一緒
ハッピーエンドで終わりたいかたはこの話までです。
ミシェルとネイサンは、互いにぎこちなくはあったけれど、段々と距離をつづめていった。中学生みたいに映画を見に行って、本や漫画をかしあって、レストランでお喋りして、日が暮れたら手を振り合って別れる。そういう、友達みたいな付き合いが続いていた。
新調したドレスが季節外れになって、ミシェルはあたらしいドレスを注文した。レンタル落ちのドレスを安く売っているネットショップを、友達に教えてもらったのだ。返品不可だけど外れても懐はたいしていたまないわよ、と、電話の向こうの声は笑っていた。彼女は、ミシェルがあのジョナサン・マイカと食事をとって、FPSやレトロゲーム、80年代のホラー映画の話をしているなんて知らない。レンタル落ちのドレスは完璧で、次の季節のためにもう一枚買った。
伸ばしっぱなしだった髪をどうにかしてもらう為に、美容院へ行こうか、と思案しながら、ネットのニュースサイトを開いて、朝食のシナモンロールをかじったところで、ミシェルはかたまった。ネイサンの名前がトップニュースに載っていたからだ。
「ジョナサン・マイカ、お次は女弁護士」
震える指でクリックする。最悪なことに、記事にはりつけられた写真では、ネイサンとミシェルが映画館の前で、コーヒー片手にお喋りしていた。この格好は、80年代ホラーのリブート作品を見て、そう悪くなかったと、オリジナル版とリブート版のキャストを比較していた時だ。ネイサンは主人公の人選だけはミスだとくさし、ミシェルはキャスティングはともかく内容は原作に沿ったもので素晴らしかったと擁護した。
電源を落としていたケータイを見てみると、メッセージが数百件に、留守電が数十件。PCにも、メールが何十件とはいっている。ロースクール以来顔を合わせてもいない知り合いや、ダブチックのおじさんからの留守電もあった。そのどれもが、ミシェルがジョナサン・マイカと付き合っているというのは本当なのか、知りたがっている。
ミシェルは気配を感じて、窓辺に立った。母が居た頃にはありえない、黄ばんだレースのカーテンを少しだけ開けて、外の様子をうかがう。新聞をとりに降りた時には居なかった、大きなカメラを持ったひとが、数人立っていた。
ミシェルはカーテンをきっちり閉めて、灯を強くし、まずはダブチックのおじさんに電話をかけた。ネットニュースに、ウォルナット&ダブチック法律事務所の名前が載ってしまっていたからだ。祖父達が興し、父達がまもってきたその名前が、こんなことでアメリカ中に知れ渡るなんて、あってはならない。
ダイアル・トーンが続き、ミシェルの心臓が耐えがたく鼓動を高めたところで、電話がつながった。「おじさん」
「ミシェル、大丈夫なのか?」
ダブチックのおじさんはミシェルを叱ったりせず、優しくいう。「今日は休みにして、じっとしていなさい」
「おじさん、ごめんなさい、わたし……わたし、彼がこんなふうに、騒がれるひとだって解っていなくて」
それは本音だった。ネイサンは、普通なのだ。レトロな車を数台所持しているけれど、豪華な腕時計もくつも服も身に着けていない。会話だって、きどったところはないし、食事に何十ドルもかけたりしない。普通の青年なのだ。だから、ネイサンが、女優や女性司会者と噂になっていたことも、ミシェルはすっかり忘れていた。
ダブチックのおじさんはうーんと唸る。
「いや、いや、いいんだよミシェル。落ち着いて、シナモンロールでも食べて横になっていなさい。いいね?」
「……はい」
「妙な気を起こさないように」
おじさんは念押しして、通話を切った。ミシェルは受話器を架台へ置く。途端に電話が鳴り出す。受話器をとる。「はい、W&D」
「ヴェッセル・ニュースのニコラ・テイラーです、ジョナサン・マイカ氏との」
受話器を乱暴に架台へ戻した。すぐに鳴り始める。ミシェルは電話の電源をぬいて、ケータイの電源を落とした。
デスクトップの前に行く。ニュース記事には、ネイサンが……ジョナサン・マイカがまたあたらしい愛を獲得したと、彼が大きな鹿でも殺したみたいに書いてある。
お相手は地元シルバーバレーの女性弁護士、郡一の弁護士と名高いミシェル・ウォルナット。二十八歳の、化粧のうすい、素朴な「お嬢さん」。三代続くウォルナット&ダブチック法律事務所の現在の代表。未婚、結婚歴・犯罪歴・子どももなし。薬物依存やアルコホルの問題とも無縁。事故で母を亡くした後、事故原因のバス会社を父とともに訴えて些少な賠償金を手にいれる。
品行方正なオールドメイド、少々歳のいった田舎娘、厳格な父とよき母に育まれた真面目な女性。堅物、美人ではないが身持ちはいい。
目を瞠るような美女の妻をもち、妻を亡くした後は美人女優と浮名を流してきたマイカの相手とは信じがたい。彼の悪いイメージを払拭する為の犠牲の羊。
気分が悪くなって、ミシェルはデスクトップの電源を切り、灯を消して、ソファに寝転がった。ひとくち食べただけのシナモンロールが、テーブルの上で冷えていた。
妻を亡くした?
はっと目を覚ました。ミシェルは用を足し、顔を洗い、冷えたシナモンロールを無理に頬張った。いつもだったら冷えていてもおいしいのに、今日は味がしない。
ケータイの電源をいれる。メッセージはどんどん増えているし、友人からの着信があった。ミシェルはそれを切って、ネイサンに電話をかけた。
ワンコール目で彼は電話をとった。
「エル?」
「ジョナサン。そっちは大丈夫?」
ネイサンはしばし、言葉を失った。それから、泣くような声を出す。「ごめん、君こそ大変だろうに、僕の心配をしてくれるなんて」
「そういうの、やめて」
息苦しさを感じた。ミシェルは喘ぐ。
「エル?」
「ねえ。イメージ戦略だって、本当?」
「違うよ!」
ネイサンが声を荒らげた。この数ヶ月で初めてのことだ。ミシェルは下唇を噛む。
「そんな訳ない。エル、僕は演技しているように見えた? 君と居ると凄く楽しいし、のびのびしていられる。君と居る時だけ、僕は、とても……」
ネイサンは涙をこらえているらしかった。ミシェルは黙っている。
「……僕には、君みたいなひとが必要なんだ。堅実で、僕のお金じゃなく僕を見てる。いや、僕の子どもみたいな、本質的な部分を見てるんだ。ゲームの話ができる相手なんて居なかった。君を失いたくない」
「それってどういう意味」
「僕と正式に、お付き合いしてくれないかな、ミシェル」
ミシェルは深く息を吸う。
「美人の女優でも、賢い女性司会者でもなく、田舎の女弁護士を選ぶメリットは?」
「ミシェル、あんなのは全部嘘っぱちだ。メディアはありもしないことを書いて僕のイメージをつくりあげてる。ねえ、考えてもみてくれ。僕がああいう女性とどんな会話をするっていうんだ? ツェデックの性別はどっちだと思う? 黄色い壁紙は読んだことある? キャラメルポップコーンつくって釣りに持ってかない?」
ミシェルは黙り、ネイサンは喘ぐ。
「エル」
「ごめん、頭がまとまらないの。こんなことで、父さん達が大切にしてきたうちの名前が、知られるなんて」
「エル、それは気の毒だと思ってる。ごめん。僕が軽率だった。でも」
「ネイサン、また連絡する。今日は、眠ることにするから。おやすみなさい」
返事を聴かずに通話を切った。ミシェルはケータイの電源を落とし、泣きながらトイレへ駈け込んだ。
翌日も、仕事にはならない。ミシェルは下のベーカリーで食糧を調達し、食べて、ネットニュースを読んだ。ネイサンの妻が亡くなったというのは初耳だったからだ。
ネイサンの妻は、ネイサンの会社の社員だった。結婚後、強盗に殺されたらしい。結婚二年目のことだ。ネイサンはそれから、犯罪被害者遺族や、孤児を支援する事業、非行少年を更生させる取り組みをやっている。孤児院や病院への寄付も、莫大な額だ。その額を見るにつけ、自分とは遠い世界の人間だと感じる。
彼の亡くなった妻の写真を見付けた。ゴージャスな美女だ。本物の金髪に、澄んだブルーの瞳。知的な眉としっかりとした自己意識を感じさせる口許。
ミシェルは金庫を開けて、封筒をとりだす。老婦人からの贈りものだ。ミシェルは溜め息を吐いて、それを金庫へ戻す。
ドレスが届いたのは、ネイサンのパーティに行く予定だった日だ。ドレスそのものはまったく完璧だし、ミシェルにもぴったりだった。でも、パーティに行くかどうか、ミシェルは決めかねていた。
ネイサンのいっていたことは、多分本当だ。いや、本当だと思いたい。彼みたいなタイプが、女をとっかえひっかえするとは、考えがたいから。
でも、それもうわべのことかもしれない。ミシェルに合わせて、レトロなホラー映画や、怪奇小説、釣りや狩りの話をしていたのかも。
「先生、車が来てますよ」
ベーカリーの店員の声がした。ミシェルは迷って、デニムにパーカというラフな格好で、外に出た。
いつもの車にのりこむのに、相当苦労した。忌々しいパパラッチどもが群がってきたからだ。ミシェルは雑貨屋へノートを買いに行く中学生みたいな格好で、高級車にのりこみ、この街唯一の高層ビルへ向かった。
車から降りてビルにはいるのは、比較的簡単だった。ネイサンの雇った人間なのか、体の大きな男性達が壁になってくれたからだ。
ベントハウスには彼が居た。パーティは中止になったのか、彼だけだ。パーティの時にしかその場所を訪れたことのないミシェルには、なんだか淋しくて、わびしい光景にうつった。
「やあ」
ネイサンは少しやつれ、目のまわりが黒ずんでいた。「いらっしゃい。今日は貸し切りだよ」
「ネイサン」
「エル、少しだけでいいから、話をしよう。初めて会った時みたいに、テラスで」
断る理由もない。ミシェルは頷いて、彼に手をひかれ、テラスへ出た。
なまぬるい風が吹きつけてくる。テーブルには、汗をかいたグラスがふたつ並んでいた。ざくろのジュースのなかで、氷が溶けて、角がとれている。
椅子に座った。彼もだ。
「ミシェル・ウォルナット」
「……ええ」
「君には、迷惑をかけた。ごめん」
ミシェルは頭を振る。ネイサンは沈んだ様子だ。
「勘違いしないでほしいんだ」
「なあに」
「これは償いだとか、君の名誉をまもる為だとか、そういう話じゃない。僕はもともと、今日その話をするつもりだった。それなのに、あんな記事が出て、ぶち壊しにされた」
ネイサンはジャケットのポケットから、小さなジュエリーケースをとりだした。テーブルに置いて、疲れた様子で蓋を開ける。小粒のエメラルドのはまった指輪がそこにはあった。
「サイズが合わなかったら調整する」ネイサンは弱々しい声だ。「僕と、結婚を前提に、付き合ってもらえないかな、エル?」
「ネイサン……困るわ」
ネイサンがこちらを見た。ミシェルは目を伏せる。傷付いたような目にたえられなかったからだ。
「わたしは、仕事を続けたいの。わたしがやめたら、事務所がなくなってしまう。おじいさん達の約束だったのよ。ウォルナットかダブチックの人間が、あの事務所を続けるって。他人に渡す時は名前を消す時だって」
「勿論、エル、僕は君のキャリアを邪魔するつもりはない」ネイサンは懇願するみたいにいう。「ただ不安なんだ。君がどこかへ行ってしまったり、居なくなったら、僕は……」
ネイサンの体が震えている。妻を強盗に殺されて失った、その哀しみが、彼を不安にさせているのだろうと、ミシェルは思う。
ミシェルは立ち上がった。「ごめんなさい。しばらく考えさせて」
「エル」
「わたしにはそんな立派な指輪をもらえるような価値はないわ」
ミシェルは泣きそうになりながら、走って逃げた。リフトに飛び乗り、下の階で降りる。ネイサンは優しくて、ミシェルがパパラッチのなかへ放り出されなくてすむよう、帰りの車も手配してくれていた。
事務所はずっと休んでいる。月曜には、ネイサンからの花束が届いた。チキンソテーを食べに行こう。それだけ。ミシェルは断りの電話をいれなかった。
週末、彼は自分の車でミシェルを迎えに来た。ミシェルはラフな格好で、鞄も持たず、車にのりこんだ。一週間近く考えて、なんとなく答えは出ていた。
初めてふたりで食事をしたレストランへ行った。パパラッチ対策で、彼はレストランを貸し切っていた。
チキンソテーはおいしいし、スープも体に染みこむみたいだった。ホットチョコレートをおかわりしたら、ネイサンはにっこり笑った。
食事がすむと、ミシェルはネイサンの手を掴んだ。「送ってもらっていい? ゆっくり、歩いて」
「……ああ」
ふたりは外へ出る。ネイサンはどこかに連絡して、車の鍵を店に預けていた。ふたりは手をつないで、ゆっくり歩く。パパラッチが群がってきたが、ネイサンが声を張り上げた。「今から彼女と大事な話があるんだ! しばらく放っておいてくれ」
ネイサンがそうやって声を荒らげることはめずらしい。パパラッチ達も空気は読める。素直にひきさがり、ふたりから距離をとった。
ふたりは静かに、ゆっくり、歩いた。
角を曲がる。街灯があたたかそうな光を投げかけてくる。「ネイサン」
「ああ」
「わたしにはこういう、ゆっくりした時間が必要なの。大切なひとと、手をつないで、お喋りしながら家に帰るというような時間が」
「ああ……」
「忙しいあなたが、そういう時間を持てる?」
「努力する」
もてる、ではなく、努力する、というのは、誠実に感じた。ミシェルは頷く。「解ったわ。わたし、あなたと結婚したい」
灯を点し、ミシェルはひとり、息を整えていた。
金庫を開ける。封筒をとりだす。彼の妻のことを思い出した。彼の亡くなった妻のことを。
ミシェルは封筒の中身を、一番よく身に着けるジャケットの内ポケットへ移す。不安と恐怖がくすぶっている。
次の週末、ミシェルは教会に居た。ネイサンが隣に居る。ふたりは結婚式を挙げたのだ。法的にまったく不備のない書類をつくって、ふたりは正式に夫婦になった。
参列しているのは、ミシェルの親戚数人、ダブチック家の数人、それに遠方からかけつけた友人がふたり。ひとりは、ネイサンのことを電話で聞いてきたり、レンタル落ちのドレスを売っているネットショップを教えてくれた、アンナ・カーペンターだ。ロースクール時代からの友人である。
それに、ネイサンの部下、ネイサンが世話している子ども達。子どもといっても、高校生くらいで、体は充分大きい。彼のプログラムによって、悲惨な家庭環境から救われたというもと・子ども達も居た。ミシェルをまもって壁になってくれていたひと達だ。ただ、ネイサンは、血縁者はひとりも呼ばなかった。
ミシェルはレンタル落ちのドレスに、母のお下がりのくつで、ぼんやりしていた。指輪が交換される。左手の薬指には、色の付いたダイアモンドのはまった指輪があった。誓いのキスは形式的な、あっさりしたものだが、ミシェルがネイサンとキスしたのは実際のところそれが初めてだった。
祝福をうけ、服をかえて、ふたりは教会を出た。パパラッチに追われながら、ネイサンの運転でビルへ向かう。「気分は悪くない?」
「悪いわ」
「僕と結婚した所為かな」
「多分ね」
ミシェルは指輪をいじる。指にぴったりだ。ネイサンが宝石商を呼んで、つくらせた。「こんな高価なものを身に着けていなくちゃいけないのなら、プロポーズをうけるんじゃなかった」
「君がいやだというから、一桁安いものにしたんだよ」
「あと三桁安くてもよかったわ。わたしがその辺で買ってきたってよかった」
「高い宝石をもらって文句をいうひとはめずらしいな」
「だってこれは、あなたの財産じゃないの」
ネイサンはくすくす笑っている。
ミシェルは、事務所は事務所としてのみつかうことにした。少ない荷物はすでにネイサンの家に運びこんである。家事一切はお手伝いさんにやらせるそうだ。ミシェルはなにも気にせず、今までのように仕事をしていい。
風呂場にたてこもって、化粧を落とし、ミシェルは体中を念いりに洗った。「エル?」
「もう少し待って」
手足がふやけるくらいにお湯につかって、ミシェルはやっと風呂場を出た。バスタオルで体を拭いて、ドライヤーで髪を乾かし、乾いたバスタオルで体を隠して寝室へ向かう。不安しかない。
ネイサンも長い時間をかけて、準備を整えたらしい。ベッドのなかで縮こまって、目をぎゅっと閉じているミシェルに、ネイサンがそっと触れた。「ネイサン」
「うん」
「わたし……初めてなの」
ネイサンが息をのんだ。「冗談だろう?」
「こんな時に冗談をいうと思う?」
「それは……」
「キスならしたことあるわ。でも……」
ミシェルは震える声でいった。それは、あまり思い出したくない類の思い出だ。
高校一年生の時、女友達に誘われて彼女の家に行くと、女の子だけでなく男の子も数人来ていた。お酒を吞んで騒ぐのが目的だったのだ。ミシェルはすぐに帰ろうとした。名前も知らない男の子が逃げるミシェルを抱きすくめ、強引にキスしてきた。お酒の匂いがして、ミシェルは吐きそうになった。その後どうやって逃げたのか、覚えていないが、望まないセックスだけは回避した。
二回目は、高校三年生の時だ。学校で一学年下の男の子に突然キスされ、胸を掴まれた。そういう遊びなのだ。ミシェルはその子をひっ叩いて、泣いて家に帰った。父が厳重に抗議したが、どういう決着が付いたのか、ミシェルは知らない。
ミシェルはおそるおそる、ネイサンを見る。ネイサンは困ったみたいに眉を下げていた。「ミシェル、僕は……」
「まさかこの歳まで処女だと思わなかった?」
「……あの、僕はそんなに、上手なほうじゃないんだ。だから、色々と協力してもらえるとありがたいんだけど……」
本気で申し訳ないと思っているのか、ネイサンの声はか細い。ミシェルは詰めていた息を吐き出し、自分が安堵したことに気付いた。
ネイサンは謙遜する程ではないと思う。少なくとも、ミシェルは満足したし、ネイサンもおおむね満足したらしい。
翌日は休みにした。体がだるかった。結婚というのは、こういうものなのね。
ハッピーエンド!!




