回顧し、忌む意味
第九章
なぜなら、いったいなにが国家にそうした権利を与えることができるというのであろうか。一国家が他国家の臣民たちに与える騒乱のたぐいがそれである、というのであろうか。
1
アインが呟いたその名前が、静かにその場に漂った。
リル。
ミリィは、その名前を知っていた。シャルルも同様に知っていた。聞いたことのある名前だ。それも、忘れ難い印象を二人の記憶に、強く植え付けた名前である。リル。二人は、その名前を知っていた。
そしてアインは、二人よりも、よく、その名前を知っていた。その人間を、よく知っていた。
銀色の髪。凛とした声。風貌。すべてが彼の記憶の中にある彼女と同一だ。手に握られているのは小銃。それも、彼が知る彼女の情報と違いがない。彼女の手、或いはすぐ傍には、いつもそれがあった。
間違いなく、そこに立っているのは、彼女だった。
「リル」痛む身体を起こし、アインは彼女と再会する。「君なのか、リル」
「おかしな確認をするのね、アイン」少女は鼻を鳴らし、嘲笑した。「私は世界に二人も居ないわ」
「でも、君は……」
「リル、って……」ミリィは呆然と立ち尽くしたまま、目の前に立つ少女を見る。「その名前、そんな、だって、あなたは」
「私を知っているのね」ミリィの言葉を遮って、少女は問う。「それから聞いたの?」それ、という単語に合わせて、顎でアインを指した。
その問いに言葉で返せなかったミリィは、首を縦に振るだけの返答をした。
がくがくと振られたミリィの首肯を見て少女は、ふうん、と鼻を鳴らす。
「そう。アインが私のことを。どういう風に説明したのかしら」
ミリィは、その問いにも言葉で返答ができない。救いを乞うように目線の向きをシャルルへと移すが、シャルルもミリィと同様に、言葉を失っていた。彼女の場合は、負傷も影響しているが、ただ呆然と、少女を見ているだけである。
そんな二人を見て、少女はくすりと笑った。何気なく、日常会話を楽しむように、笑窪を浮かべて。
「大丈夫よ。安心して。なにも、殺そうってつもりはないわよ。あなた達はね。さあ、質問に答えて。今は殺し合いの時間じゃなくて、楽しいお喋りの時間よ。アインは、私をどういう風にあなた達に教えたの?」
「それは」アインが口を開く。
「黙って」少女は恫喝するようにアインの言葉を止めた。「言ったでしょう。今はお喋りの時間なの。この二人とのね。あなたは別よ。だから黙って、そうね、そこでそのまま倒れていて。動くのも、何かを言うのも駄目。後でちゃんと殺してあげるから、そこで、そのままでいて」
そうして少女は、手にする小銃を少しだけ持ち上げた。その場の全員に見えるように動かされた小銃の安全装置は、外されている。引き金には当然、指が掛けられている。
「リル・エリリス」ミリィの口からどうにかして絞り出されたのは、少女の名前だった。「そうなの? あなたが、その、……その人なの?」
「同じ質問を繰り返すのね」少女、リルは、再びくすりと笑った。「私が聞きたいのは、それじゃないわ。私の質問に答えて」
リルは、ミリィからの回答を待つが、返されるのは沈黙だけで、ミリィが混乱しているのは明らかだった。
待てども会話は成立しないと判断した彼女は、瞳の向く先を、倒れたままのシャルルへと変えた。
リルからの視線をその身に受け、シャルルは足に受けた負傷とは異なる理由で、体を震わせた。
リルの瞳は、その震えを見逃さない。
「ああ、そうね。先ずは謝らないといけなかったかしら。足、大丈夫?」
「足は……」
「痛い?」
シャルルは頷く。
「でも、大丈夫よ。アインが言ったじゃない。致命傷じゃないって。だから、ほら。質問に答えて」
「あなたは、その……」そこでシャルルは一度言葉を区切り、乾いた喉を潤す為に唾を飲んだ。「彼の、知り合いだと」
「そうよ。正解」
「施設に来る前の」
「施設? へえ、そんな名前なの? あなた達の居る場所って、もっと難しい名前だと思ってた」
「それは」
「まあ、今は、それはどうでもいいわ。話の続き」
「……彼が、施設に来る、その前に……」
「死んだ。そう聞かされた?」
リルから続けて投げ掛けられる問いに、シャルルは言葉を詰まらせた。彼女はリルからの目線を受け止めたまま、どうにかして、首肯だけではあるが、回答を行った。
だが、その後の説明をリルは待っている。シャルルの頷きの後に暫しの沈黙が流れたのをそのような意味合いだと察知したミリィが、流れる無言の時間を終わりにしようと、必死に、記憶に記載されているアインから聞かされたリルに関しての情報を呼び起こし、言葉として発していく。
「友達のような人だったって、聞かされた」ミリィの言葉は、まだ少し辿々しい。「アインのご飯に、……悪戯をしていたって聞いた。ピーマンだって言って……」
「チリペッパーの話?」
うん、と、ミリィは、続く言葉の合間に首肯を挟む。
それで、と、言葉を発しようとしたミリィだが、その声が発せられる直前で、彼女の喉は固まってしまった。見えない手が喉を絞めている感覚だ。
彼女は胸に手を当て、二度、そこを撫でた。落ち着こう。冷静に対応をしよう。胸を撫で下ろした行為で、その効果が得られるとは思っていなかったが、彼女の右手は無意識に動いていた。
リルの目線は、ミリィに向けられている。小銃は今も握られ、その場にいる四人の位置関係だと、銃を持ち上げた際に真っ先に銃口が向けられるのは、アインである。
「あたし達の所に来る前の場所では、いつも一緒に居たって聞いた」平静を必死に意識して、ミリィは言った。喉を絞められている錯覚は、まだ残っている。「いつも、アインの隣にはあなたが居たって」
「そうね。チリペッパーの話も、それも、間違いじゃないわ」
「アインの隣に居るのが安全だから。アインは、あなたが隣に居る理由を、そう教えてくれた」
ええ、と頷くリルは、笑窪を浮かべた。自然な微笑みだ。
「それも間違いじゃない。アインは特別だから」
「でも、アインとあなたは離れ離れになった。アインがあたしたちの所に来た理由。それのせいで」
「そうよ。あの時は驚いたわ。今もしっかり覚えているもの。それこそ、昨日のことのように思い出せるくらい」
「大きな爆発があった」
「ええ。弾道ミサイルね、きっと。それの名前まではさすがに知らないけれど、小さなものじゃなかった筈よ。ほら、戦艦とかに載っているような、ああいう大きなやつよ、きっと」
「その爆発のせいで、それまで居た場所は、全部壊されたって聞いたの」
「そう」
「他の人たちは、その、みんな……」
「死んだ」
リルは顔に浮かんだ笑みをそのままに、その言葉をさらりと言ってみせた。ミリィが言い淀んだその言葉を、躊躇いもなく。
人が死んだ。その言葉が持っている意味を、リルがどの様に捉えているのかはわからない。だが、ミリィがその言葉に対して感じている重みを彼女は、同じように感じていないということは明らかな程、リルの口調には、一切の変化が見られず、流暢に、自然に放たれていた。
「全員死んだわ。言葉を変えるとするなら、殺されたの」リルの言葉は、その響きを変えずに続く。「ああ、そうね。そう言った方が正しいわね。殺されたのよ。ミサイルの発射のボタンを押した誰かに。ボタンを押せと命令をした、誰かに」
そう言った後、リルは顔に浮かんだ笑みをより濃いものにして、その瞳の向く先を一瞬だけ、アインに移した。ちらりと、横目で、アインを見た。。
その瞳がアインに向けられたのは本当に一瞬で、直後には、ミリィに戻されたが、ミリィもシャルルも、リルがアインを見た僅かな瞬間を、見逃さなかった。同時に、その一瞥には、怨恨が色濃かったことも察した。口元は笑んだままだが、眼光には、それが宿っていた。
「アインじゃない」擁護の言葉を言ったのは、ミリィ。「アインは、ミサイルを撃っていない」
その言葉を聞いて、リルはやはり、笑う。
「ええ、そうね。アインは私と一緒に居たもの。発射のボタンは押せない」
「それなら」
「でも、私達が居た場所を誰かに教えることはできる」リルは再びアインを見る。先程と同じ色の視線だが、今度はその時間が長い。しっかりと彼を見据え、言葉は続く。「そうでしょう? ねえ、アイン」
アインはその言葉を聞いて、困惑する。リルが何を言ったのか。それを彼は理解できない。
いや、言葉の意味では理解をしていた。彼女は、あの時の大きな爆発、その引き金がアインであったと語っている。あの時、あの組織に居た時、密かに隠れながら生活をしていたあの時、あらゆる視線から姿が見えないように生きていたあの時、その終わりを招いた、あの爆発。それを招いたのは、彼。アインが招いた。そのようにしか受け取れられない。
リルの言葉をその様に受け取ったのは、アインだけではなかった。
ミリィ、そしてシャルルも、彼女の言葉をそのように受け止め、今抱かされている恐怖に、戸惑いと疑惑を混ぜ合わせ、視線をアインへ向ける。それは、普通に人を見る目ではなく、そこに怨恨と憎悪が含まれていないが、リルの眼差しに似ていた。
二人の瞳は、大きく見開かれている。驚き。彼女達の今の瞳の形状を端的に言い表すならば、それが適当かもしれないが、彼女達がその胸に抱いているのは、それとは少し違う感情だった。
疑惑が、僅かに確証に歩み寄った。
リルが語った内容。リルとアインの二人が共有していた過去。それを終わらせた爆発。そこに、ミリィとシャルルがよく知る人物が存在していたかもしれないという、確証はなかったが、しかし、施設での人間関係に不和を齎していた案件。ローラが派遣された先が、アインの保護された場所であるという可能性だ。
確証はなかった。だが、関係していると考えられていた。
ローラが派遣された先が、アイン、そして少女、リルが居た戦地で、そこに大型のミサイルが発射され、壊滅し、アインだけは細胞の保有が認められた結果、保護され、施設に来た。対して、ローラは死亡した。
しかし、潜伏先だった場所を、どのようにして、ミサイル発射の決断をした人間は知り得たのか。
綿密な調査の結果か。
或いは、内部の何者からの、情報提供か。
それを行ったのが、アインなのか。
「あなた達の組織のことは、実は、知っているわ」リルは、鼻を鳴らし嘲笑した。「施設と呼ばれているのも、本当は知っているの。そこに保護されて、安泰な生活をしたかったんじゃないの? ねえ、アイン。そうでしょう?」
「違う」アインは即座に否定する。「そんなことはしていない。あれは予測ができない惨事だった」
「口では簡単に否定ができる。嘘だって簡単ね」
「嘘じゃない」
「なら、どうして、それまで誰にも発見されなかった、私達にとって安全なあの場所の情報が、漏洩したの」
「情報は漏洩しないことの方が珍しい」それは、少し前にミリィとシャルルにもした発言だ。
「どうして、あなただけが保護されたの」
「細胞保有者だからだ。軽傷ではなかったけれど、致命傷ではなかった。だから保護された」
「あの場の全員が死んだ。あなた以外の、全員」
「君も生きている。現にこうして、ここで」
「それは少し違うの」
「君は生きている」
「違うわ、アイン。私はね、死んだのよ。一度、確かに、死んだ」
そう言ってリルは、アイン、シャルル、ミリィへと順番に眺めた。さながら、現状を心の底から楽しんでいるかのようだ。シャルルはそう感じて怯え、ミリィは畏怖した。だからこそ、彼女の今の発言に含まれていた違和感にすぐに気付けなかった。
「死んだ?」アインが聞き返す。「今、生きている、君が」
「ええ」リルは頷く。
「死んだ、って、え、でも、今……」ミリィも言葉の違和感に気付く。
「ええ」もう一度頷く、リル。
「あなたが、死んだ?」シャルルも気付いた。
リルは、三度頷く。
「その時の状態を詳しく教えてあげるわ」リルは銃を僅かに持ち上げ、銃口がアインの腹部に定まるようにした。「着弾点が近かったから、全身の骨はほとんどが砕けていたわ。表皮は正常な部分なんてないくらいに焼かれて、肉も削がれた。左半身側が、より沢山、削られちゃったの。そちら側が着弾点に向いていたから、三割くらいの筋肉はなくなっていたんじゃないかしら。当然、即死よ。それがよかったわ。その状態で意識が残っていたら、本当に地獄のような苦しみだったでしょうからね。そうならなくて、よかったわ。本当に。まあ、そういうことよ。あの時、そういう状態になって、私は死んだの」
「それは嘘だ」アインのその言葉には、彼にしては珍しく、驚愕の響きが滲んでいた。
「嘘は言っていない」言って、リルは銃を握る力を強めた。特に指先を。アインが発言と同時に、上半身を彼女に接近させたからだ。「動かないで。動かしていいのは、少し譲歩しても、口だけ。それ以外は、駄目」引き金を触れている人差し指をわざとらしく動かす。「次に動いたら撃つわ。動こうとしても撃つ。最初は腹部。次に股関節。その次に両肩」そして彼女は息を吐いた。笑ったようだ。「本当は、頭を撃って、あなたを殺してしまいたいんだけど、あなた達の生きたままの確保が、今回の私に課せられた任務だから、それに従わないといけないの。だから安心して。殺さない。だけど、死なない程度の負傷なら認められている」
太腿に開けられた銃創に今も悶えているシャルルは、その発言を聞き、どうして自分のその部分が撃たれたのかを理解した。
アインが言っていた。相手はかなりの辣腕であると。だと言うのに、自分は頭部ではなく足を射られた。本当にそうであるなら、貫通していたのはそこではなく、頭部だっただろう。だが、そうはならなかった。その理由が、今の彼女の発言だ。彼女の目的は殺害ではなく、確保。だから自分は、苦痛だけを与えられ、今、正常な状態を保てないでいる。
こんな苦痛に襲われるのは初めてだ。だからこそ、それに対する免疫力が備わっていない。それも理解した上で、リルは、この現状を構築したのかもしれない。だとすれば、目の前に佇む少女は、ただの兵士ではなく、幾重もに重なった可能性を脳内でシュミレーションし、彼女にとって最善の行動に導く策士。或いは、司令官である。この状況下においても銃口の向きをおぼつかせず、瞳は鋭利であれ、頬を持ち上げ平静さを見せていることも、それをより顕著にさせている。
シャルルは、痛みに悶える中でも、どうにかして相手の動きを観察していた。普段の半分以下の聴覚等の感覚神経だったが、少女の肉体は常に、自分達が仮に何か行動を起こそうとした際には対応可能な緊張状態にあることがわかった。自分たちと同じように、対象の眼球運動、筋肉の微動、それに伴う神経に走る微弱な信号。それらを彼女も、検知しているのだろう。
だが、それはおかしい。
「あなたは」シャルルはどうにかして発言した。動かしてよいのは口だけ、という忠告もあり、彼女はそれに従った。「一般兵の筈です。それなの、そんな……」
「そうよ。正解。でも、混乱しているわね」リルはやはり、笑む。「そちらは、どう?」そして視線をミリィに移す。銃口はしかし、常にアインだ。「彼女と同じように混乱中?」
「君は」
発砲音が、突然響く。
一般兵の筈だ。そう言いかけたアインの右腹部。その横を、弾丸が通過した。
引き金を引いたリルは、瞳をより鋭利にし、アインを睨んだ。引き金が引かれたのは、彼が発言と共に、僅かな接近をしたからだ。
「私が聞いているのは、ミリィ・アシュフォードによ」瞳の鋭さに反して、少女は潤滑な口調で語る。途中に途切れはない。決まったセリフが用意されているかのようだ。「あなたには聞いていない。今、そこに穴をあけなかったのは、そうね。私からの数少ない優しさ。それは少ないから、次はないわ。次は、言ったような順番で指を動かして、穴をあける」
アインは喉を上下に動かし、唾を飲む。彼が滅多に感じない危機感が、全身に這っているようだった。
そんな、現状の把握に迷走し、苦悶し、困惑する彼に、新たな疑問が突き刺さった。
今の発言だ。
シャルルの発言は、正しい。それは、リルと一定期間共に居た彼だから、この場の中では、彼が一番理解していた。リル・エリリスは、一般兵。通常の人間である。死んだのなら、死ぬ。彼女自身が語った、爆撃による身体の損傷の説明が事実であるなら、即死だ。蘇生など、奇跡が起きても、あり得ない。
それなのに、目の前で、その少女が生存している。これまでの会話から、顔の形状がよく似た他人でないことは明白であり、彼女は、リル・エリリスである。間違いない。死んだ人間が目の前に立ち、見た限り、身体に一切の不具合のない状態で銃を構え、対峙している。否、不具合、という言葉は不適合か。彼がこれまでに観察してきたリルという少女の状態を、確実に超越している。通常の一般兵、普通の人間の身体能力ではない。狙撃の辣腕。狙撃していた地点から、僅かな時間で目の前に到着を可能にした点からも、それは確かだ。
目の前に居るリルは、彼が知る彼女ではない。
考えれば過剰に混乱を増大させる為に、そうしたくはなかったが、しかし、こう考えざるを得ない。
目の前に立つリル・エリリスは、自分と同じ、細胞保有者だ。
そんな馬鹿なことがあり得るだろうか。通常の人間が、こちら側の人間になるなど。施設でさえ、まだ、細胞の状態の観測と、維持にしか理解が及んでいないというのに。
そんな混迷に溺れかけているアインの心中を悟ったのか、リルは、口を少しだけ尖らせ、、息を吐いた。これまでとは少し違うスタイルの笑いだった。
「アイン。あなたはこう考えているわね。普通の人間が、今私が言ったような負傷から蘇生される筈がない。それに、目の当たりにした私の実力が、あなたが知っている私の実力を上回っている。まるで、自分と同じ、細胞の持ち主じゃないか。でも、そんな、あり得ない。そっちの、ええと、……施設だったわね。そっちのお家でさえ、まだ理解や運用がそこに達していないというのに、と」
その発言に彼は、瞼の開閉という返答をした。先程の牽制もあり、首肯を選択しなかった。
「それに関してはね、私も驚いているの」まばたきだけの返答は、正しくリルに伝わったようだ。「爆撃の直後には意識を失わせていたけれど、その直前、身体を焼かれ、とてつもない勢いで吹き飛ばされる瞬間の記憶は、ここにまだ、残っている」頭部を左右に振る。「ここの中にね。ああ、死んだ。絶対に死んだ。そう思って、まばたきをしたの。今、あなたがしたようにね。その一瞬よ。その一瞬の後、私は、知らない場所のベッドの上に寝ていた。最初に見たのは、天井。窓はなかった。白い部屋で、知らない機械がベッドの周りにあった。そこに私は寝かされていた。最初は、何がどうなったのかがわからなかったわ。目を開けた後、十分くらい考えた。思い出そうとしたの。必死にね。それで、爆撃された瞬間を思い出した。私は死んだ。大きな爆撃の影響で、私は吹き飛ばされ、焼かれ、死んだ。そう思った直後に、私はベッドの上に寝かされていた。両腕を見たわ。飛び起きてね。手の平、足、上半身、頭。とにかく、触れられる全身のあらゆる場所に触れて、それがそこに確かにあることを確かめた。本当に、訳がわからなかったわ。覚えていた直前の内容は、夢とか幻想とかではない、はっきりとしたものだったから、尚更に。死んだ。私は死んだ。確実に死んだ。でも、ベッドの上で混乱しかできない私の身体は、正常な状態だった。周りの機械から自分の身体に何本かのケーブルが接続されていたけれど、それは生命維持装置ではなかったみたいで、全身の状態を見ている時に、混乱するあまりにそれを引き抜いてしまったけれど、私には何も起こらなかった。いつも通りの正常な状態の自分が、知らない部屋で目を覚ましたの。負傷の形跡もない状態で。その時よ。教えられたのは」
リルは、発言をそこで止めた。ほんの数秒の間でしかなかったが、緊張状態にあるここでは、その数秒が異様に長い。
「将軍よ」その単語を、意識してゆっくりと、彼女は言う。「ゲーグマン将軍が教えてくれた。部屋のどこかのスピーカーから将軍の声がして、教えてくれたの。私が一回のまばたきをしたあの一瞬に、何が起きたのかを」
やはり、ゲーグマン将軍か。アインは錯綜する現状の中で、不明点と不明点に微小な接点がようやく出現したと感じたのだが、すぐさま、それは接点ではなく、ただの共通事項に過ぎないのだと理解を訂正した。あの惨劇も、この作戦も、将軍を中心にしたものだ。
リルの説明は続く。その他の三人からの発言がないので、説明と呼ぶよりも演説に近しいものだが。
「将軍は、まず、おはよう、と言った。次に、私の名前。そして、自分の名前。私はオルム・ゲーグマンである。直前まで君達を統率していた人間であると。まだ混乱しかできない私は、それに対して言葉を返せなかった。それを察して将軍は、私の健康状態に関しての質問をした。身体に不具合はないか。気分は悪くないか。そういった、簡単な内容の質問に、私はどうにか返事をした。不具合はない、どこかに痛みもない。健康体である。その返事の後に、私は聞いた。ここはどこですか、って。将軍は、安全な場所だと言った。次に私は、何が起きたのかと聞いた。敵対している勢力からの爆撃だと教えられた。それのせいで、それまで潜んでいた基地は壊滅し、今こうして、そこではない、この安全な場所に居るとも。やっぱり、記憶していた直前の映像は、夢や幻想ではなかったと、私は知ることができた。だから、次に、こう聞いたの。死んだ私が、何故、生きているのですか。すると将軍は、こう教えてくれたの。生きているという表現は、適当ではないって」
「適当では、ない?」聞いたのは、ミリィ。
「死んだという私の解釈に間違いはない。確かに私は死んだ」しかしリルは、ミリィの言葉に反応をする様子もなく演説を続ける。「その時に、私が死んだ時の状況を教えてくれたの。私の身体がどれくらい壊されていたのかをね。でも、私は生きている。過去のことも覚えている。将軍の言っている意味がわからない。はっきりと、そう言ったわ。死んだのに生きているという表現が適切ではないという、その言葉の意味がわからないと。そうしたら、部屋のドアが開いて、将軍が入ってきた。他に誰も従わせずに、将軍だけが」瞳を細める。懐かしんでいるような表情だ。「そして、また、私の名前を呼んでくれた。次に自分の名前も。健康状態の質問も、もう一度されたわ。対面の状態で、もう一度ね。将軍はベッドの前に立って、そして、話してくれたの。アイン。あなたが持っている細胞のこと。そして、それが今は、私のここ」リルは片方の指先で、自らの頸部を指した。「ここにもあるって」
「え?」シャルルのその言葉は、無意識に発せられたものだった。「細胞を、……え、それは」
「移植されたのよ。ここに」リルはもう一度自分の首を指差し、そこを二度叩いた。「第一頸椎と呼ばれているそうね。脳に一番近い部分。肉体的には既に死んでいたけれど、まだ脳だけは辛うじて活動状態だった私に、アイン、あなたと同じ細胞の頸椎が移植された。もう少し、数分、数秒でも遅ければ、脳も死んで、完全な生ごみになっていたらしいけれど、幸いにも、私は間に合った。結果、あなた達みたいにスーパーマン並みの、現在の医学では奇跡であれ起こり得ない再生力で、私は今もこうして、あなた達の前に立って、アイン、裏切り者のあなたをいたぶり、拘束をしようとしているの。生きているという表現が適当じゃないと将軍が言ったのは、その経緯があったから。私のこの身体の細胞、遺伝子とかは、前までの私のものとは変わっているの。だって、私のものではない誰かの頸椎が移植されて、身体を一から全部作り変えられたんだから、そうね、表現としては、生まれ変わった、と言うのが正しいわね」
「待って下さい」シャルルがリルの演説を止める。その言葉の後にリルが自分を一瞥したので、発言は許可されたと受け止め、続ける。「それは、あり得ません」
「どうして」
「どうして、って、……移植? それが成功? そんな話は聞いたことがありません」
「あなたは研究者なの? シャルロット・アンジュ」
「違います。細胞を持った、ひとりの生徒です」
「なら、どうしてそんなことが言えるの」
「研究者ではありません。でも、自分達のことに関しては、少なからず理解しています。同じ人間同士でも、まだ移植の成功率は百パーセントでない中で、普通の人間だったあなたに、私達の細胞が移植されるだなんて、ましてや、骨髄、頸椎の移植なんて」
「白血球の型が適合する確率は」
シャルルは言葉を止め、自分が記憶している情報から、その数字を取り出す。痛みと緊張のせいで時間を要した。「一万分の一より低いです。まして、あなたが負傷して死亡するまでの短い時間に、あなたに適合するそれが、その場所にある確率は、計算するまでもありません」そこでもう一度言葉を止め、続く言葉には力を込めた。「ですが、それは人間に対してのみの数字です。私達の細胞は、その範囲の中にありません」
その言葉を受け、リルは演説を止め、横目のまま、じっと、シャルルを見た。
しばらくの沈黙が流れる。
どれくらいの時間が流れただろうか。正確に観測ができない状況下での沈黙の時間の末に、リルが息を吐いた。「それじゃあ、あなた達のような生物が、人間と同じ形状で誕生をする確率は、どうなのかしら」
その問いに、シャルルは言葉を返せない。それを確認して、リルは次に、ミリィを見る。ミリィは、まばたきもしないでリルを見ているだけだ。そんな彼女の頬から顎へ、汗が流れる。次に、アインを見た。彼からの返答など期待もしていなかったが、彼の行動への警戒が、彼女にとって重要だったからだ。
しかし、最重要警戒対象であるアインは、まだ平素の冷静さを取り戻していない。彼女が知るアインとは異なる形状をしている両目からそれを把握し、再び演説を始めた。
「あなた達の細胞だけじゃない。もっと視野を広く持って考えたらどう? 普通の人間だって、確率だけで考えたなら、今現在の生存をしていることにパーセンテージで説明は不可能よ。地球の起源まで遡ったら、細菌や微生物でしかなかったものが、様々な要因と反応し合って、生物へと姿を変えていった。途方もない時間をかけてね。わかるでしょう? 何事にも初めては存在している。誰が、空を飛ぶ機械を予想できた? 誰が、空を越えて宇宙に行くと予想できた? 果てには、月や火星、その他の天体に降り立つ。過去にはあり得ないとされていた物事は、いずれは達成されてしまうものなのよ。あなた達の細胞が」もう一度、自分の頸部を指差す。「生物の、種族としての壁を越えて、ここに正常に移植されたみたいにね」
リルは先程と同様に、シャルル、ミリィの順に視線をスライドさせる。自分の演説に対して何かしらの反応があるかの確認だったが、それは予想外の、アインから発せられた。
「将軍は、どの組織と繋がっている」
リルは素早く、視線と意識の両方をアインに集中させた。銃も両手で正しく構える。
アインはそれまでと同じ位置、窪んだ壁の前に膝をついたままの姿勢だ。
「少し、冷静になれたのかしら」リルは尋ねる。
「協力関係にある組織は」
「私の質問に答えなさい」
「状況の正確な把握はできていないけれど、冷静だ。心拍数も呼吸も安定している」
「背中は平気?」
「発言の許可が下りたと解釈していいんだね」
「二度も言わせないで」声色を低くする。
「背骨に影響はない。殴られた部分が右の背部だったからだろう。筋肉にも影響はない。内臓部分はわからないが、全体的に無事だと思う」
「何が聞きたいの?」
「将軍と協力関係にある組織が、何であるのか」
「冷静ね」
リルは息を吐き、笑った。だが、そういった動きをしたのは片側の頬だけで、眼光は鋭さを増していた。少し、苛立っているように見える。
そして、アインはそれを、しっかりと確認していた。
「自分の国が、ああなってしまったのよ」リルは答える。「元々、同盟国だって存在していなかった」
「繋がりのある組織が存在している。協力関係にあるという質問への、肯定だね」アインは、リルの言葉を遮って発言した。
「この会話に意味はないわ」
「僕自身も将軍の下に、レクレアに居たんだ。あの国のテクノロジーが他の国と比べてどの程度であるのかを知っている。君の話を事実にするには、それが絶対条件だ」
「この会話に意味はない」
「この現状も、その絶対条件で説明がつく。壊滅的状況下の将軍が、僕達の細胞を入手し、君に即座に移植をし、成功をさせ、僕達の今回の作戦情報を入手して、今、こうなった」
「何度も」言わせないで。その部分も、アインに遮られる。
「ここがユーゲンベニアであることから、その組織はユーゲンベニアの前国王であるのか。それは違う。リル。隣り合った国だ。僕はユーゲンベニアという国に関しても少なからず知識がある。ユーゲンベニアに、今言った全てを実行するだけの技術はない」
「黙って」歯軋りをしたい衝動を、彼女は堪えた。苛立ちが増している。
「それらを実現させた組織は、何だ」
「情報を売ったのは、あなたじゃない。自分を交換条件にして」
「爆撃の瞬間に君の傍に居て、一緒に巻き込まれたんだ。もし情報提供をするなら、僕は、そんな無謀な選択をしない。それに、もしそうだとしたら、僕は今、こちら側に居ないだろう。組織にも属さないという選択をする。あの爆撃は、レクレアでも、僕でもない、第三者が実行をした。そして、それを事前に察知した、それとはまた別の第三者が、それを好機と見て、動いた。その組織が、今も将軍と繋がっている」
「黙って」声が荒々しくなる。銃を持つ手も、無意識に力が込められていた。不快な気分だ。胸の内側を、醜い虫に這いずり回られているようだ。「もう、何も言わないで」
「爆撃から君が目覚めるまでに、何日が経過していた」やおらに、会話の内容が変更される。
「は?」予期していなかった会話の変化に心を逆撫でられ、リルの心は、より荒れた。自分は苛立っている。そこでようやく、彼女はそれを自覚した。自分の心が何故そうなっているのかはわからないが。「なんと言ったの?」
「爆撃から君が目覚めるまでに経過していた日数について」対して、アインは変化を見せずに、淡々と問う。
「意味のない質問」言葉を吐き捨てる、リル。
「百日前後だろう」
リルは返答しない。代わりに、発砲をした。
狙われたのは、アインの右耳。そのすぐ横の壁。
威嚇射撃。沈黙しろという命令。
しかし、アインは動じず、今、何も起きなかったかのようにリルを見ている。
「百日前後が経過していたという問いに対する、肯定だね」そこで返答を待つが、返される言葉はないだろうと判断し、続ける。「自分達の身体のことは理解している。個人差が多少あるだろうけれど、筋肉を抉られた場合は、平均して、それくらいの日数が必要だ。擦過傷や切傷、打撲であれば日にちを要さず、数分から数時間。これが、僕の経験からの推測だ。君は、爆撃からその日数の後に目覚めた」
「だから、なに」リルは、より強く銃を握った。グリップの軋む音が鳴る。
「逆算をすれば、君が細胞と共存するようになってからの日数もわかる。それは、君が新しくなった身体の動かし方、扱い方の理解に要した日数だ」
「だから、なにっ」語調が強まる。
「君は、今の身体に馴染めたかい。その日数では、まだ扱いきれていないだろう」
「だから」なに。その言葉は、苛立ちのせいで放たれない。「あんたさ」胸の内側が痛い。それを自覚する。苛立っている自分も、ようやく自覚した。先程からそれは、沸々と沸きあがっている。「なに言ってるのよ」
「今の身体に」馴染めたか。
「ああ、もう、だめ!」苛立ちに耐えきれず、遂にリルは叫んだ。「黙って! 無駄な時間はおしまいよ!」
その叫喚に、それまで二人の会話を見るしかしていなかったミリィとシャルルの身体が跳ねるように震えた。
「どうして苛立っている」反してアインは、冷静だった。身動ぎすらしない。機械のように、普段の彼らしい平静さで、リルを見ている。
それが、彼女の感情を一層激しく揺さぶった。
「あんたの、それよ!」乱暴にアインを指差し、その手で同じように髪を掻き上げた。「私はこの作戦を聞かされて、真っ先に、あんたを殺せるって喜んだ! 裏切り者のあんたを殺せるって! いたぶって、いたぶって、いたぶって殺せるって! なのに、そのあんたが、なによ、その態度は!」
「なら、そうすればいい」アインの口は無機質に開閉する。「殺せばいい。それで気が晴れるのなら、抵抗はしない」
リルは手で顔面を覆い、前屈した。
喉が獣のような低音で震えている。
次に、雄叫びを上げるように上体を起こし、これまでで最大の憤怒を言葉にして、放った。
「命令が、あんた達全員の確保だからだよ! ひとりも殺しちゃいけない! そう命令された! あんたも!」ミリィを指差す。「あんたも!」シャルルも。「あんたも!」アインを、より激しい動作で指差す。「誰ひとり殺しちゃいけないって! それに従わなきゃいけないって! そんな中であんたがそんな状態って、腹を立てるなってのが無理なんだよ!」
「それは聞いた。君がさっき言った内容だ」
「しゃべるんじゃねえよ、この裏切り者!」
「生きたままの確保ということは、全身麻酔による失神からの確保か。その為の道具を君は、こちらの人数分所持している。君が防護装備を持っていないから、ガス系ではない。静脈麻酔か」
「ああ畜生! ミリィ・アシュフォードの怒りがわかったよ! こいつは異常だ! こんなに苛立たせられるのは初めてだ!」
「ミリィ」アインは、リルを見たまま、呼ぶ。ミリィは、アインを見た。彼はそれを気配で察する。「シャルル」次に、リルを呼ぶ。彼女も自分を見たと察した。「少し前の話だ。作戦開始の、後の」
「黙れって言ってるだろう! 何を話してるんだよ!」
「リル。落ち着いた方がいい。今の君は冷静ではない」
「そうさせてるのが、あんただよ!」
「いつもと、同じように」
「やっぱり、あんたは殺してやる!」リルはアインに一歩接近し、銃口を彼の眉間に定めた。距離は一メートルも離れていない。
「命令違反。或いは、作戦の失敗だ」
「あんただけ殺す!」
「リル、冷静に」
相手は自分に憎悪の眼差しを向けている。先程までのように、全身、指先までを観察できていない状態だ。
それを把握した上で、アインは指先で地面の砂を叩いた。
特定のリズムで。
だが、砂なので音はない。
今、ここには、リルの叫喚だけが響いている。
歯を剥き出しにし、唾を飛ばし、頬を裂かんばかりに開けて。
シャルルとミリィは危機的な状況に困惑し、恐怖し、竦み、リルとアインを交互に見ることしかできない。憤怒し、今にもその場の自分以外の全員を殺害しそうなリルと、アインを、つぶさに見る。二人の視線は、対象である二人の指先に集中している。リルの指は、今にも引き金を引きかねない。否。引くだろう。確実に。アインへ向けて。ミリィとシャルルは、数秒後には銃撃されるであろうアインを見る。彼の、指先を。
アインは、それを感知する。
よし。
完了だ。
ここからは、無心で十分。
アインは、タイミングを見計らい、リルの名を発声する。
冷静に、とも言う。
リルの叫び。
銃を持つリルの腕。それを握る手。
それを動かす筋肉。骨格。
眉間に定まっている銃口。
銃口に連結している、銃身。銃床。引き金。
引き金が引かれる。
その直前、アインは最後に、砂を叩いた。
「リル・エリリス」
名を呼ばれた彼女の意識は、そちらに向けられる。
同時に、実行しようとしていた動作が、一瞬だけ止まった。
彼女の眼前に、シャルルが迫っていた。自分の名を呼んだシャルルが、右足で強く地面を蹴り、一歩で。
地面を、蹴って?
静止した一瞬の間に、リルは必死に観察した。
右足で?
撃ち抜かれた、その足で?
しかし、その疑問を理解するより先に動かなくてはならない。予期せぬ状況の反転と、それに伴う危機の認識。頭の中に、警報音がけたたましく鳴り響いている。
負傷した筈の足で地を蹴り接近するシャルル。前傾姿勢である。頭部はリルの腹部よりも低い位置。前に出ている左手にはナイフ。右手は身体の後方だが、何も持っていない。拳だけが確認できた。速度は速い。だが銃口の向きを変え、対処することは可能な速度と距離だ。即座に状況を解析し、それを行動に移す。
だが、その銃口が、彼女のものではない何かからの外力で、上方向に跳ね上がった。銃と、それを持つ腕が上方に向く。肩関節が軋んだ。
視界の隅に、右足を垂直にしたアインの姿。地を割る速度で、掲げたその足を下げ、地を蹴る反力を利用して、跳躍。身体を捻り、左の爪先を鋭くリルの腹部にめり込ませようとする。リルはその左足から逸れる為に、後退。同時にシャルルからも後退。だが、シャルルの次の行動の方が早い。低い姿勢からのもう一歩。減速はない。リルの銃身を右手で掴み、自分へ引き寄せる。銃を挟んで密着の状態。シャルルの左手が動く。察して、リルは上体を反らす。彼女の喉があった位置を、シャルルのナイフが通過した。
反撃せねば。
リルは、ひとつの銃を持つシャルルの右足に左の膝をめり込ませる。銃創を刻んだ箇所だ。シャルルは僅かに後ろへ。だが、それだけ。もう一度だ。今度は、握られている銃の上部をシャルルに叩き付ける。銃身が相手の肺や臓器を圧迫する。更に後退。銃の自由が戻る。シャルルはまだ銃身を握っているが、リルは強引に平行にし、胴体へ向け発砲。弾丸は身体を反転させたシャルルの横を通過。もう一度発砲。その直前、シャルルによって銃口は斜め下に向きを変えられる。もう一度だ。だが発砲は間に合わない。リルの手首をシャルルの足が捉えた。手首が不自然な角度に曲がる。銃の所有権は剝奪された。剥奪された銃は投げ捨てられる。それへ向けて駆ける、ミリィ。ナイフを再度スライドさせるシャルル。狙われているのは今度も喉だ。リルは、そのナイフを握るシャルルの前腕に自身の同じ部位をぶつけた。リルもシャルルから獲物の所有権を奪う。シャルルの手からナイフが離れた。だが、そのナイフは弧を描き、アインの足元に落下した。最悪な落下地点だ。リルの脳内の無音の警報音が喧しい。アインはナイフを蹴り上げ、胸の位置に浮かし、獲得。そして疾駆。リルはシャルルの腕を鷲掴みにし、身体を丸ごと、アインへ放る。シャルルは呻いた。その音だけが聞こえた。アインは飛来するシャルルを乱雑に受け止める。ミリィは例の銃に到達。右手で確保。持ち上げ、狙いを定め、発砲。リルは背部に隠していた拳銃を取り出し、発砲。ほぼ同時。しかし、ミリィの弾丸は標的を逸れ、リルの弾丸はミリィの右肩を貫通。
あの小銃は、今のが最後の弾丸。リルはそれを数えていた。反して自分の手中に、それらはまだある。好転ではないが、状況の悪化には微々たる歯止めだ。少なくとも確保対象の内のひとりを負傷させたのだから。
リルは次の対象へ銃口を向ける。それは、受け止めたシャルルをどかし、再度こちらへ疾駆しようとしている瞬間のアイン。距離は、二歩。だが、既に照準は定まっている。こちらが優勢だ。リルの頬が無意識に上がる。銃。その先にある標的。リルの視界。そこに、鋭利な銀色が割り込む。
アインから放たれたナイフは既に眼前。リルは発砲ではなく、回避を優先。上半身を逸らしナイフを避ける。だが銃口の向きは変えていない。回避姿勢のまま、発砲。アインは接近しながら姿勢を低くし、回避。そのまま、次の一歩。それでリルとアインの距離はゼロになる。アインは銃口よりもリルに接近していた。喧しい警報音。銃を持たない拳をアインの顎へ。それをアインは手の甲で受け止め、弾く。その手の甲の形状を手刀に変え、銃を持つ手首へ振る。リルは手刀の軌道から銃を逃がす。半歩後退。時計回りに銃口を回転させ、再度アインへ向ける。今度は正確に眉間に。
発砲。
しかしその行動を取ったのは、リルではない。リルは肩を撃たれ、腕を跳ね上げられていた。誰だ。リルは発砲者を横目で睨む。ミリィ。ミリィ・アシュフォード。右肩を負傷した彼女は左手で小銃を握っている。傍らには空の弾倉が投げ捨てられ、本体には新しい弾倉。予備弾倉か。しくじった。彼女は奥歯を噛み締める。だが、まだ拳銃は保持している。直後、ミリィからの二度目の発砲。拳銃を握るリルの前腕も撃たれた。畜生。奥歯を更に強く嚙む。拳銃は宙を舞い、後方に落下した。再び確保できる位置ではない。畜生。畜生。畜生。獣の形相で、リルはアインを睨んだ。せめて、こいつだけは、殺してやる。命令違反だが、報告次第でどうにでもなる。咆える。何を言ったのか、自分でもわからない。顎の可動域限界にまで開く口。まだ無傷の腕を本能のままに動かす。アインの顎を再度狙う。アインは獰猛なその一撃を、上半身を後方に倒して回避し、リルの側面に身体を滑り込ませた。同時に、振るわれたリルの腕に自分の腕を絡ませ、彼女の背面方向に捩じ上げる。リルが咆えた。悲鳴ではない。アインは獣を拘束した状態で、相手の全身を観察する。リルの右太腿のベルトに狙いを定め、素早くそこに手を出し、内部から円筒状の金属製の物体を取り出した。物体の先端を指で弾くと、細長い針が現れる。それを視認して、リルの太腿に突き立てる。咆哮の停止。リルの眼球が落下しそうな程に開く。驚いたらしい。彼女は自分の足を確認。状況を確認。歯軋り。彼女はもう一度叫ぶだろう。アインはそれを察知する。事実、彼女の肺はそれに必要な酸素を取り込み、全身の筋肉は次の行動の準備段階に入っていた。
獣の腕が暴れる。だが、既に獣は平静ではない。異常な状態だ。
自分の知るリル・エリリスという少女は、こんなにも無意味で無謀な戦闘をしない。アインは最後の一手の直前に、そんなことを考えてしまった。
アインはリルの顎に触れ、一度だけ、しかし高速で、手の平を往復させた。
鈍い、しかし確かな手応えを感じる。
リルは両腕をだらんと垂らし、首を不自然な角度に傾けると、その場に膝をついた。口は開いたまま。目は開いているが、黒目の部分は見えない。
静かに、アインの足元に、俯せに倒れる。
彼は、沈黙した少女のうなじを、一呼吸の間だけ観察した。
「完了ですか」シャルルが問う。彼女はアインに放り投げられた後は転倒していたのだが、今、立ち上がるところだった。自然な動作で立ち、同じく自然に、衣服に付着した砂を払い落とす。
「完了だ」アインは、視線をリルからシャルルへと移す。
「でも、殺してしまうだなんて、それは、……いくらなんでも」
「殺してはいない。事実かどうかをここで確認できないけれど、リルが本当に頸椎を移植されて僕達と同じ細胞保有者になったのなら、首を折られたくらいでは死なない」
「あれが、静脈麻酔ですか」シャルルは眉根を寄せ、リルの脚部を見た。そこにはまだ、円筒形の金属が刺さっている。「打てたのなら、今のは過剰防衛です」
「麻酔の効果が出るまでには時間が必要だ。あれがどれだけの時間で効果を示すのかがわからないなら、二重の手を打つ方が、確実で安全だ。それに、彼女はレクレア側の勢力。作戦内容にも抵触しない」
「今日はよく喋るね、アイン」ミリィが小銃を地面に捨てて、言う。「言わなかったけど、ずっと思ってた。今日のアインはよく喋るなって」
「自覚をしてない」
「それに、口だけじゃないなんて。何さ、あれ」彼女は、口笛を吹く様に口をすぼめた。不服であると、表情で伝えたいらしい。「あたし達が気付かなかったら、どうするつもりだったのよ」
「気付かなかった場合を想定していない」
「もしもの場合」
「気付いたから、実行した」
「それを言われたら、まあ、それまでなんだけど」両手を頭の後ろに回し、あからさまな溜息をした。「今時、あんなアナログな会話なんて。ちゃんと授業していてよかったよ。本当、生きた心地がしなかった」それに、と言葉を続けようとしたところで、彼女は思い出した。「そうだ。シャルル、足は?」
シャルルは、まだ衣服に付着した砂を目で確認しながら払っていたのだが、ミリィから声を掛けられて、行為は止めないが、目だけはミリィに向けた。
「大丈夫です。まだ痛みますが、出血は止まっています」
「本当に?」
「そう言うあなたは?」
「あたし?」問われ、自分の肩を見る。撃たれた位置だ。衣服には小さな穴が開き、赤い色の染みが出来ているが、その肩を回転させ、次に上下運動をした。「まだ血がね、ちょっと、止まんないみたい。でも、痛いのは平気かな。シャルルと逆だね」
「意識を集中すれば」傷口は早く塞がる。アインは、そう言おうとした。
「わかってる」アインの発言を遮る、ミリィ。「だから、集中してるの。でも、こんなの初めてだから、指をちょっと切ったとかと違うから、なかなかうまくいかないだけ」そして、ふん、と、鼻を鳴らした。「もう、初めてばかりで、最低で、最悪で、頭がどうにかなりそうだよ。何も無事に済んでないじゃない」
「ですが、射撃の精度は訓練の時よりもよかったのでは?」砂を払い落とし終えたシャルルは、ミリィを称賛した。「的確な射撃でしたね」
「え?」ミリィは目を瞬かせる。
「彼女の肩、そして腕を」
「ああ、あれか。ううんと、あれは」後頭部を掻き、視線を斜め上に彷徨わせるミリィは、言い淀んだ。「あれは、……適格って言うか、何て言ったらいいんだろう」今度は俯き、両の手の平を見詰めた。その後に、うん、と答える。「そうだね。そうだったんだろうね。正確に狙って、ああなった。本番に強いんだね、あたし」
ミリィは笑ったが、しかし、頬が持ち上がっただけで、瞳は普段のように三日月の形状にはならなかった。
正確に、的確に射撃をした。彼女はそれを実感していないから、取り繕いの偽装の笑みを返したのだ。
二人に説明はしない。彼女は先程、相手の胸部に照準を定めていた。厳密に言えば、心臓を。しかし、利き手ではなかったため、訓練の時と同様に、弾道が逸れた。二発目もだ。二発目の時は、頭部を狙っていたが、やはり逸れた。もしも利き手を負傷せずにいて、その手で引き金を引いていたなら、あの至近距離だ。確実に二発とも、狙った個所を貫いていただろう。つまり、リルを沈黙させるのではなく、殺害していたに違いない。
ミリィは、まだ自分の両手を見詰めている。
結果として、この状況に収束した。過去に遡り、もしも彼女が負傷しなかった場合の結果を考えても意味はないのだが、それを想像してみた。その結果に大きな違いはない。あるとするなら、ひとりの少女が生きているか、死んでいるかだ。否、それが大きな違いなのか小さな違いなのか、彼女は定義できない。どちらの場合も、自分の生存は確定されている。それに付随する差異は、微々たるものでしかない。
それは、彼女の主観による考えであるが、誤った認識ではないだろう。事細かに採点を行い、どちらの方が優秀であったのかを分析したとしても、同じだ。彼女にとって不都合となる相違点はない。ひとりの少女の生死は、他の誰か、或いは彼方から俯瞰すれば重大な事項なのかもしれないが、それはミリィにとっては些末なものでしかない。自分の生死に比べれば。
そう言えば。ミリィは、ふと、思い出した。ああ、なるほど、と納得する。正解かはわからない。だが、きっと、こういうことなんだろう。そこで彼女は、ようやく、自然に笑えた。
「さて」顔を上げたミリィが言う。「そろそろ帰ろうか。シャルル、時間は?」
シャルルは時刻を確認する。
「定時を、……二分と少し過ぎていますが、修正可能な範囲ですね」
「それじゃあ、行こうか」
「彼女を」唐突にアインが割って入る。
ミリィとシャルルは、彼を睨んだ。アインは、横たわるリルを見ている。
「彼女って」ミリィは眉根を寄せる。「その子のこと?」
うん、と、アイン。
「その子をどうするの?」
「連れ帰る」
「……それ、本気で言ってる?」
うん、と、アイン。
「とても面白い提案ですね」シャルルが刺々しく言った。「昔のお知り合いだから、連れ帰って、それで、保護すると? 昔と同じ様に、一緒に暮らせるように」
「それは違う」
「あなたがそう言った以上、そうとしか考えられないんです。それ以外に理由はないでしょう。もっとも、……そうされたところで、彼女にとってはいい迷惑でしかないでしょうけれど。先程の会話から、それは明らかです。いくらあなたでも、それくらいはわかっているだろうと思っていましたが」
「彼女は、施設もまだ到達できていない、僕達の細胞の活用、その次の段階の検体だ」アインは、リルを見たままで説明をする。「脊髄の移植の真偽も確かめるべきだろう。それに、さっきも言った通り、彼女はレクレア側の勢力で、攻撃対象であるということは、拘束の対象でもある。検体の要不要の判断は、僕達ではない他の誰かがするだろうけれど、彼女の確保は、少なくとも、施設にとって不利益を招かない」
その言葉を聞いた後、ミリィとシャルルはしばしそのままアインを睨んでいたのだが、ほぼ同じタイミングで互いの目を合わせ、意見交換を行った。お互いに、アインの発言に誤りがないことを理解した上で、しかし、アインの発言であるから、対象は彼を憎悪しているから、二人にとってかけがえのなかった人物の一件に、その二人が関与している可能性が極めて高まった等から、賛成し、従うことが最善であると頭では理解しているのに、それを認め、行動することを躊躇ってしまっていた。
お互いに同じことを考え、悩んでいるとは、すぐにわかった。よって、決断は早かった。これは決断ではなく、妥協であると、本心を誤魔化しながらではあったが。
「オーケー、わかったよ」ミリィが肩を落としながら言った。「ただし、その子はアインが運んでよ。あたしは嫌だからね。あたしは、ここ」自分の肩を指差す。「撃たれたんだから」
「私もです」シャルルも続ける。彼女の言葉の棘は、少し鋭くなったか、数を増したように聞こえる。「それと、上への説明はあなたがして下さい。私達にも報告の義務はありますが、この件に関しては、あなたが報告をすると、報告します」
そして彼女も、自分の太腿がアインに見えるよう、あからさまに体勢を変えた。
二人とも、その負傷個所については問題がない旨を今し方話したばかりで、二人も、当然アインも、その会話の内容を間違いなく記憶しているのだが、アインはその部分の追及は不要なものであると判断して、その条件を呑んだ。
彼は念の為に、リルの両手足を拘束してから装備している武器を外し、その身体を右肩に乗せた。自分の銃器の確認は、その後に行った。
ミリィとシャルルも、各々の装備を済ませた。
アインは、時刻と残りの作戦の進行内容を再確認する。
歩き出す。
その彼の背に向けて、それまでで最も鋭く冷たい声で、まだです、とシャルルが言った。
小さな声量だったが、声は確かに届いた。その声に刺されたのか、凍らされたのか、動き出したばかりのアインの足は止まった。シャルルは、動きを止めたが振り返りはしないアインの背に向けて、もう一度言う。
「まだです。まだ終わってはいませんから。それを忘れないで下さい」
その言葉に、ミリィは頷く。
「作戦の残り時間が限られていますから、この場で話の続きをしようだなんて馬鹿なことは言いません」シャルルは一歩前に出る。そしてそのまま、家屋の出口へ向かった。「ですが、ミリィさんが先程仰ったこと、その、リル・エリリスという人が語った内容については、終わった訳ではありません。ほんの少し中断しているだけです」アインの横を通過する。「いいですね。忘れないで下さい。あなたには、私達に説明しなければならないことが多くあります。施設に、ではなく、私達にです。もう一度言います。終わった訳ではありません。一度、止まっているだけです」
家屋を出て直ぐに、シャルルは鋭利な横目でアインを見て、それで彼の身を刺した。
うん、と、アイン。
いつも通りの、彼の返答だ。
それに対してシャルルは腹が立ったのだが、その場でその感情を露にはしなかった。厳密に言うなら、今はこれ以上、アインと会話をしたくはなかった。
それはミリィも同じだった。シャルルとの違いは、彼に一切口を利かなかったことと、一瞬でも彼を見はしなかったことだ。彼女は、アインの横を通る際に、ふんと鼻を鳴らしただけで、彼とは反対の方向を見ながら家屋を出た。
アインも二人に続いて外へ出た。互いの距離感は、互いの信頼度と比例して、離れている。前方を行く二人よりも、アインは十メートルばかり後方を歩いた。ここへ到着した時とは逆の隊列である。
リルを抱えて歩くアインは、言われた言葉を頭の中で反芻する。
拠点を施設に移してからの間、常にそうであった、会話の一時中断と、消失。これまで彼は、その後に継続しない、再開しないとされた会話は一様にして脳内から消去していたが、今回の件は、そうではないらしい。今回が特例であるのか異例であるのか、それに関しては推考する意味はなく明白であるので、いつもの通りに消去したが、一連の会話は、そうしない。そうしてはいけないらしい。会話だけでなく、今日この場で起きたことも同様に処理をしなくてはならない。猛烈な自然災害のような勢いで押し寄せた情報は多過ぎ、何が事実であるのかは混沌としていて、何ひとつ明確ではないが、その一部分、或いは、過半数を、自分は事細かに説明をしなくてはならない。
彼は、ここで起きた内容を頭の中で整理する。時間軸に沿って思い出す。人間関係は蜘蛛の巣のように複雑に入り組んでいるが、それも各視点毎に、彼が持つ情報を、正確に。
そのいずれもが、完結していない。停止しているが、再開は決定事項である。消去してはならない。
彼はそれらの情報を、記憶の最も手前の位置に、収納した。