邂逅
シルバーバレー。西と西南には荒野、北には森がひろがり、東方向には中途半端な高さの山がある、娯楽もなにもない田舎町。
かつては銀の一大産出地として栄えたのだが、鉱山が枯れてしまうのに合わせて住民は減り、店や会社は出て行った。今では、アウトドアに最適な町として売り出そうとしており、その結果高層ビルが建って、かわりものの金持ちが越してきている。週末になると、無骨な四輪駆動車にのって荒野へでかけたり、ハンター気取りで猟銃を担いで森を闊歩するような連中だ。
その町の老舗法律事務所、W&D法律事務所は、ベーカリーの二階にある。正確には、規模を縮小した法律事務所の一階にベーカリーがはいっているのだが、シルバーバレーの人間は誰もそんなふうには思っていない。
ウォルナット&ダブチック、という名前ではあるけれど、ダブチック氏はとうの昔に引退して、跡を継ぐ筈の息子はロースクールに通っているさなかだ。ウォルナットのほうの、三十手前の「お嬢さん」弁護士が看板を維持しているが、祖父や父親のように、殺人事件や強盗、巨額の横領といった、華々しい事件は一切担当しない。担当しようにも、シルバーバレーではそんな事件はなかなか起こらないのが実情だ。
だから、ミシェル・ウォルナットは、今日も平穏無事に終わるものと思っていた。町のひと達はふざけて「郡一の弁護士」と呼ぶけれど、それは「郡で一番稼ぎの少ない弁護士」という、遠回しなからかいだと、ミシェルはそう認識している。
高層ビルが建ったばかりの頃は、老人達が過去を思い出して沸き立ったものだけれど、あそこに住んでいるひと達は町に用があるのではなく、荒野や森や山に用があるのだ。それが解ると、女ひとりで法律事務所の看板をなんとかまもっているミシェルのような人間をからかいに戻ってきた。
ロペス家の次男が学校の窓がらすを割った事件は、一応片が付いた。アンドルーズのばか娘の騒ぎも収まった。オブライエン家が不当に訴えられたのも、なんとか取り下げさせた。
下のベーカリーでクランベリーのお菓子を買ってこようかな、とミシェルは考えていた。クランベリーとレモンが、シルバーバレーの現在の特産品だ。新参者であるレモンはともかくとして、クランベリーはミシェルにとってなじみ深い。
母が存命だった頃、クランベリーのジャムがたっぷりはいったホットチョコレートを、ふたりでよくこっそり飲んだ。糖尿病の父には見せることもできない、長生きしてほしいから、と、母はいたずらっぽく云っていたものだ。最後にホットチョコレートを飲んだ日、あの時母も一緒に外出していれば、あんな、バスが家につっこんでくるなんてこと……。
電話の音に、ミシェルははっと顔を上げた。頭を振って、受話器をあげる。「はい、W&D法律事務所です。ご用件を承ります」
「やあ、ミシェル」
ミシェルは目を細める。ロペスだ。次男が学校で、ふざけて窓がらすを割り、同級生に怪我をさせた。ついこの間、示談が成立したばかりだ。
「ごきげんようミスタ・ロペス。なにか、問題が起こりましたか?」
「いや」
ロペスの声は明るく、かすかに弾んでいた。「息子はあれで、相当反省してね。今じゃ毎日、長男と一緒に大人しく勉強してる。君のお説教がこたえたらしい」
「お説教だなんて……」
たしかに、強めの調子で、どういう損失が出たのか、怪我の治療にどれだけのお金がかかるか、怪我をしたらどれくらいこわいか、そんな話はしたが、説教のつもりはない。
否定にも、ロペスは明るい声で返してきた。
「そこで、若くて美しいお嬢さん、なにかお礼をしたいと思ってね」
「報酬は戴きました」
ロペスのくれた金は、ミシェルには充分なものだった。とくに、認知症の老人の万引きをなかったことにするくらいなら、ちょっとした食糧で片付くと思っている人間が多いシルバーバレーにあっては、ロペスのようにきちんと金で払ってくれる人間はありがたい。
「勿論、報酬は払ったが、それでは足りないと思ってね。若いお嬢さんなら、パーティには興味があるのではないかな」
「パーティ?」
「今夜パーティがあるんだ。主催者の名前を聴いたら驚くよ。ジョナサン・マイカだ」
その名前には聴き覚えがあった。ミシェルは眉をひそめる。たしか、通信関係の会社の人間だ。青年実業家、というやつ。
興味がないので顔は知らないが、たまに電話で連絡をとる友人が、シルバーバレーにマイカが越してきたってほんと、と訊いてきたことがある。マイカは一部の若い女性には興味の対象なのだ。有名な若手女優や、女性司会者と、恋の噂があるらしい。
ロペス氏は、ミシェルもそういった女性達の一員だと考えたようだ。残念ながら、ミシェルはその手の男性に、深い興味はない。どんな弁護士を雇っているのかは気になるが、どれくらい稼いでいるのかとか、どんな女性が好みなのかとか、ゴシップは真実なのかとか、そういう無駄話に時間を割くつもりはない。目下、ミシェルは法律事務所を維持するので手一杯だ。
特に、こんな片田舎だと、結婚もせずに働いている女はそれだけでなにかしらの欠陥があるものとして捉らえられ、ミシェルは父や祖父のように信頼されては居ない。
出自も顔も知らない、年収がミシェルの二百倍くらいあるだろう男にかまけている時間はない。そもそも、彼には顧問弁護士がすでに居るだろう。
かといって、そういうタイプの男性が「ちょっと遊ぶ」のに、自分は不適格だとミシェルは思う。だから、パーティに行ったって、ちょっといいお酒を吞んで、原材料のよく解らない長ったらしい名前のなにかを食べて、余った料理を幾らか持ちかえらせてもらうくらいが関の山だ。
呼ばれるのは上流階級ばかりだろうし、そういうひと達にはすでに顧問弁護士がついている。ミシェルがあたらしい顧客を得る可能性はないに等しい。いや、ない。
「ミスタ・ロペス、申し訳ありませんが」
「それじゃあ、19時にそちらに迎えの車をやるから、一番いいドレスを着て待っていてくれ。香水はフローラル系がおすすめだよ」
ビジー・トーン。
ミシェルは溜め息を吐いて、受話器を架台へ戻した。ロペス氏は、「性格/私生活/性的嗜好に問題があるかもしれない未婚の女弁護士」に、きちんとした料金を支払ってくれる、めずらしい顧客のひとりだ。なにがめずらしいって、父の代からの顧客なのに、父とわたしを比較しないところね。
かわりに、若い女性(七十手前のロペス氏から見ればミシェルは赤ん坊のようなものだ)は華やかなパーティが好きで、ゴシップにくわしくて、お金持ちで若い男性に興味津々、というステレオタイプのイメージを持っている。それについてミシェルは今まで、実害を被らなかったので、個人の主義として是正しようとはしてこなかった。そのことを少しだけ後悔している。
ドレスを着たのはいつが最後だった? あのサイズのドレスがまだはいるかしら?
ミシェルは迷った揚げ句、一番いい仕立てのスーツを着ていくことにした。香水を振ってくるひとは男女問わず沢山居るだろうし、ミシェルは遠慮した。
青白い肌が尚更青く見えるから辞めなさいと、母にはいわれていたけれど、弁護士になったお祝いに祖父が仕立ててくれた紺のスーツを着て、ミシェルは下のベーカリーへ降りた。「お嬢さん、今晩はなにを食べます?」
感じのいい店員が、酷い東ヨーロッパ訛りで話しかけてくる。ミシェルはそれに笑みを返した。ミシェルがこの時間に降りてくる場合は、近場のデリカテッセンで適当なものを見繕って買い、夕飯にするのがほとんどだ。そういう時は行きに、シナモンロールをふたつとっておいて、とか、ブリオッシュをひとつとっておいて、といって、とりおいてもらうのだ。
「ごめんね、今日は外で食べることになりそうなの」
「はあ」
ミシェルはまた明日といって、外へ出る。小雨が降っていて、傘を持ってきたらよかったと思う。
ちらっと、事務所のある階を仰いだ。運転手が居眠りしたバスが家にとびこんできて以来、ミシェルの家でもある。バス会社相手に争って、賠償金を勝ちとった父は、結局は母の不在にたえられなかった。糖尿病が悪化し、精神のバランスも崩して、今は療養施設にはいっている。その施設へ父を預ける為に、賠償金の大半が消えた。
ぼんやりするミシェルの前を、自転車の子ども達が走っていく。こんな時間まで外に居るなんてとミシェルは眉をひそめたが、今時の子どもはこれくらい普通なのだろう。ミシェルが少女だった時代から、十五年以上経つ。常識だって変化するのだ。
車は水色で、時間ぴったりにやってきた。
窓を開けた運転手は無愛想なことおびただしかったが、ミシェル・ウォルナットさまですか、という問いにミシェルが肯定すると、降りてきて扉を開けた。ミシェルは車にのりこみ、扉が閉められ、運転手が持ち場について、車は出発した。
例の高層ビルは、町のまんなかより少し北側にある。公園の跡地のすぐ傍だった筈だ。
ミシェルは膝の上に置いた鞄から、ケータイをとりだした。悪がきどもは息をひそめているし、世界や時間があやふやになっている老人達は、家族やヘルパーがしっかりみはっているらしい。誰からも、至急火消しにまわってほしいという連絡はない。パーティを断る口実になるのに、こういう時に限って誰からも連絡がない。
ケータイを鞄に戻す。スーツはクリーニングから戻ったばかりだし、なんの問題もない。ミスタ・ロペスには、最後に仕立てたドレスは高校の時のもので、腰周りがどうにもならなかったといえばいい。ロペス氏は、ミシェルの人生においてパーティや華やかな催しものに縁があったのは高校時代まで、と聴いたって、怪しむことはないだろう。事実そうだし、この何年かも不幸が続いたからだ。
祖父がつかっていた本物のアンティークの鞄をしっかり持ち直した時、車が停まり、運転手が外に出た。扉が開く。「到着しました。お荷物を預かりましょう」
ミシェルは鞄を預けずに、ビルにあしを踏みいれた。閑散としている。できあがったばかりのビルには、人気が少ない。暫くすれば高級ブランドのテナントがはいると聴いたが、少なくとも今は、店員も品物も、影も形もなかった。
かわりに、リフトの傍に、仕立てのいい服を着た男性がふたり立っていた。すわ、件の青年実業家か、とびくついたが、彼らは案内人だった。ミシェルがおそるおそる近付いていくと、片方がぼたんを押す。もう片方がいった。
「ミシェル・ウォルナットさまですね?」
「はい」
ミシェルは背筋を伸ばす。萎縮しているところを見せたって、なんにもいいことはない。
案内人がにこやかにいった。
「ミスタ・ロペスから、うかがっております。こちらのリフトへおのりください。降りたところに、わたくしどものような案内人が居ますので、別のリフトへ」
「え? これで行けないのですか」
「ペントハウスへは専用のリフトでしか移動できませんので」
面喰らって、ミシェルは黙った。音を立てて箱が到着し、ミシェルは促されるままリフトへのりこむ。扉が閉まった。
数十秒後、リフトがとまり、ミシェルは外へ出た。そこにも案内人が居て、ミシェルを別のリフトへ案内し、のせた。そうやって辿りついた先でも、似たような案内人が居て、ミシェルは歩かされ、ホールのようなところにはいった、
おそらくリビングなのだろう。だが、幾つものテーブルが並び、着飾った人々がうろつきまわっているそこは、およそ居住空間とは思えない。ミシェルにとってリビングとは、家族が揃えば窮屈に感じるくらいのひろさである。これはリビングとはいいがたい。
見知った顔があったが、ミシェルは不快になっただけだった。子どもの不品行の後始末をミシェルにさせておいて、弁護費用を踏み倒そうとする連中だ。彼らは女性が男性並みの費用を要求するのは不当であると主張しているが、そのくせ妻や娘は必要以上にめかしこんでいる。まったく不思議なことである。
ミスタ・ロペスには感謝しなくちゃ、とミシェルは思う。お金をここで支払わせることは不可能だとしても、多少抗議するくらいはできる。
ミシェルが今にも、そちらへ歩こうとした時、ウェイターが通りかかって彼女を遮った。「カクテルをどうぞ、ミス・ウォルナット」
「どうも……」
ミシェルはさしだされたトレイから、適当なグラスをとった。ギブソンだ。ウェイターがお辞儀していなくなると、腹のたつ連中もどこかへ行ってしまっていた。ミシェルは小さく舌を打って、ロペスをさがす。
奥のテラスのほうに、ロペスらしい恰幅のいい人影が見えた気がした。ミシェルはそちらへ歩いていく。
はいってきたばかりの時は、着飾った女性が目に付いた。だが、自分のように、仕立てはいいが地味なスーツを着ていたり、髪を結い上げてもいない女性も居る。どうやら本当に化粧をしていない女性も、数人居るようだ。
テラスへのフランス窓は開け放たれていた。ロペスが居やしないかと、ミシェルはテラスへ出る。「おっと」
「ごめんなさい!」
男性にぶつかってしまった。ミシェルの持ったグラスのなかから、ギブソンが彼の上着にかかる。
テラスは灯が乏しく、くらい。その上、死角から突然あらわれたので、ミシェルは対応できなかった。
「あの……本当に……」屈んでグラスを置き、鞄からハンカチをとりだして、男性の上着を掴んだ。ハンカチをとんとんとあてる。「ごめんなさい、クリーニング代は出します」
「いや、僕こそごめんなさい。ちょっと酔ってるみたいで……」
室内からの灯に照らされて、男性の顔がはっきり見えた。声の印象よりも、幾分歳をとっている。といっても、ミシェルと同年代だ。声は高校生のように若々しい。
とりたてて騒ぐ要素のない、平凡なうす茶色の髪を、さっぱりと整えている。瞳はブルーのように見えるが、灯がオレンジ色なので、判断が難しかった。体格はよくも悪くもなく、平凡だ。
顔立ちは、派手ではないが、整ったほうだ。しっかりとした顎の線に、昔骨折でもしたのか、ほんの少しだけ曲がった鼻。スポーツに親しんでいるようで、数ヶ所、小さく傷痕がある。
男性はにこっと笑って、ミシェルの手からハンカチをとりあげる。「よろけたのはこっちなんです。でも、これ、かりてもいいかな?」
「どうぞ……」
男性はハンカチで上着を叩くようにする。ミシェルは、結構感じのいいひとも居るのね、と思っていた。年齢からすると、主催者の友人だとか、仕事相手だとか、そんなところだろう。
男性は上着をなんとかすることを諦めた。「まあ、透明だし、大丈夫でしょう。ハンカチ、洗って返すよ」
「あ、いえ、悪いわ。わたしがぶつかったのだし」
「僕がよろけたんだよ」
「でも……」
堂々巡りの会話に、男性はくすっとした。「それじゃあ、しばらくお喋りに付き合ってもらえる?」
男性はギブソンのグラスをウェイターに返し、上着もウェイターに預けた。それから、ミシェルをテラスのテーブルへ案内する。
どうしてこんなところにそんなものを植えようと思ったのか、背の低いフェニックスが生えている、その横にあるテーブルだ。フランス窓からは直に見えない角度だし、フェニックスの葉でかげになって、灯も遮られる。
テーブルと、一緒に置いてある椅子は、くるみ材だった。男性が椅子をひき、ミシェルは礼をいって座る。男性も、当然のように隣へ座った。
ミシェルは、困ったことになった、と思っていた。男性はなにを血迷ったのか、ミシェルに性的な魅力を感じているらしい。
困るのは、ミシェル自身も、まんざらではないと思っていることだ。男の子とこんなふうに並んで座ったり、そもそもお喋りに誘われたりするなんて、高校生以来だ。そして、高校生の頃ミシェルをデートに誘った男の子達のような、妙な技巧は彼から感じない。寧ろ、どことないぎこちなさのようなものがある。それがミシェルには、可愛らしく感じられた。
「突然、ごめん」
「ううん、いいの。そもそもわたしが、ぼんやりしてたのがいけないから」
彼は微笑んで、テーブルに腕をのせた。「僕達が喋るのにあたって、ルールを決めない?」
「ルール?」
「これ以上、さっきの不手際について、謝らない」
十二歳の男の子みたいな口調だった。ミシェルは思わず微笑んで、頷く。
彼が指示していたのか、ウェイターがやってきて、背の高いグラスを二脚、テーブル置いた。軽くお辞儀して、さっと踵を返す。
彼はグラスの縁を指でなぞった。「知ってる? キューピッド」
「え?」
「この、凄い色の飲みもの。友達から教わったんだけど、結構いけるんだ」彼はグラスを掴む。「安心して。お酒は一滴だってはいってないから」
「そう……」
ミシェルは自分が、十代前半に戻ったみたいな気分がしていた。彼はグラスの中身を少しだけ飲む。ミシェルも飲んだ。甘くて、しゅわしゅわして、甘い。
彼は他愛もないことを喋った。ミシェルは不思議と、彼の語り口に好感を覚え、気付くと自分も喋っている。彼もまた、アウトドアが好きでこの地へやってきたくちらしい。
「それじゃあ、ホワイトスプリングは? 行ったこと、ある?」
「ないわ」
「あそこはいいよ。とにかく景色が最高なんだ」
「でも荒野よ。狼が出るって、父から禁止されてたから、キャンプも行けなかった。キャンプ禁止は、荒野に限ったことじゃなかったけどね」
ティーンの頃の苦い思い出だ。友達からは、堅苦しいマジメなやつという烙印を押され、ミシェルはひとりで居ることが多くなった。
父は、幼い娘が、なにかしら危険な目にあうことを危惧していただけだ。ミシェルと違って凶悪事件も担当してきた父は、子どもがどんな危ない目にあうか、沢山の例を知っている。その気持ち自体はありがたいが、いきすぎた制限もあったと思う。
父には、派閥のなかから追い出される恐怖は解らなかったのだろう。父はいつだって、友達の中心に居るような人柄だから。
彼は自然に、ミシェルの髪に触れた。肩に掛かったそれを、彼はさっと払って、ミシェルのせなか側へ流す。
「じゃあ僕と行く?」
「わたし達、小学生じゃないのよ」
「解ってるよ」彼はくすっとする。「でも、キャンプの経験がないっていうのは、残念なことだよ」
「外で寒い思いをしたり、虫に刺されたりするのが、いいことなの?」
「いい空気を吸って、自然でどぎつい色彩をじっくり眺めて、電気もないところでスナック菓子を食べるのがいいことなんだよ」
彼が笑い、ミシェルもつられた。
「それは冗談だとしても、景色がいいのは本当なんだ。くるみの森があってね」
「あ」
「なに?」
ミシェルははっとして、テーブルの上で重なっていた手に力を込めた。「ごめんなさい、わたし、名前もいってなかった」
「ああ、そうだったっけ? 楽しくて、忘れてたな。僕はネイサンだよ」
彼――――ネイサンは、にこっとする。「君の名前は? お姫さま」
ミシェルはくすくすする。
「ミシェル」
「ミシェル。ミシェルか。シェリーと呼んでも?」
「そう呼ぶ友達も居るわ」
「それはよくない。僕だけの呼びかたにしたいな」彼は唇を舐め、軽く唸る。「……ミッチ?」
「母方の親戚が」
「チェル」
「それはいや」
「それじゃあ、エルは?」
ミシェルは微笑んで、軽く首を傾げた。ネイサンがミシェルの頬に触れる。
「エル」
「ええ」
「ねえ、こんなことをすぐいうやつだって思わないでもらいたいんだけど、その、よかったら僕ら、連絡先を交換しない?」
ミシェルは頷こうとしていた。ロペスが来るまでは。「やあ、こんなとこに隠れてたのか、マイカ」
ネイサンが立ち上がる。ミシェルは自分の手から、力が抜けるのを感じた。ネイサンの手はミシェルの手から離れ、ロペスが胴間声を出す。
「主催者が隠れているのは戴けないな!」
「ああ、ミスタ・ロペス、どうも」
「君が居ないんで、お嬢さんがたがそわそわして……おやっ!」
ロペスがこちらを見ている。ミシェルは自分が赤面しているらしいと気付いて、顔を背け、席を立った。「ミスタ・ロペス、わたしはもう失礼します」
「そんな、ミシェル。いや、邪魔をするつもりはなかったんだ」
「邪魔だなんてとんでもない。それじゃあわたし、失礼します。ミスタ・マイカ」
ミシェルははずかしかったし、帰りたかったし、怒っていた。ネイサンにも、自分にも。ジョナサン・マイカがこんな、子どもがそのまま大人になったような人物だとは知らなかった。それにしてもどうしてわたしに興味を持ったようなふうをしたのだろう? 着飾った女性達のなかで、明らかに仕事用のスーツを着た、さえない女が居たから、からかってみただけ? たまたまぶつかったの? それともわざと?
女優だのなんだのと、浮名を流している男性だ。ミシェルをその気にさせるのなんて、赤子の手をひねるようなものだっただろう。
単なる悪ふざけだ。意地悪でもないつもりだろう。ミシェルは感情を鎮めて、微笑んでみせた。
「こういうところは楽しいですけれど、わたしの性にはあいませんし、場違いな人間が居ると折角の楽しい雰囲気がだいなしになってしまいますから」
「台無しなんてことはないよ、エル」
ネイサンが臆面もなく、ミシェルの手を掴んだ。ミシェルは顔をしかめそうになったが、とりつくろう。彼は子どもみたいな人間で、本当に悪気はないのだろう。野球カードを集めるみたいに女性を口説く人種は居る。そういうひと達にとって、ミシェルのようなタイプは、シリアルナンバーいりのカードのようなレアものなのだ。
「ネイサン」ミシェルは軽く、ネイサンの手を叩く。「気遣ってくれてありがとう。でも、わたしはやっぱり場違いだから」
「送るよ」
「あなたは主催者でしょ?」
ミシェルはネイサンの手から逃れ、テラスを離れた。ロペスに対しては失礼な態度だが、ミシェルは冷静さを欠いていて、そんなことは考えられなかった。ネイサンのあの感じのよさも、全部なにかしらの策略だったのだろうか?
「エル」
ネイサンが追ってきて、リフトへ向かうミシェルに並んだ。「なにか気に触った?」
「そんなことないわ。本当に、こういう空気に慣れてないの」
「連絡先交換の話は、どうなったのかな」
たちどまった。リフトの前だ。使用人がリフトを操作するかどうか、なやんでいるらしく、ネイサンとミシェルを見比べている。
ミシェルは手を伸ばして、操作パネルへ触れた。それから、鞄のなかから黄色のメモパッドとペンをとりだして、事務所の固定電話の番号を書きつける。びりっと破って、ネイサンにさしだした。「10時から18時半まで、相談をうけつけてます」
リフトの扉が開いた。ミシェルはさっとのりこんで、ぼたんを押す。扉が閉まる。ほんの十分前なら、私用のケータイ番号を教えていたのにな、と、少し残念に思った。