B-001. ある親子の肖像
ハーフエルフには人権がない。
生まれた瞬間、存在自体が大罪として咎められる。
純血の者達には決して認められない忌むべき存在。
エルフの国では、それが法だった。
◇
『急ぎなさい、ネフラ』
『はい』
8歳の頃だろうか。
私は母に手を引かれて〈大いなる森〉を東へ越える旅を始めた。
〈大いなる森〉は、広大にして深淵。
50mはあろう背の高い巨木がそびえ立つ樹海は、まだ小さな私にとって恐ろしい世界だった。
巨木のひとつひとつには蔓がとぐろを巻いており、樹冠の隙間からそそぐ日の光によって、足場はかろうじて照らされていた。
私達はそんな頼りない明かりの下、わずかに残る轍をたどりながら、茂みの間隙を縫って外界を目指していた。
『お母さん……』
『黙っていなさい』
私が恐怖に耐えかねて声をかけても、母はそう言うばかりで目も合わせてくれなかった。
母の視線は常に前を向いており、後ろにいる私には一瞥もくれない。
それでも手を強く握ってくれている事実が私の心の支えだった。
その時の私はまだ小さかったけれど、どうして危険な獣道を通ってリヒトハイムを脱出しようとしているのかは理解していた。
それは、私という存在が産まれた事実が明るみになったから。
『どうしてこんなことに――』
『お母さん』
『誰がこの子のことを密告したの――』
『お母さん』
『もう少し時があれば、理由をつけて外に出る機会もあったのに――』
『お母……』
『ああっ。こんなことで捕まったら、あの人とまた会うことなんて――』
『……』
母は、自分本位な女性だった。
私の話を一度だってちゃんと聞いてくれたことはない。
きっと私が産まれる前もこの人は誰の話も聞かなかったのだろう。
湖の巫女として、祭祀で水の精霊を使役するのが母の役割だった。
古来からの慣例で巫女の役職に就いたエルフは生涯独身。
女性ならば処女を誓い、終生、精霊に身を捧げることが決まっていた。
でも、母は唐突に課せられた使命を捨てた。
すべては、母の暮らす集落へと外界人が現われたことがきっかけだった。
彼らは東の国ルスからやってきた冒険者ギルドの一団で、ルスを襲撃した魔物の群れを追って、リヒトハイムの領土へ足を踏み入れたのだとう。
母は彼らと交流するうち、冒険者の一人と恋に落ちた。
後日、ギルド一行は不当な手段でリヒトハイムに入り込んだことが露見し、国外追放されてしまった。
だから母とその冒険者が共に過ごしたのはひと月にも満たなかった。
それでも私という子供が産まれた。
『ルス。ルスよ。ルスに向かえば、きっとあの人に会える』
『……』
八年間、私の存在は隠し通されてきた。
でも、何かのはずみで母の不義が明るみとなり、ほどなくして私の存在も露呈してしまった。
ハーフエルフの存在は大罪――見つかり次第、極刑と定められている。
そして、不義によって子をはらんだ母親も重罪を課せられる。
だから私達は逃げている。
もはやリヒトハイムでは生きていけない。
私達はいまや罪深い親子だから。
『! ネフラ隠れてっ』
突然、母の手が私の顔を突き飛ばした。
あわや地面に転びそうなところを何とか耐え凌ぎ、私は母に寄り添って茂みの中へと身を隠した。
茂みの隙間からは周囲を見回すエルフ達の姿が見える。
『もうすぐ待ち合わせの場所だと言うのにっ。ここまで来て、捕まってたまるもんですかっ』
……母の顔が怖い。
湖の巫女として、精霊を操っている時とはまったく違う表情。
何が母をここまで怖い顔にさせているのか、この時の私にはわからなかった。
◇
それから数日の後。
私達は見つかることなく無事にリヒトハイムの領土を出ることができた。
今は早朝の霧の中、荒れ果てた街道を荷馬車に揺られている。
『もうすぐモリアの鉱山街でさぁ』
荷馬車には私と母と、もう一人――セリアンの行商人が座っていた。
頭にターバンを巻き、布の間から長い耳をぴょこんと伸ばしたウサギ族の男性だった。
『ところで約束のブツは……』
『わかってるわよ』
荷台がガタゴトと揺れる中、母は身に着けていたティアラを脱いで、行商人へと差し出した。
そのティアラは、湖の巫女と認められた者に預けられるエルフの宝だった。
『へへっ。駄賃は確かにいただきやした』
『この後の約束も守ってもらうわよ。私達のことは誰にも――』
『わかっていやす。あっしも商人の端くれ。取引で嘘はつきやせん』
私はこの時、母が二度とリヒトハイムへは戻らない決意なのだと察した。
国宝を外界人に譲るなど大罪だ。
きっと私達を逃がしたことと、口止めのために支払った代価なのだろう。
『モリアに着いたら、ルス地方行きの駅馬車に乗ってくだせぇ』
『ルスだとエルフは目立たないかしら?』
『そいつはドワロウデルフでも同じでさぁ。ルスはリヒトハイムと国交がない分、逃げる時間を稼げますぜ』
『道中、魔物と鉢合わせることはないんでしょうね?』
『そうなっても大丈夫なように、冒険者が道中防衛してくれやすよ』
『冒険者が……』
母の表情が優しくなった。
冒険者と聞いて意中の相手を思い出したのだろうか。
それはこの八年間、母がずっと想い焦がれていた相手。
……私は顔も名前も知らない男性だ。
しばらくして、馬が足を止めた。
霧も晴れ始め、私は自分達がすでに街の広場にいることに気がついた。
ぼんやりと見える建物からはうっすらと灯りが漏れていて、小さく人の声が聞こえてくる。
近くに立っている看板を見て、ここが鉱山街モリアだとわかった。
私がリヒトハイムの外で初めて訪れた人の住む町だった。
『まずは南東にある小さな宿へ行ってくだせぇ。そこの亭主があっしの古い馴染みでね、服やら旅の路銀やらを用意してまさぁ』
『そう。すまないわね』
母に引っ張られて、私は荷台から下りた。
恐る恐る周囲を見渡していると、私は商人に見つめられていることに気が付いた。
『ところでお二人とも、変わった瞳をお持ちで』
『詮索無用と言ったはず。ルスの商人はずいぶん不躾なのね?』
『へへっ。こいつは失礼しやした。このこたぁ忘れておきやすよ』
この商人の笑い声は、私には不快だった。
会って間もない私を値踏みするような目で見てくるし、しゃべる言葉も身振りも何もかも軽薄に思えたから。
『ティアラを売るなら慎重にさばいてちょうだい。すでに故郷から追手がかかってるだろうから、近隣の市場では――』
『わかってやす。足のつかない東方の闇市に流しやすから、ご安心を』
そう言うなり、商人は御者に命じて馬を走らせた。
馬車はすぐに霧の中へと消えてしまい、私達は人気のない街の広場に二人きりで残された。
『さぁ、行くわよ』
母は私の腕を強引に引っ張ってモリアの宿へと急いだ。
そこに私の意思はなく、ただ引っ張られるだけの存在である自分に、私の胸は不安でいっぱいになった。
◇
それから二ヵ月ほど、私と母はルスへの旅路を過ごした。
私は立ち寄った町で親子連れを見かけると、羨望を抱くようになっていた。
父親がいて、優しい母親がいる。
そんな子供達を見るたび、私は嫉妬に駆られてしまった。
母は私が疲れても歩くのを止めず、私が水や飲み物を欲しても自分が休むまで我慢しろとしか言わなかった。
そのうち私の手を引っ張ることもしてくれなくなった。
その頃から、母にとって私は一体何なのかと思うようになった。
『ああっ! 今日もまたこんな安宿に泊まらなきゃならないなんてっ!』
道中、宿に泊まるたびに母は嘆いていた。
『今日もパン一切れに麦粥。明日も、明後日も、これからもずっと。もうお金に換えられる物も無いのに……!』
故郷から持ち出してきた装飾品はすでに底をついていた。
一時、母は私の眼鏡までも売りに出そうとしたけれど、レンズが割れていたために値打ちがつかず、売るのを諦めたこともあった。
『こんな生活も、ルスにさえたどり着けば……。あの人と会えさえすれば……。ああっ、もうっ!!』
次第に物へ当たるようになった母を見て、私は身の危険を感じるようになった。
結局、母が私に手をあげることはなかったのだけれど、この頃の私は毎晩震えながら毛布にくるまっていたのを覚えている。
私は母の娘のはずなのに、ちっともそんな気がしなかった。
それからさらにひと月。
私が宿で目を覚ますと、部屋には私一人しかいなかった。
廊下から言い争うような声が聞こえてきたので、私は耳を澄ました。
『――話が違う! これじゃ安すぎるわ!』
『追手がかかってんだろう? それを知った上で引き取るって言ってんだ』
『だからって……』
『いざとなれば殺しも辞さない連中なんだろ。あたしらもリスク背負ってんだ』
『せめてもう10万グロウ出してよ!』
『わかったわかった。……あんた、死んだら地獄へ落ちるよ』
『私の信仰では、死は自然へと還るだけよっ』
……静かになった。
廊下で、母が誰かと言い争っていたのは私にもわかったけれど、その理由はさっぱりわからなかった。
『邪魔するよ』
『……誰?』
扉を開いて廊下から入ってきたのは、母ではなかった。
赤いドレスで派手に着飾った、見たこともないヒトの女性。
彼女は黒いステッキでそっと私の顎を押し上げて、私の顔を舐めるように見入ってきた。
『ふぅん。こりゃ上玉だねぇ』
『な、何……?』
私は、恐ろしさで胸がいっぱいだった。
すぐに母に抱き着きたいと思った。
けれど、部屋の中に母が入って来てくれることはなかった。
『名前は?』
『……ネフラ』
『歳は?』
『8歳……です』
『賢そうな子だね。ちゃんとしつけりゃ、かなりの商品になりそうだよ』
その言葉を聞いて、私はぞわっとした。
私は今にも気が遠くなりそうになるのを耐えながら、目の前の女性に尋ねた。
『お母さんは……?』
『はっ! 自分の立場がまるでわかってないようだねぇ』
その女性は呆れるような顔を見せた後、廊下に向き直って叫んだ。
『お別れの挨拶でもしてやりな!』
お別れの挨拶……?
私がその言葉の意味するところを考えようとした時、廊下から小太りの男性が顔を覗かせて言った。
『姐さん。あの女、もう出てっちまいましたよ』
『はあぁっ!? なんだってぇっ!?』
驚いた女性が廊下へと顔を出すと、しばらくして肩を揺らしながら私へと振り返った。
『はははっ! とんだアバズレだねぇ、あんたの母親!』
女性が顎に手を当てて笑い始めるのを見て、私はとっさに窓を開けて身を乗り出した。
『ちょっと! 逃げようったってそうはいかないよ!!』
私はすぐに女性に羽交い絞めにされてしまった。
けれど、逃げることが目的なんかじゃない。
『お母さん――』
私が窓の外で最初に見つけた母の背中。
その背中に、私は必死で呼びかけた。
『――お母さんっ!!』
……でも、母は私に振り返ってはくれなかった。
重そうな荷袋を抱えながら、私に背を向けて、母は街の喧騒の中へと消えて行ってしまった。
『ったく、面倒かけるんじゃないよ!』
窓際から突き飛ばされた私は、床に尻もちをついた。
そして、そのまま体の動かし方を忘れてしまったかのように動けなくなった。
私はこの時、母に売られて誰の子でもなくなったことを悟った。
『哀れな子だね。でもこのご時世、あんたみたいな娘は珍しくないのさ。魔物が跋扈する闇の時代でも、金がなきゃ人は生きちゃいけないんだからね』
『私は……私はこれからどうなるんですか?』
ようやく絞り出せた言葉。
直後、赤いドレスの女性が冷たく言い放った。
『たった今からお前は私の所有物だ。たっぷり時間をかけて、最高の商品に仕立ててやるよ』
私は涙が止まらなかった。
母の顔を思いだすだけで、涙が溢れてくる。
……なぜなの?
私には、怖い顔の母しか思い出せなかった。
考えてみれば、母が私に笑いかけてくれたことなんてなかった。
ただの一度も。
私は、母にとって装飾品のひとつに過ぎなかったのだ。
……絶望。
それが故郷の外で私が最初に知った感情だった。