B-007. 恋敵
エル・ロワでは、エルフを見ることはめったにない。
〈ジンカイト〉のギルドでも最初こそ珍しがられたけれど、すぐに私の周りは静かになった。
なぜなら、この頃のギルドは魔物討伐に多忙で、二日以上も王都に留まっている冒険者は皆無だったから。
私が再会を願っていたジルコくんも同様。
彼は遠方での掃討作戦に参加していて、私がギルドに加入して間もないこの時期は帰ってきていなかった。
この頃、私は王都で受けられる簡単な依頼をこなしていた。
私のような冒険者の新米は、まずは仕事に慣れること。
ギルドに訪れた最初の日、ギルドマスターから受けた助言だった。
そんなある日のこと。
ギルドの酒場で本を読んでいると、給仕のピドナさんが話しかけてきた。
『ネフラちゃん、蜂蜜酒はいかが?』
『ありがとう』
ピドナさんは私の対面の席に座って、にっこりと私に笑いかけた。
『ギルドにも慣れてきたかしら?』
『はい』
『そう。あなたみたいな女の子が一人で仕事に行くのは、見ていてハラハラしてしまうわね』
『私はまだ等級E。身に危険の及ぶような依頼は受けられません』
『でも、いつまでもそこで足踏みはしていないのよね。あなたも』
ピドナさんは、心配そうな眼差しを私に向けていた。
『冒険者は大変よ。等級が高いほど良い報酬の依頼を受けられるけれど、同時に命の危険も伴うようになってくるもの』
『覚悟の上です』
『冒険者として生きていくなら、決して焦ってはダメ。功を急いだ挙句、酷い目に遭った人達をどれだけ見てきたことか』
ピドナさんの気遣いには痛み入る。
でも、ジルコくんと共に戦うためにも、私は功を急がざるを得ない。
彼の隣で戦うには、まずは私が追いつかなければならないから。
『大丈夫。心配しないでください』
私はピドナさんに小さく笑い返した。
せめて私の存在がピドナさんの負担にならないように。
『そう言えば、ジルコさんが今日帰ってくると連絡があったわ』
私はその名前を聞いて、心臓が高鳴った。
ようやく彼に会える。
私のことを覚えているだろうか。
顔も体も大人になった私を見て、どう思うだろうか。
そんなことが頭の中に溢れ出して自然と口元が緩んでしまった。
『ジルコさんと会ったことがあるの?』
『えっ』
私はとっさに口元を隠したけれど、顔が熱い。
……耳まで真っ赤になっていたかも。
『ふふふ。彼、冒険者らしくないでしょう』
『え?』
『切った張ったが当然の世界で、彼は可能な限り相手を傷つけないようにしている。真似しようと思っても難しいことだわ』
『そう……ですね』
『だからかしら。恨まれることが多いのよ、あの人』
『はぁ』
『もしあなたが彼とパーティーを組むようなことがあれば、色々助けてあげてね』
そう言うと、ピドナさんは席を立って厨房へと戻っていった。
私は彼女の背中を見送るや、読んでいた本を閉じた。
恨みという言葉を聞いて、私は心がざわつく思いだったから。
私自身が何もしていなくとも、運命の糸は自然と私に絡みついてくる。
だからと言って、誰かに恨まれながら生きるなんて嫌。
でも――
『なんなのよあんた? なんであんただけ綺麗なままなの?』
――以前、奴隷の子に言われた言葉。
あの子はまだ生きているのだろうか。
生きていたら、いつか私に復讐しに来るのだろうか。
その時、私はどうするべきなのだろう。
そんなことを考えていると……。
『久しぶりだなぁ! 帰ってきたぞっ』
その声を聞いて、私の悩ましい思考は一瞬にして吹き飛んでしまった。
『お帰りなさい。ジルコさん』
厨房から顔を出したピドナさんが口にしたその名前。
私は心臓が再び高鳴るのを感じた。
『ピドナ婆さん! さっそく肉料理を頼めないかな』
『ええ。良い鹿肉が手に入ったから、ちょっと待っておいで』
ギルドの入り口から入ってきたのは、まさしくジルコくんだった。
洋館での出会いから二年。
ジルコくんはちっとも変わっていない。
『……あ』
心の準備はしていたはずなのに。
どうしてか、緊張して上手く声を出せない。
『……あのっ』
私が必死に声を絞り出して、ジルコくんに声をかけようとした時。
『お前は肉料理はダメだったっけか』
ジルコくんが扉の外に向かって声をかけた。
連れの冒険者がいるのだと思い至り、私は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んでしまった。
『僕は野菜料理がいいな』
『大層な働きだったんだから、もっと豪勢なもの食べればいいじゃないか』
『菜食主義なものでね』
ギルドに入ってきたその人物は、ジルコくんと自然な会話を交わしながら、彼の隣へと立った。
クリスタリオスでもない。
ルリ姫でもない。
そこに居たのは、私が初めて見る女性だった。
『失礼するよ。〈ジンカイト〉の諸君』
『今さらかしこまるなよ。報告を済ませたら一杯やろう』
銀色の髪に、黄金に輝くふたつの瞳。
白銀の鎧に青いマントを羽織り。
氷の彫像のように美しい剣を携え。
聖母のようなほほ笑みをたたえた彼女は、あまりにも美しかった。
『その女性は誰……?』
彼女は〈冷熱の勇者〉アルマス。
私がもっとも憧れ、もっとも敬い、もっとも妬んだ女性。
◇
ジルコくん帰還の翌日から、私はギルドに足を運ぶのをやめてしまった。
帰還の日、ピドナさんが私のことをジルコくんに紹介してくれた。
でも、ジルコくんは初めて出会った時のことを懐かしむだけで、私に必要以上の興味を向けてはくれなかった。
必要以上――それはつまり、私個人のこと。
ハーフエルフであるとか、奴隷だったとか、そんな表面的なことじゃない。
私はもっと劇的な再会を期待していたのに……。
『いつまでしょぼくれてんだい、ネフラ!』
シリマの怒声が館に響く。
でも、その声は私の耳には届いていても心には届いていない。
私はソファーにだらしなく横たわりながら、天井から吊り下がっている怪しいデザインの天幕を見上げていた。
『はぁ。重症だねこりゃ』
シリマの呆れる声が聞こえてくる。
『目当ての男に女がいたくらいで、何を塞ぎ込んでるんだいっ』
『……お願い。今だけは優しくして』
シリマ、それは重要なことなのです。
特に現実を逃避して夢ばかり見てきた女の子にとっては。
『ったく。だから冒険者になるのを反対したんだ。いいかい、冒険者やってる男なんてのはね、チャンスと見れば女に手を出しまくるんだ。種族の保存本能とでも言うべきか……男は狼なんだよ!』
シリマ、それは一部の例外のことを言っているように聞こえます。
誰から聞いても、ジルコは誠実でまともな人格者だと言われるからこそ、私は落ち込んでいるの。
『……シリマ』
『んん!?』
『なんでも願いが叶う魔法や奇跡はこの世にないのかな』
『そんな魔法や奇跡があってたまるかい』
シリマの答えを聞いて、私は深く溜め息をついた。
『で、どうするんだい。もう冒険者の道は諦めるのかい?』
『それは……』
『私はその方が安心だけどね。娘同然に手塩にかけて育ててきた子が危険にさらされるのは気が気じゃない』
……娘って言った。
それを聞いて私は少し元気が出た。
『ごめんなさいシリマ。心配ばかりかけて』
身を起こしてシリマに顔を向けた時、彼女は難しい顔をして考え事をしていた。
『シリマ?』
『う~ん。こうなったら、やるしかないね』
『何を?』
『あたしゃ、あまり好きじゃないんで読んでないけどね。コックローチの小説のひとつに、奴隷の娘が主人である貴族の旦那を寝取る話があってね』
『ね、寝取る……!?』
『つまり略奪愛ってやつさ! 実際に貴族相手にそんな真似したら首が飛ぶけどね。冒険者相手なら恨まれるだけで済むだろうよ』
まさかシリマの口からそんな言葉が出るなんて。
私は自分の悩みも忘れるほど、彼女の出した話題に困惑してしまった。
『え? まさか……それを私にやれって……!?』
『察しが悪い。あんたらしくないねぇ』
『ちょっと待って。無理です、無理! 絶対に無理!!』
シリマは持っていた箒で床を乱暴に叩いた。
それに驚いた私は、思わず口ごもってしまう。
『欲しい物は命懸けで手に入れる! 魔物退治に毒された今とは違って、昔の冒険者ってのはそういう生き物だったんだよ』
『それって、どういう……?』
『お前はまだまだ読む分野が偏ってるねぇ。冒険者ってのは、元々魔物退治の請負人なんかじゃないんだよ――』
シリマは箒を捨てると、椅子に腰かけて続けた。
『――闇の時代が始まるよりもずっと昔。人間は空に流れ星を見た。地上のどこかに落ちたであろうその星を探して、大地という大地を旅するとんでもない馬鹿者が現れた。そいつは襲い来るモンスターどもと戦いながら、ついに落ちた星を発見するのさ』
『星を……!?』
『隕鉄の発見――その由来とされる話さ。そして、冒険者という言葉が生まれた逸話でもある』
『……そんな不思議な話があるんですね』
シリマの宝石のような青い瞳が、黒眼鏡の端から私を睨むのが見えた。
『本当に欲しい物なら、力ずくでも奪い取りな! 弱肉強食って言やぁ自然界の暗黙の掟だけどね。それは人間社会にだって言えることなんだっ』
『でも、私にそんなことできるかな』
私は勇者の見目麗しい姿、その素性、そして功績に対して、強い劣等感を抱いていた。
私などが立ち入る余地があるのだろうかと、考えていた。
『どうせ諦めるなら、当たって砕けろってんだよ!』
『は、はぁ』
シリマの励まし(?)に私は圧倒されてしまった。
この焚きつけるような言い方が、彼女なりの優しさなのだろう。
『私、頑張ってみます。立派な冒険者になれば、きっと彼も私のことを見てくれる。ちゃんと私の存在を認めさせて、隣に立ってみせます!』
『ふん。その意気だよ』
『ありがとうシリマ。私、なんだかあなたのこと本当の――』
『本当の?』
『――おばあちゃんのように感じました』
『おばあちゃん、ね』
そんなシリマのらしくない励ましがあって。
我ながら単純と言うか、私は思いのほかあっさり立ち直ってしまったことを覚えている。
◇
それ以来、私はギルドの依頼に全身全霊を注いだ。
行方不明者の捜索。
町の窃盗事件の解決。
畑を荒らす害獣の駆除。
他の冒険者達と連携して盗賊団の一斉摘発。
私が受けられる依頼の難易度は日に日に上がっていき、ギルド加入から一年が経つ頃には、私の冒険者タグは赤い宝石になっていた。
『私の見込んだ通り、あなたは優秀な魔法使いだったわね』
クリスタリオスからも依頼に誘ってもらえるようになった私は、より効率よく周囲に功績を認めてもらえるようになった。
彼女は恐ろしいけれど、冒険者として依頼をこなす姿勢は真摯だった。
『ねぇ。今日、私の宿で祝杯をあげるのはいかがかしら。その時、あなたの魔法について色々聞かせてもらえると嬉しいわ』
時折、必要以上に顔を近づけてそんなことを言わなければ、私も素直に素敵なお姉さんとして認められただろうに。
……そして、時はさらに現在へと近づく。
半年と少し前のこと。
私は魔王との最終決戦を見越した最終パーティーへと加えられた。
戦場は、遥かなる西方――リヒトハイムの〈大いなる森〉。
私にとって因縁のある地だったけれど、この非常事態に過去の揉め事など思い出してはいられない。
私達は勇者と共に〈大いなる森〉で多くの魔物と衝突した。
この時点で魔王群の本流と戦える戦力が残っていたギルドは〈ジンカイト〉だけだった。
ゆえに、それはギルドが総力をあげて挑むまさに最終決戦。
私は素性を隠しながらも、クロードの指示の下、リヒトハイムの魔導士達と後方支援を担当していた。
背の高い樹林の間から、暗雲が垂れ込める空を見上げた時。
空を切るような放射音が。
大地を割るような振動が。
雷のような発光が。
そして、真っ白い光の柱が暗雲を割った。
……それを見て、私は闇の時代の終わりを悟った。
時代は移り変わり、復興の時代がやってくる。
私は役目を終えた彼女に、対等な関係となって正々堂々と挑戦しようと思った。
だけど……。
魔王が滅びて間もなく、私のその気概は宙ぶらりんになってしまう。
勇者は忽然と姿を消してしまったのだ。