おしまい
ここからはくらい展開です。
「ジョナサン・マイカ 観念する」。ネイサンの結婚に、メディアが贈った見出しだ。ネイサンの結婚は、大衆には拍手で迎えられているようだった。下世話な連中は数を減らし、ベーカリーの売り上げはもとに戻った。
ミシェルはそれまで通り、仕事を続けた。子どもの喧嘩やいじめ、認知症の老人の万引きや問題行動、家族・親族間での土地や遺産の争い、そういったものへの対処だ。
ネイサンも、平日は忙しく仕事をしていた。シルバーバレーから離れていることも増えた。でも、毎日メッセージのやりとりをし、休日には釣りへ出掛けたり、それから念願のキャンプへも行った。ホワイトスプリングは彼のいうとおり、とても景色のいいところだった。さほど大きくない泉に、白くなった木が骨のように沈んでいるのだ。
彼には不安定なところがある。夜眠れない時に、睡眠薬をのんでいるのを、ミシェルは見た。それでも、ミシェルと結婚してから、服用の量は減ったそうだ。
ミシェルに取材しようとする記者は、たまに居た。お子さんはまだ? と、なれそめは? が、一番多い質問だ。
ネイサンはミシェルを、シルバーバレー以外でのパーティや集まりにつれていきたがったけど、ミシェルは遠慮した。彼の仕事相手に紹介されても、なにかまともな会話ができる程、彼の仕事にくわしくないからだ。彼にはじをかかせたくない。そういうと彼は、困ったけれど嬉しい、とでもいいたげに微笑む。
彼はミシェルを、父親に会わせたがらない。あまり、親しくはないようだ。結婚式にも参列はなかった。母親に関しても、絶縁状態らしい。
「僕には、君が居るからね」
ネイサンはそういって、家族の話をしたがらない。
それが少しだけ不安だけれど、ミシェルは深く追及しなかった。
少しだけ不安があって、でもしあわせな、そういう日々が続くのだと思っていた。子どもや、家族が増えたり、減ったりしながら、でも平穏に。
ミシェルはミス・アラバスタのお喋りに付き合っていた。このところ彼女は、万引きのかわりにミシェルとのお喋りをしたがる。ミシェル自身、彼女と話すのは苦ではなかったから、お茶と下のベーカリーで買ってきた甘いお菓子を出して、一時間くらいお喋りした。
「ミス……ああ、結婚したのよね、ミセス」
「ええ」
「結婚しても、物騒なのはかわりないわ。わたしのいとこは、嫁ぎ先がお金持ちで、強盗に殺されてしまったのよ」
どきりとした。ミシェルは目を伏せる。
迎えが来て、老婦人は楽しそうに手を振りながら帰っていった。
電話が鳴った。とる。
「エル?」
「ああ、ネイサン……どうしたの?」
「これから、むかでトンネルへ来てくれない?」
ミシェルはほんのわずか、不安を覚えた。だが、返事した。「解ったわ。事務所を閉めてから、行く。この間の話を、きちんと聴いてほしいの」
いつもよりはやい時間に事務所を閉めて、ミシェルは歩く。一年前、ネイサンに会ったのだ、と思い出す。一年前には、自分が結婚して、しかもその相手が大金持ちだなんて、思ってもいなかった。
ミシェルはゆっくり歩く。
むかでトンネルは、記憶通りの場所にあった。夕焼け空の下、やけに不気味に見える。トンネルの入り口に、彼が世話したもと・子ども達が居て、にこやかにミシェルに手を振った。「奥さん」
「先生は奥です」
ミシェルは漠然とした不安を抱えながら、トンネルにはいった。これは、気の所為だ。単に、体の不調から来るものに過ぎない。ミシェルは一昨日、病院へ行っていた。ネイサンに話さないといけないことがあった。とても大事なことが。
トンネル内は、じめじめしている。うすぐらいが、前が見えないなんてことはない。奥から光がもれてくる。
ゆるいカーヴを曲がると、ネイサンが居た。パーカのポケットに両手を突っ込んで、いつものデニムにスニーカーで、こちらに背を向けている。
「ネイサン」
「……エル、よく来てくれたね」
彼が振り向いた。ミシェルは返事しようとしてできなかった。左右から誰かに手を掴まれた。
冷や汗が出ている。
ミシェルは彼らを知っている。自分の体を拘束している彼らを。ネイサンが世話している子ども達だ。子どもといったって、体は大きい。
ネイサンは微笑んでいる。ミシェルは口を動かすが、言葉は出ない。
「エル、僕は君を愛してるんだ」
わたしもよ、ネイサン。
声が出ない。
ネイサンは眉をひそめる。表情はうすい。
「愛しているのに、あの女は僕の金と、僕の妻という地位が目当てだった」
なんの話をしているの? あの女? 亡くなった、強盗に殺された奥さんのこと?
ミシェルは喘ぐ。声を絞り出す。「わたしは……そんなの……」
「知っているよ、ミシェル。君は信じられないくらいに善良で、純粋だ。でも、人間は変節するものなんだ。父だってあたらしい女を手にいれたら僕には目もくれなくなった。僕を女みたいに扱ったくせに」
息が詰まる。恐怖を感じている。今までに感じたことがないくらいの恐怖を。
彼がポケットから手を出した。ナイフを持っている。
「強盗だって、もっとはやくに来てくれたらよかったんだ。あのクソ女が僕の金で遊びまわる前に。それに比べて君は、なんて綺麗で清潔なんだろう。結婚してふた月以上経つのに、ドレスの一着ほしがらない。もしかして僕への愛がもうさめてしまったのかな」
「そんなことないわ」
「君の話とやらを聴きたくないんだ。僕みたいな不完全な人間に飽きたとか、もっと金がほしくなったとか、そんな話しか考えられない。僕は君には綺麗なままでいてほしい。君を綺麗なまま保存する。君があのクソ女みたいに、僕の金で子どもみたいな男を侍らせたり、女とベッドにはいろうとする前にね」
彼が近付いてきた。ミシェルを抱きしめようとするみたいに。
ミシェルは必死に体をひねった。彼の持つナイフが脇腹を抉った。ミシェルは怯えていた。叫んでいた。泣いていた。
「ネイサン! やめて!」
信じられない痛みが襲って、眩暈がして、吐き気がする。ミシェルは自分を拘束している男の足を踏んだ。思いきり踏んだ。腕の力がゆるみ、ミシェルは左腕を振りまわす。男がひとり倒れる。ミシェルの体にナイフを残したままネイサンが離れていった。ポケットからもうひとつ、ナイフが出てきた。先程よりも幅広の刃で、殺傷能力は高そうに思えた。
ミシェルはジャケットの内ポケットに手をいれた。左側だからとりづらかった。でも手にした。それを彼へ向けた。ネイサンはミシェルに恨むよう目を向けた。ミシェルは刺されるかもしれないという恐怖から、引き金を引いた。
彼が倒れた。
ミス・アラバスタのくれた、古い拳銃は、反動でどこかへ飛んでいった。
ただひたすら、左肘と、刺された脇腹が痛い。
ミシェルは病院に居た。医者がいう。「鎮痛剤を」
「やめて!」
ミシェルは叫ぶ。涙は出ない。「赤ちゃんが居るの!」






