4-004. 運命を視る者③
「はっ――」
指を滑って本が床板に落ちたことで、俺は我に返った。
「――俺は……し、死……!?」
……汗。
いつの間にか、全身に大量の汗が滲んでいた。
息が苦しい。
顔が熱い……気がする。
腹に鋭い痛みがある……気がする。
手首から先の感覚が……今はある。
「顔色が悪いねぇ」
その声を聞いて、俺は全身から熱が引いていくのを感じた。
声の主に向き直ると、老エルフが机に頬杖をついて俺を見つめていた。
「未体験の記憶を実感した気分はどうだい?」
「まるで……すでに経験した出来事のように感じた。文章の一節一節が実際にあった過去のように覚えているんだ」
「本に記された記録。それが文章を通して、お前さんの頭に流れ込んだのさ」
文章の内容を認識した途端、記憶にない出来事を体験した。
否。すでに体験した出来事となって、過去の記憶として思い出せる。
感じた苦痛も恐怖も、違和感がないほど現実味があった。
「……混乱しているよ。前に思い出し玉を使った時よりも鮮烈なイメージが頭の中に残っている」
「ほう。お前さん、あの希少な魔道具に触れたことがあるのかい」
「他人の記憶だったけどな」
「それじゃ衝撃が違うだろうね。思い出し玉は五感と表層的な感情の色だけを体験できるが、ここの本は違う。未来で体験する現実を前借りして得られるのが、自分史の館の魔力さ」
自分史の館、か……言い得て妙だな。
まさに自分の人生が書き綴られた本を収めた館と言うわけだ。
「その様子から察するに、ずいぶん不本意な最期だったようだね」
最期、と言われて俺はギクリとした。
俺が視た出来事が、本当に未来に起こるとしたら……。
顔面が焼ける臭いを思い出して、吐き気を催してきた。
「最後の巻を持ってくる客に交換を勧める理由、わかっただろう」
「ああ。確かにこれは相当くるよ」
自分の死の瞬間なんて、体験するものじゃないな。
しかも、あんな惨たらしい最期なら尚更だ。
「あんな未来、冗談じゃないぜ!」
「少しは落ち着いたらどうだい。貴族や商人ならまだしも、冒険者が見せる姿じゃないよ」
「そ、そうは言っても……」
俺は少しでも落ち着こうと、シリマの対面の椅子へと腰掛けた。
動揺する心を静めようと努めるものの――
「くそっ!」
――やっぱり落ち着かない。
「あれは今からそう遠くない未来だった。数週間か、数日か……」
「そうなのかい?」
「しかも、完全に俺の読み違いが招いた最悪の結末だ」
シリマが顎に手を当てて、少し考えた顔を見せる。
「白い背表紙の本はどのくらいあった?」
「本棚には十冊も無かったように思うけど」
「なるほど。確かにお前さんの寿命は残り短いようだね」
「な、なんでそんなことがわかるんだ!?」
「そりゃあね。黒い背表紙はすでに起きた記憶、白い背表紙はまだ起きていない記憶が記された本だからね」
……マジかよ。
三階までの本棚を埋め尽くすほどの黒い背表紙の本に対して、本棚ひとつにも満たない白い背表紙の本……。
未来を知る恐怖という言葉の本当の意味がわかった気がする。
「まぁ、寿命がわかるのは自分史の館の副作用に過ぎないから気にしないでいいよ」
「何言ってんだよ!? 近いうちに死ぬことがわかったって言うのに、気にならないわけないだろっ!」
俺は思わず両手を机に叩きつけてしまった。
死ぬと決まった未来を視せられては、冷静でいられるわけが――
「落ち着けってんだ、坊や!」
――と考えていると、シリマが机を蹴りつけた。
衝撃で跳ねた机の天板が、不意に俺の脇腹へとぶつかってきたので、俺は思わず机に鼻先を打ち付けてしまった。
「いってぇぇ……」
……鼻血が出た。
「前に来た客も冒険者だった。そいつも最後の巻を手にしたけどね、お前さんみたいに取り乱さなかったよ」
「そいつが鈍かっただけなんじゃ……?」
シリマは鼻を鳴らしながら、背もたれに寄りかかって俺を睨みつけた。
「病死なんかの自然死じゃないことがわかったんだ。儲けもんだろうがっ」
「なんでだよ?」
「未来に起こる出来事を知れたんだ。とんでもないアドバンテージを得たと思えないのかい!?」
それを聞いて俺はハッとした。
未来に起こる出来事がわかるのならば、行動次第で最悪の結末を回避することもできるという理屈だ。
俺は自分の死を受け止めきれず、この魔法の驚異的なメリットに気づくことすらできずにいた。
「……ごめん。情けない姿を見せた」
「ふふん。そういう素直なところは良いね」
シリマは立ち上がるや否や、床に落ちた本を拾い上げた。
「そうがっかりするもんでもなし。この世でもっとも価値ある情報は、まさに未来の情報だ。彼を知り己を知れば百戦殆からずという教訓があるが、それは未来にも言える」
そうだ。シリマの言う通りだ。
悪い未来の情報を得たのなら、それを頼りにいくらでも未来を変えることができるじゃないか。
まだ起こってもいない将来のことなどに振り回されず、間違いのない道を選んで進めばいい。
「とは言え、すでに決まっているお前さんの運命を変えるのは無理だ」
……運命って決まっているのかよっ!
「なんだよそれ! 運命って自分の手で切り開くものだろ!!」
「若造に限ってそういう夢見がちなこと言うんだ。冒険者で逸って死ぬのは若者と聞くけど、事実っぽいねぇ」
この人、占い師のくせに元も子もないことばかり言うな……。
「じゃあ俺は、どうやったってあの最悪の未来に行き着くって言うのか!?」
「運命とは不思議なもんでね。すでに知ってしまった未来は変えられない。お前さんは将来、何をしようともさっき視た未来へと行き着くだろう」
「そんなの受け入れられるかよ……」
「でも、観測できないものは存在しない。例えそれが定まった未来でも」
「さっきから何を言っているんだ」
シリマの言っていることが理解できない。
矛盾をはらんだ言い回しなので頭が混乱してくる。
「なんにせよ悪い未来なら変えたいと思うのも人情。お前さんはどうだい?」
「そりゃあんな未来、変えたいと思うよ!」
「何に代えても?」
「もちろん!」
俺の言葉を聞いて、シリマが白い歯を見せてにんまりと笑った。
……なんだか嫌な予感がしてきたぞ。
「40万グロウ」
シリマが口にした言葉を、俺の頭が理解したがらない。
「それだけ払ってくれりゃあ、お前さんの運命を変えてやる」
この婆さん、本当に占い師なのか?
それとも詐欺師なのか。
あるいは悪魔かもしれない……。
「か、金で……解決できる問題、なのか……?」
「できるよ。あたししかできない、あたしだけの方法で、お前さんのろくでもない未来を白紙にしてやる」
未来を白紙……?
定められた未来を、無かったことにできるという意味か?
シリマの言うことはいちいち理解しがたいが、話の流れから察するにその解釈で間違っていなさそうだ。
……金で命が買えるなら、それもやむなしか。
俺は椅子から尻を上げて、代わりにその場に両膝をついた。
もはや恥も外聞もないが仕方ない。
「40万は……いくらなんでも……無理です」
40万グロウなんて大金、〈ジンカイト〉全盛期でも出せやしない。
俺の報奨金のおよそ2年分の額だぞ。
「なんだい。やっぱり〈ジンカイト〉の稼ぎは大したことないのかい?」
……ギルドの台所事情を知らない人間の言うことは残酷に過ぎる。
今、ウチのギルドは火の車なんだよ!
報奨金すら出せないから、解雇通告なんて胃が痛くなる真似しているんだよ!!
「ネフラはあたしが娘みたいに大事に育ててきた子だ」
「察してるよ」
「あの子には幸せになってもらいたい」
「そりゃそうだろう」
「あの子を泣かせるような奴は、死ねばいいと思ってる」
「……過保護過ぎないか?」
突然、シリマが持っていた本の角で俺の顎を押し上げた。
「あの子を連れまわしてる以上、お前さんにはあの子を守り抜く義務がある」
「当然だ」
「誓いな、坊や。お前さんの暗い未来を白紙にしてやる。その代わり――」
「代わりじゃ誓わない」
「何ぃ?」
「ネフラを守るのは大前提だ。そんな誓い、交渉に必要ない」
黒眼鏡越しに、突き刺さるような視線が飛んでくる。
「ふん。坊やのくせに言うじゃないか」
一体何者なんだ、このシリマという老エルフ。
ただの年の功とは思えないほど、重々しいプレッシャーをかけてくる。
「特別割引で5万にまけてやる。ただし、あの子を泣かせたら割引は取り消し! 残り35万、どんな手使っても回収しにいくからね」
「わかった。ありがとう」
当初の要求額から大きく削減されたことで、俺は心の底から安堵した。
5万グロウなら銀行もギリギリ融資してくれるはず……。
「この先どんな困難にぶち当たっても、絶対にあの子を泣かせるんじゃないよ!?」
「わかっているよ」
「本当に意味わかって言ってんのかね……」
「え?」
「金は今日中に持ってきな! 日が沈むまで待ってやる!!」
「……約束するよ」
一瞬、シリマが訝しむような顔を見せた気がした。
直後、彼女は本を片手に階段へと向かって歩きだす。
「ついてきな」
俺を一瞥するや、シリマは階段を上っていってしまう。
わけもわからないまま、俺は彼女の後を追いかけた。
◇
俺がシリマに連れてこられたのは、四階の端にある本棚だった。
先ほど彼女に伝えた通り、白い背表紙の本が十冊ばかりある本棚だ。
「これだけなら幸いだね」
「幸いって?」
「お前さんは、あたしが何のリスクもなくこんな魔法を使えてると思ってるかもしれないが、そんなことはないんだからね」
シリマは持っていた本を置くや、そっと棚に触れた。
「未来を知ることには代償が伴う。ましてや、定められた未来を変えようと思ったら、人間ごときにゃ荷が重い」
「それって習得が大変な魔法だったってことか?」
「習得はまだいい。行使することで大切なものを失っていく……。それが、あたし達の背負う代償だよ」
あたし達、と言うのが気に掛かった。
でも口出しして癇癪を起されても嫌なので、黙って見守ることにしよう。
「命定開闢!!」
シリマが魔名を唱えた瞬間、本棚にエーテル光が輝き始めた。
そしてその光の中、白い背表紙の本が激しく燃え上がる。
「まさか白紙化って……」
「運命とは揺蕩う波間の如し! しかし、観測された時点でそれは定められた未来となる! ならば結果を消し去れば、運命は再び定まらぬ波間を漂い始める!!」
白い背表紙の本が、すべて灰(?)となって崩れ落ちた。
その直後、本棚を覆うエーテル光は何事もなかったかのように消えていった。
一方で、シリマは突然うなだれてしまう。
「シリマ、大丈夫か!?」
「だ、大丈夫。この体じゃ、これをやるといつもこうさ……」
よろめいたシリマを、俺はとっさに抱き止めた。
とても細い体だった。
……病的なほどに。
彼女が老いているのは、加齢だけが原因なのだろうか。
代償と言うが、それは体に相当な負担があるという意味なのか?
「シリマ――」
目の前の老エルフは、俺から顔を背けて苦しそうに肩を上下させている。
シリマの疲弊した顔を見ることも、余計な問いかけをすることも、今の俺にははばかられた。
俺は開きかけた口を閉じ、シリマが落ち着くのを待つ。
「……これで定められた運命は白紙化された。お前さんの最悪の結末とやらは、無かったことになるわけさ」
「でも、まだ俺はあの未来を覚えているぞ?」
「それが自分史の館の最大のウリさね。忌むべき未来の情報を得、かつその未来を避ける機会が得られる」
シリマが俺へと顔を向ける。
黒眼鏡がズレ落ち、彼女の瞳が露になっていた。
俺が見たその瞳は――
「未来は、お前さん次第ってことさ」
――ネフラと同じ碧眼だった。
この眼の特徴なのか。
まるでこちらの心を見透かされているような不思議な気持ちにさせられる。
「何万グロウも支払う貴重な情報だ。大事に使いな」
そう言いながら、シリマが初めて俺に笑顔を見せてくれた。
それを見て、若かりし頃はさぞや美人だったのだろうと思った。
「あっ」
同時に、俺は失敗したと思った。
最期のページだけでなく、それより前のページも読んでおけばよかった。
どんな経緯であの最悪の未来に行き着くのか、もっとたくさんの情報を集めておくことができたはずなのに……。
「なんだい?」
「いや。まぁ、それも冒険かなって」
その時見せたシリマの訝しむ顔ときたら、ネフラにそっくりだった。
やっぱり家族だな。