罅を知り、忌み、日々は崩落
第八章
さて、自然は、人間が地上のあらゆる場所で生活できるように配慮したが、しかしまた自然は同時に、人間が好みに反してでもあらゆる場所で生活すべきことを専断的に望んだのである。
1
空母には定刻より七分早くに到着した。
まだ幼い三人は、管理官よりも年齢が上であろう軍人然とした屈強な体格の男性から、特別待遇で出迎えられた。その人物は、三人が到着すると敬礼で挨拶を行い、そのまま早足の先導で甲板を移動した。
男性の階級は准将だった。制服の胸元には、これ見よがしに勲章が沢山ぶら下がっており、そういった物を初めて見るミリィは、男が体格がよいだけでなく背丈も彼女より頭ひとつ分高いので、勲章が自分の目線と同じ高さで揺れているものだから、今後の作戦内容を移動しながら語ってくれている准将の言葉よりも、そちらの方が気になってならなかった。それの価値は高いのだろうか。先ず、それを考えた。
准将は軍人らしい堅苦しい口調で、定時より早いが、このまま作戦を進めると彼らに伝えた。今後の時間は、現在の時点で早まった分を前倒しにするそうだが、最終的な回収時間はそのままなのだそうだ。作戦の指令本部にもそのことは伝えており、了承も得られているらしい。
アインは小さな動作で腕時計を確認し、前倒しになった時間を確認する。その時間だけ、作戦時間は追加されたことになる。それほどの時間ではないが、この追加は貴重な財産となるだろう。
甲板では、三人が乗り込む輸送ヘリが発艦準備を整えた状態で待機していた。その横には、横に長い形状のテーブルがあり、その上に、彼らに支給される装備一式が用意されている。その前にはひとりの軍人が待機しており、その軍人も、三人にしっかりとした敬礼で挨拶を行った。
三人は置かれている物を確認する。テーブルの手前に置かれている迷彩服は、砂の色をしていた。これから向かうバルゴは、砂漠地帯である。水筒も手渡された。中身は既に補充されている。何が入れられているのかは見た限り不明だが、水だろう。
装備は、旧式の拳銃と小銃だった。ミリィとシャルルは、初めて見る型式に戸惑った表情をしていたが、アインは見覚えのある形と手触りに懐かしさを感じていた。前に見たことがあり、扱ったこともある。ユーゲンベニア国軍で主要兵装として普及しているものと同型で、銃と弾薬から素姓が漏洩することはないと、准将が教えてくれた。不要な交戦は避けてほしいが、有事の際には安心して使用して構わないそうだ。
その場で迷彩服を着る。拳銃を装備。予備弾倉も装備。予備弾倉は、拳銃と小銃、それぞれ一つずつ。不足となったなら、現地調達ができるので、数に不安はない。
アインは慣れた様子で装備を終えたが、ミリィとシャルルは、少しだけ手こずる。脚部のホルスター装着は初めてで、そもそもどのように装着していいのかがわからないようだった。ショルダータイプの方は着用を終えたようだが、もう一つ残された短いベルトを手に、二人は困惑をしている。
「右足に」アインが言う。
「なに?」ミリィは聞き返す。アインの言葉と同時に輸送ヘリがプロペラの回転速度を上げたせいで、彼の言葉は殆ど彼女に届かなかった。ミリィは声を張り上げ、もう一度聞く。「なんて言ったの?」
アインは口で教えることを諦め、彼女に歩み寄ると、彼女が手に持していたベルトを奪うように取り上げ、右太腿に巻き付けた。それも、強く。
「痛い」止血されるかのように太腿を強く締め付けられ、ミリィは悲鳴を上げた。「きついよ。もっと緩くしちゃ駄目なの? 痛いよ」
「落下しないようにしっかり固定するものだから、我慢をして」
その後も、慣れた手つきで各装備を彼女の全身に装備させる。ミリィの次には、シャルルへの装備の補佐も行う。
一通りの装備を終え、最後に、各自の時計の時刻を合わせる。腕時計の盤面を互いに見せ合い、3からカウントダウンをする。3、2、1、セット。
時刻は、深夜1時43分。
「現地の情報はヘリの中で伝達します」
准将に促され、三人はヘリに乗り込んだ。
ヘリには、機体の後方から乗り込む。内部はパーテーションや柵等で空間は区切られておらず、機体の左右壁面に簡素な座席があるだけだった。その座席には、准将よりも若い男性が既に腰掛けていた。若いと言っても、やはり管理官たちよりも年上である。その男性は顔に刻んだ皺を歪めるように、ようこそ、と言って笑った。彼は、他の人間がそうしたように、敬礼での挨拶は行わなかった。その行動からアインは、その人物が軍関係者ではないのだろうと推測した。
三人は、男性と向かい合わせになるように座る。小銃は、機体の前方に立て掛ける設備があったので、そこに置いた。その設備の横には操縦席に繋がる僅かな隙間があり、操縦席では二人の軍人が発艦作業を進めていた。
准将は乗り込まなかった。彼は、現地の地図をアインに手渡し、そのまま操縦席まで歩み寄り、窓を叩いた。出発の指示だ。運転席の軍人は片手を上げ、了解の返答をサインだけで返した。准将はヘリから離れる。その後、プロペラの回転が更に早まる。
ヘリが大きく揺れた。離陸だ。こういった航空機に乗る機会がこれまでになかったミリィとシャルルは、平衡感覚が揺らぐのを感じた。ミリィは、その感覚がジェットコースターのようだと感じたが、その感想を声には出さなかった。
臓腑が落ちる感覚と共に、三人は飛び立つ。
すると、丸い窓から見える景色に、白く光る球体が映り込んだ。
「見て」ミリィは思わず、この場に相応しくない声を上げてしまう。「満月だよ。綺麗」
「説明を」向かいに座る男性が、ミリィのそれを遮って口を開いた。
ミリィは慌てて口を閉ざす。首を前に少しだけ傾けて謝罪もしたが、謝罪の言葉は出なかった。
アインは地図を開く。同じものを男性も持っており、それを参考にして着陸地点と目的地となる基地の場所の説明を行った。警備状態や、敵兵の配置状況。配備されている装備に関しての詳細が語られる。その情報は、昨日確認されたものだという。
目標であるゲーグマン将軍は、基地内のどこかに潜伏しているらしい。それがどこであるのかという最重要点までは判明しなかったそうだが、前日に行われた確認の際に、基地にはユーゲンベニア軍ではない傭兵の姿が複数確認されていることから、ゲーグマン将軍の潜伏先であることに間違いはないと、彼は言った。目的は、将軍の身柄確保、或いは、殺害。念を推すように、男性は付け加える。
念の為にと、将軍の顔写真が渡された。しっかり覚えるようにとの命令をされる。
写真は一枚で、最初に受け取ったミリィは、そこに写る将軍の白髪に目がいった。町によく居る老人のようだと、彼女は感じた。次にシャルルへと手渡され、シャルルは、写真だというのに身が竦んでしまいそうな、その鋭利な眼光に目がいった。彼女は、印象よりも、恐怖心を写真に抱かされていた。
二人共しっかりと記憶した後、アインへと手渡される。
アインは他の二人と違い、写真を一瞥だけして、男性に返した。彼が写真を見ていた時間は、ものの一秒もなかった。
最後に、質問はないかと男性から聞かれた。
ミリィとシャルルは顔を見合わせてから、大丈夫の意味を込めて頷いた。
その代わりにアインは、「何もない」と、はっきりとした口調で返事をする。
それからしばらく、沈黙の時間が流れる。
沈黙と言っても、輸送機は飛行している為、それなりの音が響いていたので無音ではないのだが、会話は一切交わされなかった。先程のミリィと男性とのやり取りがあったからかもしれない。不要な会話は規律か条例で固く禁止されているような、そんな時間が続いた。
やがて、沈黙に耐えかねたのではなく、意を決して、ミリィが口を開く。
彼女の顔は、アインに向けられていた。
「アイン」
アインは、無言のままミリィを見た。
窓から紛れ込んでくる月明かりが、彼女の顔を青白く染めている。
「だいじょうぶだよね?」
うん、と、アイン。
「本当に、だいじょうぶだよね?」
うん、と、アイン。
「信じて、いいんだよね?」
うん、と、アイン。
「だいじょうぶなんだよね?」
うん、と、アイン。
「現地の情報を伝えます」会話を遮って、操縦者がこちら側に顔を出し、事務的に言う。「快晴。無風。敵兵に動きもなし……」
数時間後に自分達がその足で踏むことになる土地の情報を、ミリィとシャルルはぼんやりと聞いていた。
ミリィは、たった今自分がアインに対して投げ掛けた問いについて考える。同じ質問を、出発前に施設で全員にしたばかりだったことを思い出したからだ。その時は、自分の心の状況を落ち着かせる為に全員に聞いたという意味合いもあったので、今し方の問いとは微妙に、そこに含ませた真意は異なるものではあったが、では、今自分は、どういった目的でアインにあんなことを聞いたのだろうか。ミリィは自分に問う。しかし、わからなかった。心をもう一度落ち着かせる目的があったのだろうか。いや、それはない。彼女は、アインに尋ねるまで、緊張感や出発前に抱いていた恐怖心は、自己診断だが、抱いていなかった。心の状況を心電図のような波にしてみたなら、穏やかなさざ波を描いていたと自覚している。では何故、あんな質問を、このタイミングで、アインへ向けて放ち、その結果、心に僅かな不快感を抱く結果となってしまったのか。
それが。よくわからない。
波。……心電図? さざ波?
ミリィは、自分が考えた内容を頭の中で反芻する。
そうか、波か。
彼女らしくなく、珍しく疑問は短時間で解決した。
そう、波なのだ。上に行き、その後には、下がる。それが繰り返される。出発前、彼女の状態は下がっていた、その状態は、更に遡って、大分前から継続している状態だった。それが、サーシャの部屋でみんなに問い掛けたあの時、上に行った。回復していた。それが、先程の質問で、また、下がった。きっと今回のは、古傷の痛みに似たようなものだったのだろう。それに、先程アインに声を掛けた時、輸送機の中は居心地の悪い沈黙が流れていた。その沈黙の不快さを彼女は嫌悪していた。あの沈黙はざらりとした肌触りをしていた。それに耐えられずにアインへ声を掛けたが、アインから返されたのは、うん、という一言だけだった。それが、今の不快感の原因だろう。きっとミリィは、何か、言葉を期待していたのだ。言葉が返されれば、そこから会話が生まれる。そうすれば、居心地の悪い沈黙はどこかに消えてなくなるだろう。だと言うのに、うん、の一言だけ。やはり、アインという人間は、アインという人間でしかないのだと痛感した。その結果、彼女の心の波は、下がった。きっと、そういうことなのだろう。そういうことにしておこう。これ以上考えるのは、やめだ。これ以上考えると、頭が爆発してしまうような気がする。それも、かなりの大爆発だ。
その考えを最後に、彼女は溜息をついた。
しかし、あのアインに対して、そんな期待をして、あんな質問をするなんて。
ミリィは、無意識に笑っていた。自分の行動と、冷静に考えれば予想通りに返されたアインからの返答がおかしくて、笑ってしまった。僅かではあったが、笑い声としても唇の隙間から漏れていた。
シャルルがその笑みに気付く。シャルルにしてみれば、何の前触れもなく唐突にミリィが笑ったので、一体何が起きたのかがまるでわからなかった。彼女は少し驚き、瞬きをした後に瞳を普段よりも大きく開き、ミリィを見た。
「どうしたんです? 突然」シャルルは小さめの声で聞く。
「え? なに?」ミリィの声は反対に、普段通りの音量だった。
「いえ。突然そんな、あの、……笑うだなんて、何かありました?」
「ううん。何もないよ」
「でも、本当に突然だったので」
「なんでもない。なんだろう、思い出し笑いみたいなやつだよ」
「え?」
「考え事をしていたら、ちょっとおかしくなっちゃって、それだけ。だいじょうぶ、いつも通り」
そう言って、ミリィはシャルルに向けてもう一度微笑んだ。その微笑みがシャルルにも感染するのに、時間はほとんど要さなかった。
ミリィにつられて、彼女も笑顔を浮かべていた。自然に、ふふ、と。
「そうですね。いつも通りですね。本当に、おかしな人です」シャルルは微笑みながら、両肩を少し持ち上げる。「あなたらしいですね、ミリィさん」
「それ、からかっているでしょう」
「どうでしょう。率直な感想を言っただけです」
「そうやって言うシャルルも、シャルルらしい。からかっているし、誤魔化している」
「さて、無駄話をしすぎたら、怒られますよ。遠足とは違うんですから、これくらいにしておきましょう」
「はあい」
それから着陸地点に到着するまでの間、それ以上の会話が生まれることはなかった。現地の地図や装備などの再確認をしている間も、輸送機の中は飛行に伴う機械音だけが響いていたが、不思議と、そこに居心地の悪さや不快感は含まれていなかった。
多分、蒸発したのだろう。
少なくとも、ミリィとシャルルは、そう感じた。
波は下降をやめ、少し上昇をしたらしい。
2
輸送機は一度バウンドをしてから、砂地に着陸をした。着陸地点から少し離れたところに、古めかしいトラックが停車している。
ここまで同行した男性が扉を開き、三人に降りるよう指示を出す。開けられた扉からは、砂漠地帯特有の乾いた熱風が入り込んできて、砂が混ざったその風にシャルルは咳込み、その後、息を詰まらせた。到着したユーゲンベニアの気候は、彼女が肌で感じる初めての温度と肌触りをしていた。湿度が含まれていないが、この温度はサウナに似ていると思いながら外に出る彼女は、早くも衣服の内側に汗が浮き出るのを感じていた。反して、地面を踏むと砂はさらりとしており、足が僅かに沈む感触を体験する。それも初めて体感する感触だった。
「時間の確認を」プロペラの音に消されないよう声を張り上げる男性が、自分の腕を指差す。「回収地点には、事前通達していた通りに集合を。制限時間を忘れないように。時間が来たら、我々は出発します。御武運を祈ります」
言って男性は手を顔の横にやったが、それは敬礼ではなかった。
アインも挨拶を返すが、彼は敬礼で返した。小銃を肩に掛け、輸送機から離れる。ミリィとシャルルも、彼の後に続いて機体から離れた。三人がある程度離れたことを確認して、輸送機は周囲に砂塵を撒き散らしながら離陸し、暗闇の向こうへ飛び去っていった。
しばらくすると、プロペラの羽音も聞こえなくなり、三人の周囲は無音に変わった。
本当の無音だった。普段聞き慣れた波の音さえ、ここでは聞こえない。あるのは、一面の砂丘と、疎らに顔を出した岩盤。それらが音を立てることはない。人工物の確認もできない。生活の明りも、ここからは見えない。目を凝らしてどうにか確認できるものと言えば、星と月の朧な明りだけで、当然それらが物音を発することなどなく、異様な静けさの中に三人は立たされている。
その時、トラックのエンジンが鳴った。運転席側の窓も開き、そこから中年の黒人男性が顔を出し、親指の動きだけで荷台に乗るよう促した。次の移動である。
そのトラックで、今は廃墟である工場へ移動し、そこで別の車両に乗り換える。同じことをもう二度行い、作戦開始地点に到着をした。
最後の車両は、三人を下ろすと走り去った。
ほどなくして、再び無音になる。周囲に起伏はない。建造物も見えない。移動をしたが、やはり砂と熱気があるだけだった。
「移動を始めよう」アインがコンパスを確認して言う。「向こうだ」見た方角は、西北西。「行こう」
「歩き難い」数歩だけ歩いて、ミリィが不服を漏らした。彼女の歩き方は、不慣れな地形に苦戦していてぎこちない。「足が沈む。いつもの砂浜と違う」
「水分がないからですね」シャルルも同じ足取りになっている。「同じ砂でも、こうも違うものなんですね。ああ、本当に歩き難い……」
「慣れるしかない。銃を肩に掛けると、歩くのが楽になる。今は敵兵が居ない。両手を自由にするといい」
アインからのアドバイスに従って、二人はストラップを肩に回し、小銃を背中に担いだ。両手が自由になるだけで、確かに歩行が幾分か楽になったように感じた。
それから少し歩いた時、アインが後続の二人に、警戒は忘れないようにと指示した。
「敵兵でなくても、見つかると作戦に支障が出る。民間人にも警戒を」
「バルゴまでは?」シャルルが聞く。「どれくらいで着きますか」
彼女は輸送機でしっかりと地図を確認しているが、地図上で確認した距離から、そこに到着するのに必要な時間というのが、移動が困難なこの砂地ということもあって、推測できなかった。
「大体1時間。基地までは、そこから20分くらいだ」
「監視カメラは?」
「バルゴ市内は心配しなくていい。そんな高価な設備を買えるほど豊かな都市じゃない」
「基地では?」
「監視装置よりも、警備兵に警戒」
彼は、ヘリの中で聞かされた基地内の情報を頭の中で再確認した。基地四方に配された監視塔。基地内の巡回ルートと、その頻度。基地内の警備状況。現在の時刻も確認する。予定通りに基地に到着すれば、巡回警備の隙間に内部へ侵入できる筈である。聞かされた情報に誤りがなければ、基地内に侵入さえしてしまえば、発見される危険性を心配しなくてよいだろう。基地内に警報装置はない。バルゴの基地は、外からの侵入に対しては厳重に備えられているが、一転して内部は、その大半が内部の者にとって死角となっている。侵入者としては、有り難い限りである。
「どうやって中に?」
質問を続けるシャルルは僅かに息を切らし始める。地面。地形。そして気温。それらは普段より速いペースで着実に彼女から体力を奪っていた。
「西から」
アインは一度足を止めると懐から地図を取り出し、基地周辺の地理情報を再確認する。本来ならば情報は全て頭の中に入っているので紙媒体での再確認は不要だったが、実戦が初めてのミリィとシャルルの為に、二人に見えるように広げた。
バルゴ市南端に位置する基地の四方は、北側と東側には民家が立ち並び、南側には公道を挟んで軍の演習場があった。西側は、公道を挟んで更地があり、更地の向こうには、バルゴ市内にしては珍しい、二階建ての建物がある。その建物の向こうはバルゴ市と砂漠の境界で、砂丘しか存在していない。基地は町の中に存在しているからこそ外部の警戒が徹底されているのだが、西側は二階建ての建物以外に遮蔽物がないことから、他の方角を警戒している監視塔よりも装備が簡略化されている。侵入経路としては、西からが得策だと彼は判断した。砂漠からバルゴへ接近し、手前の建物を通過して侵入するまで細心の注意を払っていれば、他の方角からの侵入よりも問題は少ない。
基地は高さ3メートルの塀が囲っているだけである。裕福な国の裕福な基地のように、感知装置の付いたフェンスや圧力センサーを埋めた地面もなく、侵入自体にも困難はない。
「監視塔がありますね。そこはどうやって?」シャルルが続けて聞く。
「僕が先行して、無力化する。その後で君達が侵入を」
「その後は?」ミリィが質問を重ねた。
「基地中心に司令塔がある。場所はここ」アインは地図の一部分を指さした。「巡回を警戒しながら、ここを目指す。情報によると、ここの最上階に、位が上の人間の為の宿舎があって、ゲーグマンも同じ場所に居る可能性が高い。捜索して、発見次第、拘束する」
「どうやって?」
「発砲の許可は得ている。必要なら、実力行使をする」
「ユーゲンベニア軍の人間に見つかったら?」
「見つからないようにすることが命令だ」
「そうだけど……」ミリィは声を不明瞭にさせる。「もしもの話だよ」
「だいじょうぶ」アインは立ち止まる。そして振り返り、本を読むように言う。「そう言っただろう。問題はない。簡単な任務だ。いつもの通りにやれば問題なんて起きない」
ミリィは一度シャルルを見て、そして二人は顔を見合わせた後、互いに頷いた。
「オーケー」ミリィは右手を胸の位置に持ち上げ、親指を立てる。「そうだね。いつも通りに。問題なし。オーケー、オーケー」
「他に確認事項の再確認はないかい?」
アインはミリィとシャルルを交互に見たが、二人は首を横に振って、それを返事とした。
「よし。それじゃあ、移動を再開しよう」アインは地図を胸のポケットにしまう。「基地に侵入するまでは、ほんの少しの距離だけど市街地を進むことになるから、今以上の警戒を忘れないで。このまま進んでいると、時間が不安だね。巡回の隙間を逃してしまいそうだ。少し急ごう。走れるかい?」
うん、と、二人は頷く。
「それじゃあ、行こう」
うん、と、頷く。
走り出す、アイン。その彼を追って駆け出したシャルルは、前を走るアインの背中を眺めた。
彼は今、いつもよりも口数が多い。そんな気がしていた。今までに一度でも、自分からこんなにも何かを語ったことがあっただろうか。前を走っているアインの背中は、まるで別人のようである。違う人間がそこに立ち、走っているのではないかと錯覚してしまう。それに、どこか生き生きとしている。彼女は今の彼を見て、そう感じていた。
違う人間が、今彼女の前に居るのか、それとも、今目の前にいる彼こそが、本来の姿であるのか。
そこまで考えて、彼女はその考えを忘却させた。実際に頭を数度振り、自分が今置かれている状況に集中しようと、頭の中に浮かんできた不要なものを消去しようとした。
それからは、走り続けた。どれくらいの時間そうしていたのか、ミリィとシャルルは時計に目を向けなかったので、正確な時間はよく分からなかった。
やがて、三人の前に明りの灯っていないバルゴの町が現れる。その時になって、時刻を確認した。
予定通りの時刻だった。
2
夜と同じ色をした町を見るのは初めてで、ミリィは、建物の輪郭さえ視認ができない暗さの町を前にして、小さく震えた。月と星が空で輝いているが、それがなければ、目の前にあるのは黒い幕でしかなかっただろう。
現在位置はバルゴ市南部。基地全体を確認できる小高い砂丘の陰に潜み、様子を窺う。侵入経路である西側からでは基地だけでなく町の状況を正確に確認できない為、基地に接近する前にこの場所に潜むことをその場で判断したのだが、基地に明りが灯っていない、というのがこの観察から獲られた情報だった。
町の状況も基地と同様で、明りがない。アインは、凡そ300メートル先にある基地と、それを囲んだ町の状態を、全ての神経を研ぎ澄まして観察する。
それは、300メートルという距離が縮まる感覚だった。遠方に存在している基地を接眼で見ているように、彼の視力は研ぎ澄まされる。
この暗闇の中でも、彼は建物、その壁の質感、色味までを確認していた。
宿舎。窓から内部を確認。無人。その他の室内。同様に無人。監視棟。無人。
彼は、その光景が現実なのかと疑うが、自分の特別なこの力を信じ、今見ている光景が現実であると判断する。
彼は更に確認を続けた。
南の監視棟。無人。北、東、倉庫、格納庫。無人。格納庫には戦闘車両だけでなく、移動の為の車両すら存在していない。
彼は、この場には今、自分達しか居ないのだという結論に至った。
「ミリィ、シャルロット。人の姿が確認できるかい?」
アインは念の為に二人にも確認をするが、二人は首を横に振った。人の姿が確認できないことは、やはり事実であるらしい。
「町にも人が、えっと、居ないかな」ミリィは目を細め、意識を集中している。「うん。居ない。音も聞こえないよ。人が居るような音がね。どういうこと?」
「わからない。音が聞こえないことに間違いはない?」
「ないと思う。ううん、ないよ。耳には自信があるから。どこからも音がしない」
「そう、……そうか。どういうことだろう」
(なにかが、おかしい)
その時彼は、久しく聞かなかった声が頭の中で響いたような気がした。
(おかしい。なにかが、おかしいぞ)
頭の中で響いた声は、幻聴ではない。確かに響いていた。それは彼と同じ声をしていたが、彼よりも感情的な音だ。
(なにかが、おかしい)
「なにかが、おかしい」アインは同じ言葉を繰り返す。「そうだ。なにかが、おかしい」
「避難したんじゃないかな」ミリィは頭を斜めにして、根拠のない憶測をした。
アインは、彼女の言葉を一度自分の意識の中に入れてから、考えてみた。頭の中で響いた先程の声は、今は沈黙している。
「何から逃げた?」
彼が訊ねると、ミリィは頭の傾く方向を反対にした。
「わからないよ。でも、そう。何かから」
「私達?」シャルルが呟く。「私達から……」
「それはない」アインは彼女を見ずに否定した。目線は町と基地から逸らさない。無人であると結論付けられたものの、念には念を入れ、彼は隅々まで観察を続けている。「情報が漏洩したとしても、住人全員を避難させるだけの時間はなかった。情報の確認から、まだ一日も経っていない」
「ここが本当に目的地ですか? 間違いでゴーストタウンに来ている可能性は?」
「間違うほど、ユーゲンベニアに町はない」
バルゴから一番近い距離にある隣町まで、車両移動で一時間ばかりを要する。ここは、ユーゲンベニアだ。町同士は繋がっていないし、町と町との距離は、車両で一時間でも近いとされている。
それに、間違いではないという決定的な証拠として、基地が実際に存在している。基地は民家とは違う。すべての町に基地がある訳ではないし、ユーゲンベニアでこれ程の規模の基地はバルゴにしか存在していないという事実がある以上、ここが目的地であることに間違いはない。
その後も、三人は一分ばかり町の様子を確認した後、やはり目の前にある町が無人であると結論付けた。
「どうする?」不安げな声でミリィが訊ねた。
「潜入しよう」アインは当然のように言う。「任務は確認じゃない。将軍の身柄確保だ」
「でも、誰も居ないんだよ?」
「視認しただけだ。確認したわけじゃない」
「基地に?」
「町の状況を確認しながら潜入する。西からと決めていたけれど、変更しよう。一度北へ回り、周回しながら全体の様子を見る。その後で、潜入だ。本当に人が居ないなら、どこから入っても変わらない」
彼はホルスターから拳銃を抜き出し、安全装置を解除した。ミリィとシャルルにも、銃を構えておくように指示した。
二人は指示に従い、銃の安全装置を解除する。二人が構えたのは、小銃だ。
同時に、その後の会話は、念には念を入れ、手信号で行うこととした。意思疎通はできないが、情報の伝達はそれで充分だと判断されたからだ。
砂丘を緩やかに滑り降り、基地を時計とは逆方向に迂回しつつ移動を始める。
ある程度の距離を周回した後、アインは足の向く先をバルゴに転換し、三人はバルゴの内部へと足を踏み入れた。
バルゴは驚く程に静かだった。市街地も地面は砂だったので、足音は響かない。動いている自分達の身体が鳴らす僅かな衣擦れの音だけが、耳を澄まして聞こえる唯一の物音だった。
周囲を警戒して進むシャルルは、バルゴの町を警戒と併せて観察していた。この町は、全てが砂である。木材が存在していない為、民家は日干しのレンガを積み上げて建てられている。遠くから見ていると地面と建物の境目がはっきりとしなかったのは、そのせいだろう。踏み締めている砂が建物の原料となる為、地面と家屋の色は同色である。間近で見ると、砂漠風に当てられた砂壁には細かな凹凸が刻まれていて、手で触れると、彼女がそれまでの日常生活で触れたことのあるレンガの強度とは程遠い脆さに驚いた。こんなに脆い材質で建物が建ち、その中で生活ができるとは知らなかった。
そして彼女が一番驚かされたのは、バルゴの民家には窓がないということ。ドアと呼べるものもなく、網目の荒い、砂で薄汚れた布が、くり抜かれた壁に垂れ下がっているだけで、それが窓やドアであると、初め、彼女は理解できなかった。それさえもなく、ただ壁に穴を開けただけの民家も多い。
そういった、ただの穴でしかない窓から家屋の中を覗き込み内部を観察してみると、建物の中も砂の色をしていた。いや、砂の色ではない。砂だ。彼女が室内と聞かされて連想する家具や調度品が、そこにはない。垂れ下がっていた生地と同じ編み方で仕上げられた薄汚れた布が、床、否、砂の上にそのまま敷かれているだけで、その他には何もない。その絨毯代わりの布さえ、表面には屋外から日常的に侵入してくる砂が降り積もり、本来の色ではなくなっていた。最早、絨毯としての役割さえ担っていない。
こんな家で、どのような生活をしているのか。
三人の中で最後尾を進むシャルルは、そんなことを考えていた。
前方で、アインが停止した。ミリィも立ち止る。二人が止まったので、シャルルも身を屈めて停止した。
アインは民家の壁の陰から、その向こう側の様子を窺っている。手信号で、後続の二人に索敵の指示を出した。そこは町の中心を東西に横切っている大通りで、この町の住人の生活の中心だが、道幅はシャルルが見慣れている大通りよりも狭く、比較するならば、彼女が大通りと呼ばれて想像する道幅の半分もない。
緊張して、彼女は小銃の銃口を上に持ち上げた。
どうしました?
手信号で前にいるミリィに訊ねるが、彼女も立ち止った理由がわからないようで、質問に対して首を傾いだ。
だが、二人とも聴覚を研ぎ澄ませていた。音は自分たちの心音しか聞こえていないが。
わからない。ミリィからの手信号。
何かを見つけた? 手信号での返信。
わからない。
敵兵?
わからない。
二人がそうしている間に、アインは再び進み始めた。侵攻の手信号。どうやら、大通りのどこかに何者かが潜んでいないかと警戒していたらしい。ミリィとシャルルは、アインが立ち止まった理由をそう解釈した後、後を追った。
アインの動きは、舞踏のように滑らかだった。アインのすぐ後ろを進むミリィには、目の前の人間の動きがそのように見えていた。僅かな無駄もなく、流れるようである。進行。停止。監視と警戒。それは彼女が過去に観たバレエの演目のようであり、何よりも、自然である。
今思うとミリィは、これまでに演習場で彼の動きを目の当たりにしたことがない。それはシャルルも同じである。日常生活ではまず行うことのない、日常生活とは大きくかけ離れた環境で行われる今この瞬間の動作は、日常生活を行っている際の彼の動きよりも自然である。それだけ今の彼の動作は滑らかで、無駄がない。何も考えずに動く、本能的な動作。彼女の頭の中にその言葉が浮かぶ。そうだ、これは本能が指示を出し、それに忠実に従った結果として成し得る動きだ。その動きは彼の身体と本能に染み付いているのだ。
アインは細い路地を選択して進む。途中に分かれ道があれば速度を落とし、左右に分岐したそれぞれの方向に人が存在していないかを確認して、慎重に、町の状況を把握していった。
そして、基地を起点として半径100メートル内に人の姿がないと判断したところで、三人の進行方向は基地に向けられた。
基地は古めかしいフェンスで囲われていた。その向こうには、バルゴ市内で唯一の、材質が砂ではない倉庫が見えた。その大きさからして、中には装甲車両か戦車が格納されていたのだろう。事前の情報で、基地に配備されている車両はそういった系統であると聞かされていたし、併せてこの基地には、航空機やヘリは配備されていないとも聞かされていた。
倉庫の向こうには、二階建ての宿舎が三棟並んでいる。こちらは、民家同様の日干しレンガで建てられていたが、窓ガラスは備わっていた。屋上にはアンテナが複数設置されている。宿舎の隣にあるのは、司令塔。こちらは三階建てである。宿舎が邪魔をしていて全体の形状を把握できないが、バルゴの中では最も豪華な造りをしている。壁面には装飾が施されており、そこが特別な建物であることは誰の目にも明らかだった。
しかし、町中と同様に、基地のどこにも灯りが点っていない。月明かりに照らされてシルエットだけをぼんやりと浮かび上がらせる基地は、どこか威圧的である。民家と異なり、それだけが近代的な建築物だったからだろう。民家の隙間からフェンス越しに基地を眺めるシャルルは、緊張しながら顎を伝い落ちてきた汗を拭った。彼女は先程から、暑いという感覚を忘れていた。何故だかわからないが、汗が噴き出している。そうとしか、今は感じていない。
人は居ない。ミリィがアインの肩を叩き、手信号で情報を送り、再度周囲の様子を確認して、彼女も額の汗を拭った。
「それにしても、暑い」そこでミリィは、久し振りに言葉を放った。アインに注意をされるだろうかと直後に反省をしたが、それはなく、アインは無反応で基地を注視している。
シャルルが、周囲が酷暑であることを思い出したのは、その言葉を聞いた時だった。そうだ、暑いのだ。周囲のこの気温は、彼女が経験してきたどの夏よりも高温だ。だというのに、着衣しているのは肌を露出していない迷彩服。彼女の服の中は蒸され、熱された空気と汗が逃げ場もなく循環している。
「本当に。なんて暑さですか」脱ぐこともできないので、彼女は服の襟を摘んで、首元から僅かにではあるが、空気を送り込んだ。外気自体が熱いので大きな変化は得られないが、それでもそうやって風を送り込むと、少しだけ涼しくなったような気がした。「砂漠は初めてです。夜は涼しいと聞いていたのに……」
「冬に来ていたなら、シャルロットの言う通り、涼しい」アインは彼女を見ずに言う。目線は今も、基地全体に向けられていた。「砂漠地帯の冬の夜は、極寒だ」
その後は、再び手信号に戻る。
人は居ない。ミリィ。物音は?
しない。何の音もしない。
基地の中にも?
首肯。
シャルロット。
同様に、首肯。
無人に間違いがない?
二人の首肯。
侵入しよう。アインは銃を肩の位置に持ち上げ、指示する。自分が先行する内容を変更。周囲を警戒しながら、全員で司令塔を目指そう。
彼は水筒を手に取り、一口だけ水を飲んだ。シャルルはその行動を見て、水が支給されていたことを思い出す。腰に装着されていた水筒を持ち上げ、その角度を垂直にして、水を喉に流し込んだ。その温度は、水と呼ぶには不適合な状態だったが、外気温よりは低かった。
行こう。片腕だけのサイン。
アインは、シャルルが水分補給を終えたことを確認してから、再び滑らかに動き出した。
周囲を警戒しながら、彼らは鉄製の門扉へ近づいた。門扉は横にスライドをする構造で三人の背丈よりも高いが、格子状になっていて向こう側がよく見える形状だった。同じ形状をした物が、数メートル先にもある。どちらにも、その脇には衛兵の滞在の為の小さな小屋があり、正面玄関とも呼べるこの場所は、二重のセキュリティで構成されていたことが分かる。小屋はトタンで造られており、その横に、鉄骨を組み上げて造られた監視棟が聳えていた。その中腹付近には、監視カメラが設置されている。左右に首を振るタイプのものだが、今は動いていない。機能していないようだ。
アインは格子状の門に手を掛け開けようと試みるが、施錠されているようで、動かない。
この門の高さ程度であれば飛び越えることができるが、アインはそのまま門を破壊しての侵入を選択した。
彼は、門に触れている手に力を込める。すると、小屋の方で金属の軋む音が響き、錠の部分がその構造ごと弾け飛んだ。そうすると、門は多少の抵抗はあるものの、そのままスライドして開くようになった。
三人が中に侵入可能なだけの隙間を開け、そこからミリィが先に侵入し、シャルルが続く。アインは最後に基地の外を警戒しながら、二つ目の扉へと向かった。
彼が二つ目の門に到着すると、一つ目の門の時と同じ、金属の軋む音がした。見ると、ミリィが先程のアイン同様に錠前を破壊したところだったが、その破壊の仕方は彼と異なっていた。彼が無理矢理門を引くことで錠前を破壊したのに対し、彼女は鍵を剥ぎ取っていた。手には、歪に歪んだ錠前が握られている。
先は、アインが。手信号を出し、ミリィは剥ぎ取った錠前を地面に捨てた。
了解、と頷き、アインは門を越え、基地内へと侵入した。その後を追う、ミリィとシャルル。今、三人の位置関係は、上から見ると、正三角形をしている。
三人は規則正しく、整然としたリズムで進む。
基地に入ってすぐの位置の倉庫。町の外から確認をしてはいたが、念の為にと、アインは中を一瞬だけ見た。やはり、中には何もない。がらんとした、ただの立方体構造の空間だった。人も、そこに収容されているべき何かも、ない。銃器等の有無を確認したかったのだが、基地周辺の捜索に予定より長い時間を割いてしまった為、その余裕はない。元々時間の限られた任務なのだ。倉庫の中には銃器さえなかった。そう判断して、アインは司令塔へ進行方向を定める。
司令塔は形状としては立方体をしていて、壁面には表面を削って模様が描かれていたが、それが何をモチーフとした装飾であるのかはわからない。正方形の壁に描かれていたのは、何重にも重なるアーチだった。民族的な意味合いか、宗教的な意味合いがあるのかもしれないが、それは任務に関係ないと、彼はその模様を無視し、司令塔の入り口を目指す。
ここまで進む間、監視カメラは目につかなかった。監視棟に付けられていた先程の物以降、監視カメラだけでなく、警報装置の類もない。その部分だけなら、ヘリの中で聞かされていた情報との間違いがない。アインが警戒しながら押し開けた、砂漠地であるバルゴでは珍しい木製の司令塔の扉にも、何の装置も仕掛けも施されていない。ただの板である。
司令塔の内部も、砂の色をしていた。そして、町の中と同様に静かだった。
シャルルは、いつの間にか息を止めていた。小銃を握る手に力が入り、僅かに震えている。自分は今、緊張している。それを自覚した。
司令塔に入ると、螺旋階段が三人を出迎えた。位置的には、建物の中心を大きく刳り抜いて最上部にまで届いており、螺旋を見上げると、最上階の天井が確認できた。その天井には、バルゴでは珍しい、ガラスという希少な材質の窓が備わっている。螺旋は楕円形をしていた。意図してそのような形状にしたのか、綺麗な円形を作る技術がなかったのかは、わからない。また、窓は吹き抜けの最上部にあるだけなので、月明かりは司令塔の中全体にまで届かず、ひどく暗かった。
三人は、慎重に階段を上る。一階部分に用はない。
何事もなく、目的の階である最上階、三階に到着した。
三人の目の前には、螺旋階段から左右に伸びる廊下がある。螺旋上部の窓は近い位置だが、角度的に月明かりは左右どちらの廊下の奥にまで届いていない。
情報によると、この階に部屋は六つある。指令室、資料室、武器倉庫。大型の銃器以外は、ここだと聞いていた。他に、警備本部。通信室。それと、ゲーグマンの潜伏用と疑われている部屋。建物の構造としては、螺旋階段が中心にあり、左右にそれらの部屋が伸びているだけのシンプルな構造である。
アインは拳銃をホルスターに戻し、代わりに小銃を構えた。安全装置を外し、進む。
廊下は暗くて足下さえ見えない。意識を集中し、視力を研ぎ澄ます。すると、廊下の向こう側まで見られるようになった。
二人も視力を強化。警戒。アインは、後続に指示を出す。
うん、と頷き、シャルルは集中し、言われた通りに視力を研ぎ澄ます。ミリィは楕円の階段を上っている時点から、視界に不安があったので、そうしていた。
三人の視界が鮮明になり、レンガを構成している砂の顆粒さえ見えるようになる。
一つ目の扉は、この建物の入り口と同じ木製だ。司令塔にある扉は、全てそうなのかもしれない。隣に見えている、目の前の扉より一回り小さな扉も、木製だ。そのことから、この司令塔がバルゴ市内に於いて、最もよくできた建物なのだろうと、シャルルは改めて理解した。先程まで見ていた民地では、そもそも木という材質を見ていない。
アインが、扉を静かに開ける。自分の身体より先に、銃口と視線を室内へ入れた。
そこは、警備本部。ひょっとすると、指令室かもしれない。旧式ではあるが、計器が壁際に並んでいる。
だが、人は、居ない。
次の扉。こちらは資料室。
人は、居ない。
その反対側にも扉。ミリィが慎重に開く。中には、何も収められていない棚が、三つ平行に並べられていた。ここは武器倉庫だろう。広さは資料室と同じくらいであるが、棚が目の前にあったせいで、狭く感じる。
こちらも、人は居ない。
銃が一丁として残っていないことを、ミリィは訝った。三人が訪れることを察知して、基地の設備も丸ごと別のどこかへ移動させてしまったのだろうか。だが、そうだとするには、あまりに動きが早すぎる。アインが言った通りである。情報の入手から、一日しか経っていない。そんな短時間の間に、基地内の人間と、設備と、装備と、全ての住人を別の場所へ移送させられるとは考えられない。
現状がまるで理解不可能だと理解した後、彼女はアインに、ここが武器倉庫で、無人で、収められているべき銃器もないと報告した。
シャルルは隣の部屋へ向かった。その部屋の扉は、両開きだった。押してみると、僅かな抵抗を伴って開く。
扉の陰に隠れながら、彼女は室内を探った。誰も居ないことを確認してから、そこが何の為の部屋であるのかを推察した。手前には丸いテーブル。それは高さのない、板面が膝より低いテーブルだった。その奥には机がある。彼女は、バルゴの中で初めて家具を見たが、部屋の中にあるものは、それだけだった。机があるのだからそちらには椅子も備わっているのだろうが、彼女の位置からは見えない。あとは、壁に大きなポスター、いや、国旗があるだけである。しかし、それはユーゲンベニアの国旗ではない。
「ふたりとも」シャルルは囁くように言った。「この部屋です」
扉を全開にする。扉は番が錆びているのか、僅かな金属音を鳴らした。限界まで開けると、扉は180度開き、壁に接触をする。壁と扉が合わさる個所には、幾度も互いがぶつかった跡が残っていた。彼女は長方形をした室内をよく観察しながら、言葉を付け足す。「誰も居ません」
呼ばれた二人は、シャルルの後ろから室内を確認した。ミリィは、広い室内であるのに物があまり置かれていないという殺風景な光景から、どこか宗教的な雰囲気を感じ取った。窓がなく、暗い室内は灰色のレンガの色だけで、その中心に置かれた小さなテーブルは、宗教の修業を連想させる。
アインにもこの部屋が、壁に存在している国旗から、礼拝施設のように見えていた。見覚えのある国旗だったからこそ、それを尚のこと強く感じる。彼らは、愛国心の強い部族を起源に持つ国だ。国旗は、神と同様に崇め、奉る対象とされていた。
それを思い出す。
懐かしさと共に。
「ここだ」アインが室内に入る。壁に掛けられた国旗から目を逸らさず部屋の中心まで行き、正面からそれを眺めた。「将軍は、確かにここに居たんだ。間違いない。これは、レクレアの国旗だ。それも、この大きさの国旗は高い身分の人間しか持つことを許されていない。ここに居たのは、間違いなく、将軍だ」
「その将軍は?」ミリィが扉の位置から、国旗を眺めているアインに訊ねた。「やっぱり、どこかへ?」
「多分そうだ。情報が漏洩していたのかわからないけれど、事前に逃亡をしたらしい」
「情報が漏れるなんてことが?」
「ないことの方が珍しい。よし。作戦はここで終了。これ以上捜索しても、何も見つからないだろう」アインはようやく国旗から目を逸らし、腕時計で時刻を確認した。今の時刻は、4時19分。「定刻までは時間があるけれど、合流地点へ向かおう。そろそろ陽が昇る時間だ。暗い内に向かった方がいい」
アインの提案に二人は、うん、と頷いた。
来た道を、来た時と同様、慎重に戻った。螺旋階段では、上っている時には気にならなかったが、暗闇に目が慣れていたせいで、下へ向かうシャルルは月明かりに目を眩ませた。視力を過度に研ぎ澄ませていた。だが、集中は継続させる。まだ任務中だ。警戒を怠ってはならない。
一階へ到着する。屋外へ退避し、周囲を警戒しながら、倉庫、宿舎を通過。先程破壊した門を前方に視認。そのまま進み、門を通り過ぎ、民地へ。
周囲が無人であることに変化はない。
その後は町を抜け、回収地点へ向かう。
それで作戦終了。
その筈だった。
だが、そうは、ならなかった。
門扉から、町へ出る。
その時、シャルルは、自分の右足を何者かに蹴られた。
彼女は、それだけを感じた。
何が起きたのかが、理解できなかった。
彼女は、自分の右足が蹴られたと感じたのだ。それも、強烈に。
だが、何が起きたのかがわからない。
周りには自分達しか居ない。
だというのに、蹴られた。
誰かに、右足を、強く。
彼女の意識の中で、時間の流動が止まった。
それだけは、確かだった。
音が遠退く。
全身から感覚が蒸発する。
息が止まる。
バランスを失う。
視界が傾く。
斜めに、
ゆっくりと、
彼女は、傾く。
……あぁ。
頭の中に浮かぶ、その単語。
右足の感覚が消えている。
踏ん張りがきかない。
地面が、視界に、迫る。
倒れる。
崩れる。
地面に。
眼前に一面の砂。
灰色の世界。
倒れる彼女に、その色が迫る。
そこに、赤色が、あった。
赤い色が。
え。
疑問符が、脳裏に浮上する。
赤い色は、細かな粒子。
飛沫。
液体。
右足の太腿。の、あたり。
に、あいた、小さな、穴。
そこから、流れ、出る、赤い。
あかい、あかい、これは。
これ、は、なに。
考える。
答えが出る前に、彼女は崩れた。
砂に埋まる顔面。
口の中に、ざらりとした砂粒。
それを吐き出そうとした時、彼女から消え去っていた感覚が帰還した。
時間の流れ。
音。
呼吸。
感覚。
痛覚。
右足に、形容の不可能なそれが、押し寄せてくる。
砂を吐き出すつもりで開いた彼女の口から出たのは、悲鳴だった。
「あ……っ!」
帰還した感覚が、右足に走っている痛みを脳髄に送りつける。元に戻った筈の呼吸が、痛さのあまりに再び停止した。見えない何者かの手が、彼女の首を絞めているかのようだった。
倒れたまま、彼女は右足を抱く。
赤い色は、そこにだけ雨が降ったかのように、砂の上に斑紋を描いている。そして、太腿に突如として空いた穴からは、その赤い色が、流れ出ている。彼女の血が、太腿から。穴は、小さくはない。
「い、いたい!」どうにか彼女は声を出す。普段の声とは程遠い、歪んだ音の叫びを。「いたい! いたい!」
「シャルル!」ミリィが慌てて駆け寄った。倒れたシャルルの身体を抱き起こそうとしたが、そうすることでシャルルはより痛烈な悲鳴を上げた。
「ああ! だ、だめ! いたい、いたい!」
「どうしたのっ? だいじょうぶっ?」
「あしが! あしが!」
シャルルの呼吸は荒く、不規則になっていた。嗚咽のように不規則に途切れた呼吸を繰り返し、痙攣をする全身からは、ぬめりのある汗が噴き出ている。その汗は、砂漠の暑さに由来した、それまでに流した汗とは性質を変えている。それはミリィの目にも明らかだった。
シャルルの瞳からは、ぼろぼろと大きな涙がこぼれ始めた。
ミリィは、シャルルの太腿を見る。衣服には穴。そして、赤く染まった足。血だ。それを理解する。血は、止まることなく流れている。穴が銃創痕であることは、服を裂いて患部を見るまでもなく明らかだ。
シャルルは痛みに喘ぎ、ミリィは狼狽する。二人は、何が起きたのかを理解できていない。
そんな中、アインだけが冷静だった。
「伏せて」彼は叫ぶのではなく、静かな口調で命令した後、二人に被さった。
同時に、ミリィは自分の頭があった位置を何かが通過したと感じた。
その何かは、直線運動で疾駆し、砂上に小さな砂柱をあげた。
狙撃だ。
ミリィがそれを理解した時、アインは今取るべき最善の行動を既に決定していた。
避難。
彼は全身に力を込めると、自分の下にあるミリィとシャルルを抱き抱え、大きく一歩を踏み出す。同時に能力も展開。両腕で抱えたミリィとシャルルは、今、彼の感覚としては人としての重みをしていない。紙のように軽い二人を抱えて目指したのは、目の前にある宿舎。彼は、全力で駆けた。
二人を抱えて走るアインの後を、砂柱が追った。彼方から飛来する銃弾は確実に彼を狙い、追っている。弾数は、七発。全ての銃弾が、砂を貫いた。彼だから成し得る速度で疾駆しているので彼に着弾をしなかったが、常人が駆けていたなら、その弾丸は彼の頭部を貫いていただろう。
アインの足は、彼を追う弾丸が上げた砂柱よりも大きな砂塵を撒き散らしながら、一気に宿舎の中に駆け込んだ。
銃弾は、宿舎の外壁に穴を開けたのを最後に、止まった。
アインは宿舎に駆け込むと、入り口のすぐ脇に身を隠した。奥の方まで進んだ方が安全ではあったが、外に潜んでいた敵の情報を探るには、この位置が最適だと判断した結果である。弾道から、敵の潜伏場所が、彼らが通過した扉から視認できる範囲内であることは、考えるまでもなく明らかだ。
彼は、抱き抱えていたミリィとシャルルを慎重に下ろす。その時、足が地に接触をしたシャルルが再び悲鳴を上げる。
「あ、あ、あしが! あしが、うたれ、い、……いたい!」
「冷静に。落ち着いて」アインは普段通りの口調で、シャルルの足を観察した。
負傷は右足の太腿。弾丸は貫通している。衣服の上からは、二つの穴が確認できた。着弾点と、貫通点。位置的に、骨には損害を与えていないだろうと推測し、彼はシャルルの右足に装着されていたホルスターのベルトを、止血の為に、きつく締め上げた。
同時にシャルルは、甲高い声を再び吐き出す。
「我慢を」シャルルの悲鳴を聞いても、アインは一向に動じない。シャルルの手を掴むと、彼女の足の穴にあてさせる。「強く圧迫を。そうすれば止血の助けにもなる。しばらくは、このまま締め上げ、圧迫しているんだ」
涙を流しながら、シャルルは壊れた人形のように何度も頷いた。服の内側は、相変わらず粘性のある汗で濡れている。
生まれて初めて体感する痛みは、頭の中を乱暴に掻き混ぜられているかのようだった。頭だけでなく、視界さえ眩む。ひどい吐き気も彼女を襲っている。身体は今も、止まる気配さえなく痙攣をしていた。
「なに。なんなの。なにが起きたの!」ミリィは錯乱する寸前だった。表情には恐怖が浮かんでいて、声が大きくなる。「いまの、なにっ?」
「銃声は聞こえた?」反して、アインの声は小さい。「方向は、西。あちらだ」
「アイン、いまのなにっ?」
「静かに。冷静に。ミリィ。銃声は聞こえた?」
「わからない!」喉が裂けんばかりの声で叫ぶ。「そんなのわからない! なにもわからない!」
「ミリィ。冷静に。僕を見て」彼は彼女の頬を捕まえ、自分の方を強制的に向かせて、視線を交錯させた。「息をして。深呼吸だ。わかるね。僕達は狙撃された。方向は西。町に誰も居なかった訳じゃなかった。誰かがこの町に隠れていたんだ。その誰かが、僕達を狙撃した。銃声は聞こえた? 狙撃手の場所を知りたい」
「わからないよ……」ミリィは喉を震わせ、指示された通りにゆっくりと息をした。「それより、シャルルが……」
「大丈夫。致命傷じゃない。止血していれば、問題ない。僕達の力を忘れた? シャルロット。集中するんだ。集中すれば、細胞の防衛本能が自動で血中の血小板の数を増やす。痛みは消えないけれど、傷は塞がる。それより、ミリィ。銃声だ」
「聞こえなかった」アインに顔を捕まれたまま、彼女は首を振る。「何も聞こえなかった。気付いたらシャルルが、シャルルが」
ミリィは唇を噛み、声が嗚咽になるのを必死で堪えた。瞳の端には、うっすらと涙が浮かんでいる。それは、シャルルとは意味合いの異なる涙だった。
「どうしよう」ミリィは全身から力が抜け、項垂れるように崩れ落ちた。同時に、涙が零れた。「どうしよう。シャルルが撃たれた。シャルルが。どうしよう。どうしたらいいの」
「軽傷だ。シャルロット、具合は」
問われて、シャルルは右足を抱き抱えたまま、狂ったように首を横に振った。言葉は、何も放てない。口は唇を噛んだまま固く閉ざされ、呼吸はぎこちない。何かを言おうとすると、それは悲鳴となってしまうと、彼女自身が理解をしていた。痛みが導いた涙で濡れたその顔は歪み、至る所に砂が付着していた。先程までは綺麗だった髪にも、砂がへばりついている。
「集中を」アインの口調は命令に変わり始める。「回復に専念。狙撃手は西。消音器を使っている。厄介だ」
推測が正しく、狙撃手が狙い通りに的を貫通させたのなら、その辣腕は面倒である。付近に人の気配がなかったことは確認して歩いていた。それに、バルゴの町は、一般的な都市と異なり、高い建築物がない。そうなると、町の外、町全体を見渡せる砂丘の上から狙撃されているということだろう。少なくとも、数キロは離れた位置に潜み、その距離からシャルルの足を射抜いたという技量は、実力のある狙撃手と考えるのが妥当である。
「無力化だ」彼は決断した。
「裏から逃げよう!」ミリィが懇願をするように提案した。「この宿舎の裏から……!」
「無理だ。狙撃手は、バルゴを見渡せる場所に居る。無力化しないと先へ進めない。合流地点にも行けない」
「全力で走れば撃たれないじゃない!」
アインは宿舎の外に注意を向けながら、その提案を検討する。三人は、施設での訓練で100メートルを数秒で走り抜ける成績を残している。そう考えれば、ミリィの策は得策であろうが、彼はそれを即座に却下した。
「無理だ。シャルルは負傷していて、歩くこともままならない。彼女も君も、冷静じゃないし、それに、相手は町の全体を見晴らせる場所に隠れていると言っただろう。どんなに速く走っても、射程内からは逃げられない」
「じゃあ、どうすればいいの!」
「敵兵の無力化だ。どちらの勢力かを確認してから、ユーゲンベニア国軍の狙撃手であれば拘束して、レクレアの勢力だったら、状況に応じて対処を。そちらであれば、殺害しても問題ないと言われている。最善策はそれしかない」
彼は、壁の陰から外の様子を確認する。身体中にある全ての神経を研ぎ澄まして。
僅かに顔を出し、狙撃手が潜んでいるであろう方角を見ようとした時、鋭敏化された彼の眼球は、彼方からこちらへ向けて高速で飛来する物体を捉え、反射的に身を引いた。
壁面から僅かに出していた彼の頭部を狙って撃ち出された弾丸は、虚空を貫通して、向かい側の壁に穴を開けた。
四散したレンガに驚き、ミリィは悲鳴を上げる。
「なに! なんなの! こんどは、なに!」
「安心して」アインは彼女を見ずに、文字を読むように彼女を宥めた。「やっぱり西だ。今の銃声は聞こえた?」
「わ、わからない」自分の方を見ようとはしないアインの背中に向けて、彼女は答えた。彼女は今、両手で頭を抱えるようにしているが、実際には耳を塞いでいた。「聞こえない、何も聞こえない。シャルルが。シャルルが。どうしよう」
「ミリィ。しっかり聞くんだ。聴力は、この中では君がトップだ。今、敵の狙撃手がいる位置を見つけ出せるのは、君だけだ。君なら、相手が消音器を装着していても、その銃声を聞きとれる。その手を下げて、聞くんだ。耳を澄まして。さあ」
「無理、無理だよ!」
「ゆっくりと息をするんだ。集中を。君は耳を澄ますだけでいい」
「無理。わからない。できない。やだ。できない!」
「ミリィ。集中するんだ」アインは苛立ち始めていた。「相手の位置がわからないと、どうにもならない。ここにずっと隠れている訳にもいかないだろう」
「でも、でも、シャルルが!」
「彼女を助けたいなら、君は耳を澄ますんだ。敵兵の位置を探って」
そこで、シャルルが甲高い声を上げた。息をしようとして、悲鳴が漏れてしまったのだ。
「シャルル!」ミリィが咄嗟に駆け寄った。「だいじょうぶっ? 痛いっ? どうしよう、血がこんなに! アイン!」
シャルルの太腿からは、滴が滴り落ちている。血が止まる様子はなかった。呼吸は不規則で、小刻みな体の震えも続いている。彼女の容態が落ち着く様子も、今の時点では、ない。だが、アインはそちらを見ようともせず、壁と背を密着させたまま、夜陰に包まれたバルゴの町に全神経を向けていた。
「シャルロット。患部を圧迫して、ベルトももっと強く締めて止血を。ミリィ。君は集中だ」
感情を含ませない指示を出した後、彼は、ふぅ、と静かに息を吐きだし、再び視力を研ぎ澄ました。先程のように壁から顔の半分を出し、すぐに戻す。同時に、弾丸が彼の顔面のあった位置を通り過ぎ、先程と同じ位置に着弾した。
「きゃあ!」着弾音を聞き、ミリィは先程と同じように泣いた。「もうやだ!」
「かなりの腕前だ、狙いも正確。でも、距離がわかれば、どうにかできる。ミリィ。今の銃声は」
「やだ! だれかたすけて!」
「僕達を助けられるのは、君だ、ミリィ」
「たすけて! だれか!」
「ミリィ、落ち着くんだ。集中を」
「こわい! だれか! だれか!」
「ミリィ」
動転しているミリィを、どうにかして落ち着かせようと口を開いた、その時、アインは感覚として、自分の内側に潜んでいる、一番原始的な人格が浮上してくるのを感じた。
彼の意識の中にあって、アインという人間の中核を成すもの。
それは、先程も唐突に頭の中で響いた声の主であり、彼の中にいる、もう一人の『彼』だ。
(黙れ!)
原始的な人格は、浮上と同時にミリィへ罵声を浴びせ、その声の獰猛さに、アインの身体は震えた。それは、先程よりも感情的な声をしている。彼と同じ声だが、彼よりも粗暴で、野蛮な声だ。
(黙れ!)(黙れ!)(黙れ!)
彼の中の『彼』の罵声は続く。『彼』が抱いている怒りは極限に達しており、静まる様子はない。
そんな『彼』の声に、アインは頭を抱えた。
それは唐突に意識の中に現れた、原始的、且つ、感情的な人格。『彼』は、彼の中で激しく暴れ、その影響は肉体であるアインに影響を及ぼし始めていた。徐々に感情の抑制が効かなくなり、起伏とは無縁であったアインの心は、今、原始的な意識の影響により、荒れ狂う海原のように、白波を立てていた。
頭の中で暴れる『彼』は、狂ったように叫び続けている。
頭の中にそれが現れるのは、久し振りのことだった。施設に来てからは、どこかへ消えていたのか、頭の中から消滅していた。
それが今、突然、浮上してきた。
だが、驚かない。
戸惑いもしない。
どう対処をすればよいのかは、心得ている。
それは、意味もなく現れるものではない。
それは、本能。本能なのだ。
アインという人間にとって必要な瞬間であるから、彼の意識の中に浮上する。
『彼』は今、彼にとって必要な存在なのだ。
ならば、今、自分はどうすればよいのか。
簡単な話だ。
従事。
それだけだ。
「黙れ!」
アインは、『彼』と同じように叫んだ。
激しく、感情的に、荒々しく。
その声に驚き、ミリィは肩を震わせ、シャルルは呼吸を止めた。
「言うことを聞け!」頭の中に響く声と同じ色をした彼の罵声は続く。浮上してきた人格はアインの頭の中で、喚き、唾を飛ばしながら、彼を直情的に操舵していた。「命令通りにしろ! 命令だ!」
(愚図が!)
原始的な『彼』が叫ぶ。それに従い、彼も叫ぶ。
「愚図が!」ミリィに接近し、胸倉を鷲掴みにする。「いつもの訓練のように! それだけだ! 命令を聞け!」
「でも、……でも!」
ミリィは、突然アインに胸倉を掴まれて怯えている。彼女が今抱いている恐怖の対象は、先程までと異なっていた。
頭の中で暴れている『彼』は、ミリィを殴れと命令していた。口答えをするなと激昂し、言うことを聞かないのであれば、命令に従うように調教をしてしまえと、絶叫している。
「口答えをするな!」彼は、今まで見せたことのない形相で、ミリィを睨んだ。胸倉を掴む手は震えており、直前に下された、彼女を殴れという命令と衝動を抑え込むことに必死だった。「彼女を殺したいのか!」
「や、やだ。そんなのやだ!」
「なら、集中しろ! 敵の位置を探れ! 命令だ!」
「無理、……無理! できない!」
(愚図が!)
「愚図が!」
(役立たずの無能か!)
「役立たずの無能か!」
頭の中にいる原始的な『彼』は暴れている。表面的な彼の背中を蹴り飛ばし、頭を掴み、振り回しながら、どうにかしてその身体を支配しようとしていた。
(言うことを聞け!)
「言うことを聞け!」
指示通りにアインの口から激しく放たれたその言葉は、まるで自分に向けられた言葉のようだった。
アインは今、必死に衝動を押し殺している。以前までの彼であれば、それが下す命令には一切の躊躇いもなく従っていたが、原始的な意識は、ミリィを暴行しようとしているのだ。殴り、蹴り、踏み付け、引き摺り回そうとしている。命令に従わない役立たずの不用品であるのなら、いっそのこと、殺してしまえ、とも。だが、今陥っている危機的な状況から脱出するには、やはり、ミリィの能力は必要である。そんな彼女に、本能の下した命令を実行することはできない。衝動を堪える為に、彼は強く奥歯を噛んだ。
頭の中では、絶えず自分の声が響いている。言うことを聞け、命令を聞けと、叫び、暴れている。
頭がひどく痛む。原始的な意識がこれほどまでに暴れるのは、初めてだった。
「無理……」ミリィは怯え、凍えたように首を振る。「無理だよ!」
原始的な意識は、その答えを聞いて、より激昂した。野蛮な言葉を並べ立て、彼女を罵る。こんなに役に立たないのなら、用済みだ。不要だ。必要ない。邪魔者だ。殺せ。殺してしまえ。
その本能の声が響いた直後、アインの手が鋭く動いた。
そして、乾いた音が響く。
鋭く動いたアインの手は、ミリィの頬を殴打していた。
ミリィは驚き、自分を打ったアインを見る。
彼女の手は打たれた頬に触れているが、あまりに突然のことだったので、痛いとは感じていなかった。彼女は今、何が起きたのかを、自分に何が起きたのかを理解できないでいた。
「いつもと同じだろう!」
アインの声は震えている。表面的な彼が、全身を駆け巡っている衝動を堪えなければ、原始的な意識は、ミリィを現実に殺しかねない。そんな気がしていた。
「どうしてできない! いつもやっていることだろう! いつもと同じことをやるだけだ!」
その言葉の直後に、ミリィは一瞬だけ息を止めた。
アインは今、何と言った。
それを彼女は頭の中、そして心の中に収納し、その意味を考える。
そして、唇の端を噛み、瞳をつり上げ、叫ぶ。
「同じじゃない!」ミリィは叫ぶ。喉が裂けんばかりに。遅れて痛みを帯びてきた頬を押さえ、彼女はシャルルの太腿を指差した。「見ろよ! 撃たれるなんて初めてじゃないか! どこが同じなんだよ!」
(たかだか、足を撃たれた程度で!)
「たかだか、足を撃たれた程度で!」
アインはやはり、声に従順だった。
(その程度のことで!)
「その程度のことで!」
「ばかを言うなよっ!」ミリィは、アインよりも激しい口調で叫ぶが、直情的なその声は、聞き取り難い。「なにがその程度なんだよ! ふざけるなよ!」
「撃たれたのは足だ! 致命傷じゃない!」
「撃たれたんだろ! そう言っただろ!」
「まだそれだけだ! それだけだろう!」
「ふざけるなよ! それだけってなんだよ!」
「ミ……」名を叫ぼうとした。
「おまえ、だれだよ!」叫ぼうとしたアインを、ミリィは突き飛ばす。「ふざけんなよ!」全力でアインの胸を殴る。「だれなんだよ!」
その言葉は、アインの中で暴動を繰り返していた『彼』をも、同様に突き飛ばした。
アインには、頭の中のそれが遠退いたように感じた。
頭の中にいる『彼』は、今も叫んでいる。だが、その声は少しだけ遠退いた。
「ミリィ」突き飛ばされたアインはよろめき、後退る。だがミリィは、彼が離れた分だけ詰め寄り、より甲高く叫んだ。「こたえろよ! だれなんだよ!」
(俺は、俺だ!)
よろめくアインの中で叫ぶ『彼』は、やはり遠退いている。その声は、益々小さくなる。
「何を言っているんだ……」表面的な彼は困惑しかできない。彼を操舵している『彼』が離れていくのだから、当然だった。「僕は、……僕だ」
(そうだ! 俺が、俺だ!)遠ざかる原始的な『彼』は、相変わらず本能のままに言葉を撒き散らしているが、声は益々小さくなる。(決まっているじゃないか、……俺が、……俺だ……)
声は遠退き、薄れ、小さくなる。アインはそれをしっかりと感じていた。頭の中の声は秒毎に薄れ、小さくなり、そして、消えた。
こうしてアインの耳は、自分の内側の声を聞けなくなり、現実の世界で響く音を、ようやく聞く。
彼の耳は、ミリィの声を鮮明に聞いた。
「お前はなんなんだよ!」ミリィの声は、相変わらず悲鳴のように甲高い。「それがお前の本性かよ!」
彼女は感情的になるあまりに呼吸が荒い。声の響きも、言葉を一つ吐き出す度に荒立ち、歪んでいく。
ミリィは今、先程までのアインと同様に、本能のままに言葉を吐き出していた。抱いていた不安や疑問が、堰を切ったように心から溢れ出てくるのを抑え込めないでいる。
「今までのアインは何だったんだよ!」
「なにを、いっているんだ……」
「それがお前の本性なのかって聞いているんだよ!」
本性?
彼は、その単語を初めて聞いたような気がした。それが、どういう意味なのかが、彼にはわからなかった。
それは、なんなのだろう。
「本性?」アインの言葉は先程までと転じて、たどたどしい。「なんだ、それは。それが、わからない」
「わからないのは、お前だよ!」ミリィはアインの胸を叩く。恐怖と怒りで震える拳で、二度。「あたしは、お前がわからないんだよ!」
「おちついて……」言いながら、彼も落ち着こうとする。「そう、おちついて。だいじょうぶだから……」
「だいじょうぶって、なんだよ!」アインの胸を更に叩く。その腕は、もがくように振り回され続けた。「何がだいじょうぶなんだよ! なんなんだよ、その空っぽの言葉! ちくしょう! くそったれ! だいじょうぶだなんて思えないんだよ! ふざけんな!」
「ミリィさん……」
シャルルは、傷口が痛まないよう慎重に身を動かした。全身から噴き出る汗は、一向に乾こうとしない。自分は今、安静にしていなければ足に刻まれた銃傷は激しく痛み、血は止まらず、命に影響が及びはしないにせよ、それがよい影響を齎すとは言えない状態である。それは重々に理解していた。だが彼女は、荒れ狂うミリィをどうにかして静めねばならないという思いから、その痛みに堪え、這うようにではあったが、ミリィへ近付こうと身動ぎをした。
だが、足に空いた小さな穴は、やはり、耐え難い痛みをシャルルの全身に駆け巡らせる。ミリィへ向けて放とうとしていた言葉は淀んだ悲鳴に変わり、前へ進もうとしていた手足は痙攣し、彼女は砂の上で身を丸くした。
「ミリィさん」それでも必死に、シャルルは声を絞り出す。「おちついて。……おねがい、おねがいです。……いつものように、おちついて、……おねがいですから……」
シャルルのその声を聞き、ミリィは叫喚を止めた。
ミリィは、糸を切られた人形のように項垂れ、アインを殴打していた両手もぶらりと下ろし、膝から、崩れ落ちた。
「わからない……」彼女の声はこれまでと一転して弱く、そして、小さくなる。「アインのことが、わからない……」
「ミリィ……」
アインの頭の中に、今も言葉は何も浮かんでこない。先程まで騒々しく騒いでいた『彼』が完全に消滅している今、この状況で何を言えばよいのか、自分がどのような行動を起こせばよいのかを決断できない。ミリィの名前を呟いた。それすらも、今の彼にしてみれば奇跡に類される。
正しく、ミリィの言った通りの状態だ。彼は今、自分が空っぽであるのだと実感していた。
ミリィは今、泣いている。涙は俯いていてアインには見えないが、彼女の肩は震え、その口から洩れるものも先程までの荒々しい叫び声から、嗚咽に変化していた。
泣き崩れたミリィを前にしてアインは、震えている彼女の肩に触れようと、その手を前に出した。
だが、彼の指先が彼女の肩に触れるその直前、ミリィは再び、叫ぶ。「さわらないで!」
アインは慌てて手を引き、後退した。
辺りは静寂に転じる。張り詰めた空気と混濁した感情に満ち満ちた空間に、ミリィの不規則な呼吸の音だけが微かに響く。
「わからないんだよ……」声を震わせるミリィは訴えた。「アインのことが、あたしはわからない。今ので、もっとわからなくなった。ねえ、……教えて。教えてよ。お願い。今まであたしが見てきたアインはなんなの? 今、……ここに居たのが本当のアインなの? そうやって、銃を持って、戦争しているのがアインなの? 教えて。ねえ、教えてよ。それがわからないと、何もわからないよ。だいじょうぶって言われても、だいじょうぶって思えないよ。だいじょうぶじゃ、……なくなるよ。教えてよ。お願い、お願いだから。ねえ、……教えて……」
心の奥底からの切望を絞り出し、ミリィは涙に濡れた顔を上げ、アインを見詰めた。
その言葉と眼差しを受け止めたアインは、もう一歩、後退した。
ミリィから退避をしようとするアインは、必死に言葉を探す。
彼は未だに、彼女が放った言葉の意味がわからないでいた。本性という言葉の意味も、未だに理解できないでいる。それに、続いて放たれた言葉。本当のアイン。偽物のアイン。それは一体何なのだ。自分はこの場所にひとりしか居ない。それなのにミリィは、そう問うた。
そもそも、彼は今までに一度として、自分を感じたことがない。肉体面での質問であるのなら、回答は容易である。彼の肉体はここにあり、より厳密に定義したいのであれば、遺伝子レベルでの回答もできるだろう。だが、彼女が聞いているのがそういった分類ではないことは理解ができた。
ミリィが聞いているのは、アインという肉体の内側にあるもの。
意思。
彼女は、それを問いているのだ。施設でアインを動かしていた意思が本物の彼の意思であるのか、今、目の前で見せていた、彼を動かしていた意思が、彼の本物の意思であるのかと。
アインは唇を噛む。
彼が自分の意思を感じる時。それがいつであるのかを考えると、簡単に答えは出た。それは、今のような瞬間である。戦地。紛争地帯。その時は必ず、原始的な『彼』が浮上してきて、言葉と行動を命令する。それこそが、彼が実感する唯一の彼の意思であり、本能だった。
戦地で生まれ、戦地で育った彼は、その場で生き残る為の方法、戦う方法だけが本能に刻まれ、それ以外は一切持ち合わせていなかった。それ以外など必要がなかった。銃を握り、動く。戦う方法は、本能に刻み込まれている。必要なのはそれだけで、それ以外は不要だった。
必要な瞬間には必ず『彼』は目を覚まし、命令を下す。『彼』は常に、そうしてアインという肉体を動かし、守ってきた。そんな『彼』は、戦地にしか存在していない。戦地でしか、目を覚まさない。
そう考えると、施設でのアインとは、本来のアインという人間とは異なる存在だったのだろう。そこでは『彼』は、常に眠っていたから。
そして、今も。
……起きろ。
アインは、自分の内側にいる何かに命令をした。
……起きろ!
アインは頭の中で叫ぶ。頭の中では、その声だけが響く。それ以外には、何も響かない。
起きて命令をしてくれ! いつものように! そうしないと僕は動けない!
彼は、『彼』からの命令を待った。だが、原始的な意識は、やはり眠っている。それが居ないと、アインは自らの意思で行動を起こすことができない。この瞬間、ミリィに対して、シャルルに対して、何を言っていいのかがわからない。
それが、アインという個体だった。
嗚咽するミリィに何を言えばよいのかがわからない。
負傷したシャルルにどのような対処をすればよいのかがわからない。
何も成せない、がらんどうのアインは、その場に直立しかできない。
「教えて、アイン」強請るようにミリィは言った。「お願いだから」
「僕は」それ以上の言葉は出ない。
「アイン」立ち上がり、ミリィはアインへ歩み寄る。「教えて」
アインは、彼女が近付いた分だけ、後退。
今、ミリィの涙は止まっている。だが、悲痛な表情は続いていた。
「僕は」言葉が出ない。続かない。言葉は今、蒸発している。
「アイン。教えて」ミリィが接近する。
「なにを……」
「施設に来る前」そこで語を区切り、ミリィは一度、口元を歪めた。苦痛を噛み締め、息をして、その後を紡ぐ。「どこにいたの」
「ミリィさん」シャルルが痛みを耐えて声を出す。ミリィの言葉を遮るように。「それは……」
「だめ。聞かなきゃだめなの。いいの。お願い」
「でも」
「教えて、アイン。どこにいたの」
「僕は」アインの頭の中に、いつかニコロから言われた言葉が蘇る。「……言えない」
「言って。お願い」
「いえない」
「言って」
「だめだ」
「駄目じゃない」
「できない」
「お願い。教えて」
「むりだ」
「どうして」
「ニコロさんが、そう言った。言わない方がいいって」
「どうして」
「それは」
「言えばいいじゃない」
その声は、アインの真後ろで、響いた。
唐突に。
「敵だったからだと、言えばいいじゃない」
世界が止まった。
アインの後ろに、ひとりの少女。
ミリィは、澄んでいるが、相手を憎悪した響きも纏うその声に、背筋を震わせた。
シャルルは、アインの後ろに突如現れた、短い銀色の髪をした少女の姿に瞳を奪われた。
そしてアインは、複雑な感情に襲われる。
邂逅の懐かしさと驚きが、頭の中で渦を巻いている。
その声を、彼は、よく知っていた。
よく知っていたからこそ、その時も彼の本能は目を覚まさなかった。危機であるという警報が鳴らなかった。
三人は、動けない。
状況を理解することしかできなかった。
だが、正しく状況を理解することは、誰もできなかった。
アインが、その場の誰よりも、理解できなかった。
その瞬間、世界は、静止していた。
止まっていた。
隔離されていた。
その少女を除いて、誰一人動くことができなかった。
止まった世界の中で、アインはどうにかして、振り向こうとする。
懐かしい声のする方向へ。
ゆっくりと。
だが、彼の動きは、彼女の動きと比べると、ひどく緩慢で、遅すぎた。
少女の右手が、アインの背部にめり込む。
衝撃。
それが心臓を圧迫し、肺を収縮させ、骨を軋ませる。
呼吸が止まる。
足が地面から離れ、重力が消え去る。
彼は、吹き飛ばされた。
アインは数メートル先にある壁にめり込んだ。壁は衝撃を受け止めきれずに陥没し、粉塵を撒き散らしながら崩壊する。砕かれたレンガが、倒れた彼の上にばらばらと降り注いだ。
アインは粉塵の中、起き上がろうとする。全身が痛んだ。殴られた背中は、穴が開いたのかと錯覚する痛みが走っている。だが、少女の姿を確認しなくてはいけない。その一心で、彼は身体を起こした。
少女は、彼を殴り飛ばした位置に、今も佇んでいる。屋外からの月光がぼんやりとした逆光になっていて、彼の位置からはシルエットとしてしか視認できなかったが、記憶に刻まれた『彼女』の肖像と、目の前に立ち、憎悪の眼差しをこちらへ向けている『彼女』が同一であることは明白だった。見間違う筈がない。そこに立っているのは、『彼女』だ。間違いない。
故に、彼は、錯乱した。
「どうして……」そんな言葉しか、出ない。
瞬きをすることも忘れ、朦々と舞う粉塵の中、彼は再会した。
「久し振りね」美しい声で少女は言う。謳うように。「裏切り者」
「リル……」
アインは、その名前を呟くことしかできなかった。