一件に関して笑っているのだということは理解していた。ニコロだけが会話に取り残されているという状況だった。

 ニコロは困惑していたが、事の詳細を問い詰めようとはせず、自分のデスクへ向かい、昨晩の内に用意していた数冊の本を手に取った。彼のデスクは、ゼフの向かい、メイの右隣だった。

「仲良くしているのは安心したけれど、変な教育はしないでくれよ」ニコロは、ゼフに対し忠告の口調になる。「君を見習って成長したら、どんな人間に育つのかがわからない」

「簡単にわかるわ」メイはゼフを指差している。「こういうのが完成する」

「そうやって育ってほしくないから、言ったんだ」

「ひどいことを言うなよ、まったく」不服げに呟くゼフは、頭の後ろで腕を組んだ。言う言葉は不服げではあったが、その表情は、このやり取りを楽しんでいるようだった。「同じイタリア人のくせに」

「一緒にしないでくれ」

 ニコロは大げさな溜息をつき、持っていた本をアインに手渡した。これが君のだ、とも言う。

 昨日聞いた、座学の際に必要になる教科書だろう。アインは教科書という分類の書物を初めて見た。その内の一冊の内容を確認してみるが、その教科書には彼が理解困難な文字や計算式が並んでいた。表紙には数学と書かれている。歴史と書かれた本には、隙間なく文字が書かれていた。こちらは文字の密度の濃さに圧倒され、書いている内容が理解できなかった。

 教科書の他には聖書と、間違いで紛れ込んでしまったかのような哲学書が混ざっていた。それは、平和に関して書かれた書籍だった。アインはその本を以前に見たことがある。読んだことはないが。

 その哲学書には栞が挿まっている。誰かがそこまで読んだ証明であるのか適当に挿んだだけなのかはわからないが、そのページを開くと、アインの瞳に一文が飛び込んできた。

「平和は人間にとって不自然な状態である」

 文字は、そのように言っていた。

 昨日の夕方に漠然とした実感として抱いた平和というものを、この本は不自然な状態だと言っている。アインは平和と呼ばれる状態が何であるのかが、より一層わからなくなった。その不自然さの中で生き、変化を強いられている自分の今後の行動も、同じくわからなくなる。

 これらが教科書であるのなら、自分はここに記載されている内容を理解せねばならない。そう考えると、手に持っている本の重量が増したように感じた。

 アインがそんな気重さを感じていると、ニコロがこの部屋の説明を始めた。

 基本的にニコロを含めた三名の管理官は常にここにおり、何か用がある時は、ここへ来れば誰かしらが対応をするそうだ。

 うん、と、アインはやはり首肯だけで理解した旨を伝える。

「それじゃあ、次は君の仲間を紹介するよ」ニコロは、腕時計を見て時間を確認した。「メイ。みんなは?」

「歴史の勉強中」メイは椅子に座ったまま、部屋に一つだけある、中庭に面した窓を見た。「今日は天気がいいから中庭よ。私は仕事があるから、講師はサーシャに代わってもらったわ。捗っていれば、今頃ナポレオンが戴冠した頃かしら」

「ミリィとエレーナは、眠りかけている頃かな」ニコロは、その光景を容易に想像できた。

「ニコロ、アインの紹介のついでに二人を起こしてきて」

「朝から面倒な仕事」彼はそこで言葉を止め、言い直す。「大変な仕事だ」

「ああ、そうね」メイは苦笑しながら頷いた。「きっと、データを入力するだけの私の仕事の何倍も」そして、人差し指と中指を額に当て、フランクな敬礼をする。「よろしく」

 ニコロは片手を上げて了解と返事をし、アインの背中に触れ、移動を促した。「行こう。今度は中庭だ」

 短い言葉で次の目的地が告げられる。

 ニコロが先に部屋を出たので、アインは再びニコロの後を追った。

 ドアを閉める際にもう一度室内を見る。ゼフとメイは既に下を向いて業務を再開させており、こちらを見てはいなかった。

 アインとニコロは、先程も歩いた廊下を逆に進み、一階へ下りる。

 先程ロビーは無人だったが、今は何人かの大人達の姿がある。大人達は、新聞や何かの資料に目を通しながら歩いていた。それぞれが向かう方向は同じで、アインが見た限り全員が食堂の正面にあったドアを開け、その中へ消えていった。その大人達には、共通性があった。白衣を纏っていること。それと、全員が一度だけアインを一瞥し、その後は何事もなかったように、視線を逸らして通過するというものだが、それは、君を気に留めてなどいないという、下手な芝居のようだった。

 しかしそれによって、アインは、自分がこの場所では興味の対象であるのだと再認識した。その興味というものが、よい意味を指すのか、悪い意味を指すのかまでは考えない。人間として興味を向けられているのか、研究対象として興味を向けられているのかも同様に。自分がどのように見られようが、自分の考え方と感じ方でそれらが変化することがないことを、彼は知っている。

 適度に痛みを伴う視線を浴びながら中庭を目指したが、食堂の前を通過した時に、ニコロが誰かから名前を呼ばれて歩を止めたので、アインもニコロの背後で停止した。

 ニコロが振り返る。アインと向き合うが、ニコロの視線はアインを通過してその背後に焦点を合わせている。ニコロを呼んだ誰かがそちらに居るようだ。アインは左へ一歩スライドし、身体の向きも九十度回転させた。

 ニコロを呼んだ相手は、まだ数メートル離れた位置に居た。男性で、他の大人と同じく白衣を着衣している。

「やあ、おはよう」ニコロはこちらに歩いてくる男に挨拶をする。「僕を呼んだかい?」

「ああ、呼んだ。独り言でも、空耳でもない」男はニコロの前に立つ。アインの前でもある。「本当はこっちを呼び止めたかったんだが……」男は顎の向きでアインを指す。「名前を忘れた」

「アインだよ」ニコロが説明をする。同時に、アインは頷く。

「アイン、ね。オーケー」

「呼び止めたのは、その確認?」

「いや、もうひとつ」

「なんだい?」

「サンプルを今から採れるかな」

「サンプルを? 今から?」

 二人のやり取りを横で見ているだけのアインは、そのサンプルというのが血液採取等の意味だと察した。それが正解だと言わん仕草で、男は頷く。

「サンプルは、もうあるだろう?」

「あるけど、だけど、必要だ」ニコロからの言葉に男が答える。「あれは半年前に届いたやつだ。新しいものが必要なんだ。ほら、言うだろう。鮮度が大事だって」

「保管の設備や状況が悪いのかい?」

「そうは言っていない」

「言っているよ」

「じゃあ、言い換える。今後の業務の為に比較対象が必要で、それはなるべく早く欲しい。それに、何かの手違いで前に届いたサンプルが他の物と入れ替わっている可能性もある。そうだった時の為の保険だ」男の口調は、車がギアチェンジをするように、一つの単語毎に徐々に加速している。「これは何かの問題を発生させたりするマイナス要素じゃあないだろう。少しの時間と手間が必要なだけだ」

「わかった、わかったよ。了解した」ニコロは両手を胸の位置に持ち上げ、男を制した。その後に、相手には聞こえないであろう音量の溜息を溢す。「彼のここでの生活の最初の一日なのに……」ぼやき、もう一度溜息をして、横目でアインを見た。「行き先を少し変更してもいいかい? 寄り道だ」

「寄り道なんて言うな。俺の大切な仕事だ」男が言葉の速度を維持したまま食いつくように言ったが、その顔は笑っている。

「君に言っているんじゃない」男につられてニコロも笑んでいた。

 やり取りを見ながら頷くアイン。それを見た男も満足げに頷き、ニコロも同じ動きをした。

「ありがとう、ええと、なんだったか、……ああ、そうそう、アイン。そうだよな、名前」男が食堂の正面のドアを開ける。「ほら、アイン、こっちだ。一緒に来てくれ」

 男に先導されて、アイン、ニコロの順で進んだ。ドアを開けてすぐにあったのは、下方向へ伸びる階段だ。

 階段は、ドアを開けて左方向に向けて下っており、四、五メートル先で折り返しを繰り返す構造をしていた。段差は二十段。折り返しを合計で五回繰り返した先がその階段の終着点で、そこには灰色のドアが嵌め込まれていた。

 それは、近代的なドアだった。デザインが、ではなく、構造が、という意味である。

 これまでに施設の中で見たドアは、開閉という役割に施錠という機能がおまけで備えられていたが、大きさとしてもその他のドアより二回りほど大きいそのドアは、航空機や潜水艦、宇宙船を連想させる造形で、しかも、表面にはドアノブがないので、見た目で壁と区別をつけるのが困難である。そんな垂直方向に佇む平面をドアと、そして近代的だとアインに認識させた要因は幾つかある。先ず一つは、先頭の男がその壁の横に、胸から出したカードを挿入した点。そこにはカードを認証する機構があり、次に男は、カードを挿入した手の平をその吸い込み口の上に当て、名前を言った。それが二点目と三点目である。カードは個人個人に与えられているのだろう。そして、その人間がドアの前に立っている人間と同一人物かの確認に、指紋を含めた手の平の認証と声紋認証が行われた。結果、相違がないと判断され、小さな電子音の後に、ドアが横にスライドして開く。男が動かしたのではなく自動動作だ。アインがその壁面がドアであると認識し、近代的だと感じたのは、このタイミングだった。

 だが同時に、面倒そうだとも感じていた。既に開いているドアに対して、ニコロも男と同じように自分のカードを挿入し、手の平を当て、名前を発声した時だ。どうやら、既に開かれていたとしてもそこをくぐる時には一連の行為が義務付けられているらしく、それを順守しない、例えば不法な侵入行為の対策の為に、開いたドアの先は正方形の空間で、進行方向には同じ仕様のドアがもう一つあり、そちらのドアは全員の認証が無事に行われ、一つ目のドアを室内から閉めた後でなくては、認証機能が立ち上がらない仕組みだった。勿論、そちらでも一人ずつ、全員の認証が義務である。歩行のみでその距離を歩くより、十倍以上の時間が必要だ。浪費、とも言えるだろう。

 だがアインは、その技術に驚きはしなかった。彼はここが施設であることを忘れてはいない。このセキュリティによって、その先に誰が居るのかを管理しているのだろう。この先が施設の中心だ。恐らく、入退室の時刻と滞在時間もデータ管理されているに違いない。

 カードを持っていないアインだったが、既に彼も管理をされているようで、カードの挿入を除く二つの認証を二人の後に行うと、同じ電子音が鳴った。名前は昨日の車内でニコロに言ったのが最初だったので、あれから今に至るまでの間に、彼の名前と声は処理されていたらしい。指紋等は、それよりも前に採取されていた。

 二つのセキュリティの先は、白色の空間だった。壁、床、天井。全てが白い。そこに居る全員が白衣を着衣しているので、他の色を探すのは難しく、それは消毒液の匂いを連想させる。実際、その匂いが充満していたのかもしれない。

 その地下空間は、広さとしてはサッカーコート一面程だろう、今開いたドアはゴールキーパーの位置にある。そこから左右と正面に廊下が伸び、左右の廊下の突き当りにはドアがあり、そのドアまでの中間位置に、白色の空間、研究施設への入り口があった。正面に伸びる廊下は相手キーパーの位置にまで真っ直ぐ伸びており、それによって地下空間は二分され、左右にひとつづつ、長方形の研究施設が配されていた。

 壁は地下空間の端にあるだけで、廊下と研究施設を隔てているのは、ガラスだった。腰の位置までは白い打ち放しのコンクリートがあるが、それより上はガラスが上方向にも横方向にも続いており、途中には柱すらない。室内に至ってはパーテーションすらなく、先程のドアより近代的な外見の装置や機械、そして白い色を纏った人間の姿が隅々まで一望できた。

 一見すると上方向からの圧力に対して弱く潰されてしまいそうな構造だが、この空間とガラスの壁面は特別な仕様なのだろう。事実、研究施設は上方向からだけでなくあらゆる方向からの外的要因に対して屈強な耐力を備えており、ガラスはその向こうにいる人間の声はおろか、機械や装置の作動音すら廊下に漏らしていない。大きな口径の弾丸でさえ、このガラスを粉砕したりできないに違いない。

 こっちだ、と言って男は進路を右に向け、廊下の途中にある研究施設への入口へアインとニコロを誘導する。そのドアにもカードを挿入する機構が備わっていたが、そこではそれだけで、その他の認証はされなかった。

「そこへ座ってくれ」男は入口から数メートル離れた位置にあるデスクを指差した。「そこの、そう、その椅子だ」

 アインは指定されたデスクの椅子に着席する。先程感じた消毒液の匂いが強くなっている。やはり、錯覚ではなく実在するものだった。

 男は一度アインの前から離れたが、一分ほどで彼の元に戻ってきた。部屋に遮るものがないので、男の姿は常に確認できていた。彼は部屋の隅に行き、手の平くらいのコンパクトなサイズのケースを持って来た。

 男は横のデスクから椅子を引き寄せて、アインの前に座る。今立っているのは、ニコロだけだ。この部屋の全員が、各自のデスクで作業をしているか、機械や装置を用いた検査を着席して行っている。

「右腕を見せてくれ」男はケースを開けて中からゴムバンドを取り出し、それをアインの右腕の上腕位置で縛った。そして前腕の位置をアルコールで拭き、ケースから注射器具を取り出した。「痛いのが苦手、とかはないよな」

 男はアインからの返事を待たずに、注射針を差し込んだ。

 気にならない程度の痛みと共に、針はアインの体内から人差し指程の体積のカプセルに血液を流していく。八割くらいまで満たされると、男はカプセルを注射器から抜き、新しいカプセルを装着する。それが五回繰り返された。合計で六個のカプセルにアインの血液が移されたことになる。

 それで作業は終了し、男はアインの上腕からバンドを外し、血液サンプルはケースの中に仕舞われた。一応、という言葉と共に、針を刺された部分には小さな円形のテープが貼られた。

「ありがとう。助かったよ。朝の大事な時間を悪かったな」

 男はそう言って、それじゃあ、と手を振って奥へと歩いて行った。

 朝の大事な時間、と言われたが、時間にはそのタイミングによって価値が変わることはあり得ないと考えているし、採血に要した時間は一分少々だったので、謝罪された理由がアインには理解できなかった。それよりも彼は、ロビーと同じで、採血の間、彼に集中していた白衣の集団の視線の心地悪さに対して詫びてほしいと思っていたのだが、それは彼の表情や仕草によって外部に発信されてはいないし、ニコロが彼に、行こうか、と言って背中に触れた時には消滅していた。消毒液の匂いがやはり強い。視線は、菌と一緒に除菌され、消滅したのだろう。

 部屋を出て、先程のドアの前へ。入室と同じプロセスを行い、階段を上り、地上に戻る。

 昨晩は暗くて何も見えなかった中庭に到着した。


 2


 キャロ・セギュールは、花壇に腰掛けて教科書を眺めていた。周囲には教科書を音読しているサーシャの声が柔らかに響いている。だが、彼がその声を、言葉としてではなく、音として鑑賞するようになったのは、随分と前のことだ。

 天気は先週から続いている快晴だが、今日の風はこれまでの陽気にはなかった極上の優しさと穏やかさなので、一際暖かく感じられる。このような陽気は、海に面したこの町では珍しい。平均的に普段の風は、今よりも強い。

 天気がよいから外で勉強をしてもいいと管理官のメイに言われ、中庭の中心にある芝生部分に全員で円形に座り教科書を開いたのだが、この陽気がいけなかった。降り注ぐ日差しの抱擁と穏やかに流れる風の擽りは、彼の意識を朦朧とさせる外敵である。集中しなくてはならない。今は勉強中だ。頭ではそれらを理解しているが、どうしても文字の羅列に対してそうできない。頭に入ってきた情報は、右の耳から左の耳へ通過しているか、頭に入ってすぐに、蒸発している。

 それに、周囲に響いているのがサーシャの声だというのも、彼にとっては大きな要因だ。否、原因と断言した方が適当だろう。

 鈴を優しく揺すったかのような、囁きに近い彼女の声は、日がな一日聞いていられると常日頃から思っている彼にとって、彼女が語っている内容がナポレオンの生涯であれ、難解な法律の文言であれ、怪奇話であれ、至上の子守唄である。

 このまま、彼女の声に抱かれて眠りたい。

 不謹慎だと自覚しながら、とうとう彼は我慢できず、大きな欠伸をした。

 音読していたサーシャの声が止まるのは、それと同じタイミングだった。

 どうしたのだろうかと訝り彼女を見ると、普段から表情に変化の少ない彼女の顔は、キャロに向けられていた。

 人の容姿の美麗さのメタファーに、彫刻という単語が用いられることがままあるが、サーシャの容姿はそれに適した精巧さと艶やかさを併せ持っていた。何が起きようとも最も美しい状態を維持したまま変化を少なくしている彼女は、絶世の、という単語を付加しても過剰に至らないと、キャロは思っているし、信じていた。白い雪のように透き通った肌。眼鏡の向こうで煌めく、純度の高い宝石より透明度の高い瞳の色は、シルバー。肩の位置まで伸び、スローモーションで揺れる真っ直ぐな髪も同じ色の輝きをしている。そんな、彼にとって至上の美が、彼を見ている。真っ直ぐに、彼を。

 彼は、どきりとした。体温が急上昇したことも自覚する。

 サーシャは、左手で眼鏡の位置を調整し、彼を見つめていた。

「キャロ」綺麗な声が、彼の名前を紡いだ。

「な、なに?」彼の鼓動は今、鼓膜に届くほど大きくなっている。

「続きを読んで」

 彼は数回瞬きをした。しばらくの間、彼女の声を音として聞いていた彼の思考が、それを言葉として正確に理解するには、少しの時間を要したのだ。

「ええと、……続きを?」戸惑いながら聞く。

「ええ」ウィスパーヴォイスの後に、頷くサーシャ。

「読む? 僕が?」

「そうよ。眠気を覚ますにはちょうどいいでしょう?」

「え?」

「今は勉強の時間よ。寝るのはいけないわ」

「どうして僕だけ」キャロは不服を漏らした。意識が冴えてくると、彼の周囲には彼以上にサーシャの声に集中していない人間が居るとわかり、彼の指はその人に向けられた。「ミリィは? エレーナは?」

 指差した先には、花壇に背を預け心地良さげに眠る二人の姿があった。すやすやと気持ちのよさそうな寝息も聞こえており、どちらも膝に教科書を乗せてはいるが、開かれてはいない。二人が意識を手放したのはそこに座ってすぐのことで、きっと今頃は、もう幾つめかの夢に揺蕩っているだろう。

「エレーナに歴史は難しすぎるでしょう」サーシャは目線を教科書へ戻す。「まだ10歳だもの」

「ミリィは僕と同い年」キャロは矛先を変える。

「熟睡したミリィを起こすことに時間を費やしていたら、その間にナポレオンは死んでしまうわ」

「贔屓だよ」

「無駄が嫌いなだけ」サーシャは、声に溜息を混じらせて言う。「さあ、早く読んで。ネルソンが率いるイギリス海軍と戦うところからよ」

「わかった、わかったよ。ええと……」キャロは肩を落としながら降参した。そもそも、眠気に負けかけた自分が悪いのだ。そう言い聞かせながら、彼は教科書に集中する。「1805年、ドーバー海峡――」

 彼は、イギリス海軍との敗戦からのナポレオンの壮絶な戦いの歴史に関しての音読を始めた。神聖ローマ帝国が滅亡するのは次のページ。ロシアへの遠征がどのあたりになるのかは、予想もつかない。

 メイからは、今日の必修はナポレオンの生涯だと言われていた。そうなると、彼が本読みをしていなければならない時間は長くなりそうだ。

 早く王座から失脚し、生涯に幕を閉じて欲しいものだ。

 そんなことを考えているが、キャロはそれよりも何十倍も、何百倍も強く、サーシャの美しい声を鑑賞できなくなってしまった己の失態に、自責の念を抱き、悔やんでいた。


 3


 キャロと講師の役を交代したサーシャは、横目でシャルルの様子を窺う。彼女は、シャルルの様子が朝から気になっていたのだ。

 朝の挨拶を交わした時から、シャルルは苛立っているように感じられた。気位の高さが短所で、ミリィとは違った意味合いで気分に激しい片側性を持つシャルルが些細な何かで機嫌を損ねるのは珍しくないのだが、今日の機嫌は明らかに、いつもより悪い。正弦曲線で彼女の感情をグラフ化すると、マイナス方向に振り切れていて、マリアナ海溝よりも深い位置にまで下がっているのではないだろうか。そもそも、彼女の感情はプラス方向に推移すること自体が稀なのだ。

 朝、サーシャがおはようと言ったら、シャルルは彼女を見ずに、言葉をこぼすような声量で、おはようと返した。挨拶は返されたが、その時の表情は険しかった。あの表情を適切に形容するなら、万物を容易に裂く鋭利な刃で、その鋭さに畏怖し屈服する人の比率は言うまでもない。以前にキャロが、座っているシャルルのスカートの裾を踏んでしまった時の怒りの具合と比較のしようがない。その時の怒りの具合は、まだ平均値だっただろう。その後に謝罪したキャロの謝り方に誠意が感じられないと怒りを倍増させた時よりも、今は上だ。ひょっとすると、これは数字で観測することが不可能なレベルにまで達しているのかもしれない。

 シャルルの苛立ちの具合をそのように憶測しながら、サーシャはシャルルに声を掛けた。

「どうかしたの?」

 サーシャは、キャロに聞かれてしまわないよう声を潜めた。ミリィとエレーナは心配しなくても大丈夫だろう。普段は、叩いても起きない二人だ。囁き声で目を覚ますとは思えない。それに、普段から彼女の声量は小さく、声質もその周波数も、周囲に漏れ聞かれる心配がない。声が囁きであるのは、普段からである。

 そんな小さな彼女の声だというのに、シャルルは驚かされたかのような過敏さでサーシャの顔を見た。

「な、なんです。ええと、あの」シャルルも同じように小声で返すが、その声は上擦り、たどたどしい。「なんでしょう」

「様子がおかしいわ」サーシャはキャロの音読に従って教科書を捲った。「朝から様子がおかしい」

「そうでしょうか」

「挨拶をした時から、そう思っていたのよ」

「気のせいじゃないでしょうか」

「気のせい?」

「ええ。私はそう思います」

「何をそんなに怒っているの?」

「それもサーシャさんの気のせいです」シャルルは顔を背けた。その方向には誰も居ない。「怒ってなんか……」

「本当に?」

「本当です」

「昨日の夜に何があったの?」サーシャは躊躇わずに、シャルルの抱えているであろう問題の中心核に飛び込んだ。

 その行為の効果は、すぐに感じられた。

 シャルルは息を止め、先程よりも素早い動きでサーシャを見た。その時彼女のブロンドの髪は、遠心力で大きく広がる。向けられた顔では、瞳が零れ落ちてしまいそうな円形に大きく見開かれ、顔は周囲に咲く花の朱色よりも濃くなっている。それが恥じらいを起因とした色味なのか憤怒を起因とした色味であるのかはわからないが、その反応は、昨晩に何かがあったという推測を確信に発展させるのには十分な証拠だった。

「泳いでいたでしょう?」これはさながら尋問だ。サーシャはそう自覚しながら質問を続ける。「昨日の晩、プールで」

 シャルルは押し黙ったままで何も言わない。顔色も瞳の形状も、維持されたままで変化をしない。

 サーシャはそれを、泳いでいたかどうかという質問に対する肯定だと受け止める。

「凄い勢いで部屋に戻って来たようだったから、何かあったのかと」

「何もありません」サーシャの言葉を遮ってシャルルは言った。口調は強く、表情が表す感情の濃度は、より濃くなっている。

 その口調や顔色の変化をサーシャは、やはり昨晩に何かがあったのだという確証とした。

 だが、それ以上追及することをサーシャはやめる。別に、昨晩何があったのかを知りたくて声を掛けたのではないし、シャルルの機嫌をよくしたかったという訳でもない。彼女は、シャルルが開いている教科書のページを指摘したかったのだ。ただ、それだけだったのだ。

 サーシャは、それ以上のシャルルの観察をやめ、下を向き、再び教科書と向き合った。

「それならそれで構わないけれど、午前中は決められた勉強をしなくてはいけないわ」サーシャは、前に垂れたサイドの髪を指先で持ち上げ、耳に掛けた。「メイさんからも言われているでしょう? 今日の勉強はナポレオンの生涯よ。鼻に入れた麦わら、と呼ばれていたという逸話は、もう終わっているわ」

 シャルルは、自分が開いている教科書の内容がキャロの語っている内容と大きく食い違っていることにようやく気付けた。自分の教科書の中のナポレオンはまだ幼少期を過ごしているが、キャロの言葉の中のナポレオンは既に成人し、歴戦を潜り抜け、もう間もなくでその生涯を終えようとしている。

「わかっています」シャルルは、頬の色を失態に由来した朱色に変化させて、慌ててページを進め、自分にも言い聞かせるように同じ言葉を繰り返した。「わかっていますとも」

 ニコロが中庭にやって来たのは、その時だった。

 彼の存在にいち早く気付くのは、サーシャだった。だが、サーシャが気付く前から彼はそこに居たらしい。事実、彼は少し前から彼女達から少し離れた位置に立ち、見守るように佇んでいたのだ。その証拠に、彼の表情は笑んでおり、それは純粋な喜楽ではなく、呆れの苦みを多分に含ませていた。その笑みが向く先とは、確かめるまでもなく、ミリィとエレーナだ。

「あ……」思わず声を出して反応をするサーシャは、行儀よく立ち上がり、お辞儀をした。耳にかけたばかりの髪が、再び前に垂れる。彼女は上半身を持ち上げた後、再び指で横の髪を耳に掛けた。「おはようございます、ニコロさん」

 声に気付いて、キャロは音読を止めた。シャルルも教科書を起いて立ち上がり、挨拶をする。

 そしてシャルルは、ニコロの後ろに立っている彼を直視して、意識と動きの両方を、完全に停止させた。これは、この時、その場の誰もが気付けない瞬間凍結だった。

「おはよう。今日もいい天気だね」

 歩み寄るニコロも、停止したシャルルの様子に気付いていない。彼の言葉に頷き返すサーシャも、まだ気付かない。サーシャは少し嬉しそうに、ニコロの顔を見上げていた。

「はい、とてもいいお天気です」サーシャは首を横に傾けて微笑んだ。「メイさんから、外に出てもいいと言われたので、今日はここで勉強をしていました」

「ナポレオンは、今どうしている?」

「もう少しで神聖ローマ帝国が滅亡します」キャロが本を閉じながら答える。「読む係は、少し前に交代をして、今は僕が」

「キャロが?」おや、とニコロは驚いた。「サーシャじゃなくて? そう聞いていたよ」

「ええと、その」キャロは返す言葉に戸惑う、と言うより、顛末を正直に言うべきか誤魔化すかの二択に迷った。「ちょっとしたことがありまして……」

「眠たそうだったので、交代をしました」しかしサーシャが簡潔に、正しく説明した。「ちょっとしたことです」

 ニコロは、なるほどと頷き、笑みをキャロへ向けた。そして何気ない動作で視線を下げると、その笑みの種別が再び、先程までの苦みのあるものになった。

 キャロは、その視線の先に何があるのかを察し、笑みの種類を変化させた理由も理解する。ニコロの視線の先に居るのは、眠っている二人だ。

「おい」キャロはミリィの足を蹴飛ばす。一回で起きるのかが不安だったので、三回蹴った。「起きろ。ニコロさんが……」

 蹴られたからか、ニコロの名前が出たからかはわからないが、ミリィは珍しく、すぐに目を覚ました。同時に、現状の把握もした。バネが仕込まれた人形のように飛び上がり、大慌てで教科書を開くが、教科書の上下は逆だった。

 ミリィの足を枕にしていたエレーナが、ミリィのその動きのせいで転がったのだが、それでも彼女だけは、目を覚まさない。

「あ、ああ、ニコロさん、ええと……」寝起きのミリィの言葉はぎこちない。「あの、おはよう、ございますっ」

「おはよう、ミリィ」逆転している彼女の教科書を一瞥して、ニコロは訊ねる。「今日の勉強の内容は?」

「今日ですか? 今日ですね、今日は、ええと、その……」

 慌てて教科者を捲っていくミリィは、自分が手にした教科書が上下逆さまであることに気付くまでに随分と時間を要した。その後正しい向きに戻すが、何を読んでいたのかがわからない。読んでいた記憶さえない。実際に読んでいなかったのだから当然であるが。

 救いを求めてミリィはキャロを見た。助けて、と目線で意思表示をしたのだが、彼はそれを無視して顔を背けた。

「うわあ、そんな反応する?」嘆くようにミリィは言う。「ひきょうもの!」

「寝ていた君が悪いんだろう」

 自分もその仲間入りをしかけていたではないか。そう言いたい気持ちを抑えて、サーシャは溜息をこぼした。そして何気なく顔の向きを横にスライドさせた時、シャルルの様子に、ようやく気付いた。

 彫刻だ。

 サーシャは、そこに起立しているものをそう評した。横に立つシャルルは、彫刻に変化していた。隠喩ではなく、性質として、それに変化をしていたのだ。

 人は愕然とした時、こんなにも身を硬直させるのかと、サーシャは初めて知った。それこそ、冷凍されてしまったかのようだ。指先の関節さえ動いていない。まばたきもしていない。意識もきっと、凍っているのだろう。こんなにも暖かな陽気だというのに。

 どうしたのだろう。

 何が起きたのだろう。

 サーシャは訝りながら、硬直しているシャルルの瞳が向く先を確認した。

 そこには、ひとりの青年が立っている。

 キャロとミリィも、ニコロの後ろに立っているその人物に気付き、同時にそちらへ視線を向ける瞬間だったが、まだ二人はシャルルの様子に気付いていない。今、シャルルが凍結していると知っているのは、サーシャだけである。

 青年に対しての反応は様々だった。ミリィは相手のことを知っているらしく、やあ、と言って手を上げて挨拶をした。キャロは、サーシャが見る限り、ノーリアクション。これといった反応は見られず、ただその人物を眺めるだけである。エレーナは、相変わらずの快眠状態。

 それが青年に対しての反応とするならば、シャルルの反応は凍結だ。解凍される気配は見られず、今も動かない。

 彼女がその状態から回復しないだろうと判断するのと同時に、近々新しい仲間が増えると管理官から聞かされていたことをサーシャは思い出す。

 彼女は、丁寧な口調でニコロに聞く。

「ニコロさん。その方が、前に仰っていた方でしょうか」

 そう、と言って、ニコロは首を振った。

 ニコロの後ろの青年は、ただ起立しているだけだった。その場に立っているだけで、挨拶をしたミリィに対しても、何ら反応をする様子がない。表情にも一切の変化は見られない。

 サーシャは、そこに立っている青年を、シャルル以上に彫刻らしい人間だと思った。


 4


 アインの前にある全ての視線が、彼に集中した。ただし、ひとりの視線だけはこちらに向いていない。一番幼い少女のそれである。その少女の目蓋は閉ざされていて、深く眠っていることがよくわかる。アインは少女の状態を確認した後、彼女がエレーナ・セギュールだと理解した。その場にいる人間の内、10歳という年齢に合致する風貌の少女は、彼女だけだった。

 また、エレーナの実兄であるキャロ・セギュールが誰であるのかもすぐに理解した。男子はこの場で彼だけだ。キャロは、アインよりも少しだけ背が高い。髪色は、兄妹揃って赤味の濃いブロンドだ。

 そうやってひとりひとりの確認をしていると、ニコロがそっとアインに耳打ちをした。

「自己紹介だよ」

 アインは、首を振って了解の返事をした。同時に、頭の中にある情報とこの場にいる人物との照合作業は一時中断された。

「アインです」

 自己紹介には、一秒も要さなかった。その一言だけで終了する。

 挨拶の後、アインはキャロと視線を合わせた。照合作業の再開である。

「君が、キャロ・セギュールだね」既に確証の得られたことだったが、一応の確認の為に訊ねてみた。

「うん、そうだよ」

 キャロは頷き、アインへ歩み寄り、宜しくと言って手を差し出した。アインはその手を握り、握手をした。

 しかし、アインの握手はあまりに短時間で、キャロにとって過去最短の時間で終了する。相手の手に僅かな握力を感じた次の瞬間、互いの手は離れていた。その一瞬には、手を上下に振る隙がなかった。キャロは物足りなさを感じながら、出した手を戻して一歩下がる。

「妹は寝ている」キャロは、今も自分の手に残っている物足りなさを誤魔化すように不規則に動かしながら言った。「名前はエレーナ。今まで男は僕だけだったから、君が来てくれて嬉しいよ」

「ひとり?」アインは、ニコロを見た。

「違うよ。そうじゃなくて」言葉が正しく伝達されていなかったことに、キャロは少し笑った。「同世代の男子が、っていう意味」

 キャロの説明を聞き、頷くアイン。

 彼は次に、ミリィを見た。彼女は手を上げて、やあ、と言った。

 彼女は今日もラフな格好をしている。Tシャツと、デニムだ。Tシャツは目が痛みそうな鮮やかさの黄色で、胸のあたりに、鎖で縛られたハートマークがプリントされていた。ハートマークの下には太字で、PEACE ADDICT、と書かれている。

「ハァイ、アイン。元気?」ミリィはまだ腕を振っている。

「元気だ」彼は、ミリィのTシャツにプリントされた文字を読みながら言う。「君は?」

「見てのとおりだよ」

 見てわからないが、健康体なのだろうと判断して、アインは次の人物へ視線を移す。

 これまでの照合作業に使用された時間は、まだキャロとミリィの二人だけだが、それぞれ一分も要していない。アインにとってそれは異常ではなく平均的な速度だったのだが、そこに物足りなさを抱くミリィは、こちらから一方的にでも何かを話そうと口を開こうとしたのだが、アインの視線が既に次の人物へスライドしていたので、彼女はブレーキを踏み、思い止まった。彼女にしては、極めて珍しい自主的行為である。

 アインが次に見ているのは、髪の色がシルバーで長いストレートの少女。眼鏡を装着しており、その奥にある瞳も、髪と同じくシルバーだ。どちらも、陽の光を反射して眩く煌めいている。

 アインは、昨日ミリィの時にそうしたように、アルファベット順に生徒の名前を思い出していく。Aから始まり、B、C、D、と。だが、Aの時点で該当者が現れたので、以降は必要がなかった。

 該当者は彼の脳内で、昨日同様、最初に発見できたのだが、その人物に関しては、注意事項があった。それも同時に思い出しながら、彼は彼女の名前を口に出した。

「君がサーシャだね。そう呼ぶように言われた」

 アレクサンドラ・イクラウ。サーシャは、こくりと頷いた。

 肌の色は白く向こうが透けてしまいそうな程で、そんな彼女をアインは、雪のようだと思った。実際に雪を見たことは一度もないのだが、きっとこんな色なのだろうと想像する。白色について人が話をする時、人は皆、雪のようだと言っていた。ならば、白色と雪は密接な関係にあり、雪は白さの象徴なのだろう。それに、髪と瞳の色もそれを強調するような透明度だ。雪は溶ければ水になり、水は透明だ。

 アインは、サーシャの顔と名前を一致させながら、記憶の中での彼女の居場所を変更した。周囲の人間と本人が、普段から本名ではなくニックネームで呼び合っているのなら、アレクサンドラという名前で記憶しておくことにメリットはなさそうである。アインは、彼女の情報をSの欄に移動させた。眼鏡の着用理由が気になったのだが、それは、直後には気にならなくなった。重要な確認項目ではないという判断だ。

 そして最後に残された、硬直しているひとりの少女。

 その少女は、敵意を圧縮させて眼球から放出するようにこちらを睨んでいるが、金と見紛う眩い輝きの髪の色には見覚えがあった。その緩やかなウェーブも記憶に新しい。

 昨晩の少女だ。

 アインは思い出した。

 今は衣服に隠されているが、その身体の起伏にも見覚えがある。女性と呼ぶよりも少女と呼ぶべきなだらかな身体は、着ている服が白のワンピースであるせいで昨晩よりも全体の平面を強調されているように見えたが、確かに昨晩の少女と同一である。

 アインは、少女に歩み寄った。

 先ず、一歩。

 少女は動かない。だが瞳から放出されている敵意は、接近した距離に比例して増加する。

「君は、昨日の……」アインは、もう一歩の接近を試みる。「夜に」プールで会った、と用意されていた以後の言葉は、彼の口から放たれなかった。

「ちょっと!」少女、シャルロット・アンジュは、即座に凍結状態から復帰し、より大きく目を開け、悲鳴のような声で叫ぶ。「あーっ!」

 彼女はその甲高い悲鳴で、続けられる予定だったアインの言葉を掻き消した。

 そのあまりに突然で衝撃的な事態の展開に全員が驚いた。何が起きたのかが誰にもわからなかった。新しくやって来た青年に向けて、シャルルが悲鳴を上げた。起きた内容は見た通りなのだが、現在に至る出来事を知らないアインとシャルル以外の全員は、何故シャルルが突然そんな行動をとったのかがわからず、驚いたのだ。それまで冷凍状態であることを確認していたサーシャの驚きは、中でもより激しいものだった。

 そんな中、唯一平静を保つアインの前で、シャルルは両肩をいかり肩にし、拳を握り、顔を赤くしている。瞳が潤んでいるようにも見える。彼女の顔は今、激怒しているのか泣きかけているのかがわかり難くなっていた。

「喋っては駄目です!」キンとした声でシャルルは叫ぶ。「それ以上この場で何かを言ったら、私はあなたを打ちます!」

「どうして打たれる?」アインは、何事もなく言葉を返す。

「どうしてって……」シャルルは狼狽した。

「発言によって暴力を受ける理由がわからない」この言葉も、何事もなく返される。

「それは……」

「説明をしてほしいと思う」

 平然とした面持ちで、アインはシャルルを眺めている。それこそ、昨晩と同じように。

 それが、シャルルの逆鱗に触れた。

 怒りが更に込み上げ、増殖し、膨らみ、遂に、爆発する。

「この不躾者!」シャルルは、早口で一気に言い放つ。「昨日も今日もどれだけ失礼なんですか! 躾がなっていません! あなたのような人は初めて見ました! 礼儀や作法を知らないのですか!」

「昨日?」ミリィが横から口を挿む。「何の話?」

「あなたには関係がありません!」ミリィにも鋭く一喝する。「黙っていて下さい!」

「なになに、どうしたの? どうして怒ってるの?」ミリィは気圧されて一歩後退したが、彼女は既に平静の状態に戻っていた。こういった際の回復力と言うか、状況への適応力が群を抜いて優れているのが、彼女だ。その他の人物は、まだ現状の把握と情報収集に追われている中で、彼女は普段通りの対応が可能になっていた。

「怒っていません!」反してシャルルは、普段よりも激しい怒りによって、肩を上下させている。「怒ってなんか……!」

「怒ってるじゃない。そんなに息を荒くしてさあ」

「息を荒くしているだけです!」

「それを怒ってるって言うんじゃないの? なになに? エベレストでも噴火した? 隕石落下? それとも、ご飯を落とした?」

「いいから、あなたはもう何も言わないで下さい!」ミリィを指差し命令し、その後、その指でアインを指差す。それも、突き刺すような素早さで。「あなたもです!」

「僕も?」アインが問う。「何も?」

「そうです!」

 アインは困惑した。

 こういう状況は初めてで、対応の仕方がわからない。そもそも、何が起きているのかも彼は理解していなかった。挨拶をしようとしたら、いきなり黙れと命令された。現状は、彼にとってそれだけの状況である。アインは、シャルルが憤慨している理由と昨晩から今に至る経緯を連結させられていないので、理解ができていない。

 しかし、なんとなくではあるが、シャルルからの言葉は命令であるし、それには従うべきなんだろうと思った。これは、防衛本能だろう。それが機能しているのなら、彼が取る行動は限られ、ひとつしかない。

「わかった」

 そう言ってアインは、命令に従い、沈黙した。

 彼が沈黙すると、中庭には不自然な静けさが放射状にゆっくりと広がっていく。

 それは、まったくもって、不自然極まりない沈黙の時間だった。その場の全員が、強制的な沈黙を強いられ、しかし、その原因や理由を問い質したい心境の中、渦中の中心であることが明白である、全員にとって初対面であるアインという人物が、強制的な命令に従い、沈黙をしてしまったのだ。命令に至った原因が何であるかはやはり不明だが、数数ない状況から推察すれば、極めて個人的な感情に起因しているであろうことが少なからず明白である中で、彼が黙してしまうと、その他の人物も、それに従わなくてはいけなくなる。

 さて、この状況がよい状況であるのか、悪い状況であるのか。どちらにせよ、このまま黙している訳にはいかない。どうにかして会話をせねばなるまい。迎え入れる、歓迎するとは、そういうものだ。今我々は、歓迎する側にあり、その立場の人間が荒々しい言葉で砲撃をした後に黙するとは、シャルルの直前の言葉ではないが、躾がなっていないと言える。各々がそう感じていたのだが、残念ながら、打開の策を誰も発見できなかった。

 その後の沈黙の時間はほんの数秒だったのだが、体感では、それよりもずっと長く感じられていた。

「待って」不快な沈黙をどうにか打破したのは、サーシャだった。彼女は、問題の中心であるシャルルを注意する。「自己紹介がまだ終わっていないわ」

 シャルルは、閉じた口を山の形にして反論しようとしたが、その口は開かれなかった。憤怒している彼女でも、サーシャから反論の余地のない正論が突きつけられていることがわかっていたからだ。

「きちんと自己紹介をしなくては、彼に失礼よ」サーシャは、諭すような口調で説得を続ける。「彼は迎えられる人物で、私達は彼を迎え入れなければならない。きちんと、ええ、きちんとしないといけないわ」

「でも……!」

「でも、なに?」

 シャルルは必死に口を開くが、その口が何かの単語を言い放つことができず、ただ開閉だけを繰り返した。サーシャの言葉は道理で、どんな反論も釈明も叶わず、平伏せざるを得ない。その言葉は悔しいが、正しい。正論だ。それを理解しているからこそ、シャルルの口は開いて閉じるを繰り返すだけで、どんな言葉も放てなかった。

 不本意だ。

 シャルルは強い敗北感を抱きながら、アインを睨んだ。顔は先程までと同じ成分の感情を多く含ませ、赤味も増している。

 頬を膨らませ、唇を尖らせ、瞳をより鋭利にした。

「シャルロット・アンジュ」最低限の名乗りの後、相変わらずの命令口調で付け加える。言葉は、先程までの速度を維持させていた。「呼ぶ時はシャルロットと。みんなは親愛を込めてシャルルと呼んでくれていますが、きちんとシャルロットと呼ぶように。他の呼び方は許しません。いいですわね!」

 言葉の端々まで刺々しい自己紹介を、ミリィは呆れた。彼女は両手を頭の後ろに回し、身体を回転させている。

「やっぱり怒ってる。いつも通りだ」彼女は笑って言った。「ああ、こわいこわい。いつもと同じシャルルがこわい」

「怒っていませんっ!」

「ねえ、アイン。それ本名? 昨日も聞いたけど」ミリィはシャルルを無視してアインに近寄る。こういった場面での彼女の切り替えは、やはり素早い。直前までの会話を遮断し、別方向へ転換させるアクロバットも、状況への適応力と同様に、彼女は得意だった。「日本人なんでしょう? 本名なの?」

「確かに、アインなんてドイツ人のような名前ね」サーシャが、ミリィの曲芸的な会話について行く。こういった会話の路線変更の際、一番にミリィの後ろにつくのは、いつだって彼女だった。彼女は眼鏡のテンプルを指先で摘み上げ、アインを観察していた。「それは、姓なのかしら。それとも、名前?」

「名前」アインは答える。

「フルネームは?」

 続けて質問をするが、その問いに答えたのはアインではなく、ニコロだ。

「彼は、本当の名前を待っていないんだ。アインという名前も本名じゃない」

 ミリィが驚いた。その横でキャロも、へえ、と漏らした。サーシャは、ニコロを見つめながら説明の続きを待つのだが、彼女にはニコロの今の言葉が、アインが何かを言いかけたのを遮ったように見えていた。事実、アインの口はほんの少しだが動いていた。

「彼は、紛争地域で保護されたんだ」ニコロは、言葉を慎重に選んだ説明を続ける。「元々は少年兵だ。調べた結果、君達と同じであるとわかって施設へ来ることになったんだが、身分を証明するものが何も残っていなかった。わかったのは、国籍は日本ということだけで」

「じゃあ、アインっていう名前はどうして?」キャロが次に聞く

「ここに来る前の、彼の呼び名だそうだ」ニコロはキャロを見て、その次にアインを眺める。「もっと日本人らしい名前をと提案したんだが、このままでいいと彼が言ってね。彼がそう言ったから、彼の名前はアインだ。フルネームがアイン、ということにもなるね」

 相槌を打ちながらニコロの説明を聞いていたキャロは、右足と左足を交差させ、一方の爪先で地面をコツコツと蹴った。疲れたわけではないが、座りたい気分だった。座ってしまおうかとも考えたのだが、一度立ち上がった人間の内、まだ誰ひとりとして座ろうとする者がいない。こういった状況の打破には、先陣を切って行動する最初のひとりとなる勇気が必要なのだが、彼にはそれが備わっていない。仕方なく、彼は落ち着かない様子で立ち続けることにして、それを紛らわす為に、彼の爪先は地面を蹴っていた。

「最前線に投入されることが多かった」アインが久し振りに口を開く。「最初に交戦をする人間。名前の由来は、それだった筈です」

「名前と言うより、コードネームだね」キャロは、地面を蹴る足を左右で変えながら、アインという名前を少しだけ羨ましがった。響きとしても、意味合いとしても。その由来には、彼に欠如しているものが含まれている。アイン。一番目。最初。羨ましい由来だ。彼は溜息を吐きながら、羨望の眼差しと共に正直な感想を述べた。「かっこいい名前だ」

「でも、そういった意味なら、Das Erste、が正しいんじゃないのかしら」サーシャが首を斜めにしながら、ドイツ語を交えて会話に入り込む。それは確認の為の発言だったが、彼女の口が紡ぐドイツ語はネイティブスピーカーのように流暢な発音だった。「アインは数字の1よ。英語だと、ワン。ワンは、ファーストとは違うでしょう? ドイツ語だと、確か、最初という意味の言葉は、Das Erste。そうじゃなかったかしら」

「その名前で僕を呼んだ兵士に、ドイツ語の知識はなかったんだと思う」アインは、思い出しながら言う。「彼は、確かイスラエル人だった」

 彼自身にもドイツ語の知識は少なかった。ドイツ人と戦ったことはあったが、会話を交わしたことはない。ここに来る前、ドイツ人の知人がいたが、戦場での交友だったし、そこでの会話は英語が主だった。その知人から、ドイツ語で数字の1がアインであることなら聞いていたが、知識はその程度である。彼が知っているドイツ語は数字だけで、それも1から4までと、8だ。彼が初めて知ったドイツ語は4だった。1ではなく、4、フィーアを最初に覚えた。その発音が、英語の恐怖と似ていたからである。3、ドライは、乾燥と似ていたから覚えられた。3を覚えた時、彼は砂漠地帯にいた。だから今でも、ドイツ語の3という数字を聞くと、砂漠を連想してしまう。2を覚えたきっかけは、覚えていない。8は、巨大な砲塔の名前から覚えた。

「ドイツ語の最初という言葉は、今知った」彼は、報告をするように言った。

「そう」サーシャは、首の傾きを元に戻す。

 そして彼女は、両手を身体の前で重ね、シャルルの様子を窺った。彼女の本心は今、初対面のアインよりも、そちらの方が気になって仕方がない。アインへの興味は、名前の由来と言葉の意味の食い違いだけだった。

 シャルルは先程の言い争い以降、アインを見ようとしないどころか、誰も見ようとしていない。彼女らしくなく腕を組み、背中と後頭部をこちらへ向けて自分の斜め上を見ている。その方角には、何もない。あるとすれば、空である。別に、空を眺めること自体におかしなことなどないが、あまりにわざとらしく顔を背けているものだから気になって仕方がない。こちらに向けられた背中からは、今も苛立ちが滲み出ている。

 朝から不機嫌だったことは確認ができている。先程のアインとの不可解な言い争いで症状が悪化したことから、彼女の苛立ちにアインが関与していることも明らかである。

 サーシャはシャルルの背中を眺めながら、何かの機会があれば事情を聞こうと考えた。今ではなく、今後、機会があれば。なければないで、構わないとも思っていた。平穏な日常生活に罅が入らなければよい。それが平和というものだ。

 彼女がそう考えていると、アインの紹介が終了した。

 さて、と言ってニコロがスーツの袖を上げ、腕時計で時刻を確認したので、サーシャはそれを察した。

「それじゃあ、勉強の続きを」ニコロがお願いをする。「途中からだけれど、彼も一緒にナポレオンの生涯を学んでもらおう」

 うん、と、アイン。

「その後は、施設の中を案内してあげてほしい」

 ニコロはサーシャを見て言ったのだが、その要望に対して返事をしたのは、ミリィだった。彼女は、サーシャが返事をしようと、はい、という一言の為に必要となる酸素を吸い込んでいる間に勢いよく手を上げ、大きな声で返事をしたのだ。

「オッケー」ミリィは揚々と言う。「まかせてよ」

「わかりました」サーシャはミリィとは逆に、小さな声で返事をした。

 彼女は、少しの敗北感を感じていた。胸がしくしくと痛み、息苦しくもある。否、自分が今抱いている感情は、敗北感よりも嫉妬に極めて近い。彼女は努めて冷静に振舞いながらも、らしくもない感情を自然に抱いてしまっている自分を宥めた。自分に向けられた言葉に対して、自分の返事が他人よりも遅かっただけだ。その役割を奪われた訳ではない。敗北感であれ、嫉妬であれ、抱くのはおかしな話ではないか。だと言うのに、どうして胸が痛むのだろう。

 サーシャは細く息を吐きながら、右手でそっと、自分の胸に触れた。患部の触診みたいだと思い、それで痛みが軽減されることなどないのに、何故、人はこういった行為をするのだろうかとも考えた。

 しかし、労いは即座に訪れる。

「ありがとう、サーシャ」ニコロはそんなサーシャを見て、にこりと笑うのだ。「君がそう言ってくれると、とても安心ができる。頼んだよ」

「あ、はい」突然のことに、彼女は顔を下に向け、表情を隠すようなお辞儀をした。「私にできることは、これくらいですから。大丈夫です」

 その言葉は下を向いていたせいもあって不明瞭で、言っている自分でさえ何と言っているのかがよくわからなかったが、彼女の内心は数秒前とは一転し、歓喜していた。もしも彼女がミリィであったなら、きっと大きく飛び上がり、全身で喜びを表現していただろう。現に今、自分の頬が緩んでいることを自覚していた。彼女は、ニコロがミリィの大きな声にではなく、その後を追う形となった自分の小さな声に言葉を返してくれたことが、この上なく嬉しかった。

 サーシャは顔を下に向けたまま、今度は深く息をして、頬の綻びを元に戻し、顔を上げた。

 胸の痛みはなくなっている。完治したようだ。

 ニコロは背を向けて、中庭から立ち去るところだった。

 サーシャは眼鏡を指先で押し上げ、名残惜しそうにその姿を見送った。

 やがてニコロの姿が管理棟の中に消えて見えなくなると、小さな息を吐き出す。それは、今日、これまでの間に彼女がこぼした息とは意味合いが異なり、湯にのぼせたような溜息だった。

 サーシャはスカートを右手で押さえながら、行儀よく腰を下ろす。キャロとミリィも、サーシャのその動きを見て、その場に座った。

 アインとシャルルだけが、まだ立ったままである。

「続きをしましょう」サーシャがアインに向けて言う。「今は58ページよ。歴史の教科書の、ええと、その本。茶色い色の本よ。そう、それよ。それの、58ページ」

 サーシャの言葉を聞いたアインは、必要のない教科書を横に置きその場に座ると、足の上で教科書を開いた。新しい教科書は紙がまだ硬く、指では捲り難かった。

「それより、アインと仲よくなる為に遊んだ方がいいんじゃないかな」ミリィが座ったまま、上半身を振り子のように揺らして言う。「勉強じゃなくてさあ。ねえサーシャ、そう思わない? 遊ぼうよ」

「駄目よ」サーシャは即座に一蹴する。「ニコロさんも言っていたじゃない。一緒に勉強をしろと。そんなのはよくないわ」

 しかし、サーシャの言葉をミリィは聞かない。言葉が効かない、とも言える。

「実は、昨日ニコロさんから貰ったチョコレートが部屋にあるんだ。だからお茶にしよう」

「そんなことをしたら、また怒られてしまうわよ」

「そうだよ。今はきちんと勉強だ」キャロもサーシャの言葉に賛同した。先程の睡魔への敗北の件は、意図して忘却している。「ティータイムが恋しいなら、午後まで待つんだ」

 二人から責められ、ミリィはひどくつまらなさそうな顔をした。チョコレートは彼女にとって切り札の一手だったのだが、それすら通用しなかった。

「ナポレオンが死ぬのを待つしかないか……」渋々教科書を開くミリィは、怠惰な指先でページを捲った後、ふと気になったことをサーシャに訊ねてみる。「ナポレオンって、いつ死ぬの?」

 サーシャは呆れて頭を抱えた。

 気付くと、シャルルもいつの間にか座り、教科書を開いていた。彼女は先程までとは違う場所に座っている。アインから最も遠い位置に座ったのだろうと、サーシャは分析した。アインが来るまでは円形だった各自の位置関係が、今は不格好な楕円になっている。

 キャロが再び音読を始めた。

 その後は、特に何事もなく時間は流れていく。ナポレオンも順調に年を重ね、もう間もなくでその生涯に幕を閉じる。ミリィが待ち焦がれていた瞬間である。

 ナポレオンの死の間際、ミリィはサーシャに擦り寄り、その耳元で、ねえ、と囁いた。

 サーシャが教科書からミリィへ視線を移すと、ミリィは口元に手を添え内緒話をするようにサーシャに身体を近寄せていたが、その瞳はサーシャにではなく、横目でアインに向けられていた。

「彼、いい男だと思わない?」

「そうかしら」

 問われてサーシャは、アインの第一印象を思い出した。

 彫刻のような人物。

 彫刻に恋をしたことのないサーシャの返事は、その言葉以上、続かなかった。それに、終盤とは言え授業の最中だ。授業時間に不要な会話は慎まなければならない。彼女は返事の代わりに教科書を指差した。こちらに集中して。そのメッセージは正しくミリィに伝わり、授業はそれまで通りに恙なく進む。

 しかし彼女は、ミリィからのいい男、という単語からニコロを連想してしまい、それによって自分の表情が再び崩れてしまわないようにすることに苦戦していた。


 5


 執務室に戻るとニコロは、自分のデスクへ向かい、椅子の背もたれに深く身体を預けた。彼の動きに合わせて椅子は軋む。悲鳴のような音だ。

 彼の椅子は、とても古い。同じ管理官であるメイとゼフの椅子は新調したばかりで真新しいのだが、彼の椅子だけは、まだ古いままである。それは木製なのに、鉄製ではないかと思えるほどに重く、表面は焙煎をされたコーヒー豆と同じ色をしている。年齢で言うなれば、彼の椅子は、中年から晩年に差し掛かる頃合いだ。それ故に、彼の椅子は重力と同じ方向への圧力には強いのだが、そこに角度が加えられると、今のように悲鳴を上げるのだ。いつかは、背もたれが折れてしまうのではないかと心配になるような悲鳴を。

 だが、彼の椅子だけが悪い意味で特別扱いを受けて世代交代をしなかったのではない。執務室の設備を新調する際に、彼だけが、このままで構わないと、買い換ええないでほしいと頼んだのだ。その証拠に、執務室のデスク四つは、全て同年齢で真新しい。古いのは、彼の椅子だけだ。

 彼は古い物が好きだった。新しい物が嫌いという訳ではない。年期を重ねた物の風合いや雰囲気が好きなのだ。形容のしようがわからない色合いや手触りは、真似をして作ろうにも完成しない。それを生み出せるのは時間だけであると、彼は考えている。だからこそ、彼は自分の職場を気に入っている。手で触れられる物の中で、この建物以上に古い物に、彼は終ぞ触れたことがない。

 しかし、気に入っているのは建物だけである。仕事まではとても、好きであると公言できる愛着を持っていなかった。それに、触れられる歴史とは地上部分だけで、施設の役割の本城である地下空間には、それとは正反対の、最先端の技術しか存在していない。

 ニコロは天井を見ながら深く息をして、手の平で目を覆った。そうしていると、コーヒーの香りの接近に気付いた。

「どうしたの?」訊ねながらコーヒーカップを手渡すのは、メイだった。彼女は、短い髪を無理矢理揺らすように首を傾けた。「ひどい顔をしているわ」

「ありがとう」ニコロは、彼女からカップを受け取る。「そんなにひどい顔をしているかな」

「ええ。ピカソの絵画のよう。……ああ、今のは冗談よ。二日は寝ていないみたい」

 答える前に、ニコロはコーヒーを啜った。それは、彼が今一番欲しい物だった。コーヒーを飲むと頭が冴える。コーヒーは、脳を活性化させるのに一番効果的な材料だと、彼は考えている。彼がデスクを新調しなかった理由には、それも含まれていた。カップをデスクに置くと、やはりそれらは同色であるとわかる。

 もう一口を啜り、彼は、疲れた、と漏らした。

「疲れたって?」メイは聞く。

「ああ、疲れたよ」

「まだ午前中よ。それなのに?」

「子供の無邪気さというやつは、時に天才の閃きみたいに要点を突いてくる。まさか、会話で疲労するなんてね」

「言っている意味がよくわからないわ」メイはニコロの後ろの壁に寄り掛かり、腕を組んで彼の背中を眺めた。「それはクイズ? どうしたの?」

「予想通り、彼について質問をされたのさ」彼は、肩幅を狭めた。「詳しく説明をすると今の生徒達には、その、……まずいだろう?」

 ああ、とメイは頷いた。彼女の相槌は、彼女の母国の言葉と聞き間違えそうな響きをしている。

「そうね。少なくとも、問題にはなるわ」

「どこから来たのか、とか聞かれたよ。予想通りだ」

「何と言ったの? 上手い嘘でも?」

 ニコロは、自嘲するように笑う。

「上手い嘘が言えていたなら、今頃僕は政治家になっているさ。だから、伝えられることだけを伝えた。伝えられない、伝えない方がいいことは、言っていない」

「ここに来る前のことは?」

「言っていない。教えたのは、今の名前がここの前での呼び名だってことくらいだね」

「懸命ね」彼女は、鼻から息を漏らした。「問題はあの子達か」

「そうだね」ニコロは振り返ってメイを見る。この時も椅子はやはり、鳴いた。「みんながどれだけ受け入れているのかがわからないから、伝えられない。伝えて何かが起きてしまうと、生徒だけの問題だけじゃ済まない」

「彼は、……アインは、ローラのことを知っているのかしら?」

「知っている。きっとね」

「どこまで?」

「それは、ちょっと説明ができないけど、彼女の写真を見せたら、以前に見たことのある顔だとは言うだろうね」

「だから俺は言ったんだ」それまで黙ってデスクワークをしていたゼフが、そう言って表情に憤りを浮かばせ、手にしていた何かの資料を乱暴に自分のデスクの上に放り投げた。「名前とか設定を決めた方がいいって、そう言っただろう」

「設定だなんて……」メイは渋面を浮かべる。

「いいから言わせろ」ゼフはメイの発言を遮った。「出身地、生年月日、血液型。経歴に至るまで、全部決めてしまえばよかったんだ。そういうの、あいつは得意だろう。命令には必ず従うさ。こうなれ、ああなれと言えば、わかりましたと絶対に言う。これまでも、ずっとそうしていたんだから」

「ゼフ、よせ」ニコロが窘めるように言う。「そうやって言うのはよくない」

「事実じゃないか。それなのにアインなんて……。紛争地域に、戦地での呼び名と言われたら、誰でもおかしいと思うだろう。ここしばらくは、ゲーグマンの身の回りでしか銃弾は飛び交っていないんだ。どこにいたのかを言わなくても、いつかあいつらは察するぞ。特に、サーシャ。あいつは頭がいい。計算速度も速い。将来は高名な策士になるような奴だ。気付くとしたら、サーシャが最初だ」ゼフは持っていたペンも机の上に放り投げ、肘をつき頬杖でニコロを見据える。「第一、あれ以来演習をやっていないことも生徒に不安を与えているんじゃないかと、俺は心配だ。射撃訓練だってやっていない」

「あの子達の心の整理がつくまでは、という話でまとまったじゃないか」

「それからもう半年だ」ゼフは、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。彼のコーヒーは随分と冷めていた。「整理がついていないのは、お前だけじゃないのか?」

 彼は空になったカップを持って立ち上がる。執務室の奥にあるキッチンへ向かいながらも、ニコロへ向けられた尋問めいた言葉は続けられた。

「ローラの一件を一番気にしているのは、どう見たってお前じゃないか。生徒よりも余程に。俺には、そう見える」

「そう見えるかい?」ニコロは俯き、自分に言い聞かせるように呟いた。「ああ、そうだね。そうなんだろう。自覚をしていなかったよ」

 空になったカップをキッチンに置いて戻ってきたゼフは、はっきりと周囲に聞こえるわざとらしい呼吸の後、語調を強め、単語ひとつひとつを区切りながら言った。

「あれは、ただの、子供じゃない」

 その一言が、場を凍らせる。

 一瞬で空気が硬化し、流動をやめ、静止する。

 ニコロは、ゼフの言葉に体温を奪われ、肩を震わせた。

 メイは、ゼフの言葉に首を絞められ、苦しそうに顔をしかめている。

 その言葉は、神託めいた響きと弔辞に似た悲愴感を内包していた。少なくとも、発言したゼフ以外の二人にとって、今の発言はそれだった。

 それは、わかっていた。充分に理解していた。そのつもりだった。それを前提に、彼らの仕事は存在している。しかし、改めて言葉として突きつけられると、身体は萎縮してしまう。

 自分のデスクへ戻るゼフは、今度はゆっくりとした速度で言う。彼の視線は、ニコロに固定されている。

「上がローラの現地派遣を決めたのはどうしてだ? あの時点で、上が俺達の扱いに関する方針を変えたのは明らかだろう。いや、それよりも前からだったかもしれない。そもそも、ただの研究対象だって言うんなら、実戦訓練をやらせる必要なんてないじゃないか。それなのに、上はあいつらに銃の扱いを覚えさせろと命令してきた。爆薬の扱いを教えろ、戦い方を教えろってな。それがどうしてか、なんて考えなきゃわからないくらいに馬鹿じゃないだろう。上は実戦投入へ向けて、着実に動いていたんだ」

「でも急だった。いえ、急すぎたわ」メイは、矛先に立たされているニコロを擁護する。「色々とありすぎたわ。この短い期間に、本当に、色々と」

 彼女は、半年ほど前の記憶を頭の奥の方から引っ張り出した。思い出した情報は、古い映画のフィルムのようにちらつき、映像は合間が欠落して断片的だった。どうやら、整理がついていないのは自分も同じらしい。それに、あの晩のことを彼女が思い出すのは、あれ以来、初めてのことだった。

 劣化した記憶を修繕する彼女は、上層部からの通達から決行までの時間があまりに短かったと思い出した。指令が届けられた二日後が決行だった。そしてそれからは、まさしく一瞬だった。決行日を迎え、ローラが現地へ。悲報が届けられ、アインに関しての情報が伝えられ、彼を受け入れる手続きが終了し、施設へやって来て、今を迎える。

「急すぎたのよ」メイは自分の斜め上にある、今は灯っていない照明を眺めながら呟いた。「急いでいたのか、慌てていたのか知らないけれど、本当に……」

「急だったとは言え、結果を出した」言うゼフの視線は、メイへ。

「結果?」ゼフの言葉にメイが噛みつく。その声は裏返っていた。驚いたのか、呆れたのか、怒ったのか。そのいずれかか、或いは、その全てだろう。「結果と言った? ローラは死んでしまったのよ。それが結果?」

「レクレアをゲーグマンの手中から切り離した」

「でも」

「とにかく」ゼフはメイの言葉を遮り、更にゆっくりとした口調で続ける。「俺達が言い合っていてもしょうがない話だ。上がそうだと言ったら、俺達もそうだと言わなけりゃならない。そういう主従関係だ。上がやれと言ったら、やらなきゃならない。そうなった時、生徒を無事施設まで帰らせる為に、俺達はあいつらを教育する。それが仕事だ。違うか?」

 ニコロもメイも、何も言えなくなった。

 ゼフの言葉は、正しい。正論だ。

 だが、ニコロはそれを受け入れることがどうしてもできなかった。彼はやはり、自分の仕事に愛着を、そして誇りを持ててはいない。彼は奥歯を噛みながら、ゼフの言葉をどうにかして消化しようとした。非常に消化の悪い言葉だが。

 少しの沈黙を挟んで、メイがわざとらしく、声と言っていい音量の息を吐き出し、ニコロの後ろから自分のデスクへ戻った。

「私の午後の予定を知っている?」彼女は椅子に座りながら聞き、二人が何かを答える前に、「本部への出頭」と明かした。

「左と右のどちらの目が跳ねるかと言えば、右ね。本部ではきっと、そういう話が待っているわ」

「皆を育てろと?」ニコロが聞く。

「違うわ、ニコロ。奴らはこう言うの」メイは一呼吸の間を挟む。「兵士を育てろ」

「なんて愚かな……」頭を抱えたニコロの口は、目一杯の感情を込めた侮蔑を放っていた。

「とにかく、しっかりとやろう」ゼフが会話を断ち切るように手を叩き、声を大きくした。話すスピードは平素のものに戻っている。「来週、いや、できるなら明日からでも、演習を再開させよう。あいつらはもう半年も銃を触っていない。このまま放っておいたら感触を忘れかねないからな。座学はしばらくお休みだ」

 その提案への返事は首肯さえなかったが、ゼフの言葉は続く。

「それから、管理官同士でいがみ合うのもやめにしよう。言い争うのもだ。管理官は、共通の目的を持って業務にあたらなきゃならないだろう? それが何かなんて議論する必要もない。違うか?」

 そう言ってゼフは、ニコロを見た。ニコロはゼフと目線を合わせてはいなかったが、自分を見ているであろうとは言葉の節々から感じ取ったので、彼は小さくではあったが、渋々と首肯した。

 それを見てゼフは、深く息を吐き出し、腕を組み天井を眺める。

「それにこういう話し合いは好きじゃない。せっかくのランチが不味くなるじゃないか」

「ランチ?」会話が極端に脱線したと、メイは感じた。いや、脱線と言うよりも、脈絡のない箇所に飛んだ感じである。「ランチと言った? 何の話?」

「ランチはランチだ」ゼフは目を丸くしている。驚いているらしい。

「それはわかるわよ」

 メイは、自分の時計で時刻を確かめた。時計が狂っているのだろうかと思ったのだ。彼女の左腕の時計の針はまだ11時にもなっていない。その時計の針が狂っていないのであれば、昼食に関して会話をするには早い時間である。彼女は首を傾いでニコロを見ると、彼は部屋の壁に掛けられた時計を見ていた。そして彼は、早くないか、とゼフに訊ねた。その時計が示す時刻はメイの腕時計と同じだった。どうやら、時計が指し示す時刻は合っているようである。

「まだ11時前じゃないか。ランチの時間じゃない」

 ニコロはそう言ってコーヒーを啜った。その液体は、彼が一番嫌いな温度になっていた。彼は火傷をするくらいの温度のコーヒーが好きで、冷めたコーヒーは好きではない。特に、ぬるいコーヒーを嫌悪している。熱くもなく冷たくもない、中途半端な温度のコーヒーを。

 彼は、これ以上ぬるくなり飲めなくなってしまう前に、強引にコーヒーを飲み干した。

「今日は朝から何も食べていないんだ」ゼフは片方の眉と口元を上げ、顔を左右非対称にした。「寝坊をしてね。朝飯に間に合わなかった。そのせいで、もう限界だよ」

「そういうのはよくない」ニコロが呆れながら、柔らかに叱責した。しばらくの間忘れていた笑みが、自然と口元に浮かんでいる。「朝も言っただろう。君を見習って成長されると、どんな人間が出来上がるかわかったものじゃない」

「またその話か」

「見本である管理官の不規則な生活こそ、生徒に見せるわけにはいかない。そうだろう?」

「まったくね」ニコロからの目配せを受けて、メイは同意し、彼女も瞳を細めて笑った。「一番悪い見本だわ」

「でも、仕事の時間は守った。遅刻をしてないだろう」

「規則正しい生活は守ってない」

「じゃあ、なにか。我慢しろって言うのか? そりゃあ拷問だ」

「コーヒーを飲んだら?」メイは奥のキッチンを指差す。「まだ残っているわよ」

「いただくよ」そう言って立ち上がったのは、ニコロだ。彼はゆっくりとした歩調でキッチンへ向かった。

「俺のも頼む」ゼフはニコロに依頼し、自分のカップを手渡した。「空腹でコーヒーを飲むと胃が荒れるんだが、仕方がない」

「そんな繊細な身体をしているとは思わなかったわ。それに、さっきまで飲んでいたじゃない」メイは吹き出すように笑い、ひとしきり笑った後、キッチンの横に置かれた棚を指差した。その棚は業務に繋がりのない日用品等が収められているもので、彼らが常日頃飲んでいるコーヒー豆であったり、こうした時の為の非常食等が収められている。「そこの棚にアマレッティがあるわよ」

「アマレッティ?」ゼフが立ち上がり、棚へ向かいながら聞いた。

「エレーナが前に焼いてくれたやつよ」

「エレーナが?」彼は思わず顔をしかめる。「食えるのか?」

「とても美味しかった」ニコロがキッチンからその味を讃する。「ナッツがトッピングされているやつは最高だった。エレーナの焼いたアマレッティを食べてしまったら、店で買うのが馬鹿らしくなるよ」

 彼はポットに残っているコーヒーを自分とゼフのカップに注ごうとしたが、液体の温度に気付き、コンロに火を点けて加熱した。液体が沸騰するまでに、それ程の時間は要さなかった。

 カップに注いでデスクへ戻ると、ゼフが棚から目当ての品を見つけるところだった。彼は透明の包みに入れられた焼き菓子を手に、先程までメイが立っていた窓際、ニコロのデスクの後ろへと向かう。

 ニコロは手にしたカップの内、ゼフの物を背後の彼に手渡した。

 ゼフは液体の温度を察知して、息を吹きかけて冷まそうとする。対してニコロは、好みの温度を堪能した。

 この部屋の窓からは、中庭が見渡せる。教科書を読んでいる生徒達の姿も、しっかりと確認できた。ゼフは、アマレッティの包みを片手で器用に開きながら、動きのない生徒達の姿を観察する。ここからだと、生徒達の位置関係が不格好な楕円であることがよくわかる。長軸の両端に位置しているのは、シャルルとアイン。その原因を知る彼は、ニコロとメイに気付かれないように苦笑した。

 ゼフはアマレッティを口に運ぼうとするが、その時彼は、あるニュースを思い出した。そうだ、と言い、彼の口はその先の発言を優先し、アマレッティはまだ口に運ばない。

「A国軍が動いたらしいぞ。進行先はユーゲンベニアだ」

「ユーゲンベニア?」メイは驚きながら、頭の中に世界地図を広げた。

 ユーゲンベニアは、アフリカ大陸の北部に位置する、レクレアの隣国だ。A国は、今年に入ってからレクレアに軍を派遣し、一件により発生している暴動を抑制しながら、オルム・ゲーグマン将軍を捜索していた。その様子は、連日ニュース番組が報じている。そのA国軍が、レクレアの隣国、ユーゲンベニアに進行した。

 その行為の目的は、ひとつしか想像できない。メイはデスクを両手で突き、無意識に立ち上がっていた。

「まさか、ゲーグマンが見つかった?」

「残念だが、そうじゃない」ゼフはアマレッティを持つ手で、ノーのサインを送る。

「違う?」彼女は椅子に座り直す。「なら、どうして動いたの? 何かを知っているの?」

「情報か、推測だろう。まあ、動いた以上は推測じゃないだろうが、……どこかから情報提供でもあって、ユーゲンベニア国内に潜伏していることがわかった。だが、その場所はわかっていない。そんなところだろう」

 ニコロはその説明を聞いて、呻いた。「でも、それ以上は下手に動けないね」

 ニコロのその言葉に、その通りだとゼフは返す。彼はコーヒーを飲もうとするが、それはまだ彼が飲める温度ではなかった。ニコロとは反対に、彼の口は高い温度への耐性が低いのだ。

「アフガニスタンでもリビアでも、気早すぎる判断でA国は民衆から叩かれた」ゼフは、息でコーヒーを冷ましながら言う。「他国からもな。下手な行動をして、カメラマンにピュリツァー賞のネタを振り撒く訳にはいかない。それに、ユーゲンベニアは国勢が危なっかしい。政権問題が起きたのはいつだった?」

「何年も前よ」

 思い出しながらメイは言った。何年前かの正確な数字は思い出せなかった。それくらい長続きしている問題だった。

 ユーゲンベニアは、現在では数少ない絶対王政を政治形態とする国である。だが、政党が国王に退陣と政権改革の要求をして以降、双方は対立し、その関係は日に日に悪化していた。現在は行政が機能しなくなり、治安の悪化も問題視されている。レクレアと共に、広大なアフリカ大陸の中で今一番不安定な国と言われていのが、ユーゲンベニアだった。

 自国の治安すら維持できていないのだから、国内に世界的な指名手配犯が紛れ込んでも対応できる筈がない。それに、ユーゲンベニアの国軍は国王を支持しており、現在ユーゲンベニア軍は国軍としての機能をしていない。

 そして一番の問題は、ユーゲンベニアは19世紀の終わりにE国から独立して以降、強硬的な非同盟中立国を主張し、他国との連携をとっていない点だ。国に関しての決定権は国王だけが有しており、他国の介入を一切認めていない。一切の国と犯罪人引渡条約も結んでいない。そんな国勢なだけに、迂闊に手を出し、どんな些細なことであれ、ユーゲンベニアに何らかの影響を及ぼしてはならない。

 他国の問題には迂闊に手を出さない。先の大戦で主要国家が得た教訓である。A国だけでなく、各国がゲーグマンを前にして足踏みしかしていない理由は、それだった。

「下手に手を出すと問題が膨張する。ニコロが言ったようにそれ以上は動けない」ゼフが悔しげに呟く。「まあ、しかし、A国が勇気を持って動いたんならそれでいい。A国でなくても構わなかった。撃鉄が起きさえすれば、それを誰が構えていようが知ったことじゃない。銃口の先にゲーグマンの頭がありさえすればいいのさ」

 ニコロとメイは、無言で頷いた。

 そこでゼフはようやく、それまで手に持っているだけだったアマレッティの存在を思い出し、口の中へ入れた。数度の咀嚼を終え、飲み込む。そして、彼の顔には驚きのそれが浮かび上がった。味に驚いた、というシンプルな感想の表情だ。勿論、よい意味合いで驚いていることは、他の二人に正確に伝わる。

「こいつは美味いな。これをエレーナが作ったって?」言った後、ゼフはもうひと口を頬張り、歓喜した。「美味いな。本当に美味いよ。うん、美味い」

 繰り返されるゼフの言葉を聞いて、ニコロは微笑んだ。エレーナの腕前が褒められて嬉しかったのだろうが、ゼフの驚き方と感想の表現の仕方が幼稚で、それが可笑しくて笑ったとも受け取れた。事実、その意味の方が含んでいる割合は多いのだが。

「美味しいだろう? あの子達の手は、銃を握らせるのが勿体ないくらいさ」ニコロは熱いコーヒーを啜り、メイを見る。「そう伝えてくれ。上の人間に」

 メイは、ニコロを見て微笑んだ。それが、無理だ、という意味だと解釈し、メイと同じように笑い、カップをデスクに置いた。

「そう言えば、右目が跳ねるって?」ゼフは、相変わらず自分のカップに息を吹きながらメイに聞いた。「どういう意味だ?」

 彼女は少しの間を置いて、自分がその言葉を言っていたことを思い出す。

「諺よ。中国だときちんと言葉があるんだけれど、英語では伝わらないのね」

「訳したからわからなかったのかもしれない」

「正しく言うと」それからメイは、言葉を母国の言語に切り替える。「左眼(ツォイェン)跳福(ティアオフゥ)右眼(ヨゥイェン)跳禍(ティアオフウォ)

「前言撤回だ。余計わからなくなった」ゼフは、ホールドアップの姿勢をとる。「俺にもわかるように言ってくれ」

是不可能的(シブゥクウェナンダ)

「メイ」

「ごめんごめん」笑って、メイは言葉をここでの公用語に戻した。「左の眼が跳ねる時は幸福が、右の眼が跳ねる時は禍が訪れる」より理解しやすい例えはないかと、少し考える。確か、イタリアにも似た言葉があった筈だが、思い出せなかった。「まあ、テレパシーみたいなものね。直感とか、予感とか。私は右の眼が跳ねた。悪い予感がする。そういう意味よ」

「ああ、なるほどね」ゼフは頷き、再び中庭を見下ろした。「あいつらには、もっと正確で高性能なのが備わっていそうじゃないか」


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