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エピローグ

 エピローグ


 平和とは一切の敵意が終わることで、永遠の(・・・)という形容詞を平和につけるのは、かえって疑念を起こさせる語の重複とも言える。


 *


 暗い室内。面積は、そう広くはない。窓はない。出入りの為の扉がひとつで、それ以外に外との繋がりはない。室内が暗いのは、天井に埋め込まれた照明が消され、室内に唯一の家具である机の上の、手元を照らす程度の光量しかない照明のみしか点灯していないからである。

 男は、皺の多い手をその光の中で組み、それを眺めていた。

 周囲に物音は存在しない。壁は、外圧に耐えられる構造をしている為外部からの音をこちらに伝播させず、室内には男しか存在しておらず、また、彼が喉を震わさず、身動ぎもしないので、その静寂というものは、喧しくもあった。男が聞けるものは、自分の体躯の内側にあるものが、彼の意思とは無関係に脈打ち、収縮と膨張を繰り返す、彼にしか聞き取れないものだけだからである。

 扉が外側から叩かれたのは、男が、自分は一体どれだけの時間、この耳障りな無音の中で停止していただろうと、それまで頭の占有面積の殆どを絞めていた思考から、休息が必要であろうと、無駄以外の何も生産せず無意味な確認でしかないそちらに逸らした、その時だった。

 タイミングを見計らっていたのなら素晴らしいが、室内を外部から観察はできない。だが、偶然ではあるまいと、男は思う。扉を叩いた相手は、見えない相手であれ、その動向を正確に察知しているのだから。

 男は、革製の椅子の背を軋ませながら背の角度を伸ばし、扉を叩いた相手の入室許可を告げた。机の隅にあるボタンを押し、扉の外側のスピーカーを通して、入りなさい、と。久し振りの発声だったので、ちくりと喉が痛んだ。

 厚く重い扉がゆっくりと開けられる。その扉を開け、入室する人物の腕は細く、白い。

 体全体も細い女が、後ろ手で扉を閉め、男の座る机の前にまで来て、首を垂れる。長い、さらりとした黒髪が、その動作で揺れた。

 長い間身に纏っている軍服を未だ脱げない男と相反し、ドレスのようなワンピースを女は着衣している。同一の空間を共有しているにしては、違和感がある。その色は、白。否、シルバーか。ゴールドかもしれない。唯一の机上の照明は電球色で、朧であるので、本来の色を認識し難い。

 女は下げた頭を持ち上げ、人形のような表情で、無事に完了をした、と告げた。

「これまでと変わらず、全てが予定通りに進んでおります」理知的で優美な声だ。「障害、不測の事態等は起きておりません。起きても、起きていないように進行させる手段がありましたが、それをすることもありませんでした。どうぞ、ご安心下さい」

 報告を受け、男の喉が鳴った。彼方から届く雷鳴に似た音だ。それにより、男の心境が安堵や達成による歓喜ではなく、悔恨や苦悩であると窺い知れる。

 それは、正確に女に伝わった。

「そのようなお顔をなさらないで下さい」女の声に慈愛が加わり、言葉は縷々として継続する。「この後も、これまでと変わりはありません。変わりなど起きはしないのです。道は安定し、常に穏やかに、理想に向かっております。そこ意外に道は向いておりません。ですから、どうか、ご安心を」

「私が不安に沈んでいるように見えているのだね」男は、少し割れた低い声で言う。元より掠れ声だが、久し振りの発声なので、それが普段より際立っていた。「不安という沼に。ともすれば、底の知れぬ深い海に沈んでいると」

「そのように見え、ですが、そうではなく、それとは違う要因に心を病み、沈んでいるのでしょう」

「その通りだ。私は心を痛めている。これまでも、これからも。長らく遠く離れて過ごしていた君との再会を喜ぶ時は、瞬き程度の一瞬で、それ以外の時とは、常に君に途方もない苦労を強いてしまい、それが私の心を握り締めているのだ。こんなにも」男は、自分の心臓のある位置に拳を重ねた。「痛みを伴うとは思わなかった」

「安心をしました」

「どういった安心だね」

「私に向けられた不安であるからです」

「君と、私と、私達の向かう先以外に、私の心は向いていない」

「それでしたら、それもご安心下さい。私の体は、その程度のことで疲労し、崩壊することなどありません。脆い硝子細工ではありません。それをご存じの筈です」

「心もかね」

「それは、形を成さないものです。形のないものは、壊れません」女は、そこで言葉に僅かな間を挟み、瞳を細めた。「今日という日に至るまでに費やした時間は途方もないものでしたが、その間に、私の心の中にある無形のそれは、一度も変形をしたり、行き先を変えたことはありません。滞在している場所によっては、偽装という変形をしましたが、表面的なものです。そこを去った後、その内側にあったものを誰かが知ることはありません。絶対です。だって」片側の頬を持ち上げる。「これまでの私の辞去は、例外なく、死去でしたから」

「今回に関しては、必ずしもそう導かれるように見えないが」

「そのように計画し、進行させました」

「あの娘は」

「あの少女が成功したので、こうして帰還しました。長い時間を要しましたが、これでようやく、わたしたちの足は終幕へと進みましょう」

「あの娘を手放すと思っていなかった。これは、想定外かね」

「予定通りのことです。あれは、銃弾です。銃弾は、放たれたら、的を射抜くか、的ではない何かを射抜くかしかできません」

「的を貫いたということだね」

「正確に。将軍の、望み通りに」

 男はその言葉を聞き、瞼を閉じた。椅子の背から体を離し、机の上に両肘を乗せる。指先を絡ませ、そこに顎を乗せてから、瞳を開いた。

 薄暗い室内だが、その瞳に、眺める相手に向けた確かな慈愛が、柔和に満ち満ちていることがわかった。これまでの男の瞳は緊張した硬質なものだったので、それは顕著な変化だった。

「そう呼ばなくてもよい。ここには、私とお前しかいないのだから」

「同志が乗艦しています」

「この部屋に、という意味だ」

「存じています。今の発言は、心が休まればという目的の冗談です」

「今の発言もかね」

「今の発言は、冗談を受けた伯父様が、それを理解していると理解した上で、そう問うということは、何かしらの理由を欲しているのだろうと考え、発言しました。意味はありません」

「意味のないことを言うとは、珍しい」

「ここには、私と伯父様しかいない。そう仰ったのは、伯父様です。ですから今は、私にとって、心休まる貴重な一瞬なのです」女は笑んだ。心から不純物等を取り除いた、自然な笑みだ。

 女は、その笑みのまま、机を迂回し、男に歩み寄る。

 相手に対する崇拝か、或いは敬愛か。それを強く感じさせる微笑みと歩みの優雅さが相まって、さながら、貴族の晩餐の席を彷彿とさせる歩の後、女は男の前で膝をつき、その手を握る。

 優しく握った男の手を持ち上げ、自分の顔に引き寄せ、その甲に口付けをする。

 男はもう一方の手で、女の髪を撫でた。

 僅かな時。

 至高の一瞬。

 それを二人は、体の全てで、心の全てで堪能した。

 口付けを終えた女は、髪を撫でられ、少しくすぐったそうな表情で男を見上げる。少しだけ、のぼせたような顔だ。

「これからは、気を病むことは何も起こりません。この時が続くだけです。トマス・モアが文字でしか表現できなかった世界が、私の手で具現化されるのです」

「その言葉を、君の唇を震わす音色で聞けることが、至福だ」

「その至福が、永遠に続きます」

「我々にだね」

「私と伯父様に、です」

 その言葉に、男は首を傾ぐ。

「彼は、どうしたんだね」

「彼」女は聞き返し、考える振りをして、再び笑んだ。「彼は、艦を降りました。先程、何も言わずに」

 それを聞いて、男も笑った。

 自分達が滞在している空間は、海底に停滞している。現在は駆動していない。その空間からの退去と言うのは、きっとこれも、女の冗談なのだろう。

 その男が艦を退去したという点は、事実だろうが。

「そうか。去ってしまったか」男は、女の髪の愛撫を続ける。

「ええ。無言で」

「協力してくれたのに、申し訳ないね。海を泳ぎたかったのだろうか」

「心にもないことを」

「君と同じだ。冗談だよ」

「でも、泳ぎたかったのは、そうかもしれませんね。彼の国に海はありませんし」

「希望を抱かせすぎただろうか」

「また、心にもないことを」

「何も知らずに協力関係を結び、去るとは」

「私達以外の誰もが、何も知らないのです」

 女はもう一度、男の手に口付けをする。

 先程よりも時間をかけ、長く、ゆっくりと。

 女が言葉の続きを奏でるのは、惜しむように唇を離し、その余韻を堪能した後である。

「まだ、誰も知りません。何も知らないのです。今はそれでいいのです。今は、まだ知らない。いえ、この先も知りはしないでしょう。そうなるように、私達の世界は動いています」

 女は微笑む。

 それは、それまでで最も美しい造形の笑み。

 その美麗を浮かべ、女は語りに幕を下ろした。

「知る時とは、きっと、去る時でしょう」


 冒頭、および作中各章の引用文は『永遠平和のために』(カント著、宇都宮芳明訳、岩波文庫)によりました。


 また、生物学に関するいくつかの論文、遺伝子に関する書籍も、執筆に際して活用をさせていただきました。現実味が必要だろうという観点から、各国の法律や、国軍に関しての法令等も確認させていただきました。

 この作品はフィクションです。幾つかの国名はアルファベットで表記したのも、明言すると、既存の知識や余計な先入観で物語を楽しんでいただけないのではないだろうかということからです。そうではない国名に関しては、当然ながら、想像上のものなので、実在しません。地図上で、或いは報道上で類似した国があるかもしれませんが、一切関係はなく、それらはすべて、私の頭の中にある架空の国であることをお伝えしたく思います。


 本作につきましては、現在(2021年9月20日)の時点で次作の構想を練っております。全4作で完結できれば、と考えております。


 お読みいただき、誠にありがとうございます。少しでも皆様の心に残る作品であれば、幸いです。

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