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変化を要請された日

 第一章


 政治は、「蛇のように怜悧であれ(・・・・・・・・・・)」と言う。道徳は、(それを制限する条件として)「そして(・・・)鳩のように正直に(・・・・・・・・)」と付け加える。この二つが一つの命令のうちで両立することができないなら、政治と道徳の間には実際に争いがあることになろう。


 1


 車外の風景が、少しずつ変化を始めていた。後部座席に座る無表情な青年は、遅々としたその変化を観察していた。

 新緑の頃より僅かに色を濃くした枝葉の隙間に、橙色のレンガが見え始めたのは、数分前からだった。窓を開けていれば、体温と同じくらいの温度の柔らかな風が車内に流れ込んでくるだろう。それより以前には、進行方向に対して右側に海が見え、左側には、この道が海岸の一部を削って整備された道であると訴える無機質な灰色の岸壁しか見えず、それらは、不規則、且つ頻繁に現れるトンネルとトンネルの合間にのみ見える風景で、今に至るまでの間、見える風景の比率はトンネル内の方が長かった。割合は、三対七くらいだろう。

「もう少し行くと、もっとよく海が見える」運転をするニコロ・アルベッキオが、進行方向を見据えたまま、後部座席の青年に声を掛けた。「いい景色だよ。今よりもね」

 ニコロは、スーツがよく映える人物だった。だが、話し口には丸みがあり、表情には、そこから彼に悪印象を抱く人物の割合は極めて少ないだろうと十分に感じさせる柔和さがある。双方を合わせて会話をしたなら、その割合は限りなくゼロに近付くだろう。彼は確かにスーツが映えるものの、外見的にも内面的にも堅苦しさがなく、柔らかな人物だった。

 だが、車内で会話が生まれるのは、二人が車に乗り込んでからというもの、これが初めてだった。今を迎えるまでに交わした言葉と言えば、後部座席に乗る彼を空港で出迎えた時の短い挨拶だけだった。否、あの場で挨拶を交わしたかどうかを、ニコロは覚えていない。空港でのやり取りは、先方のエージェントとの事務的なものだけだった気がする。互いの身分証を掲示して本人確認を行い、その後、お互いが用意していた書類を確認し、捺印。合間に先方は、この土地はよい所だと社交辞令を言ったが、それ以上の会話には発展しなかった。恐らくニコロが、そうだろう、と言って書類を返したからだ。その返事も、先方の発言と同意義のものだった。違った点を挙げるとするなら、ニコロの言葉には、それじゃあ、の別れの挨拶が内包されていた点だ。

 そうして、今は後部座席に座っている彼を受け取り、引き渡しは終了。その間、その彼は、置物のようにしているだけで、一切言葉を発さなかった。

「夕焼け時は最高の眺めだ」ニコロは、話しを続ける。「海が、町のレンガと同じ色になるんだ。レンガの色は、少し前から見えているだろう? あの色さ。奇麗だよ。それこそ絵画のようにね」

 言葉は返されない。

 後部座席の彼は、沈黙していた。

 ニコロは数秒返事を待ってみるが、沈黙は変わらなかった。

 バックミラー越しに相手の様子を窺ってみると、東洋系らしい艶のある黒髪をした青年は、今は下を向き、車に乗る時に渡した資料を膝の上に広げ、それらを読んでいるようだった。表情は前に垂れた髪が邪魔をしていてよく見えない。

 ニコロは、頭の中でぼんやりとカラスを連想した。

 表現が適切であれば、このカラスは孤高の一羽だろう。

 彼がそんなことを考えるのは、これで何度目だろう。出会ってすぐに、それを考えた。運転中に何度考えたのかは、もう覚えていない。カウントをするのは、五回目でやめていた。

 浅い息を吐きながら、ニコロは弱くブレーキを踏んだ。

 車は再び、トンネルに突入する。対向車は随分と前から見ていない。

「日本語の方がいいのかな」

 車のヘッドライトを灯して聞くと、青年はようやく顔を上げた。その瞳も、髪と同じ黒い色をしていたが、今はトンネル内の照明に照らされて、どちらも赤い色をしている。

「日本語は喋れません」

 初めて響く彼の声は、抑揚を欠いている。まるで機械が喋っているようだ、というのが、ニコロの率直な感想だ。

「そうかい」ニコロは深呼吸をする。独り言にならずに済んだ、という安堵感を感じていた。「英語は大丈夫みたいだね」

「この国の言葉でも構いません」

「施設の子供達とは英語で話をしている。他のスタッフともね」

「それなら、それに従います」

「わかった」今度は、溜息。特に意味のない溜息だった。言葉をそこで区切ったら、その合間に勝手にこぼれただけの場繋ぎだ。「質問はあるかい?」

 ニコロの問いに、いいえ、と青年は答えた。その後に、全員とても若い、と言う。

「そうだね。みんなとても若い」ニコロは口を斜めにして笑うと、再びバックミラー越しに青年を見た。「僕も君より年下になるのかな?」

「わかりません」

「年齢に関しての話は嫌いだったかな」失言だったか、と、ニコロは自分の発言に反省をした。

 心の中で反省をする彼は、ハンドルを慎重に操作する。トンネルは常に右方向へ湾曲していて、進行方向から何が来るのかは、まるでわからない。何も来ないだろうが、もしも大型のトレーラーが斜線を越えて対向して来たら、正面衝突は免れない形状のトンネルだった。もっともニコロは、過去に何度もこのトンネルをくぐっていて、そんな経験をしたことは今の今までに一度としてないのだが、この歪曲の中に身をおくと、どうしてもそんな考えが頭をよぎってしまうのだ。恐らく、習慣だろう。

「すまない」ニコロは謝罪の言葉を述べた。「失言だね。忘れてくれ」

「何のことでしょうか」カラスのような彼が、聞き返す。これまでの車内の状況を考えると、珍しい展開だった。

「年齢の話だよ」

「どうして謝罪をしたのでしょう?」

「そんな感じがしたんだ。そうなのだろうかと思った」ニコロは更にブレーキを踏み、ギアを落とす。車は今、必要以上に遅く走っている。「だから、謝った」

「それなら安心してください。気にしていません」

「そうかい。それなら安心したよ」

 そう言ったものの、本心では、ニコロは微塵も安心してはいなかったのだが、これ以上このままの流れで会話を続けることはできないと判断した彼は、後部座席のカラス同様に、沈黙することに決めた。その決断は、彼にしては珍しい決断だった。

 曲線の長いトンネルは一度直線に戻り、その後、逆方向への歪曲を始める。

 二人の体は、横に引っ張られている。

 車はもう少し速く走らせられそうだったが、ニコロはギアをそのままに、アクセルを踏んでいた。

「ミリィ・アシュフォード」唐突に後部座席の青年が話し始めた。バックミラーを見ると、彼は資料を閉じ、やはり機械のように口だけを動かしていた。瞳は瞬きをせず、前を向いているが、ニコロを見ている訳ではない。「アメリカ国籍、17歳。アレクサンドラ・イクラウ、ロシア国籍、17歳。シャルロット・アンジュ、フランス国籍、16歳。キャロ・セギュール、イタリア国籍、18歳。エレーナ・セギュール、同じくイタリア国籍、10歳。キャロ・セギュールの実妹」

 彼の言葉を聞き終えたニコロは、数回頷いて、シートに背中を押し付けた。もう新しくはないシートは、彼の重さでぎしりと軋む。

「間違いはありませんか」後部座席から確認の言葉。

「すべて正解だ。間違いはない。ずっと暗記をしていたのかい?」

「名前と性別、年齢と出身地程度は」

「追加の情報だ」ニコロはハンドルから左手だけを離し、人差し指を上に向けた。特に意味のない動作だが。「サーシャ、……ああ、ええと、……アレクサンドラは、みんなからサーシャと呼ばれている。サーシャと呼ばなければ返事をしない。本人はアレクサンドラという言葉の響きを嫌っているんだ」

「何故です?」

「さあ」ニコロは肩を竦めたが、シートがあるので後ろに座っている青年にその動作は見えなかっただろう。「仲良くなったら聞いてみるといい」

「はい」

「それと、シャルル」

「シャルロット・アンジュですか」ニコロの言葉に重なるタイミングで、彼は聞く。

「そう」ニコロは三回頷いた。

「フランスの、由緒のある家の生まれですね」

「そう」ニコロはまた頷く。今度は一回だけ。「中世時代には、小さい規模ながら、アンジュ地方の一つの地区を統治していた家系だ。言わば、貴族だね。だから、名前に地名が含まれている。彼女のニックネームは、シャルル」

「そう呼んだ方がいいですか?」

「逆だよ」ニコロはもう一度ハンドルから左手を放し、今度は肩の位置で左右に振った。「気難しい性格で、皇女よりもプライドが高い。彼女からの許可が得られるまでは、シャルロット、と呼んでいた方がトラブルが少ない」

 はい、と、彼は頷いた。

「それで、ああ、その……」ニコロは会話を続けようとする。だが、言葉が必要のないところで途切れてしまう。容赦を貰ったものの、先程の失言も少なからず影響を及ぼしているのだろう。言葉が潤滑に連結されない。彼は、言葉の切れ目を誤魔化すように咳払いをしてから、続けた。「君のことは、なんと呼べばいい?」

「僕ですか」

「そう。君をどう呼べばいいかな」

「お好きなようにお呼び下さい」彼はやはり、放り投げるように言う。

「そうは言っても、現地のような呼び方はできないよ」

「大丈夫です」後ろの彼は、暗闇しか見えないトンネル内の風景を眺めながら言った。「アイン」その単語は、それまで機械のように話していた彼にしては珍しく、少し強めの口調で発せられた。「それが、僕の最後の呼称です。これなら名前に聞こえます」

「アイン?」

「そうです」

「それは、日本人の名前には聞こえないよ」ニコロは、戸惑いながら額を掻いた。「君は日本国籍ということになっている。否、現に日本国籍だ。もっと自然な名前の方がいいんじゃないのかな」

 アインと名乗った青年は、変わらずにトンネルの向こう側を眺めながら、首を横方向に振る。

「このままで構いません」

 そこで、数秒の沈黙。

 呻くように息を吐いたニコロは、進行方向にトンネルの終わりを見付けた。

 丁度いい。彼は、トンネルの終わりとこの会話の沈黙を同義として、トンネルが終わるのなら、この話題も終えようと、些か強制的な連結で解釈をした。

「わかった」ニコロはヘッドライトを点けたまま、アクセルを踏み込む。車は二人をシートに押し付けるように加速した。久し振りに、二人を乗せた箱は車らしい加速をした。「君の名前は、アイン。そう紹介しよう」

「はい」

 アインはこれまで通り、機械のように、新兵のように頷いた。それは身体に染み付いているのだろう。ニコロはこの時になって初めて、そう考えた。身体の芯にまで染み付いているなら、容易に矯正などできる筈もない。そう考えながら、再び額を掻く。

 トンネルを抜けるが、すぐに別のトンネルが口を開けて待ち構えていた。山間を走るこの道は、もうしばらくこの状況が続く。

「施設での生活について」ニコロは話題を変えた。話題、と言うより、伝達事項と言った方が適切な内容だが。「説明だけど、いいかい?」

「はい」アインは、戸惑うことなく返事をする。

「施設の中での行動は自由」ニコロは、アインに渡した資料にも記載されている内容を口頭で説明する。「ただし午前中は勉強を。歴史、数学、芸術といった課目の他に、実技といったものもある。内容は日によって僕達管理官が決めている。みんなの年齢が違うから授業内容は微妙に異なっているけれど、共通しているものもある。共通しているものは、歴史や芸術に関する科目。異なる内容になるのは、数学や語学だ」

「はい」

「数学の知識はあるかい?」

「一般的な内容だけなら。複雑性のあるものには触れたことがありません」

「語学はどうだろう」

「他国の言語ですか」

「そう。君に語学の授業は不要だったかな? 幾つの国の言葉を話せる?」

「四ヶ国です。英語、フランス語。それと、中国語とアラビア語です」

「十分だ」

「中国語は読み書きができません。アラビア語も同じです」

「それでも十分だよ。僕は、そのどちらもできない」

「歴史、芸術を知りません」

「それも大丈夫だよ」ニコロはここで、会話の内容を元に引き戻した。「週末はカレンダー通りに休みだ。自由に過ごすといい。施設の外に出てもいい。でも、出る時は必ず僕たちに報告をしてくれ。どこへ行き、何をするのかを伝えておくこと。あと、帰ってきた時にも、同様に報告を」

「はい」

「だけど、まあ、施設にはある程度の設備がある。蔵書は少ないが図書室があるし、中庭は手入れをしているから綺麗だ。小さいプールもあるからそこで過ごすのもいいだろう。これからの季節は気持ちがいいよ。それと、食堂もある。君の部屋にも小さなキッチンはあるが、自炊が嫌ならそちらを使うといい。うちのボンゴレは最高だ」

「はい」

 返事をしながらアインは、ボンゴレ、とは何だろうかと考えた。それは初めて聞く単語だった。料理名なのだろうとだけは会話の流れから理解したが、どういったものなのかが不明だった。だが、料理を指す単語であるとだけわかれば今は充分だと判断し、頭に浮かんでいた疑問を、彼は消去させた。

 そうしていると、進行方向に再びトンネルの出口が見えた。トンネルを抜ける少し手前で、ニコロはヘッドライトを消した。その行動からアインは、これが最後のトンネルなのだと理解した。

 白色の眩い日差しが前方から車内を照らす。あまりに眩い陽光だったので、アインは目を細めた。

 目が眩さに慣れ視界がはっきりとするまでに、数秒。

 徐々に鮮明になっていく彼の視界に最初に映ったのは、海の色だった。否、空の色だったかもしれない。少なくとも、彼が認識したのは、青という色だった。

 そこにあったのは、弓のような弧を描く海岸線。町は、山と海との境界である狭小な土地に申し訳なさそうに置かれていた。トパーズより深い色をした海面では、漣に乱反射した陽光が宝石を撒いたように輝いている。急な傾斜の山々は、それを浴びるように自然のままの姿でそこに鎮座していた。そして、それらに抱かれるように存在している、家屋の色。ニコロが言っていたレンガの色。橙色だ。

 この町は、人と自然とが混在せず、完全に分けられていた。山、町、海。それらの上に、空。その区切りが、はっきりとしている。

 ニコロの言っていた通りだった。この町の風景は美しい。小さな町ではあるが、どんな名画も褪せてしまいそうなほどの風景を備えていた。それこそ、夕暮れ時ともなれば、絶景という言葉が適切になるのだろう。これも、ニコロが言っていた言葉の通りだ。

 だが、目の前にある額縁のない一枚絵を眺めるアインの表情は、やはり、無感情なままだった。感想は、待てどもない。反応も見られない。

 道は、徐々に下降を始める。町へ続くこの一本道は、あとは下降だけである。車内から見えていた海面は、やがて枝葉が遮り始める。見た限りでは、町に入れば再び海は見えるだろう。いや、町に入れば、どこからでも海は視界の中にあるだろうか。遠距離からの僅かな時間の観察だが、枝葉が海を遮るのはこれから暫くの距離だけだろう。アインは、今走っている道と町、海の位置関係を頭の中にインプットした。

「見えるかい?」海が完全に見えなくなってしまう直前に、ニコロは海岸線の先端を指差した。

「はい」アインは、ニコロが指差している方角を見た。そこには大きな城が建っている。灰色の、石積みの城壁に囲われた大きな城で、屋根のレンガは町と同じ橙色だ。「見えています」

「あそこが、今日から君の家だ」ニコロは柔らかな口調で言う。「施設へようこそ。君を歓迎するよ、アイン」


 2


 町中に入ってからは常に、施設という呼称の城が見えた。車が通ることのできる道が海岸側にしかないからなのか、ニコロがたまたまその道を選択して車を走らせたからなのかはわからないが、車内からは常に、その姿が確認できた。

 湾に突き出し、埠頭があるべき場所に聳えた城は、背の高い城壁に囲われていた。城という概念で建立された建築物としてはオーソドックスな造りであろう。見た限り、城の平面的な形状は正方形。見上げ続けていると首に痛みを覚えそうな高さの城壁は、この町で最も背の高い建築物であるようだ。海岸側の城壁には波が絶え間なく打ち寄せ、白波を散らしている。その上部には、中世時代には砲台か銃口がその口を出していたであろう穴が幾つか存在していた。その穴は海側にだけではなく、山側にも存在していた。嘗てこの城の主は、海側からも山側からも敵に狙われていたのであろうと考えながら、アインは現代的ではない建造物を観察した。

 施設と町とを繋いでいるのは、車一台通るのが精々といった細い橋だけで、その橋はとても古いものだった。路面は石畳で作られているが、所々でその石畳は欠けている。そして、石畳が敷かれたのは自動車が普及するよりも以前で、馬と荷車が移動や運搬の手段として全盛であった頃なのだろう。自動車で橋の上を走ると、車内はロデオのように上下に弾む。この橋を渡るのに、車という乗物は適当ではなかった。

 アインは弾む車内で前の座席の背もたれを掴み、どうにかバランスを保っていた。

 それに気付いたニコロの声が聞こえた。だがそれは、声と言うよりも呼気の漏れる音で、それが笑い声であることに、アインは気付く。

「施設の名物だよ」ニコロは笑いながら説明する。「いや、町の名物かな。ここまでの道以外は、すべてがこうだ。町の中もね」

「はい」舌を噛まないように、アインは返事をする。ここまでの、というのは、先程まで走行していた道のことだろう。つまり、海岸沿いのあの道以外、町のすべての道が、これと同様の路面であるようだ。

「大丈夫かい?」ニコロはブレーキを踏みながら言った。車は今、歩くよりもゆっくりとした速度で走っている。

「大丈夫です」

「この町は小さいから、年寄りでも、歩いて町の端から端まで行ける。だから、今もこういう道が多い。車を持っている人間は少ないからね」

「はい」

「もう少しだけ辛抱をしてくれ」言いながら、ニコロは窓を開ける。たちまち、車内には潮風が充満した。「もう少しだけ。もう着くから」

 桟橋の向こう、城壁の下には門扉があった。片方だけが閉じ、もう一方は不用心にも開かれたままである。その開かれた扉の前に、衛兵がひとり立っていた。衛兵は既にこちらの存在に気付いているようで、体の正面をこちらに向けている。

 ニコロは、衛兵の前で車を停めた。

「やあ」彼は車窓から半身を外に出し、衛兵に向けて手を上げ、フランクに挨拶をした。「異常はなかったかい?」

 衛兵は車のボンネットに手を乗せ、何もなかった、と言った。その後に、「あるとするなら、ひとりで出ていった筈のニコロの車に人が増えていることぐらいだ」と続ける。

「噂の新入生?」衛兵が、車内を覗き込みながら言った。「日本人か」

「はい」アインはすぐに返事をした。返事をした後、告げられた言葉に違和感を覚えて、聞く。「新入生とは?」

「資料には書いていなかったが、施設では君達を生徒と呼んでいる」ニコロは、身体を捻って後ろのアインを見た。「だから、施設へ来ることを入学と言い、君のことを新入生と言った。大丈夫、隠語じゃない」

「名前を変えるべきですね」アインがやはり、無表情で言う。「学校と呼んだ方が適当ではないでしょうか」

「それは難しい提案だ」ニコロが言う。彼と衛兵は、揃って苦笑していた。「町には、ここは州が設営した養護施設と説明している。学校と名前を変えては、その後が大変だ」

「まあ、どちらも似たような場所さ」衛兵は、右の頬を持ち上げて笑った。「そこにいるのは子供で、子供の顔を知らない、顔も知らない大人が管理をしている」

 そう言ってから、衛兵は閉じたままだったもう一方の門を押し開ける。

 木製の門は、ゆっくりと動く。

 車は、これまでで最も遅い徐行速度で施設の中へ入っていった。


 3


 門を越えた先は、開けた空間となっていた。広場と形容すべきであろう空間は横方向に長い長方形で、その中心には小さいながらも丹念に細かな彫刻が施された瀟洒な造りの噴水があり、その頂上からは静かに水が流れている。足元は石畳だが、先程までとは異なり、石は細かく、車体の振動も感じられない。その石畳は噴水を中心に、半円形を僅かにずらしながら連続する模様を形成している。上から見たなら、花に見えるだろう。

 ニコロは噴水の先に車を停めた。門を超えた先に佇む建物との中間位置だ。

 その建物が、施設としても、建造された当時の本来の役割としても本城たる部分なのだろうが、城と聞いて思い浮かべる粗野さや武骨さは感じられず、寧ろ、王宮と聞いて思い浮かべる優雅さと甘美の中に、芸術としての美麗と官能を入り混ぜた荘厳たる外見だった。

 アインは、停車した車の中から施設を観察する。

 建物の構造は“コ”の字。本城の両側には、本城が両腕を広げるようにして二階建ての建物があり、それらは渡り廊下で連結している。廊下は一階にしかなく、その高さは三メートルほど。両隣の建物は、それよりも三倍ほどの高さを持っていた。

 本城、この城を人と形容するなら胴体部分が管理棟で、両腕が宿舎である。右腕が男性の宿舎で、左腕が女性の宿舎であると、ニコロが簡潔に説明をしてくれた。こちらから見えているのは宿舎の廊下で、部屋はその廊下の向こう側に配されている。いくつかの窓から、等間隔で扉が並んでいるのが見えた。そして、男女双方とも、その両端、こちらから見て管理棟から最も離れた位置で直角に向きを変え、そこまでと同じ距離だけ宿舎が継続するという。

 管理棟と宿舎の向こう側にあるのが中庭であるとも、ニコロは説明した。その後に、車を降りるように促し、アインはそれに従い外に出た。車はまだエンジンを動かしている。ニコロは、それを止める素振りを見せない。下車する様子もない。

 鼻を擽る磯の香り。噴水の音色の後ろには、波の音。

「車を停めてくる」ニコロが車の窓から顔を出す。「ここで待っていてくれ。すぐに戻るよ」

「はい」

 ニコロを乗せた車は噴水を一周し、再び門の方へ走っていった。どうやら、城壁の内部に車を停める場所はないようだ。

 いや、場所はある。今自分が立っている空間がそうだ。長方形の、噴水だけが置かれたここに、今乗っていた車であれば、噴水の左右に三台ずつ、計六台は停められる。車と人の出入りを考慮しなくてもよいのなら、噴水の前後に一台ずつ、計二台。合算すれば八台の駐車が可能だ。だがそうしなかったのは、やはり、ここが駐車の為のエリアではないという証明だろう。では、何の為の空間なのかはわからなかったが。

 やがてエンジン音が聞こえなくなると、アインの周囲にあるのは水の音だけになった。噴水と、海の音。城壁があるせいで、噴水のせせらぎの方が大きく聞こえる。

 ニコロが戻るまでの間、アインは噴水と管理棟を交互に見ながら時間を潰した。管理棟の壁面にも、噴水同様に細かな彫刻が施されていた。

 不意に誰かから声を掛けられたのは、そうしている時だった。

「そこが管理棟」少女の声だ。

 アインが声のした方向を見ると、管理棟の左、二の腕の位置に該当する渡り廊下の窓から、一人の少女が顔を出していた。今の声の主だろう。今この場には、アインとその少女しか居ない。

 少女は身を乗り出し、窓枠を支えるレンガを叩く。

「こっちが女子の宿舎。反対は男子。あっちね」

 アインは頷く。ニコロから聞かされた説明と同じ内容だ。

 少女は窓枠に肘をつき、両の手の平をチューリップの形状に広げて顎を乗せてから、言葉を続けた。

「問題です。君はどっちでしょう」

 アインは無言で後ろを指差す。

「正解」少女は瞳を猫のようにつり上げて笑う。瞳は向日葵色だ「そう。そっちが男子の宿舎ね」

 陽に当てられた明るい栗色の髪が、動きに合わせて揺れる。その髪の短さが、彼女の性格を物語っているようだった。少女からは活発という雰囲気が強く感じられ、仕草も口調も快活そのもので、年頃の少女にしてはラフな部類であろう、ジーンズにTシャツという飾り気のない服装からは、多少の田舎臭さを感じるものの、却ってそれが、彼女の個性を引き立てていた。

 少女は屈託のない笑みを浮かべたまま、からかうように言葉を続ける。その表情や仕草からは、どことなく、猫のような印象を受けた。

「こっちに来たければ、忍び込めばいいよ」

 アインは、少女を直視したまま頷いた。

「でも、怒るのと怒らないのがいるから、選択は慎重に」

 もう一度、アインは頷く。

「ちなみに、あたしは怒らない方。覚えておいて」

 もう一度頷く、アイン。

「ちょっと、あれだね」少女は表情を変え、口を窄めた。瞳も細めたので、目が眩んだような表情だ。「反応がわるい」

 そう言われたが、アインはよい反応というものがわからなかった。わからなかったが、向けられた言葉が叱責に分類されているとは理解ができた。謝罪すべきだろうかと一瞬だけ考えたのだが、彼の口はそれよりも質問を優先した。

「君は?」

 聞かれて少女は、手の平の上に顔を乗せたまま、首を傾ぐ。

「何が?」

「名前」

「名前?」

「君の名前」

「あたしの名前?」

 うん、と、アイン。

「シャルルだったら怒られているところだよ」少女はわざとらしく腕を組み、胸を張る。「女性に名前を聞く時は、まずは自分からだって。まあ、あたしはシャルルじゃないから、どうだっていいんだけど」

 少女は組んだばかりの腕を解き、今度は両方の手の平をぴたりと合わせ、頬の横に持ってきた。

「当ててみてよ」少女は目を細める。微笑んだらしい。

 アインは少しだけ考えた。ここに到着するまでの車内で記録したばかりの情報を、頭の中から引き出す。色々な情報を頭に記録させていたが、彼はその中から、固有名詞だけを思い出した。

 名前は、アルファベット順に再生される。

「アレクサンドラ・イクラウ」最初に引き出された固有名詞を、アインは言う。

 しかし少女は、風船のように頬を膨らませた。

「はずれ」少女の声が大きくなる。「は、ず、れ」同じ言葉を、その意味を強調するアクセントでリピート。「ロシア人に見える? それに、今の呼び方だったらサーシャにも怒られるよ。怒ったら、シャルルよりもおっかないんだから」

「サーシャと呼ばなければいけないんだよね」

「そう」

「それは聞いている」

「じゃあ気をつけて。それより、あたしの名前」急かすように彼女は言い、頬の横に添えていた手の平の位置を左右で入れ替える。「わからない? ほら、当てて」

 アインはアルファベット順に思い出すことをやめて、少女の風貌の観察に思考を切り替えた。

 欧州系ではない少女の顔立ちを確認してから、記憶の中で、アレクサンドラ・イクラウを除いた人間の中で欧州系ではない国籍の人間を思い出す。彼女が、シャルル、という固有名詞を出していたことから、シャルロット・アンジュの名前も候補から除外した。少女の風貌はアメリカ系に思えた。これまでに見せた動作が大振りであることも、そう思わせる。そう考えると、一つの名前しか引き出されなかった。

「ミリィ。ミリィ・アシュフォード」

「正解」少女、ミリィ・アシュフォードは、嬉しそうに笑う。「でも失格。一回で当ててくれなきゃ駄目だよ」

「資料に写真がなかった」

「ふうん」ミリィは鼻を鳴らしながら、選別するような眼差しでアインを見る。視線は上下に不規則に動いていた。「でも、シャルルとサーシャが違ったら、年齢的にあたしくらいしかいないじゃない」

「いない?」

「それを除いたら、あとはエレーナだよ」

「施設の、他の人間の可能性もあった」

「ああ、なるほどね。なら、仕方ないか」二度頷き、視線をアインの顔に固定する。「それで、君の名前は?」

「アイン」

「アイン?」

 うん、と、アイン。

 ミリィは、瞳を丸くした。

「驚いた。日本人じゃないの?」

「日本人だ」

「最近では、日本でもそういう名前が流行っているの? それじゃあまるでドイツ人みたい。アインって、ドイツ語だよね。あれ、違った?」

「日本に住んでいたことはない」

「へえ。行ったこともない?」

「行ったこともない」

「それでか。英語、うまいね」

「うん」

「で、アインって何語だっけ」

「日本語ではない。ドイツ語で合っていると思う」

「ふうん。日本語は?」

「なにが?」

「喋れるの?」

「喋れない」

「なあんだ」肩を落としてミリィは落胆した。「日本人が来るっていうから、勉強したんだよ。こんにちは、とか、……まあ、それくらいしか覚えられなかったけどね」

 ミリィは片目を瞑り、舌を出して笑った。

 ニコロが戻ってきたのは、そのタイミングだった。手にはアインが車に入れていた荷物と、それとは違う紙袋を持っている。

「待たせたね。それじゃあ部屋へ。……おや、ミリィ」

 ミリィの存在に気付き、ニコロは手を上げて挨拶をした。ミリィも同じように手を上げ、そこから更に、手の平を握ったり開いたりを繰り返す挨拶を返した。

「おかえりなさい、ニコロさん。彼が新しい人なんだってね」

「そう。名前はアイン」

「今聞いた。変わった名前。ねえ、アイン。それ、本名? ニックネームじゃなくて? 今までどこにいたの?」

「ミリィ」矢継ぎ早なミリィの問いを、ニコロは遮る。「彼を部屋に連れて行かないと」

「えー」

「彼は長旅で疲れているんだ」

 ニコロはアインの背中を軽く押し、管理棟へ向かわせる。その動作がどことなく、ミリィから逃げようとしているかのように、アインには感じられた。

「まだ話足りないよ」彼女は、背を向けたニコロに向けて不服を言う。「いいじゃない。もう少し。ね、お願い。ニコロさん」

「明日、またみんなに紹介をするから」ニコロは首から上だけを後方のミリィに向け、諭すように言う。「今日は休ませてあげよう」

「はーい」ミリィは、渋々返事をした。「まあ、仕方がないかあ」

 ひらひらと手を振り、渡り廊下を宿舎の方へ歩き出すミリィ。しかし、その途中で何かを思い出したのか、彼女は少ない歩数で窓まで戻り、顔を出した。今度は先程までよりも、上半身を外へ投げ出している。

「ニコロさん、約束のあれは?」彼女は、一際大きな声で言った。「お土産は?」

 その声の大きさに驚いたニコロは、肩を震わてから振り返った。今度は、身体も彼女に向ける。彼女の言わんとすることを察するのには一秒の半分も必要としなかった。彼は、肩を小刻みに揺らしてくつくつと笑い、持っていた紙袋をミリィに見えるように持ち上げて見せた。

「ほら、これだ」紙袋は左右に揺らされる。「見えるね? ちゃんと買ってきたよ。後で持って行くから、部屋で待っていなさい」

「やった」ミリィは跳ね、右手を前に出し、親指を上向きにした。

「部屋にいなかったら、あげないよ。僕が食べる。いいね?」

「はーい」

 ミリィは、親指を立てたグッドのサインを胸の前で数回上下させて大いに喜ぶと、今度こそ宿舎の中へ入って行き、その姿は見えなくなった。

 彼女の姿が見えなくなり、再び歩き出そうとしたニコロは、アインからの視線に気付いた。アインは、ニコロが持つ紙袋を眺めている。どうやら、それが気になるらしい。

「これかい?」

 アインは首肯した。

 ニコロは、今のやり取りの説明をする。

「君を迎えに行くついでに土産を強請られたんだ。人気のショコラテリアなんだそうだ。彼女の好物だよ」

「ショコラテリアとはなんですか」

「ああ、ええと、……チョコレートはわかるね?」

「はい」

「チョコレートの専門店だ」

「チョコレートがミリィ・アシュフォードの好物ですか?」

「そう」頷くが、すぐに訂正をする。「いや、甘いものなら何でも」

「覚えておきます」

「彼女と仲良くなりたいのなら、そうだね。覚えておくといい。それと、フルネームで呼ぶのもやめようか」

 アインは、再び首肯した。

 ニコロは正面の管理棟の扉を開け、そのまま右方向にある男性宿舎へ歩き出す。アインもその後を追って足を動かした。

 時刻は間もなく、午後七時。空はまだ明るい。

 この季節のこの国の日没がまだ数時間は先だったことを、歩き出したアインは思い出した。

 管理棟には、芳ばしい香りが漂っていた。渡り廊下を進んでいるが、その香りはまだ感じられる。車内で説明された食堂からのものだろう。その香りの正体はわからない。どこかで嗅いだことがある気はしたのだが、アインはそれが、どこでであったのかが思い出せなかった。だが、何かの食べ物の香りであるとわかれば、それだけで彼にとっては十分だった。不知が自分に何かの影響を及ぼすとは考えられない。

 しかし、自分の為に用意されたという部屋へ到着した時、彼は久し振りに空腹感を感じていた。


 4


 彼の為に用意された部屋は、宿舎の二階、渡り廊下を終えてすぐの位置にある階段を上がってから、三番目に位置していた。部屋の広さは、彼一人がそこで生活をするのだと考えれば充分すぎる面積だった。必要最低限の家具も揃えられている部屋の構造は長方形で、未だ白々とした陽の光を室内に取り込む、刺繍の施されたカーテンを纏ったアーチ状の窓の前には、小さな丸いテーブルと椅子が二脚あり、その手前には年季の入った重厚な机が壁に接着されるように置かれていた。机が重たすぎるのか、事実何かの溶剤で接着されているのか、触れた机は動きそうにない。その机の手前が、ベッド。綺麗に整えられたベッドには洗濯を終えたばかりのシーツが掛けられているらしく、太陽と同じ匂いがして、感触は綿のように柔らかい。それらが、入口から見て左側にあり、右側はフリーなスペースのようだ。この時季には不要であるが、暖を取る為の、レンガで組み上げられた暖炉しか、そちら側にはない。

 どうやらこの城は、建造から今に至るまでの間、一切の改築が成されていないようだ。小さな暖炉は見た限り、建物自体と同じ齢であるように見える。暖炉の中を覗くと、前の季節の置き忘れの炭が残されていた。

 ベッド等が置かれた主な生活空間である部分とドアとの間には二メートルばかりの通路がある。通路は等間隔に三等分され、クローゼット、シャワールーム、キッチンと並んでいる。ドアを開けてすぐの位置が、キッチンだ。そこには小さなコンロがあり、鍋も置かれていた。車内でニコロから聞かされていた小さなキッチンというのがこれで、そのコンロとシャワールームが、室内では数少ない、現代的な設備だった。

 ニコロは、宿舎の構造と明日の予定を説明して部屋を去った。明日は、朝9時に管理棟へ来るように、とのことだった。宿舎側から管理棟に入ってすぐの場所で待っていればよいらしい

「初めての場所で動き難いだろうけれど」そう前置いてから、彼は食堂を提案した。「お腹が空いているだろう? よければ来るといいよ。よければね」

 確かに、空腹に関して否定はしない。だが、アインは食堂へ行く気になれなかった。それに、ニコロの言葉は命令ではなく提案だったこともあり、アインは荷物を開き、ニコロに引き渡される前に支給されていたバゲットと缶詰を取り出すと、ベッドの端に腰を下ろし、静かに食事を始めた。

 バゲットと缶詰の中身をそれぞれ二口食した後に、ふと、彼は窓の外の明るさに意識を傾けた。

 先程思い出してはいたが、以前まで彼がいた土地では、この時刻には既に残照を通過し、空は黒く染められていた。だがここでは、同じこの時刻でもこんなに明るく、茜色の残照の気配すらなく、空は青いままである。

 食事を一時的に中断し、彼は窓の外を見てみようとベッドから窓際のテーブルに移動し、椅子に座る。窓も開けてみた。バゲットと缶詰も彼と同じく移動し、窓際のテーブルへ。

 彼は窓の向こう、中庭を見下ろす。位置としては管理棟に近いが、その向こう側には女性用宿舎も見えた。彼の部屋は管理棟側から数えて三番目。ここより管理棟側に寄ると、管理棟の方が中庭側に少しだけ突き出しているので、女性用の宿舎は、L字形をしたどこも見えなくなるだろう。

 見える見えないの利益不利益を無視して向こうの宿舎を眺めていると、女性用の宿舎の方がこちらよりも立派な佇まいであることに気が付いた。こちらの宿舎の外壁は、石をただ乱雑に積んだだけであるようだが、女性用の宿舎の外壁は、石の積み方に規則性があり、その石の形状には均一であれという法則性が見られた。芸術的な雰囲気も感じられる。建物全体の形状は左右対称だが、細部や役割、成り立ちの点を含めて観察をすると、非対称であるようだ。双方の間には、建物として相違がある。それが何であるのかはわからないし、解明しようとも思わないが、アインはただぼんやりと、窓からの観察を続けた。

 波の音が聞こえる。

 潮の香りも感じられる。

 だが、海は見えなかった。

 城壁が高すぎるというのもあるが、仮に城壁がもう少しだけ低かったとしても、彼の部屋からは、山と町しか見えない。部屋は、海を背にしているからだ。

 彼は儀式的にバゲットを噛り続けていた。

 ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。

 それを繰り返す。

 口に含み、咀嚼。

 飲み込む。

 すると、口の中に残った香りと、施設に到着した時、周囲に漂っていたあの芳ばしい香りが似たものであることに気付いた。どうやら先程感じた香りとは、焼いたバゲットの香りだったようだ。

 その後もゆっくりとバゲットを食べ続けた。缶詰の中身は、時折バゲットに乗せて口に運んだ。

 ゆっくりとした時間だ。彼はそう感じていた。

 こうやって食事をするのは久し振りだった。バゲットがあるというのも久し振りだ。これまで彼は、缶詰しか支給されない環境で生活をしていた。支給物資が何もなく、数日飲まず食わずという環境にいたこともあった。そのように考えると、この食事は贅沢だ。今彼の周囲には、穏やかでゆっくりとした時間が流れている。もう何年も体験していなかった、平和という状況、或いは、それに類似した環境が自分を抱擁していると実感した。数か月前まで彼の周囲に、今彼の周囲にあるこれらは、何ひとつ存在していなかった。彼の嗅覚を擽る様々な香りも、このゆっくりとした時間の流れも、存在していなかった。

 自分は今、ようやく過去と離別できた。

 そんな漠然とした、曖昧な、確認の方法などない実感が、彼を抱き締めている。それはどこかむず痒く、居心地がわるい。こうしている間も、彼の周囲を流れている時間というものは前と変わらない。時間というものは、この世界のどこに居ても同じなのだが、今彼が感じているこの時間は、あまりに緩やかで、いや、緩やかすぎて、息が詰まる。高高度での低酸素状態に似ている。酸素の構造は同一だが、高度によって濃度が異なる故に陥る症状。では時間はどうなのか。高度や緯度、経度によって性質が変化するだろうか。観測者の状態によって、主観的にではあるが時間の流動速度が変化することは既知だが、それはあくまで主観であって、状況や状態に影響する因子ではない。では、何故彼は、息苦しさを感じているのか。何が彼に触れているのか。答えは単純だった。環境が変化した。平和と形容される不可視の状態に彼は置かれ、それが彼に触れている。だが彼は、それらにどのように触れればよいのかを知らない。

 アインは瞳を閉じる。

 煌々と輝く陽の眩さが、目蓋をすり抜けてくる。

 流れる潮風が、彼の頬に。

 カーテンは踊るように舞う。

 彼は息をした。

 ゆっくりと、息を吸い込み、吐き出す。

 繰り返す。

 ゆっくり、吸い、吐く。

 もう一度。

 息をする。

 もう一度。

 もう一度。

 もう一度。

 そんな時、脳裏に映像が蘇った。

 それは唐突に。

 鮮明に。

 閃光のように。

 瓦礫。

 銃弾。

 硝煙。

 火災。

 死体。

 それらは、記憶。

 今と対極にある、離別した筈のもの。

 これまでの彼の周囲を支配していたもの。

 これまでの日常。

 映像はフラッシュしながら、高速で切り替わる。

 不連続な映像の連続だ。

 銀色。

 鉛、弾丸。

 着弾。

 爆発。

 最後にアインの脳裏に再生され、焼き付いたのは、ひとりの少女だった。

 少女。

 劫火を背景に立つ、ひとりの少女。

 銀色の髪。

 悪夢から覚めるような敏速さで、彼は瞳を開いた。

 持っていたバゲットが彼の手から落ち、足の爪先に当たる。

 鼓動が荒くなっている。それを自覚した。

 落ちたバゲットを数秒眺め、そして次に、それを直前まで持っていた自分の手を見た。

 その手で彼は頭を抱える。脳裏に蘇ったすべての映像を忘却しようとした。

 忘れなければ。

 忘れなければならない。

 施設に保護された時、誰かがそのように命令した。今日を境に、それまでの生き方は忘れろと誰かが命令した。彼はその命令に従った。忘れようとした。その為に何をすればよいのかなどわからずに。しかし、努力はした。

 だが、それができなかった。

 記憶は今も、彼の意思を無視して再生され、忘却されぬまま脳内に居座っている。

 どうすればよいのだろうか。彼は、まだ青いままの空を見上げ、自問した。自分はどうすればよいのか。命令には従わなければならない。命令とは、そういうものである。だが、それを彼はできていない。彼の脳は、これまでの経験を鮮明に記憶したままで、肉体もきっと、しっかりと覚えたままでいる。体の隅々にまで、濃密な濃度で染み付いているのだ。表面的な汚れならば、洗えば消える。失われる。忘却される。だが、彼を構成しているものは、そうではない。

 ならば、自分はどうすればよいのか。

 部屋の中には、彼ひとり。他にあるものは、波の音と潮の香り。問いに対しての返答は、当然どこからも返されない。

 その代わりに、誰かが部屋のドアをノックした。

 ノックの数は、二回。

「僕だ」ドアの向こうから聞こえたのは、ニコロの声だった。「入っても構わないかな」

 アインは、どうぞ、と返してから落ちたバゲットを拾い上げた。

 ドアを開けたニコロは、スーツを脱いで先程よりも幾分か楽な装いになっていた。タイもしていない。シャツのボタンも、上のひとつが外されている。

 そんな彼の手に一枚の皿が持たれていることには、すぐに気付いた。アインはニコロの服装を確認した後、その皿を眺めた。皿からは、うっすらと湯気が上がっている。

「やっぱり」ニコロは、アインを見て肩を竦め、呆れ声を出した。少し笑ったようにも見えた。視線は、アインの顔、手に持っているバゲット、テーブルの上の缶詰と順に移動してから、再びアインの顔に向けられる。「まともな食事をしていないだろうと思っていたら、予想通りだ。デリバリーだよ。豆は嫌いかい?」

 アインは首を横に振るだけの返事をした。その間も、視線はニコロが持つ皿に固定されていた。

 その返答を受けて、ニコロも首を、縦方向に振った。無機質に動いただけのアインの首と異なり、こちらには了解の意味の他に、安堵したというニュアンスも含まれていた。それはその後のニコロの言葉にも含まれていた。

「なら安心した。ソラマメとアサリのスープだよ」

 ニコロはアインに歩み寄り、テーブルの上にその皿を置いた。少しだけ濁ったスープから舞い上がる湯気には良い香りが混じり、それまで潮風しか感じていなかったアインは、その香りに少し噎せた。

「お勧めしていたボンゴレじゃなくてすまない」ニコロが付け加える。

「いいえ」アインはニコロに視線を戻す。「ありがとうございます」

「そんな食事はやめた方がいい」ニコロは、テーブルの上の缶詰とアインが持つパンをもう一度見てから、静かな口調で言った。「昔を思い出すようなことは、食事もやめないといけない。そうしないと、忘れられるものも忘れられない」

「はい」

「変わる努力をしよう。そう言われただろう? 昔の環境から今の環境に変わり、君も同じように変わる」

「はい」

「何かを思い出していた?」

 訊ねられて、アインはどう答えようか悩んだ。だが、聞かれているのだから、正直に報告をしなくてはならない。その結論に至った彼は、数秒だけ沈黙してから簡潔に説明をした。

「ここに来る前のことです」

 ニコロは息を吐く。溜息だった。ああ、という音もした。

「忘れるんだ」彼は、それまでで最も柔らかく優しい口調で、命令した。「忘れる。それが無理なら、思い出さない。どちらも似たようなものだけれど、その、……君は変わらないといけない」

 いつか、他の誰かからも言われた同じことを再び命令されている。アインは素直にそう把握した。

 だが、その方法がわからない。どうすればよいのかがわからない。だから今、自分の脳裏に過去が再生されたのだ。

 忘れる為にどうすればよいのか。この肉体の隅々に、骨の奥深くにまで染み付いていて洗い流すことが恐らくは不可能であるこれまでの彼を、どのような方法で失えばよいのか。

 アインは再び考えた。今目の前の相手に問えば、答えが得られるのだろうか。

 だがアインは、それを呼吸を一度する間だけ考えたが、問わなかった。

 下されているのは命令だ。遵守せねばなるまい。それが、彼が導き出した答えだった。

 首を前後に動かし、了解、と小さな首の動きだけで返事をして、アインはスプーンを持ち上げた。ニコロも同じように頷きだけを返し、アインが食事をする様子を眺めた。

 アインは皿に注がれた液体を慎重に掬い、ゆっくりと、スープの味を覚えるように口に入れた。ソラマメを固形のままで食べるのは初めてだった。口に入れたアサリがゴムに似た感触をしているとは感じたが、可食部であると認識して、もう一口を啜る。

「感想は?」

 黙ってスープを啜るアインに、ニコロが腕を組んだままの姿勢で質問をした。

 問われて、アインは考える。感想と言われたが、それを言うことが彼には困難だった。アサリがゴムのようだと言うわけにはいかないだろうという点だけはわかったが、それ以外の言葉が彼の頭の中に浮上してこないのだ。

「美味しいです」思考の末、たどたどしく彼は述べた。「温かいです」

 しかしアインは、それ以上の言葉が言えない。温度に関しての言葉は、彼にしてみれば極めて稀な発言である。一言で済む返答に、もう一言を追加したのだから。だが、それ以上の評価を彼はできなかった。

 だが、そんな数少なく質素な言葉に、ニコロは満足げに頷いていた。

「そうかい。ありがとう。食堂のマンマに、感想を聞いて来いと言われていたんだ。そう言っていたと伝えておくよ。きっと喜ぶ」

「はい」

「それじゃあ、僕はこれで。終わった皿は食堂に、……食堂の場所はわかるね?」

「はい」

「食堂に戻してくれ。明日からは、その食堂で食事だ」去り際にニコロが言ったその言葉が、これまでの会話の中で最も命令的な響きをしていた。「君は料理ができないだろう? だから、明日からは食堂へ。いいね?」

 うん、と、アイン。この時は首肯だけで、声としての返事はない。

「それに、出来立てはもっと美味い」ニコロは部屋のドアを開け、廊下側に半身を出して振り返る。「それじゃあ、よい夜を」

 ニコロは去った。

 それから数分、アインは、ただスープを眺めていた。

 彼が眺めているものは、生まれて初めて食べたスープだ。スープという液体を口にしたことがない訳ではなく、種類として初めて、という意味であるが、そんな液体に対してニコロは、出来立てはもっと美味い、と評した。もっと美味いと言われても、アインには味の優劣を想像することができない。

 眺めている間、彼は、出来立てという状態がどのような味なのかと考えてみたのだが、そうすることによって得られるであろう結論には、自分を何かしら有益にするものはないと結論付け、思案をやめた。

 彼はスープを掬い、口に運ぶ。

 先程までの温度ではなかった。湯気はいつの間にか消えている。

 液体を眺めている時間が長かったらしい。気付くと、先程までは青色をしていた空はようやく残照の時間を迎え、水平線から徐々に色を変え始めていた。

 外が黒色に変わるのは、これを食し終える頃だろう。彼は食事のペースと空の色の変化を照らし合わせ、そう推測した。


 5


 食後、アインはしばらく茫と過ごした。

 空からは陽の光が完全に消え、見上げた空は黒に染まり、疎らな星の煌めきが見えている。彼の予想通りのタイミングで外は夜になっていた。

 時計を見る。10時を過ぎたところだった。

 これからの時間に何かすることと言えば、睡眠以外にない。ならば、その前に皿を返しに行かなければならないと考え、アインは立ち上がった。

 窓とカーテンを閉め、部屋の明かりはそのままにして室外へ出る。廊下には、等間隔に備え付けられた照明が頼りなさげに灯っていた。

 階下へ下り、渡り廊下を通って管理棟へ。管理棟の内部に入ると、周囲の雰囲気は一変する。

 施設に到着した時は、通過しただけでしっかりと観察しなかったが、管理棟の床は滑らかに研磨された大理石によって芸術作品に類される紋様を描いている。空間は、平面としては円形。垂直方向には楕円形をしている。見ると、壁面から天井の、その空間の中心へ向けて細かな装飾のアーチが伸びていた。空間の役割は、エントランスホールである。

 彼の立っている位置から見て左手、建物として正面の位置には、彼の背丈の倍はある大きな扉がある。正門である。これも、この空間と同じように縦方向に長い楕円形だ。その扉から、左右の両方向に男女それぞれの宿舎への渡り廊下があり、その横、今アインの立っている位置のすぐ右手に、管理棟の二階に向かう階段が円形の壁面に沿うように設えられている。女性宿舎側にも同じ階段があり、双方は二階で合流している。合流地点は正門の向かい。男女どちらからも同じ長さで、一階と二階を繋ぐ階段には赤い絨毯が敷かれており、手摺は階段の乗降補助という役割には些か不必要な程の彫刻が施されていた。

 構造は細かな部分まで左右対称である。その左右対称の空間の中間、正門の正面に、渡り廊下より一回り大きい間口の通路がある。二階部分にも同じ位置に廊下が見える。

 アインは施設全体の構造を平面図で思い浮かべる。施設の居住以外の設備は、一階と二階、どちらのフロアもそちらの方向に配されている。

 誰も居ないエントランスホールでは、僅かな物音もよく反響した。そこに足を入れたアインの右足が鳴らした音が、複雑な乱反射をしながら複数の音に分裂する。床の大理石、壁面の材質、縦方向の楕円の構造が影響しているのだろう。まるで、その場に複数人の人間が存在しているかのようで気味が悪くもあるので、そこから先、アインは足音が立たぬよう慎重に進んだ。

 中央の廊下を奥へ進むと、左右に扉がある。左側の扉は閉まっていて、右の扉は開け放たれたままだった。それより先にも左右に同じ数だけ扉が続いているが、今はその右の扉以外の全てが閉ざされている。扉の数は左右にそれぞれ三つずつ。その通路の奥は、黒色。地図上では屋外。名称としては中庭である。

 唯一開けられている右の扉からは、微かな物音と談笑が聞こえる。そこが食堂だ。彼の頭の中の平面図とも、ニコロからの説明とも合致した位置である。

 食堂に入る。それより先の歩みに慎重さはいらなかった。扉の先、食堂の中には、先程の階段の物と似た絨毯が敷かれていたからだ。

 食堂は、本来は謁見の間か何かに使用されていたのだろうか。その内部が初見であるアインが抱いた印象と感想は、それだった。

 食堂の構造は、入り口から横方向に長い長方形をしており、広さは、短辺が六、七メートル、長辺は、その倍近い。テーブルは円形のものが等間隔に八つ並べられ、一つのテーブルに椅子は四脚備わっていた。アインから見て向かいの壁際には、長辺の壁の端から端まで長方形のテーブルも置かれていたが、これに椅子は備わっていない。

 壁には、アインにはよくわからない文様が描かれている。花にも雲にも見える。天井には二つのシャンデリアが吊るされ、それらの全てがロビー同様に豪華な仕様である。過剰装飾と評して、こちらも問題はないだろう。

 ここが食事をする為の空間であるとするには、このように豪華な装飾は不必要だ。アインが、ここが謁見の間であろうかと考えたのもその為だった。白い布が張られた円形のテーブルが等間隔に並んでいる以外に、ここが食堂であると証明する情報がない。テーブルがあれば食堂としての役割は成立する。そう。テーブルに白い布を張っている理由も、彼にとっては不可解だった。突き詰めてしまえば、空間さえあれば足りる。空間さえあれば、食事は摂取できる。絢爛な装飾など不要なのだ。

 あくまで彼個人の感想と、食堂という空間を定義する為に必要な、同じく彼個人の考えだが。

 しかし、ここは食堂である。事前に聞いていた場所がここであるし、食堂には、彼にはそれが何であったのかがわからないにせよ、何かしらの食事の香りが残されている。

 しかし夕食時を終えているからか、この時間そこに人の姿は殆ど見られず、食堂の入り口から見て一番奥の席に一組の男女が居るだけだった。その二人は、ワイングラスを手に晩酌をしている。テーブルの上にはワインのボトルとグラス、そして一枚の皿が乗っている。

 男は顎に髭を生やし、髪は少し濃い銀色をしていた。女は黒髪の短髪。男は欧州の人間に見えた。女の方は東洋系、恐らく中国人だろう。二人とも年齢は、外見の印象だと、ニコロに近い。

 直立して、食堂とその二人を観察しているアインに男の方が気付き、よう、と声を出すと同時に右手を持ち上げた。女も、男に続いてアインに気付き、同じように片方の手を持ち上げた。女は言葉を発しなかったが、微笑した。

 直前に感じたように、その二人の年はニコロと近いようだが、しかし、性格は離れているようだ。特に男の方。数秒のやり取りからしか得ていない印象だが、男からは、今の一言だけでなく動作などの細かな部分に、ニコロにはなかった陽気さが感じられる。

 男の声はしゃがれている。そんな声を、アインは前にも聞いたことがある。そういう声を出すのは二通りの人間だけだと認識していた。煙草をよく吸う人間か、喉を負傷した人間だ。見たところ、男は喉に怪我をしていない。アインは、男が煙草を吸うのだろうと勝手に想像したが、テーブルの上に灰皿の類は置かれていなかった。それに、食堂の中にはその香りも漂っていない。

 女から声を聴くことはできなかったが、手を持ち上げた僅かな動作からは、冷静さが感じられた。

 それらは、あくまで感じただけで、事実かどうかはこの場では確認のしようがないが。

「皿かい?」男がやはり、しゃがれた声で言った。

 アインは頷く。

「ちゃんと洗ったか?」

 アインの首は、今度は横に振られる。

「それは大変だ」男はわざとらしく、イントネーションに意地悪さを含ませて言った。「怒られるぞ」

「嘘を言わない」女がすぐに男を咎める。初めて聞いたその声は、女にしては低めの音だった。「こいつの言うことは無視をしていいわ。そのままでいいから。厨房はそっちよ」そう言って、女は食堂の更に奥を指差した。

 見ると、長方形の室内の入口に立っているアインの真正面の壁には切れ目が存在し、扉はないが、その奥に何かしらの空間があることがわかる。そこが厨房であるらしい。

 アインは、言われた通りに厨房へ向かうが、中は既に無人で、灯りも消えていた。暗すぎて、どれくらいの広さでどういった構造であるのかもわからない。頭の中の平面図には、そこには食堂の三分の一程の空間がある。短編が二メートルほど、長辺が食堂と同じ長さの長方形の空間だ。

「誰も居ない」アインは食堂に戻り、そのように告げた。

 女の方へ向けて言ったのだが、アインの言葉に反応をしたのは男の方で、彼は口に運ぼうとしていたグラスを一時的に止め、言った。

「そりゃあ、こんな時間だから……」男は言ってからワインを飲み、次に自分の左腕を見た。時計を見たようだ。「だから聞いたんだ。洗ったかって」

 男はその次の一口でグラスの中身を飲み干し、空になったそこに、ボトルからワインを注ぎ足そうとした。女のグラスも既に液体の残量は少ない。男は、自分のグラスの前に女のグラスにワインを注ぎ足すが、逆さまにしたボトルからは少量の液体が流れ出ただけで、その後には淋しげに滴が滴り落ちるだけだった。男は瞳を細め、言葉にはしなかったが、自分の分が残されていなかったことを嘆いた。

 空になったボトルをテーブルに戻し、男は瞳を細めたままでアインを見る。

「そのままでいい。俺達もそろそろ終わる。一緒に洗っておくさ」

「でも」

「いいから」男はアインの言葉を遮る。「それに、お前さんは皿をどこに片付ければいいか知らないだろう?」

 アインは首肯した。頭に入れた平面図の中に、その情報は記されていない。

「すみません」

 謝罪と感謝の情報を含ませて、その言葉を呟くアイン。

「気にするな。……ああ、ちょっと待て」その場を立ち去ろうと踵を返したアインを、男は呼び止め、先程と同じように片手を持ち上げた。「ゼフィリオ・マルコッシだ」男が名乗る。「ゼフでいい。みんなそう呼んでいる。管理官も、生徒も」

 アインは、首肯する。

「彼女は、メイ・リン」男、ゼフは、上げていた手で女性を指す。「国籍は中国。漢字でどう書くのかは知らない。見ての通り、いい女だ」

 紹介をされた女、メイは、ゼフを一瞥した。睨んだようにも見えたが、その瞳はすぐに閉じられ、溜息を零した。

「余計なことまで言って、あなたは、本当に、まったく……」彼女は注ぎ足されたワインを飲んでからアインに目を向け、はじめまして、と微笑んだ。「あなたがアインね。ニコロから聞いているわ」

 うん、と、アイン。

「メイ・リンよ。ニコロも含めて、管理官は私達三人。また明日自己紹介をするだろうけど、そうね、ひとまず、宜しく」

 うん、と、アイン。

「ねえ、それ染み付いているのかしら?」メイは首を左に傾ける。

「何がでしょうか」

「返事の仕方」

「返事の仕方ですか」

「ええ、そうよ。さっきから、首を動かすだけじゃない。それじゃあ武骨な軍人よ。お互いに肩が凝るわ。こうなれとは言わないけれど」彼女はゼフを指差す。「もう少し楽にしていいのよ。フランクにね」

「楽に、ですか」

「そう。こう、……自然に」

 自分にとって自然な状態とは、どういった状態のことを指すのだろう。それも、ニコロからの、忘れろ、という命令と同意義なのだろうか。

 メイからの言葉の意味がわからなかったが、返事はせねばならないと感じ、アインは首を動かした。先程までと変わらない、首の動作だけの返答だ。

 メイはそれを見て、少し驚いたように瞬きを二度したが、その後、奥歯に何かを詰まらせたかのような苦笑をする。

 アインが、自分が今、自重せよと指摘されたばかりの返答を繰り返してしまったと気付くのは、その苦笑いを見た時だ。

「まあ、頑張って」苦笑のまま、メイは労いの言葉を言った。「ここでの生活は始まったばかりよ」

 うん、と、アイン。

 アインのその返答に対し、メイもゼフも、もう指摘をしなかった。

 メイの笑みには、苦みの成分がより濃くなっていたが。


 6


 アインは食堂に残るゼフとメイに、体を折り畳んでお辞儀をしてからそこを出る。

 その後彼は、管理棟の一階部分の構造だけでも視認しておこうと思い、食堂より奥へ向かった。食堂のキッチン同様、平面図での理解だけでは施設を正確に把握できているとは言えない。そう考えた結果、彼は自分の足で歩き、自分の目で確認し、施設の情報をより多く得ようと考えたのだが、食堂以外の扉は左右すべて閉ざされ、施錠もされていた。内部の確認はできなかった。なので、管理棟の廊下部分の確認は一分も要さずに終了し、その向こう、中庭に到着をした。

 中庭には花壇が並んでおり、その向こう側に管理棟や宿舎と同じ、二階建ての建築物がある。その建物は、その一階部分の中心に通路としての空洞が開いており、それより先にも何かしらの空間があることを教えてくれていた。建物の形状としては管理棟と同じだ。今彼が立っている廊下の終点部分とその空洞部分とは、繋げたなら直線になる。観測地点をエントランスホールだけでなく、もっと上空に移しても、ここは左右対称のようだ。

 左右にはやはり同じ形状の男女の宿舎。それは管理棟と繋がっているが、向かい側の建物はこちら側のいずれとも繋がっていない。暗いが、男女の宿舎とその建物の間には隙間がある。

 彼は中庭を見渡し、その構造と風景を記憶しようとしたのだが、周囲は暗く、活けられた花々の色合いまではわからなかった。記憶できるのは、黒色をした輪郭と、潮の香りの隙間に混ざる花の香りだけ。今ははっきりと見えないが、そこには沢山の花が植えられ、咲き誇り、陽の下であれば目を見張る美しさの花壇があるのだろうと想像をしてから、彼は庭の中心へ向けて歩を進めた。

 庭の中心は、背の低い芝生で、手入れもされていた。足裏の感触で、彼はそれを感じた。

 そのまま進むと、庭の更に奥から水の音が聞こえた。波音とは異なる音で、庭の向こうの一階建ての建物、その中心の、空洞となった細い廊下の向こうから音は聞こえている。

 ニコロの説明を思い出す。資料の内容も同時に。

 彼の頭の中に、中庭の奥に関しての情報はなかった。目の前にある二階建てのそれは、倉庫と図書室だ。平面図にもそのように記載されていた。しかし、それより先の空間に関しては記憶がないし、聞かされてもいない。

 直立のまましばし考えを巡らせていると、ニコロが水泳場のことを話していたと思い出した。その場所に関してまでは教えられなかったが、状況から見て、この奥がそうなのであろうという推測に至る。城壁の範囲から考えた施設内部の面積には、まだゆとりがある。城が建てられた中世時代に水泳場なんてものを設置する文化と技術が存在していたのであれば、それを設置可能な空間とは、そこくらいだ。

 アインは、その廊下を進んだ。

 管理棟と異なり、照明がなく暗い空間を歩きながら、アインは考える。

 ここは海に面した場所である。城壁の向こうは海。無尽蔵の水が、そこにある。にも関わらず、水泳場を建築物の内側に設置したのは何故なのだろうか。淡水であるか、海水であるか。違いは極めて小さいし、それに伴う利益不利益といった問題も小さく、些末なものである。それどころか、無駄であるようにしか、アインには思えなかった。その無駄な空間を設ける為には無駄な手間が必要であるし、そんな無駄な設備の為に無駄な時間と労力を割くのであれば、もっと有意義な構造を設計した方が、価値は高くなるだろう。この場合の価値とは、金銭的意味合いを持つものではない。管理棟の装飾も同様だ。大理石で描かれた床。天井へ向かって装飾の施されたアーチ。食堂のシャンデリア。生活の拠点という建築物の本来の意味合いを考えた時、それらの全ては無駄な物である。床は安定していて、直立ができればいいし、壁と天井は風雨を凌げればよい。明かりが必要なのであれば、最低限の火が灯れば問題ないし、それによって暖もとれる。

 今アインの周囲には、無駄な物が満ち満ちている。これまでの彼の周囲にはなかったそれらが、彼にはそう思えていた。

 こういった、無駄な物に染められ、生きろということなのだろうか。こういった、無駄な物になれという命令なのか。

 そう思いながら歩いていると、視界が開けた。この廊下の終わりだ。

 廊下はそれ程に長い距離ではなかった。管理棟を中庭に抜けた時よりも短い距離だろう。廊下の途中、左右に一つづつドアがあったが、その中の確認はしなかった。

 銀色の月明かりを乱反射させながら揺れる水面。そこにあったのは、それだった。

 石を刳り抜いて作られたであろう水泳場。四隅には同じ材質の石を組み上げた石柱と、それに支えられた白亜の天蓋。月明かりのお陰で、それらの観察ができた。

 揺れる水面。

 そこに、人が浮かんでいた。

 アインは、プールサイドにまで歩み寄る。傍らに、綺麗に畳まれた布が置かれている。水面に浮遊している人物の所有物だろう。ここには、彼と、浮遊している人物意外に人が居ない。

 浮かんでいる人物が女性であることはすぐにわかった。だが、それを女性に類するべきか、少女と類するべきかは、月明かりだけでは照度が足らず、わからない。その人は、水面に浮遊しながら両手を胸の前で握り、白亜の天蓋越しに見える夜空の深い色合いと疎らな星の煌めきを観賞するようにしていた。

 月光を受けて煌めく髪はブロンドで、彼女を抱擁する絨毯のように水面に広がっている。その髪は緩やかにウェーブしており、その光景は、かつてどこかで聞いた、幽玄の美、という言葉を頭に浮かばせる。

 その時、女性が水中に沈んだ。

 女性が浮かんでいた場所を中心に、円形の波が広がる。

 女性は流れるように泳ぎ、アインの目の前のプールサイドを掴まえると、息を吸いながら身体を引き上げ、水中から上がった。

 女性は、当然ながら衣服を身に着けていなかった。水着も、着ていない。一糸纏わぬ裸身である。綺麗な肌、すらりと伸びた手足、そのすべてを、月夜の下に晒していた。だがそこには煽情的な肌合いも淫乱な雰囲気もなく、人が生まれながらにして授かった、神が丹精を込めて造形した生命の崇高美が満ち満ちていた。

 女性が裸身でいる理由はわからない。わからないが、アインは頭に浮かんでいた疑問のひとつを解決した。

 その人物は、女性に類するよりも少女に類した方が適当だ。やはり月光だけでははっきりと見えないが、彼女の身体の曲線のなだらかさは、成熟していないか、まだその途中であると物語っている。

 少女は髪を掻き上げ、水滴を飛ばした。

 空に浮かぶ星に似た水飛沫が、宙を舞う。

 舞い上がった髪は僅かに浮いた後、彼女の肩と背中に触れた。

 少女がアインに気付いたのは、その時だった。

 互いの視線が、中空で絡まる。

 はっ、と少女は息を止めた。そんな息遣いをアインは感じた。瞳を目蓋からこぼさんばかりに大きく見開いたとも、気配で察知した。

 少女は片腕で自分の身体を隠し、口を大きく開くと、目一杯に息を吸い込む。もう一方の手は、高々と振り上げられている。

 身構えた方がいいだろうか。

 危機感を抱きながらそう考えたが、アインの思考よりも少女の行動の方が早かった。それに、ニコロからの命令もある。これまでの自分を忘れ、普通の生活に移れと。これまでの彼であれば、即座に反応と反撃をしたが、それは禁止されている。ならば、一般的な対応をするべきなのだろう。この場合の一般的な対応とは、相手からの攻撃を受けることなのだ。きっと、そうなのだろう。だとするなら、身構える反応とは、不要だ。

 よって、彼は直立姿勢のまま、動かなかった。

「きゃあああああっ」

 耳だけでなく大気をも劈きかねない高音の悲鳴と共に、少女の隻手が閃光のように走った。アインの頬にも、鋭く重い衝撃が走る。

 彼の身は浮き、水柱を上げて水中に沈んだ。

 抵抗せずに人から叩かれるのは、初めての経験だった。

 水は、彼が思っていたよりも冷たかった。そして、やはり淡水である。塩味を感じない。

 少女はプールサイドにあった布を持ち、走り去った。その布が衣服だったかどうかをアインは確認していなかったが、少女は布を身体にあてるだけして去り、その後にどこかのドアが乱暴に開閉される音が聞こえたので、アインはあの布がただの布製品で、衣服は更衣室に収納されていたのだと理解した。先程の廊下のドアの中がその役割なのだろう。あの少女は全速力でそこに入り、すぐさま着衣し、部屋に帰った。先程まで少女がそうしていたように水面に浮かぶアインは、直視していないそれら一連の動きを想像していた。

 星空が、水面の彼を見下ろしている。

 しばらくすると、ゼフとメイがやって来た。先程の悲鳴を聞いてやって来た二人は、水中遊泳をしているアインに何があったのかと訊ね、アインが事情を端的に説明すると、二人とも盛大に笑った。

「明日が大変だ」ゼフが揶揄を言いながら、アインを水中から救出した。

 アインは、今の少女が誰だったのかと聞いたが、二人とも教えてはくれなかった。明日会うのだから、それまでのお楽しみだと言って、二人は笑い続けていた。

 生徒の内のひとりだろうと考えながら、アインは打たれた頬に触れた。頬はじんわりとした熱を持ち、まだ痛みがあった。

 部屋に戻り、濡れた衣服を脱ぐと、アインはベッドに倒れ込んだ。

 妙に疲れた気がした。特に運動をしていないのに、身体が重たい。実際に疲れているのかもしれないし、気のせいかもしれない。

 眠ってしまおう。寝間着に着替えて。

 眠れば体力は回復する。疲労も改善されるだろう。

 そう考えた後に、一度瞬きをするのだが、それを合図に彼は眠ってしまった。

 その日彼は、深く眠った。


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