B-002. 夢見る少女
『マダム。例の長耳の子の様子はいかがかね』
『ほほほほ。より美しく育っておりますわよ』
『拝見させてもらうことはできるかな』
『それはご勘弁を。私どもも商品の扱いには気を使っておりますので』
扉の向こうから聞こえてくる会話。
また飛び込みの客が訪ねてきたのだろう。
長耳とは、奴隷商界隈で使われるエルフの隠語。
つまり私を目当てにやってきたということ。
……私はこの頃、ある奴隷商の仮宿で暮らしていた。
『次の競売で改めてお披露目いたしますわ。その時はぜひともご贔屓に』
『わかった。その報せを待つことにしよう』
交渉は終わり、その人物の声も足音も聞こえなくなった。
しばらくして、赤いドレスの女性がノックもせずに部屋の扉を開いて入ってくる。
『ったく、あの旦那様にも困ったもんだねぇ』
彼女の通り名はマダム・シェバ。
かつて私を母から買った奴隷商の主人。
ブロンドの長い髪に浅黒い肌をした女性で、肩をはだけさせた赤いドレスの上から黒いケープを羽織っている。
顔をヴェールで隠しているのは職業柄そうせざるえないからだと思う。
彼女はソファに座るなり、顔を覆っていたヴェールを剥ぎ取った。
そして、すぐ後ろについて部屋へと入ってきた下男から葉巻を受け取り、手近にあった火打ち石で火をつけた。
『半年前に催した見本市からこっち、たびたび足を運ばれても困っちまうよ』
『あの旦那、ご新規様ですよね。もしかして例の国の使いなんじゃ』
『はっ! だったら私らとっくに全員消されて、商品も奪われてるよ!』
マダムはふぅっと煙を吐くと、対面に座る私を睨みつけた。
私はとっさに顔を背けて、手元に開いていた本へと目を落とす。
『ただの色狂いのジジイだろうね。シラフで12のガキを買い求めるなんざ、まともに日の下を歩ける人間じゃない』
『姐さんがそれを言いますかい』
『うるせぇや』
そっと顔を上げると、私を見据えているマダムと目が合った。
『あれから四年か……。時の経つのの早いこと――』
そう。
私がこの人に買われてから四年の歳月が経っていた。
『――このまま健やかに成長しておくれよ。お前は次の競売の目玉なんだからね』
私は、この人の下で飼い殺しの生活を送っていた。
まともな服を着せられて、水も食料も困るようなことはない。
私が本を好きだと知ってからは写本を取り寄せて読ませてもくれる。
……すべては私に値がつく、その時のため。
『しかし、視力が悪いことだけが玉にキズだねぇ』
『それなら姐さんのツテで新しい眼鏡を依頼してるとこですよ』
『んなことを言ってんじゃないよ。ま、買われた先じゃ眼鏡なんざあろうとなかろうと関係ないか――』
いやらしい笑みを浮かべながら、マダムは続ける。
『――その体で、買い主様を満足させられれば済む話だからね』
私はその言葉の意味を考え、おぞましさに身を震わせた。
私の絶望の人生は始まったばかり。
この先、私の心をもっと闇に沈めるような末路が待っている。
そんな暗い未来を想像するたびに、私は不快感で顔を歪めたものだった。
この頃になると、私は感情を顔に出すようなこともなくなっていた。
なぜなら、不快感を顔に出すとマダムから酷く脅されたから。
相手を不快にさせるな、愛想よくしろ、と何度言われたことか。
それが怖くて、いつの間にか私は感情を表すことをしなくなった。
……感情を押し殺すことに慣れてしまったのだ。
『ま、あんたは他の子と違って字の読み書きもできるし、知恵も知識もあるからね。運が良ければ、買われた先で人並みの人生を送れるかもねぇ』
私は澄ました表情でマダムを見据えていた。
心の中は恐怖と不安に満ちていたけれど、それを訴えることはしない。
葉巻を吸い終えたマダムは、下男に私を檻へと戻すように命じた。
私は名残惜しみながらも本を置き、手招きする彼の後について部屋を出た。
その時、私の背中にマダムの声が届いた。
『近々、あんたが希望してたコックなんちゃらの本が手に入るだろうよ。楽しみに待っときな』
『ありがとう……ございます』
マダムの方針で、私は特別に檻の外で過ごすことを許されていた。
両手足に枷をつけられたままだったけれど、それでもある程度自由に本を読める環境があることは私にとって幸いだった。
マダムの仕事の合間、私は彼女から直々に奉仕についての知識を与えられた。
思い出すだけでもおぞましい知識だけれど、そういったことが丁寧に記されている写本があることを知って、私は不本意にも感嘆したことを覚えている。
ひとしきり授業を終えると、マダムは私を愛でながらお酒を嗜み、眠る頃にようやく檻へと戻される。
その際、眼鏡を取り上げられるのでまともに物が見えなくなる。
視力の弱い私には、もっとも怖い時間だった。
『眼鏡――』
『え?』
地下へ続く階段の途中で、珍しく下男が話しかけてきた。
『――ガラスも割れて古くなってるから新しいのを頼んである』
『……そう、ですか』
『フレームの材質はトネリコの木だから長持ちすると思う』
『ありがとう……ございます』
『別にお前のためじゃねぇ』
その後、私は地下室にある檻へと閉じ込められた。
薄暗い部屋に小さな檻が並べられている地下室は、風もなく、音もなく、不気味な静けさを漂わせる。
階段の奥から差し込むわずかな灯りだけが、せめてもの慰めだった。
『いいわね。エルフは特別扱いされて』
暗がりから私を蔑む声が聞こえてきた。
『ほんとにね。きっと買い手も立派なお大尽に違いないわ』
『履いて捨てるほど売られてくるヒトの子よりも、エルフは価値があるってことかよ』
私は地下室が嫌いだった。
奴隷の子達からの蔑みや妬みの声が、毎晩、私の心を抉ってくるから。
ここにいるくらいなら、マダム・シェバに脅されている方がよっぽど気が楽。
何よりも、大好きな本を読めることが心のよりどころだった。
『不公平だわ。同じ奴隷のくせに、私達よりも待遇が良いなんて』
『いつも肌がつやつや。それだけ良い物を食べさせられてるってことでしょう』
『あたしらみたいに、かたいパンや麦粥だけの食事じゃ肌も荒れるってのにねぇ』
……何よ。
私だってパンと麦粥だけの生活なら経験がある。
それに今の待遇だってマダムの打算に過ぎないのに。
『もう寝ましょう。マダムのお気に入りと話していても不愉快なだけだわ』
『と言っても、この子の声なんて聞いたことないけどね』
『つまんねぇや。もう寝ようぜ』
しばらくして、奴隷の子達の声は聞こえなくなった。
周囲の檻を覗き込むと、すでに彼女達は毛布にくるまって眠っている。
私と違って、彼女達は日に数度の化粧室行き以外は地下から出ることを許されていない。
私に比べれば酷い扱いを受けていると思う。
でも、私達が同じ立場であることに違いはないでしょう。
どうして私に蔑むような言葉を投げかけるの。
私があなた達に何をしたの。
……そんな孤独感に打ちひしがれながら、私の一日は終わっていった。
◇
私が13歳になって少ししてからのこと。
ある時、マダム・シェバが嬉しそうな顔で仮宿へ戻ってきた。
『どうしたんです、姐さん』
『やっと競売の日取りが決まったんだよ!』
『本当ですかい!』
『リスク覚悟でエル・ロワに出てきて正解だったよ。このご時世、アヴァリスじゃ奴隷市なんて開いても買い手なんてつきゃしないからね』
ソファに腰をかけるや否や、マダムは嬉しそうな顔で私を見入った。
『いよいよお前に値がつく日がきたよネフラ』
『……』
『この時のためにお前を処女のまま飼ってきたんだ。競売当日には、有事のストレスをぶつけてくる変態紳士どもばかりが集まってくる。お前を買うのはそんな輩の中でもとびっきりの変態だろうねぇ!』
『……』
『肌艶はもちろんのこと、13にしては発育もいい。しかもエルフとくれば、一体お前にどれほどの値がつくか。今から楽しみだよ!』
『……わ、私は、ハーフ……エルフです』
そんな事実に何の意味もないのに、私は口が動いてしまった。
もしかすると、マダムが気まぐれを起こして私を競売に出さず、手元に置いたままにしてくれるかもしれない。
愚かにも、この時の私はそんな期待を抱いていた。
でも――
『はっ! 東方だってハーフエルフの存在は知られてるけどね。ヒトの耳より長けりゃそれがエルフだと信じて疑いやしないよ!』
――そんな甘い奇跡は、物語の中だけのこと。
『いいかいネフラ。よくお聞き!』
マダムがソファから腰を上げ、私へと近づいてくる。
『お前はハーフエルフじゃない。純粋なエルフの娘だ』
彼女の手が私の顎を掴み上げる。
『お前自身のためにも、その方がいい。頭の良いお前ならわかるだろう?』
私は、自分の頬に涙が伝っていることに気がついた。
すべてを諦めてしまって以来、涙を流すことを忘れていた。
それなのに、なぜ今……?
『競売の時はお前の故郷の民族衣装を着せてやるよ。少し前の取引で偶然手に入れたからね。持参金みたいなもんさ、大事にしなっ!』
マダムが離れるや、私はその場に崩れ落ちた。
写本を抱きしめ、私は誰にも聞こえないよう静かにすすり泣いた。
……五年。
私は奴隷としてではあるけれど、マダム・シェバの下で五年も過ごした。
彼女からは清濁問わず色々なことを教わった。
もう一人の母親のように思っていた。
でも、私はお金のために売られていく。
私はまた、母親によって売られていくのだ。
◇
競売当日の早朝。
仮宿を発つ時、私達はマダム・シェバから徹底的に脅された。
『いいかいお前達。逃げようなんて考えるんじゃないよ!?』
マダムの持つ鞭が地面を打ち付けるたび、私達は怯えて縮こまった。
両手足に枷をはめられた上、首輪に鉄鎖までつけられているというのに、マダムは私達の心に最後の楔を打ち込んだのだ。
『はっ! しおらしいねぇ。……四人ずつ荷台に乗りなっ』
私を除いた奴隷の子達は、下男や他の男の人(用心棒?)に首輪を引かれて、幌馬車の荷台へと乗せられていった。
私も彼女達に続こうとしたけれど、マダムに腕を引っ張られて――
『何してるんだい。お前は私と同じ馬車でいいんだよ』
――私だけマダムの箱馬車へと同乗させられた。
その時、他の子達から向けられた冷たい視線を私は生涯忘れられそうにない。
そして……。
マダムと私を乗せた箱馬車が一両。
奴隷の子達を乗せた幌馬車が二両。
計三両の馬車が、朝霧のかかる街道を走り出した。
客車の中でマダムは上機嫌だった。
御者をしている下男に時折声をかけては、競売に関わる話をしていた。
私はリヒトハイムの民族衣装を着せられ、自分の心を落ち着かせるためにコックローチの著書に目を通していた。
……でも、ぜんぜん心は休まらなかった。
『顔が強ばってるよ、ネフラ。しゃんとしな!』
『は、はい』
マダムに指摘されて、私は気持ちを静めようと深呼吸を繰り返した。
けれどやっぱり心を平坦に、とは程遠かった。
その時、マダムがひょいと私の眼鏡を取り上げた。
『!? な、何を――』
『前から思ってたけど、お前の目は宝石みたいだねぇ』
『え』
『なんて言うか、不思議な目をしてるよ。エルフってみんなそうなのかい? そういや、お前の母親も同じ目をしてたっけね』
突然そんなことを言われたものだから、私は困惑した。
ずっと忘れようと努めてきた母のことを思い出してしまって、胸が締め付けられるような思いだった。
『競売の間は眼鏡をしまっておきな。その方が見栄えがいいからね』
『……はい』
マダムからの言葉を受けて、私は酷く落胆したのを覚えている。
この時の私は、まだ何かを期待していたのだろうと思う。
私はトネリコの眼鏡を返してもらうと、再び本に目を落とした。
せめて取り乱さないようにと、私は本の中の物語に没頭しようと努めた。
物語は良い。
例え絵空事であっても、辛い今を忘れさせてくれる。
この頃の私にとって、本とは――物語とは、救いそのものだった。
白馬の王子様が囚われのお姫様を助けに来る。
そんな幻想を夢見ることに、罪などありはしないのだから。