B-003. 出会いと別れ
日が出てきて正午になるかどうかといった頃合いに馬車は停まった。
『降りな!』
マダム・シェバが客車から降りるなり、他の馬車に怒鳴った。
客車を降りた私が目にしたのは、どことも知れぬ森の中にたたずむ不気味な洋館だった。
『うわぁ。森の中の洋館……!』
まるで物語の一幕のようなシチュエーションに、私は思わず唸ってしまった。
『ネフラ! ぼけっとしてないで、さっさと中へ入りなっ』
マダムに怒鳴られたので、おずおずと洋館へ入っていく奴隷の子達に続いた。
『ちょっと、その本――』
『え?』
『……まぁいいや。さっさと行きな』
この時、私は本を持ち出したままだった。
マダムはそれを咎めようとしたのだろうけれど、思い直したのか本を取り上げられるようなことはなかった。
◇
その後、私達は窓のない部屋に押し込められることとなった。
私を含めた九人の奴隷はすでに手枷が外されており、下男によって監視されていた。
そんな時だった。
扉の外が異様に騒がしくなったのは。
『……お前達、大人しくしていろよ』
そう言って、下男が外の様子をうかがいに廊下へと出て行った。
扉が閉められた後、私達は不安に駆られながらも彼が戻るのを待ったけれど、一向に戻ってくる気配はなかった。
さらにしばらくして――
『お前達、黙って俺についてこいっ!』
――血相を変えた下男が扉を開いて入ってきた。
『あの、一体何が?』
『黙ってついてこい!!』
下男が声を荒げて、私の手を掴むや廊下へと引っ張り出した。
私達が廊下を駆け出すと、他の子達も慌ててついてきた。
廊下を走るうちに広間へと出た私達は、マダム・シェバと鉢合わせすることになった。
『姐さんっ』
『ゴリアテ! こりゃ一体何の騒ぎだいっ!?』
『エル・ロワのギルドが網張ってやがったんです!』
『な、なんだってぇ!?』
『奴ら、奴隷商が館に集まるのを待って突入してきました! 事前に情報が漏れてたようで――』
『護衛どもは何してんのさっ!?』
『そ、それが、ギルドの連中とんでもねぇ化け物揃いで』
ドォン、という爆発音が館を揺らした。
『ひっ!』
立て続けに鳴り響く爆発音。
振動で壁には亀裂が走り、天井から破片がパラパラと舞い落ちてくる。
さらに火でも上がったのか、廊下の奥からは白い煙が広間へと吹き込んできた。
『あ、姐さん。ここはもうダメです。早くこの子らを連れてお逃げを!』
『くっ……!』
マダムは白い歯を噛みしめながら、煙を睨みつけていた。
『ちくしょう。せっかく競売だってのに……っ!』
『姐さん、早く!』
押し寄せる煙に飲まれそうになったところ、マダムは踵を返して広間を駆け出した。
下男も彼女の後に続いて走り、私は強引に引っ張られた。
後ろからは、奴隷の子達が死に物狂いで追いかけてくる。
まさかこんなことになるなんて……。
そう思った矢先、突然、私達の前を赤い炎が走った。
『なっ!?』
驚いて足を止めたマダムを、すかさず下男がかばう。
床を燃え上がる炎に唖然としていると、炎の向こうから声が聞こえてきた。
『ほっほっほ。マダム・シェバ、今回は災難でしたなぁ』
炎が割れて、向こう側から紺色のローブに身を包んだ老人が歩いてきた。
口元には白い髭をたくわえ、頭には三角帽子。
まるで童話の世界から飛び出してきた魔法使いのような姿だった。
『誰だ、貴様っ!』
近づいてくる魔法使いに、下男が腰の短剣を抜いた。
『ほっほっほ。たかがゴロツキ風情が、魔導士に立てつく気かね?』
魔法使いは、手にしていた細長い杖で空中へと弧を描き始めた。
杖の先端が光を放ちながら空中に図形を描いていくのを見て、私は驚いた。
この時の私は、魔法の仕組みなんてまったく知らなかったから。
『何が目的だ!?』
『いや。どこのギルドか知らんが、競売をぶち壊してくれたものだからね。私の雇い主がご所望の商品を回収してこようかとね』
『なんだとぉ』
『今回の競売の目玉は、マダムのところのエルフ少女ですからなぁ』
『貴様、このどさくさで競売品の収奪を――』
下男が怒声を上げたその時、魔法使いが描いた魔法陣が完成した。
『お話に付き合ってくれてどうもありがとう』
赤い魔法陣が輝いた直後、炎の槍が瞬く間に下男の胸を貫いた。
『ぐがっ……』
『熱殺火槍――そんな魔法をご存じないかな?』
下男に突き刺さった炎の槍はすぐに消えてしまったけれど、その炎は彼の肩や腰に見る見る燃え広がっていった。
『お、お逃げを……姐さ……ん……』
『ゴリアテッ!!』
上半身を炎に包まれ、下男が床へと倒れ伏した。
彼に駆け寄ろうとしたマダムの足が魔法使いを前にして止まる。
『ほっほっほ。さぁ、マダム。下男のように炭になりたくなければ、素直に商品を渡してもらえませんかな』
『くっ。この卑怯者め……!』
マダムは私をかばうようにして、魔法使いの前へと立ち塞がった。
『マダム……?』
私は困惑した。
なぜこの人は身を挺してまで私を守ろうとするのか、と。
『命あっての物種でしょうマダム』
『……ちっ』
魔法使いが一歩一歩迫りくる。
その一方で、背後からは白煙が私達へと近づいてきていた。
『まぁ、目玉商品以外は燃やしても構わんかな』
そう言うと、魔法使いは空中に魔法陣を描き始めた。
私は混乱しながらも、なんとか生き残ろうと必死に考えた。
でも、当時の私には本物の魔法に関する知識は皆無だった。
だから合理的な判断などできるはずもなかった。
ただ助かりたい一身で、体が勝手に動いたとしか言いようがない。
私は魔法使いに向かって持っていた本を投げつけた。
苦し紛れの子供の浅知恵――
『なっ!』
――でも、この時この場に限ってはそれが功を奏した。
『うおおっ』
本が描き途中の魔法陣に触れた瞬間、まばゆい光を放ちながら――今思えば、あの光はエーテル光だった――爆ぜるように燃え上がった。
魔法使いは驚いて後ずさり、魔法陣も消え去ってしまった。
『この小娘ぇっ!』
さっきまでにこにこと笑っていた魔法使いが、怒りの形相で私を睨みつけた。
私がぎょっとして硬直した時、魔法使いとの間に割って入った影があった。
『おっ!?』
その影は、下男――ゴリアテだった。
『な、に……?』
ゴリアテは魔法使いに正面からぶつかったきり、動きを見せない。
一方、魔法使いの足元には赤い液体が滴り始めた。
……血液だった。
『お……おおっ……!?』
魔法使いの顔に大量の脂汗が浮き出て、魚のように口をパクパクさせている。
『たかがゴロツキでもなぁ、命のひとつでも懸けりゃあジジイ一人くらい……道連れに……できるんだぜぇ……っ』
上半身が炎に包まれるほど重症だったのに。
彼が――ゴリアテが、魔法使いを短剣で突き刺したのだ。
『うぐっ……。若造があぁっ!』
魔法使いはゴリアテを引き剥がそうとするが、彼は離れない。
そして、真っ黒焦げになった顔をこちらへ向けると――
『姐さん、今です。お逃げくだ――』
――崩れてきた天井が、魔法使いもろともゴリアテを押し潰してしまった。
『ゴリアテェーーーッ!!』
マダムの声にゴリアテからの返事はなかった。
それどころか、広間を煙が覆い始めたせいで満足に息もできなくなってきた。
『マダム……』
『くそっ!』
マダムが私の手を掴んで走り出そうとした時、さらなる振動が建物を揺らした。
『!?』
そして、今度は私達の真上から天井が崩れ落ちてきた。
◇
『ううっ……。マダム? みんな?』
偶然にも瓦礫の隙間に入り込んでいた私は、幸い傷ひとつなかった。
すぐに瓦礫から這い出したけれど――
『……無理、だ』
――とても人を捜せるような状況ではなかった。
平坦だった床には瓦礫が積み上がっていて、出口を探すのも一苦労。
しかも、白煙が私の膝の高さまで漂い始めていた。
『――のせいよ』
不意に、聞き覚えのある声が私の耳に届いた。
煙の中からよろよろと黒い影が私に向かって近づいてくる。
煙が晴れた時、そこに居たのは――
『げほっ、げほっ』
――奴隷の子の一人だった。
『無事だったのね!』
独りじゃない。
そう思った瞬間、私は自然と口元が緩んでしまった。
喜び勇んで彼女に近づこうとすると――
『あんたのせいよ!』
――悲鳴のような声をあげたので、私は足を止めた。
見れば、彼女の肩口には火がついており、顔も半分ほど焼け爛れていた。
『これも全部、あんたのせいっ。あんたさえいなければぁ!』
彼女の手には、刃に血のりのついた短剣が握られていた。
それはきっとゴリアテが魔法使いを刺した時のものに違いない。
『ま、待って』
『なんなのよあんた? なんであんただけ綺麗なままなの?』
破片の転がる床を一歩、また一歩と近づいてくる。
『必死にマダムに愛想良くして。今日のためにやりたくもないことさせられて。あたしがこんなことになってんのに、なんであんたは綺麗な顔のままなのよ!?』
赤く血走った目は正気ではなかった。
彼女の視線から感じられるのは、紛れもない殺意。
『あんただけ自由になんてさせないっ。死んでもさせるかっ!!』
短剣を握る彼女の両手が、私の胸へと突き出された。
でも――
『……っ!?』
――短剣の刃は私に届くことはなかった。
私と彼女の間に、マダム・シェバの体が割り込んでいたから。
『マダム……ああぁっ!?』
短剣の刃は、深々とマダムのお腹へと突き刺さっていた。
私が悲鳴を上げた瞬間、彼女は奴隷の子を睨みつけた。
『ひっ……!』
怯えた奴隷の子は顔面蒼白のまま、逃げるように煙の中へと消えて行った。
『馬鹿な子だねぇ。私の自慢の商品を傷つけようとするなんて、少し……教育が足りなかった……かね……ごほっ』
『しゃべらないで!』
マダムが床に崩れ落ちる寸前、私はその体を抱きかかえた。
彼女は頭からも血を流していて、お腹の傷以外も決して軽傷ではなかった。
『あ、あれ……? おかしいね。こんなはずじゃ……なかったんだけど……』
お腹の血が止まらない。
……もう助からないと私にもわかった。
『どうして……どうしてっ!?』
私はマダムの顔を覗き込みながら、必死に絞り出した声で問いただした。
いつの間にか私の両目には涙が滲んでいた。
『金のなる木を……むざむざ奪われて……たまるかってんだ』
『ああぁううぅ……』
私は気が動転していて、まともに口が動かなかった。
まごまごしているとマダムが笑いながら口を開いた。
『お前の目、見てると、心が……安らぐ、んだよ』
『え?』
『本当は、もっと早くに……手離すつもりだった……。だけど、お前の目を気に入っちまって……今日まで……ごほっ』
『マダム! もうしゃべっちゃダメ!!』
『なんでかね? 人身売買やっていて、お前だけは……手離す気になれなかったのは』
『待って』
『あぁ、眠いよ。まずったねぇ』
『待って!』
『まぁ、こんな最期も、悪くは……』
私の腕の中でマダム・シェバは動かなくなった。
『お……かぁ……』
……頭の中がグシャグシャだった。
私はその場にへたり込んだまま動くことができずにいた。
ガラガラと崩れ落ちる天井に、自分も飲み込まれるのだろうと思っていた。
『いたぞ! 商品は無事だ!』
そこへ、男の声が聞こえてきた。
私が声のする方へと向き直ると、瓦礫の上から何人もの男達が私を見下ろしていた。
『あのジジイどこ行きやがったぁ?』
『んなこたぁどうでもいい! さっさと拉致って引き上げるぞ』
男の一人が瓦礫を滑り下りてくるや、私の胸倉を掴み上げた。
この人も私を商品としてしか見ていないとすぐにわかった。
ああ。誰か助けて。
私は心の中で助けを求めた。
誰も応えてくれないとわかっていながら、そう思わずにはいられなかった。
『立ておらぁっ!』
男が声を荒げたその時。
耳をつんざくような音が広間に響き渡った。
同時に、男の手のひらに大きな穴が開いたのを私はハッキリと目にした。
『痛ぇぇぇっ!』
男が手のひらの惨状に驚いていると、突然、風が周囲の煙を巻き上げた。
『それまでにしとくんだな。ゴロツキども』
風が吹きつける方向へと目を向けると、そこには銃を構えた男の人が。
『エスコートの仕方も知らねぇ奴は、俺達〈ジンカイト〉がぶっ潰す!!』
それが私とジルコくんの出会いだった。