郷愁
ネイサンがそれ以上追いかけてくることはなく、ミシェルは事務所兼家に帰り、シャワーを浴びて、バニラアイスクリームをお皿に山盛りにして、ブランデーをかけて食べた。明日は事務所を閉めようかと考えながら眠った。
翌日、がんがんする頭に、電話のコール音が響いて、ミシェルは唸りながら体を起こした。用を足し、口をゆすいで戻っても、まだ電話は鳴っている。ミシェルは、いったいどこのばかがどんなむちゃくちゃをしたのかしら、といらいらしながら、受話器をとった。「はい、W&D法律事務」
「やあ、エル」
ミシェルは息を停める。「解るかな? 僕だよ。ネイサン」
「……ハイ、ミスタ・マイカ。なにかご相談ですか?」
とびきり丁寧にいってやると、ネイサンは黙る。ミシェルは続ける。
「お仕事のお話でないのなら、控えて戴けません? 相談の為にこの番号にかけてくるひとが居ますから」
「ああ……そうだね、ごめんなさい。うん。きちんと場を弁えることにするよ。それじゃあまた、エル」
「ええ、また、ミスタ・マイカ」
受話器をがちゃんと架台に戻し、ミシェルは溜め息を吐いて、きがえに行った。
下のベーカリーのパンで朝食をすませ、ミシェルは認知症の老人の万引き事件について、被害にあった雑貨店の店主との話し合いに向かった。万引きをした老婦人の息子が一緒だ。
老婦人は、自分をティーンと思っている。その時代は、彼女は乳母をつれて歩いていて、買いものにお金が必要だということを知ってはいても、自分で支払いをするという習慣はなかった。
すでに、商品の代金は払い、賠償金の額も決まっている。これから老婦人が万引きした場合に備え、まとまったお金を先に渡しておき、そこから代金を引いてもらうことで、決着した。
老婦人も話し合いの場につれてこられたのだが、内容を理解している雰囲気ではなかった。にこにことして、楽しそうだ。
ミシェルはその日、子どもの些細な喧嘩で訴訟を起こそうとしている夫を宥めてほしいと幼馴染みから呼び出され、些細といえないいじめだと判断して、子どものいじめに関する裁判に慣れた知り合いの弁護士への紹介状を書いた。それから、遺言状の作製を請け負い、土地の境界線のことでもめている壮年の姉弟の仲裁に走らされた。
17時頃、疲れ切って戻ると、事務所兼家の扉の前に、なんだか異質なものが置いてある。ミシェルはたった今上がってきた階段を振り返り、階下へ声をかける。
「ねえ、わたしが留守にしている間、誰かここへ上がった?」
「配達のひとが来ました」
店員が愛想よく教えてくれた。そうね、とミシェルは声に出さずに同意する。扉の前には、花束が置いてあったのだ。
華美なものではない。わすれなぐさに、ながみひなげし、はなびしそう、はなにらなど、その辺に咲いているような花だ。それらは綺麗にラッピングされ、メッセージカードが添えてあった。
ミシェルは花束をとりあげ、メッセージカードを右手で開く。細くて繊細な筆致で、週末食事に行かない? と書いてあった。それに、数字が書いてある。ケータイの番号らしい。
ミシェルは自分の考えをばかげたものだと思ったけれど、もう一度階段を振り返り、下へ向かって声を張り上げた。「配達のひとって、男のひとだった? 茶髪の?」
「はい。顔に傷があるひとです」
成程ね、ジョナサン・マイカ。わたしをからかうのがそんなに楽しいのかしら?
ミシェルはにやっと笑って、扉を押し開け、なかへはいった。まっすぐ電話へ向かい、受話器をとって、ダイヤルする。「はい」
「こんにちは、ミスタ・マイカ」
「やあ、エル」
ネイサンの声が弾んだ。ミシェルは花束を、ソファへ投げる。
「お食事のお誘い、ありがとう」
「喜んでくれたならよかったよ。で、返事をきかせてもらえるのかな」
「ええ。割り勘なら行きます。わたしでも支払えるようなところへつれていって頂戴」
ネイサンが楽しそうに笑った。花束がソファから落ちる。
妙な期待を抱かせたくないし、自分もその気になるつもりはない。美人女優を相手にできるのに、さえない未婚の女を口説くのは、要するに猟銃を担いで森を歩きまわるのとかわらない。珍獣扱いはごめんだ。
週末、ミシェルは細身のデニムと、ダサいパーカを着て、くたびれたブーツを履いていた。野暮ったい斜めがけの鞄は、でも、一番気にいっているものだ。資料を沢山持ち運べるし、仕切りやポケットが多い。しかし、今日はいっているのは、ケータイと財布に、化粧ポーチだけだ。
待ちあわせは、19時にベーカリーの前だった。ミシェルはでがけに一応といた髪を、手櫛で整える。
「エル」
声に目を遣ると、ネイサンが立っていた。驚いたことに、ひとりきりだ。ついでに、車でもハイセンスな自転車でもなく、徒歩でやってきたらしい。デニムにスニーカー、シンプルなジャケットにシャツ、という格好で。
ネイサンはにこにこ顔で近寄ってきて、ミシェルの腕をとり、歩き出した。ミシェルはあっけにとられていたが、我に返ってあしを動かす。
「食事の誘い、うけてくれてありがとう」
「あー、いえ。どうせ自分で支払うのだもの、たまには誰かとお喋りしながら食べたかったの」
そんなことをいうと、ネイサンは嬉しそうに目を細めた。
どこへ行くのか、ミシェルは訊かなかったし、ネイサンもいわない。ふたりはほとんど喋らずに、通りを歩ききって、別の通りまで行った。彼は息ひとつ乱さないし、ミシェルも仕事で走りまわるのに慣れっこだから、特に不平はない。
「ついたよ」
ネイサンが指さすほうを見ると、シルバーバレーでも老舗のレストランだった。子どもの頃、両親と三人で、記念日にはここへ来たものだ。クランベリーを甘く煮たものが沢山のったタルトは、誕生日と復活祭だけのご馳走だった。
感慨に浸るミシェルをひっぱって、ネイサンは店へはいった。「予約していた、マイカだ」
「こちらへどうぞ」
丁寧なウェイターに促され、ふたりは窓際の席へ座った。よく冷えたサケが、ワイングラスに注がれて運ばれてくる。「これは僕のリクエストなんだ。最近、この味が好きでね」
「そう……」
ミシェルは段々と、自分がネイサンに対して、警戒を解きはじめている、と思った。それが危険だとも。
店内にはほかにもお客が居て、シルバーバレーらしい食事をとっている。チキンソテー、もしくはチキンスープ、オーブンで焼いたたまねぎとじゃがいも。それに、クランベリーをつかったお菓子か、クランベリーのジャムがはいったホットチョコレート。新参者のレモネードやホットレモネード。
ネイサンが注文したのも、そういう献立だった。チキンソテー、マッシュポテト、人参とたまねぎのスープ。食後には、クランベリーのホットチョコレートが待ち構えている。
ミシェルの疑わしげな視線に気付いたか、マッシュポテトをほじりながら、ネイサンは苦笑した。
「いってなかったよね。僕はここの出身なんだ」
「うそでしょう? わたしも、高校卒業までずっとここだったのよ。あなたみたいな子が居たら覚えてる筈」
「そりゃ、光栄だね」
ネイサンは苦しそうに小さく笑った。「両親が離婚して、僕は父親についていったんだ。母親と一緒にここに残ってたら、君と隣の席だったかもな。それで、君の髪をひっぱったり、スカートをめくったりして、嫌われてただろう。父についていって正解だったよ。君に、僕が調子にのってやらかしてた時代を知られずにすんだ」
開けっぴろげで正直そうなものいいに、ミシェルは一気に警戒を解いた。やっぱり、いいひとみたい。単に、自分の同級生になっていたかも知れない人間に興味があった、ってだけかもしれないわね。
「むかでのトンネルで、よくみんなで遊んだな」
「あ、わたしもあのトンネル知ってるわ。気味が悪いところ」
出入り口近辺に、むかでの落書きがあるトンネルだ。お世辞にも景色はよくないし、年柄年中じめじめしている。ミシェルが子どもの頃、シルバーバレーでは、男の子達は一回はあのトンネルに、ひとりではいらないとならなかった。でないと「女々しい」とか、「ゲイっぽい」とか、とりあえずあの年代の男の子達がいやがる言葉で呼ばれるのだ。
ネイサンが丸みのある輪郭を、横向きにした。チキンソテーをうまく切れないようで、様子を見ている。
「僕が引っ越す前は、あの辺まで民家もあったし、気味が悪いなんてことはなかったけどなあ。最近、懐かしくなって見に行って、吃驚したよ。あちらからはいれないように、半分封鎖されてしまっていたんだから」
「崩落事故があったのよ。わたしがたしか、三年生の頃」
「そうなの?」
「ええ。それから、度胸試しだとかなんとかで、ばかな子達がはいりこんでは、年に二回くらい誰かが怪我してた」
ネイサンはミシェルと目をあわせて、にやっとした。「そうやって危険な場所で怪我をした子は、英雄扱いだったろ?」
まったくその通りなので、ミシェルは苦笑して頷いた。
「今日は、ありがとう、ネイサン」
「こちらこそ、誘いをうけてくれてありがとう」
ホットチョコレートで、おなかがぽかぽかとあたたかい。ミシェルは少し軽くなった財布を鞄へ戻し、外へ出る。ネイサンも一緒だ。「沢山食べたし、歩くのは控えたほうがいいよ。消化に悪い」
「そうお?」
「ああ。タクシーを手配してあるから、それにのって帰って。代金も払ってる」
「悪いわ」
鞄へ手を遣ると、ネイサンはミシェルの手を掴んだ。いやらしい感じはしない。どちらかというと、親しい同性の友達にするような仕種だ。
「悪いと思うなら、今度は君がおごってよ。僕はこの町にくわしくない。出身地なのにさ」
「……また、お食事しましょう、ってこと?」
「そう」
「それって、どういう意味で?」
ミシェルの問いに、ネイサンは困った様子で頭へ手を遣った。うーん、と唸る。「それは……そうだね、僕らは子どもじゃないんだし、はっきりさせといたほうがいいよな。正直にいって、僕は君に惹かれてる、エル」
率直な言葉に、ミシェルは面喰らった。はぐらかされるか、勿論単なる友達としてだよ、とでもいうと思っていたのだ。
しかし、ネイサンは、ぎこちないながらも続けた。
「あんなビルのペントハウスに住んでるし、ワイドショーや下世話な連中の書く記事で散々いわれてきた僕のことは、警戒してるだろ、君は?」
「……本音を聴きたい? 建前がいい?」
「あ、待って、はっきり聴くのはこわいから、建前で」
「お金持ちで心の豊かな、感じのいいひとだと思ってるわよ。自分の名前を聴いて萎縮されないように、親切に愛称だけなのってくれたし」
「建前にも棘があるね」
ネイサンはははっと笑う。ミシェルはにっこりした。
「感じがいいひとだと思ってるのはほんと。友達からいろんな話を聴いてたから、ギリシャ彫刻みたいなひとかと思ったら、ちゃんとした人間だったし」
「それって僕がいけてないって意味?」
「まともって意味よ、ネイサン。あなた、一日で何百ドルって稼ぐんでしょう? なのに、ウォルマートでパートしてる高校生みたい」
「それって誉めてる?」
ミシェルが頷くと、ネイサンは満足そうに息を吐いた。「そっか。それじゃあ、エル。これからも僕と、食事に行ってくれる? いつか、親密な関係に発展する可能性はある?」
ミシェルは目を伏せて、数十秒考えた。タクシーが走ってきて、店の前で停まる。ミシェルはそちらを見て答えたから、ネイサンの表情は解らなかった。
「……なくはないかもね」
月曜の朝、目が覚めて外のポストへ新聞をとりに行こうとすると、扉の向こうにあった花束を踏みつけそうになった。
今度は、それなりに豪華なものだ。白い大きなばらと、まだつぼみの、赤いばら。甘い香りがする。
今度もメッセージカードは付いていた。週末に映画はどう?
ミシェルは花束を抱えて部屋へ戻り、メッセージカードをソファへ放って、花は花びんへいけた。母が事務所のなかを整えていた頃は、花はいつだっていけてあって、相談者の心を和ませていたものだ。わたしがここを継いで以来、まともな顧客が減って、花を買う余裕なんてなくなった。
ミシェルは鞄をひっ掴み、外へ出た。新聞紙をピックアップして、二十四時間営業のレストランへ行くと決めて歩く。鞄から私用のケータイをとりだし、ネイサンのケータイへ電話をかけた。履歴に自分のケータイ番号が残ることは承知だ。
「ハイ、ネイサン」
「やあ」ネイサンは驚いたようだが、すぐにやわらかい口調になる。「エル。元気そうだね」
「そうね。映画のお誘い、ありがとう。週末ならあいてるわ」
その週は、いつにも増して仕事が少なかった。子ども達は途端に大人しく、優等生になったみたいで、誰もがらすを割らないし、同級生の傘やくつを隠すような低俗な真似もしない。優等生になったのではなくて死に絶えたという可能性もある。
唯一、例の、万引きをする老婦人には、手を焼いた。悪いひとではないのが尚更げんなりさせられる。
「あら、今日も綺麗ね、ミス・ウォルナット」
今度は薬局で「問題」を起こした老婦人は、にこにこ顔で座っていた。薬局の事務所だ。隣に座った店主が、困った顔になっている。
ミシェルは彼女が認知症を患っていること、自分を十代だと思っていること、彼女が十代の頃は乳母がいつも一緒で、代金を支払ってくれていたこと、などを説明した。その上で、彼女の息子から預かった小切手を渡す。
「これで足りますか?」
「はあ……はあ、充分です。これじゃあ、もらいすぎで」
「彼女は誰かが見張っていても、こうやって逃げ出してしまうんです。見付けてくださったお礼と、迷惑のお詫びも兼ねてということで……」
頭を下げる。店主は数回頷いて、納得し、警察へは連絡しないと約束してくれた。
また、万引きした場合に備え、後日くわしい話をしに来ると約束して、ミシェルは老婦人をタクシーにのせた。タクシー代は、彼女の息子が払うだろう。彼もまた、アウトドア目当てでシルバーバレーに越してきた連中のひとりだ。こんな片田舎に居たって仕事はできるし、お金は動かせる。
老婦人が、ドアを閉めようとするミシェルの手を、優しく叩いた。「ありがとう、ミス・ウォルナット。今までの乳母のなかで、あなたが一番、わたしに優しいわ。むちでぶったりしないし、お勉強をしなさいって怒鳴ることもない」
「ええ、ミ……ミス・アラバスタ。でも、寝る前の歯磨きだけは、忘れてはいけませんわ」
旧姓にミスをつけて呼ばないと、彼女は動揺する。ミシェルはそれを、ちゃんと覚えている。
「ねえ、一緒に帰らないの? わたしにつらくあたる乳母が居るの。あのひとは嫌いだわ」
「申し訳ありませんが、わたしは用事があるので」
なんとか手を振り解き、ドアを閉めた。タクシーはすーっと道路を滑るように走っていく。ミシェルは溜め息を吐いた。
週末のお昼、ネイサンは車で迎えに来た。コンバーチブルだ。ミシェルは母からもらった素っ気ないワンピースに、ウールのカーディガンを羽織っている。それなりに見栄えのする鞄に、財布とケータイ、化粧ポーチ、ハンカチ二枚をいれていた。化粧ポーチにもハンカチをいれているから、計三枚だ。
ネイサンはぱりっとしたシャツに、デニム、見栄えのするジャケット姿だ。アフターシェーブローションの匂いがする。
「どうぞ、お嬢さん」
「あなたまでそう呼ぶの?」
ミシェルは笑いながら、ネイサンの隣に座り、シートベルトを締めた。ネイサンはサングラスをおしあげてミシェルを見、すぐにサングラスを戻す。車が発進する。
「どこからどう見てもお嬢さんだよ」
「名の知れた父を持つものじゃないわね。この歳でお嬢さんなんだから」
皮肉っぽくいうと、彼はくすくす笑った。
映画館は、町の南側にある。子ども連れの家族と一緒に、ミシェルは列に並んでポップコーンとマシュマロ、歯に悪そうな炭酸飲料を買った。さてどんな映画を見るのか、と、彼に促されるまま席について、待っていると、はじまったのはファミリー向けのアクション映画だ。ある日特殊な能力をさずかった子ども達が、世界を破滅へ導こうとする顔色の悪い男と戦っている。
そこまで悪くない内容で、ミシェルは楽しんでそれを見た。彼も、目をきらきらさせ、マシュマロを頬張って、スクリーンに夢中だ。まるで高校生みたい。精一杯清潔な格好をして、「女の子」と車にのって、でもラブロマンスなんてこっぱずかしいものは見ることができない。
子ども達は男に勝利したが、これからも戦いは続くようだ。そんな終わりかただった。
ネイサンは映画鑑賞中に結構な量の糖分を摂取したくせに、映画館を出るやいった。「おなかがすかない? 僕、レスリングの試合でもしたみたいな気分だよ」
子どものような、可愛らしい口振りだった。ミシェルは同意し、近くのレストランでチキンスープと焼きじゃがいもを食べた。デザートはクランベリーのパイだ。
映画はおごってもらったから、と食事代を出す。彼は反対しなかった。なんだか眩しそうにミシェルを見ていた。
それからは、週末に彼と会うのが恒例になった。
月曜の朝、花束と一緒に、メッセージカードが届く。隣の郡までロブスターを食べに行かない? ステイブルヒルの馬車競走を見に行こう。忌々しいパーティに来て僕を助けてくれないかな。いい鹿肉を出す店を見付けたから、ドレスアップして食べに行こうよ。
ネイサンは子どもみたいで、魚釣りや猪狩りにミシェルを誘うこともあった。猪狩りはこわいから断ったけれど、魚釣りには行った。三ヶ月して、私用のケータイ番号を教えたけれど、ネイサンはしつこく電話をかけてきたり、メッセージを残すことはない。それからも、花束とメッセージカードは毎週月曜、届けられた。彼は町中の花屋すべてに、持ちまわりでミシェルへの花束を拵えさせているらしい。
ミシェルは十数回、あのビルで行われるパーティに参加した。上流階級のことは解らないが、あのビルに暮らしているひと達は頻繁にパーティを開いてはお互いを招いている。ネイサンが主催したパーティだけでなく、名前も職業も功績も知らない、ネイサンの知り合いのパーティにも、ミシェルはネイサンにつれられて行った。ドレスは一枚新調して、それを着回したし、アクセサリはずっと手をつけていなかった母のジュエリーボックスからひっぱりだした。母を思い出してつらかったのだが、身に着けると母が一緒に居てくれる気がして、寧ろ安心できた。
懸念事項は、ネイサンとミシェルがふたりで居ることについて、まわりがどうとるかだったが、杞憂だった。ミシェルは「女避け」だと判断されたのだ。同伴者が居るネイサンには、彼の仕事(おもにその稼ぎ)や、女優との噂について興味を持っている女性達が、おいそれとは近付かない。誰も、田舎町の女弁護士と、年収が七から八桁になるであろう青年が、親しい付き合いをするとは考えていない。
それに、小耳にはさんだが、ネイサンは一度、結婚に失敗しているらしかった。そういう人間が、簡単に次の女を選ばないと、周囲は考えているようだ。
その日は週末ではなかったけれど、ネイサンがパーティを開き、ミシェルはそれに呼ばれていた。十九時半に迎えの車が来るから、ミシェルは一番上等なスーツにきがえ、母のジュエリーボックスからとりだした、とても小さなエメラルドのぶらさがったイヤリングをつけている最中だった。
ノックの音がして、ミシェルは時計を見た。十九時だ。もう迎えが来たのだろうか?
そんなことはなかった。扉を開けると、老婦人が立っている。「ミス・アラバスタ」だ。
「ハイ」ミシェルは面喰らって、目をぱちぱちさせた。「……ミス・アラバスタ」
「ミス・ウォルナット、この間はありがとう」
老婦人はにこにこ顔で、当然のようにあがりこんでくる。ミシェルは慌ててひきかえし、ジュエリーボックスの蓋を閉めて、戸棚のなかにしまいこんだ。彼女がミシェルの母の形見に、興味を抱かないとも限らない。
戸棚の前に立ちはだかるみたいにして、ミシェルは老婦人へ笑みかけた。
「ええと、なんの御用でしょう」
「あなたがどんなところで寝起きしているか、見てみたかったの。女のひとり暮らしは危険よ」
老婦人は、ソファにちょこんと腰掛け、興味深そうに事務所内を見る。シーリングファンに不思議そうな顔をしたが、彼女が十代の頃にはめずらしいものだったのかもしれない。
「ミス・アラバスタ、申し訳ございません、わたし、これから外出するんです」
「あらそうお? それじゃあ、長居しては悪いわね」
ミシェルは仕事用のケータイをそっととりだして、操作した。彼女の息子の、妻に、メッセージを送ったのだ。――――ミス・アラバスタがいらしてます! 迎えを寄越して!
ミス・アラバスタはそんなことには気付かない。彼女が幼い頃にはケータイなんてなかったから、ミシェルがなにをしているのか、解っていないだろう。
「実はね、あなたがひとりで暮らしてるって聴いて、わたし、心配になってしまったの」
「はあ。お心遣い、ありがとうございます」
老婦人は、上品な小さな鞄から、封筒をとりだした。随分厚みがある。
それをローテーブルへ置いて、老婦人は頷いた。「これで、自分の身をまもりなさいな」
「あ……あの、ミス・アラバスタ。わたし、雇用費は、きちんと旦那さまから戴いていますので」
それは事実だ。彼女の息子から、報酬をもらっている。最近になって母親がどんどん扱いづらくなっているのか、最初の頃は出し渋っていた報酬も、素直に払ってくれるようになった。老婦人がどうしてだかミシェルを気にいっていて、ミシェルのいうことには従うからだ。
「これはわたしからの気持ちよ」
「ですが」
「ミス・アラバスタ!」
扉を壊しかねない勢いで、彼女の嫁がはいってきた。ミシェルと目が合うと、申し訳なそうにする。「ごめんね、ミシェル。すぐにつれて帰る」
低声でいって、義母の腕をとる。
「ミス・アラバスタ、お父さまに叱られますよ。こんな時間に出歩いて」
「あら、ごめんね、ジュディ」
「わたしはベラです」
「あらあら……ああ、解ったわ、帰ります。お父さまに、今日の学校のことをお話ししなくちゃ」
楽しそうに笑って、老婦人は軽いあしどりで出ていった。彼女の息子の妻も一緒にだ。
ミシェルはほっとしたが、ローテーブルの上のものに気付いてはっとした。「ミス・アラバスタ」
封筒をひっ掴んで、後を追おうとしたが、その表情がふと強張る。ミシェルは封筒の中身を見て、呻いた。