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遺棄できぬ日々の罅

 第十章


 なぜなら、敵対行為がなされていないということは、まだ平和状態の保証ではないし、また隣りあっているひとの一方が他方に平和状態の保証を求めたのに、他方から保証が与えられない場合は(こうした保証は、法的(・・)状態の下でのみ生ずることができるのであるが)、かれはこの他方の隣人を敵として扱うことだできるからである。


 1


 遠くから、賑やかな喧騒や素人の腕前であると明白な演奏が聞こえている。使用されている楽器は、ヴァイオリンや管楽器、そして打楽器だろう。打楽器に関しては、きちんとした楽器ではなく、鍋やバケツを代用にして叩いているのかもしれない。普段なら淑やかな波の音色しか耳に届かない町に、今日は活気があるようだ。とは言っても、都心のそれと比べれば質素な賑わいであるのだが、まだ日中であるのに無駄に照明を灯していたり、意味も規則性もなく、壁や住居間にカラフルな布を装飾していたりしている状況は、年に数回しかない記念日の証明であり、今日が過去にこの地に居を構えた日であり、それを祝う開拓際の証明でもある。

 だが、それらには到底行くこともできないニコロとゼフ、そしてメイは、施設の正面で書類を手に持ち、その文面を確認していた。

「賑やかだな」ゼフは、一度書類から目を逸らし、町の方を向いた。城壁が目の前にあるので、実際の町の様子は確認できないのだが。「ちょっと、テンションのグレードが上がったかな。演奏の腕前は変わらないが、その、……なんだ、テンションが」

「テンションが上がった、だけで十分よ」メイはゼフとは違い、音源の方向を見はせず、書類を確認しながら返す。「グレードという単語は、いらないわね」

「いらないか?」

「長期間練習をして上達をしたなら正しいでしょうけど、ただ高揚して、音量が上がっただけよ。それに、テンションにグレードってあるの?」

「個人差はあるだろう」

「それなら、テンションの個人差でいいんじゃない? 人それぞれなんだから、階級はいらないわね」

「俺もあれに加わりたかった」

「我慢をして」

「我慢してる。だから、こうして本部からの書類を確認してるんじゃないか」

「今は、していないようだけど」

 棘を刺すように言われて、ゼフは渋面を浮かべた。そして再度、本部から来て、今施設の中で、過去数年を遡り、その間に蓄えた情報確認等の調査を行っているスタッフから手渡された書類の確認を再開した。だが、そこに記載されている内容は、三日前にメールで伝えられていた内容とほぼ変わりがない為、今行っているのは、間違い探しのような時間の浪費だった。事実、既に半分以上の確認を終えているが、今のところ相違は発見されていない。

 施設の中に今居るのは、本部から来た人間だけである。その他のスタッフは、内部調査の最中は滞在が許可されていないので、タイミングよく行われている開拓際に参加をしていた。生徒達も、そうだ。

 今施設の中に居るのは、管理官三人だけ。しかし、中に立ち入ることは禁止されていた。調査が終わるまで、この場で待機と言い渡されている。

 もうひとり。

 アインも施設の中に居る。

 だが彼の場合、中に居るという表現は不適当で、彼は、地下の研究施設より更に下の、滅多に活用されない厳重なセキュリティが施された空間に隔離をされていた。本部のスタッフの何人かが、調査と並行して、彼からの聞き取りも行っている。

 この聴取に関しては、作戦に参加をしたミリィ、シャルルにも同じように実施されていた。作戦から帰投した翌日には既に開始されていたが、二人に関しては、一日で報告は完了している。更に言うならば、彼女達は地下ではなく、オープンなスペースで聴取を受けていた。つまりアインだけが、隔離され、長期間の聴取という負の特別待遇を受けているのだ。

 帰投した翌日から、管理官三人もアインの顔を見ていない。

 彼との接触は厳重に制限され、本部から来た数人しか認められていない。今現在の施設の内部は完全に秘匿とされ、管理官である三人ですら、内部の様子を窺い知ることができなかった。

 だが、作戦の報告内容に間違いがないのなら、アインの隔離は英断だろう。管理官同士で意見交換はしていないが、それぞれが同じ見解であろうと、それぞれが推測していた。

 リル・エリリスという名の少女は、別の機関に隔離されているらしい。保護ではなく隔離で、そのセキュリティは、アインよりも厳重である。

「データの確認にどれくらい時間がかかるか……」ゼフは書類を持っていない手で首を撫でながら、ぼやくように言った。「ええと、……五年分のデータを遡って確認か。今日で終わる内容じゃないな」

「抜き出して、本部で調べると書いてあるじゃないか」それまで、額をペン先で掻きながら文面の確認しかしていなかったニコロが、視線を文字の羅列からゼフに移し、言った。彼は書類を読み終えたらしい。「データ量は膨大だけれど、それなら、夕方には終わるんじゃないかな」

 施設の門が開き、中型の貨物自動車が三台入ってきて、彼らの前で停車した。

 それぞれの運転席から人が降り、三人に向けて身分証を掲示し、挨拶をした。三人とも知った顔だ。本部の人間である。だが、交わされたのは挨拶だけで、会話には進展せず、運転手達はすぐ運転席に戻った。同時に、施設の中から段ボール等の荷物を抱えた人間が姿を現し、貨物自動車の後部にそれらの積み込みを始める。積み込みが完了次第、出発をするのだろう。三台の車両は一様にして、エンジンを回転させたままである。

 スタッフが入れ替わりで荷物を積み込み、一台目が出発した。

 その車両が門を越えて見えなくなった時に、メイも書類の確認を終えた。彼女は、疲労したと主張する目的で、わざとらしく息を吐いた。

「やっぱり、メールの内容と同じね」

「違いはない?」ゼフが訊ねる。彼はまだ確認を終えていない。

「ないわ。同じ内容」

 そうか、と言って、ゼフも書類から目を離した。ニコロとメイが内容の変更点を指摘しないのだから、それは信用できる。自分が残りの半分を確認しなければならないという義務は、免除されるだろう。

 作戦が終了してから今日までの期間は、体感として、十倍速程の速度だったというのが、管理官三人の感覚である。それは、アイン、ミリィ、シャルルの三人が無事に回収地点に到着し、帰路についたという報告を受けた直後からだ。

 多くの情報が、陸地を飲み込まんとする津波の如く、短時間で押し寄せた。その作戦中に発生した不測の事態。アインの過去と接点のある要人の確保。その要人である少女が、外的要因によって、本来有り得ない、細胞保有者に変化していたということ。前作戦から今作戦に至るまでの間に発生していた可能性のある、情報の漏洩。

 それらと比較すれば、作戦の目的であったオルム・ゲーグマンの身柄確保の未達成、つまり作戦失敗という点は、この作戦に関与した地位の高い役職の人間の心に重く覆い被さり、それに伴う落胆を、実行した人間、それを管轄していた人間に、苦言よりも圧力のある言葉の殴打で罵るという結果より、平和的であっただろう。事実、上層部からの口頭の攻撃の多くは、情報漏洩の可能性を指摘した瞬間に、ほぼ全員が閉口し、言葉は消滅していた。それらを構築していたのは、外ならぬ本部の専属部署であり、ニコロ達管理官ではないのだから当然と言える。

 上層部がこの一件に対して動いたのは、作戦終了の翌日である。

 最初に、施設の業務停止が言い渡された。精密機器は稼働させたままだが、研究は停止という意味である。その後に、ここ以外の施設に関しても同様の命令が言い渡された。アインの隔離は、その後の指示である。リル・エリリスの身柄に関しても、それと同じタイミングで知らされた。

 業務停止の突然の指示に、所属している全員が動揺し、これまでの日常から一変し、常に何もできない状況に悶々とした状態が経過した後、三日前に、伝達があった。この施設が保有している研究に関する全てのデータ回収と、施設内、及び、施設と本部間で交わされていた通信履歴と、関係者全員が保有している通信端末の調査、そして、アインに対し、本部の特殊な役職の人間が聞き取りを行うという内容だ。

 個人が所有している通信端末に関しては、通達と同時にデータ上で開始され、それらに目処が立った今日、施設内のサーバーに蓄えられた全てのデータ回収が開始された。アインへの聞き取りも同時だ。

 それらが、今現在、施設内部で行われている。管理官三人の目の届かない場所で。

 アインへは、聞き取りであるとメールにも書面にも記載されていたが、それが尋問に類されるものであろうことは、想像に難しくない。不本意であるが、もし自分が今回の一件に直接関わりのない人間であったなら、自分も同じ判断を下しただろうとは、三人共通の考えだ。得られた情報を精査し、この件に対し最善であるその後の処理を行うとは、それ以外にないからだ。

 作戦で得たものは、確定情報ではない。手元には何ひとつとして確かなものがない。だが、僅かな可能性でも含有しているなら、虱潰しにしなくてはならない。

 それが全ての施設に対し行われ、最終的に狙いは、ここに限定された。現在、組織が保有している全勢力が、この一点に集中しているのだ。

「報告を、どう考える?」車両への荷物の積み込み作業を眺めながら、ニコロが聞いた。聞いた、と言うよりは、呟いた、と形容する方が適当な声量だったが。

「報告って?」ゼフが聞き返す。メイには、ニコロの声は小さすぎて聞こえていない。「どの報告だ? 誰からの?」

「何の話?」ニコロの言葉を聞き逃したメイが言う。

「ニコロが何かを言った」

「何を?」

「報告をどう考えるか、だそうだ。そう言ったよな」

 そう言った、とニコロは答える。彼は、施設を見ながら、言葉を続けた。

「仕事上のやり取りはしていたけれど、個人としては話し合っていなかったと、今更に思い出してね。君達がどう考えているのか、……ああ、これは、管理官としてでも、個人としてでも、どちらでも構わないんだけれど、ちょっと、聞いてみたくなってね」

「誰からの報告について聞きたいのかによって、返せる言葉は変わってしまうわ」メイは、目を細めて返す。過剰な光量に対する防御の表情に似ているが、会話の流れとしては、これから派生するであろう内容に対しての威嚇だった。「聞くまでもないだろうけど」と前置いて、彼女は、細めた瞳の角度を鋭くさせる。「アインからの報告で、いい?」

 肯定が返されるだろうと確信していたが、ニコロは首を横に振った。

「それもある。だけれど、これは、……そうだね」ニコロは数秒沈黙し、その間、額をペン先でこつこつと叩いた。その先の考えや言葉を整理しているらしい。「情報が多すぎただろう? それも、一か所からじゃない。内外から、多くの情報が雪崩れ込んできた。その上で、聞きたいのは、ええと……」再度沈黙するが、今回は前よりも半分の時間である。「……ミリィとシャルルからの報告も全て纏め上げて、それに対して、どう考えるかな、という質問だ」

「疲れているの? いつもよりも歯切れが悪い言葉遣いね」メイは瞳の形状はそのままに、頬を持ち上げた。「現地で起きて、そこで得られた情報に対して、施設の一員としてでも、個人としてでもいいから、感想を言えばいいということ?」

「要約してくれて助かるよ」ニコロも頬を持ち上げたが、彼のそれは、謝罪の意だった。

 問い掛けられたメイとゼフは、視線を交わす。

 それは、その問いに対してどのように対応しようか、という会話ではなく、問いに対しての返答は互いに既に持ち合わせていたので、どちらが先に発言をしようかという相談だった。これは、問いの内容についてはこれまでに互いに話し合った訳ではないが、同じ管理官という役職であるなら、確実にそういった感想であったり、結論を纏め上げているであろうという、個々が持つ確信めいたものがあったからこそ、視線のみで交わされた意思疎通だった。

 視線を行き来させた後、ゼフが発言する。

「先ず明確にしなくちゃならないのは、情報がどこから漏れたのかじゃなくて、例の女の子。アインの昔の友達か。リル・エリリスだったかな、名前。その子が、本当に脊髄の移植で細胞の保有所になったんだとしたなら、それが誰の手で行われたのか。どの組織の技術が、それを実現させられたのか。それが、早急に解明させなくちゃならない点だというのが、俺の意見だ。これは、管理官としても個人としても同じ意見だな」

 その言葉を聞いて、メイは同意し、頷いた。

「同意見よ。私達でさえ、細胞の維持にまでしか理解が及んでいないのに、その先の技術よ? 移植をして、同じ機能の生物を作るだなんて」そこで彼女は言葉を途切れさせ、口を円形に開いた。失言した、という表情だ。「ああ、ごめんなさい。細胞を管理する人間が、対象を生物と呼ぶのは不適切よね」

「いや、プライベートな会話だから、不適切ではないだろう」ニコロは、メイに手の平が見えるようにして振った。「だから、個人としての意見も聞きたいと言ったんだ」

「個人の発言だとしても、よい表現じゃないわ。それに、生物だけじゃなく、機能とまで言ってしまったわ。過去に、自分が言われて腹が立った言葉を、自分が言ってしまうなんて」メイは頭を抱える。「最低な発言ね」

「能力、と受け止めるよ」

「お願い。そうして」

 メイは一度目を閉じ、息を吸った。少し興奮気味であった自分を自覚し、それを鎮静させる。再度瞼を開けると、先程までの瞳の角度が、少しだが和らいだようだ。

「私達以上の技術を持っている組織って、どこの誰なのかしら」彼女は、ニコロとゼフを交互に見ながら問う。「技術だけでなく、理解力も含めてかしらね。A国が最初に頭に浮かんだけど、施設と同盟関係にある以上、まず考えられない。それに、同盟関係であるのに今回の一件を企てるというのは、知能指数云々以前の問題で、考えられないわ」

「状況だけを見て考えるなら、レクレア、というのが第一候補だろうな」ゼフが答える。「第二候補は、ゲーグマン将軍が、国としてではなく、個人としてそれを持っていた。知識があった。第三候補は、今のふたつよりも信頼性が低いが、……かなり低い可能性として、ユーゲンベニアが、それを持っていた」

 ユーゲンベニアが国政問題に入るより以前に国内外に示していた自国の技術力の水準や、他国との平均的な医療体制の比較を説明し、ゼフは、三番目の可能性は極めて低いと強調した。

 だが、それを説明すると、第一の候補も第二の候補も、同じ結論となってしまうことは、三人とも口には出さなかったが、明白だ。レクレアは、軍事国家としては強固な地盤の上で成り立っていて、それを構築させる為の兵器等の保有は充分な数だったが、それらは世界的に流通している既存の兵器を充分な数保有しているというだけであって、国として新しい兵器や、それに伴う機構が手中にあった訳ではない。開発可能な体勢であったり、技術力、知識は、レクレアには存在していなかった。

 また、細胞に関しての情報は、組織に加盟している、ごく限られた国家と、秘匿された組織でのみ共有されており、それらは厳重に管理されている。外部への流出を許さないセキュリティレベルだ。更に、同盟関係で厳守が絶対とされる条例に違反することがあったなら、つまり、今回のような情報の漏洩や、関係していない第三者への横流しがあった際の罰則は、極刑に等しい重罰である。メイの発言の通り、現在加盟しているいずれかの国や組織が謀反を起こすとは思えない。国際問題であろうが、レクレアとユーゲンベニアの件に施設が関与したという情報を相手に報告して得られるものは、条例に背いたと知れて失うものとの比率が合わないからである。

 そうして考えると、目の前には成層圏にまで届く巨大な壁が聳え、思考を前進させなくさせる。

 細胞に関しての移植技術に関しても、そうだ。細胞の情報は組織の中にのみ存在し、情報共有も同様、組織の中のみに限定されている。しかし、組織の中にあるものが最新の情報であるにも関わらず、それを越えた知識や技術の結果として、リル・エリリスという検体が確保された。

 組織しか所持していない情報を、一体何者が、どのようにして獲得し、組織以上の速度で研鑽したというのか。

 考え始めると、それらが延々と、メビウス帯となって回転し、果てが見えそうもない。

 堂々巡りに精神が疲弊したので、新しい見解がなかろうかとメイとゼフに聞いてみたのだが、どうやら、無限の巡回の症状を発症していたのは自分だけではなかったようだ。ニコロは、何も解決した訳ではないのだが、頭頂部付近に乗せられていると錯覚していた重量物が、少し消滅したような気分になって、安心した。

 ニコロは、もう少しだけ考える。

 リル・エリリスが語ったとされる内容が真実だとするなら、状況証拠を回収して組み立てると、ローラの現地派遣の時点で既に情報は外部に流出しており、それに合わせて現地に弾道ミサイルが発射され、ローラから細胞を、脊髄を奪取し、その場にで被弾したリル・エリリスに、存在し得ない医療技術と設備で移植を行い、成功し、彼女は細胞保有者に変化し、ローラの消息は途絶え、アインは施設に確保された。

 これも、おかしな話なのだ。ニコロは考えながら、額を叩いた。

 作戦のタイミングを知って実行したのなら、何故、アインという細胞保有者は正体不明の勢力に回収されず、こちら側に来たのか。彼が細胞保有者であることを知らなかったというのは考え難い。それだけ周到に情報の収集を達成していたのなら、彼も保有者であると知られていて当然で、回収をされている筈だ。検体は多い方が、どのような研究であれ、よいとされている。もし移植技術が確立されているのだとしたら、それだけ、移植によって新たな細胞保有者を製造できるのだから、この点が謎である。

 アインが情報を漏洩させていた、という可能性が浮上していたが、仮にそれが事実だとするなら、彼がそれを実行できるのは彼が施設に訪れてからのみで、それより以前には現場に存在していない為に不可能である。それに、今回の作戦情報を外部に提供したということが事実だとするなら、余程に知能が低くない限り、それは自らの犯行自白に等しく、収集された一連の情報にそぐわない。もし、この一点に整合性を持たせるのなら、作戦に参加したミリィとシャルルという検体を、リル・エリリスと共に回収し、古巣、もしくは謎の勢力と合流するしかない。組織から情報をどのようにして得たのかについての解を後回しにすれば、これが数少ない、辛うじて現実的な可能性である。限りなく現実的ではないものだが。

 思考は停止せず演算を続けているのだが、メビウス帯からの脱出ができない。

 ニコロは自分が持つそれらの考えを、箇条書きの読み上げ形式で語った。それぞれは確かに連結した事物であるのだが、それぞれが共通して、解明不可能な要素を多分に含んでいる為に、順立てて語ることが困難だったからなのだが、そうした結果、連結していない、独立した複数の案件に関する疑問として、混濁していた思考が僅かに整理されたような気がした。

 演算の進行方向は、隘路であるが。

 進めども、視界は鬱蒼とした枝葉が遮り、均一性のない瓦礫が積み重なった足場は僅かな前進さえ困難にさせ、周囲も足元も見えない。

 それに、書類で通達された細胞に関しての進展も、それに拍車をかけるのだ。

 それまでは、ただ、細胞、とだけ呼ばれていたものに、命名がされた。その名が不謹慎だと言ったのは、メイだった。彼女は、シャルルは必ず憤怒する名であると断言もした。創世記の一文を語り、何故その名を授けたのか理解に苦しむと続ける。我々が生まれながらにして授かっていたものを、創世記の一文の通りだとするのならば、大地から創生された最初の命の肋骨から生まれた生命。それが今更になって、名称として定められたのだ。これが、今回の件が起因しての決定事項かはわからない。だが、創世記を片手に持って命名されたのなら、名を関されたのは、リル・エリリスであろう。それより前から生存していた原生の我々に名をつけるのなら、男性名を選択されるべきであるが、それは選ばれず、確保された少女の細胞に名を付け、それが細胞保有者全体に拡散された。細分化の為に、第一、第二と分類分けがされるようだが、それは、ずさんな事後処理としか受け止められない。それに、命名など必要ないではないか。これは、ゼフの発言だ。細胞保有者は、存在を隠匿されている。存在していないものに名を与えることに何の意味があるのか、理解に苦しむ。

 その後も三人は意見の交換を行うが、連日個人として考えて得られなかった答えが三人集まったからと言って得られる筈もなく、程なくして沈黙してしまった。

 そのタイミングを見計らっていたかのようなタイミングで施設の中からひとりの人間が現れ、ニコロ達を呼んだ。今回の施設のデータ回収を統括している人物で、本部でも高い地位の役職に就いている人間だ。値の張りそうな、上等な生地のスーツを着ている。

 彼は三人に歩み寄り、現在の作業の進捗状況を説明した。データ回収に関しては、もう一時間程度で完了し、その後は、業務停止は変わらないが、施設内部へ戻っても問題ないとのことだった。

 その報告の後、彼は、部屋の場所の確認をした。事前に伝えてあったのだが、間違いがあると問題なので、再確認をしたいようだ。

 それに関しては、メイが受け答えた。口頭で説明すると、男は施設の見取り図をスーツの内ポケットから取り出し、平面図でも確認をした。

 その確認を終え、男は、もう少しだけ待ってくれと言い、再度施設の中へ戻るのだが、その足は数歩で止まり、振り返ると、三人の管理官を見た。

 その瞳は、こちらを哀憐している形状だ。

「深くは考えない方がいい」男は、こちらを憐れむように言った。「こっちでさえ、何も見えてこない状態だ。そんな中で君達が議論をしても、結果、自分の首を絞めるだけだ。立ち合いが必要だから今はここに居てもらっているが、……これは失言になるが、休暇とでも思ってくれ。この案件に関しては、上層部が捜査を行う。よって、解決するまでの休暇だ」

 いいね、と、彼は念を押す。

 忠告めいた言葉だった。恐らく、三人の会話の内容が聞かれていたのだろう。彼は常に施設のエントランスで、出入りするスタッフ達に細かに指示を出していたから、会話の全てが聞こえていなくても、神妙な顔で管理官が議論していることは見えていた筈だ。

 わかりました、とメイは呟く。

 言葉にはしなかったが、ゼフは渋面で頷いた。

 男は、残るひとりの管理官からの返答を待つ。

 ニコロは、無表情で施設全体を眺めていた。

 彼の思考は、まだ演算を継続させている。

 恐らく、同僚であるメイとゼフも頭の中に思い浮かべているであろう事案を、彼は考えていた。

 それを軸に、思考を発展させる。

 そうすれば、枝葉は伐採され、足場は整備されるのだ。

 最も考えたくない可能性だ。考えたくない内容だから、これまで考えず、遠い位置に放置していたのだ。見えないようにしていた。無意識に、意識的に、そうしていた。だから、暗澹たる議論しかできなかった。

 彼は施設を眺めながら息をし、吸引したものを吐き出し、それと共に、頭の中で抱え、蓄積させ、判断を混濁させていた考えも吐き出した。

「本部は、いつから考えていたのですか」

 返された、直前の助言への返答ではないニコロからの質問に、本部の男は眉を震わせた後、顎を引いて上目でニコロを見た。返答は、ない。

「本部は」同じ言葉を放とうとする、ニコロ。

「ニコロ」ゼフが制する。

「深くは考えない方がいい」男は、もう一度言った。

 今度は先程よりも圧力のある物言いだった。それを強調したいのか、その先の言葉は繰り返されない。以後は、ただニコロを凝視するだけだ。

 ゼフがもう一度、ニコロの名を呼ぶ。メイも同じようにした。

 ニコロは、まだ施設を眺めている。

 数秒の後、ようやくニコロは、首肯した。瞳を閉じ、俯くような角度で。

 それを見た本部の男は、施設の中へ姿を消した。

 入れ替わりで、荷物を運び出すスタッフが外へ出てくる。二台目の車両に次々に段ボールに梱包された荷物が運び込まれ、数分でその車両も施設の外へ走り去っていった。

「心臓に悪い」ゼフは手にしていた書類を丸め、それでニコロの背中を叩いた。「胃にも悪い。肺にも悪い。よしてくれよ、ニコロ。あんなのは」

「心臓に悪いということは、君も同じ意見だね」

「ストップ。ストップだ」

「一時停止はいつまで?」

「ニコロ」メイが叱責をする。「それを考えて、何が解決するの? いいえ、それを考えても、私達では解決できない。ただ今よりも頭が痛くなって、呼吸困難になるだけよ」

「そうだ。だから、施設は業務停止の処分になった」ゼフもメイと同じ口調になる。「休暇だと言っていたじゃないか。精神疾患にならないようにっていう配慮だと思えばいい。停止にならなかったら、本当にそうなっていたかもしれないんだ。それに、俺達だけじゃないだろう、施設に居るのは。生徒の心を考えてみろ。生徒を第一に考えていたお前なら、あいつらがどれだけ苦しい気持ちでいるかわかっている筈だ。ミリィとシャルルは大丈夫だと言っているが、……あれが芝居だってのは、俺でもわかる。サーシャなんて、何も言わないが、俺達と同じことを考えているだろう」

 叱責を受け、ニコロは沈黙した。瞳を細め、奥歯に力をこめた表情は、自分の行いに対する悔恨に見える。

「すまない」小声で彼は謝罪した。「今のは、確かに、よくない行動だった」

「その謝罪を区切りにして、これ以上の議論をやめましょう」それを聞いてメイは、安堵の表情を浮かべた。「業務停止よ。いいわね、ニコロ。この瞬間から、休暇のスタートよ」

 言葉だけを聞けば命令だが、それを言ったメイの表情は議論していた時よりもほぐれ、僅かに笑んでいるように見えた。

 勿論、この短時間の内に気持ちを切り替えられる程に彼女の思考は単純ではないので、それは表面的な取り繕いであるのだが、その表情を見せた意図は正確に伝播してくれたようで、ゼフもニコロも、少しだけ無理をして、笑うことができた。

 この件は、この地を離れるよいきっかけにもなるだろうと、ゼフは言った。ここに居を構えてからの年数を発言し、これ以上ここに滞在していては、民間人に不審がられるだろうというのが、彼の意見だった。これ以上滞在していては、生徒達だけでなく自分達の不変にさざ波が起き、それがいつかは、大きな問題になる。

 もう少しで回収作業は終わる。そうしたら、開拓際へ行こうと、ゼフは、それまでの会話の流れを無視した口調で提案した。

 それに、二人も賛成をした。

 行って、ポルチェッタを食べようと提案したのはメイで、これに残る二人は賛成した。行って、ワインを飲もうという提案はニコロだったが、ゼフとメイは揃って、それを却下した。却下の理由は自棄酒になりそうだというもので、それを実際にニコロに言ったのだが、それは本心ではなく冗談で、また、その提案をしたニコロも飲酒は冗談だったので、今日は水を沢山飲もうと言って、三人は笑った。

 ようやく、普段の和やかさが戻ってきてくれただろうか。

 これを、維持しよう。ニコロは頬を持ち上げて考える。やはり、ペン先で額を掻きながらだが。

 もう一度、施設に目をやった。

 向かって、左側。女性用の宿舎。

 本部の回収作業は順調らしい。

 予定通りに、空き部屋がひとつ、増えていた。


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