3-045. ありがとう
身動きが取れない状態で、得体の知れない何かが自分に近づいてくる。
それほど怖いことが他にあるだろうか。
俺は赤焼けた空を見上げながら、いつ自分の視界の中にそれが顔を覗かせるか気が気でなかった。
もはや抵抗する力もないが、せめて最後の最後まで――
「殺すなら殺せ」
――強い心は失わずにいようと思った。
「だけど、そこに寝ている眼鏡の子だけには手を出すな」
言うだけ言ってみたが、それに――魂のない人間に、そんな願いを聞き入れるような慈悲の感情があるのか?
生まれながらに礼節と品性を兼ね備えた淑女か。
あるいは、途方もない無敵の力を備えた怪物か。
……前者であってほしいと願う俺がいる。
そして、俺の視界にそれは現れた。
「あ」
俺が見たそれは……。
白金のような美しい髪を風になびかせ。
白い肌には朝焼けの陽を受けて赤みが差し。
見開かれた赤い双眸はキラキラと宝石のような輝きを放って。
恐怖心が一瞬で消え去るほど、穏やかで優しいほほ笑みをたたえていた。
「ああ」
その美しくも切ない赤い瞳を見ていると、まるでこちらの心を見透かされているような不思議な気持ちになる。
この目を見ていると心が安らぐのはなぜだろう。
「俺は……」
……俺は、間違っていた。
俺の目の前にいるのは怪物なんかじゃない。
この子には心がある。
今はもう不思議とその確信があった。
彼女は身を屈ませると、俺の胸に小さな指先を当てた。
「な、何をっ!?」
白い指先がきらりとエーテル光を放つ。
その瞬間――
「うわっ!?」
――俺は体内に、まるで風が突き抜けて行くような感覚を覚えた。
息苦しかった体が楽になり。
全身を襲っていた痛みが消え去り。
頭の先からつま先まで、体の外と内を問わずに俺の傷は癒されていった。
……信じられない。
聖職者の癒しの奇跡など比較にもならない。
俺の体がおおむね全快すると、次に彼女は人差し指と中指を空へと向けた。
すると、遠くから瓦礫の崩れる音が聞こえてきた。
「……?」
俺が身を起こした時、ひっくり返った岩盤の奥から、ひゅっと小さい物がふたつ飛び出してくる。
まるで意思を持つかのように空中で弧を描き、彼女の元までやってきて止まった。
それは、俺の切断された右腕とミスリル銃だった。
彼女が人差し指を折ると、空中に浮いていた腕が俺の体――右腕の切断面に飛んできて、ぴたりと張りついた。
数瞬後には、失われたはずの俺の右腕が違和感なく動くようになっていた。
次に彼女が中指を折ると、浮遊していたミスリル銃がゆっくりと俺の手元に降りてくる。
俺は両手で相棒を受け取り、恐る恐る顔を上げた。
「あ――」
にこにこと終始笑顔を絶やさない赤い瞳の少女が、そこにはいた。
「――ありがとう」
俺が礼を言うと、彼女は一層チャーミングな笑顔を見せてくれた。
そして踵を返すや、今度はネフラの横で足を止めた。
彼女が倒れているネフラを指さすと、その額にあった傷が見る見る塞がっていき、血の流れた痕すらも消えてしまった。
おまけに、割れていたネフラの眼鏡まで元通りになっていた。
「ん……」
ほどなくして、ネフラが目を覚ました。
「!?」
目の前に裸の少女が立っていることに気づいたネフラは、ビクッと身を怯ませて固まってしまった。
きっとこの子が人造人間だと察したのだろう。
少女は俺と同様、にこりとネフラにほほ笑みかけた後、再び歩き出した。
「ネフラ。大丈夫だ、何も心配いらない」
俺がネフラの傍に駆け寄って状況を説明しようとすると――
「あ、あれ、あれ本物? 人造人間!? 本物なのっ!?」
――興奮した面持ちで俺に掴みかかってきた。
「ああ。本物だよ」
「信じられない……。全身にエーテルが満ち満ちている!」
「わかるのか?」
「うん。凄い。本当に凄い。人体にエーテルが宿っているだけでも、人間じゃないことがわかる」
人間はエーテルを持たない。
ヒトも、エルフも、ドワーフも、セリアンも。
エーテルを操る素質こそあれど、それ自体を体内に持つ種族などありえないのだ。
その常識を覆す存在なのであれば、やはり本物なのだろう。
俺達の前にいる少女こそ、正真正銘の人造人間……!
「あの子、何を?」
「今度はクロードの番ってことさ」
俺とネフラが様子をうかがっていると、少女は倒れるクロードの傍で立ち止まり、彼の顔を見つめながら腰を下ろした。
そして俺にしたように、小さな指先をちょん、と彼の鼻先に触れた。
直後に、火薬の爆裂で赤黒く焼けついたクロードの右目から、小さな破片――おそらくはコルク栓の残骸――が浮かび上がった。
その後、エーテル光が波紋のようにクロードの顔面で波打ったかと思うと、瞼から眼球まで、右目が瞬く間に元通りになっていく。
さらにエーテル光はクロードの全身を流れていき、首筋の切り傷、右肩の穴、左手首と、次々と重度の負傷を癒していった。
「あれが人造人間の力なのか……」
「す、凄すぎる……っ!」
「他人のあんな重い傷を一瞬で完治させるなんて、教皇様にだって不可能だろうな」
「信じられない。人造人間は本当に……本当にとんでもない力を持っていたんだ……っ!!」
ネフラが羨望の眼差しで少女の起こす奇跡を見入っている。
俺も気持ちは同じだ。
途方もない奇跡を目の当たりにして、あの子が女神のように思える。
同時に、恐ろしさすらも……。
もしもこんな途方もない力を持った少女が悪意ある者の手に落ちたら。
世界には未曽有の危機が訪れるかもしれない。
それこそ魔王群に匹敵するほどの危機が。
しかし、そんな俺の心配をよそに――
「~~♪」
――少女は歌い始めた。
それは鼻歌だったが、透き通るような声に俺は心奪われた。
彼女の澄んだ声は耳触りが良く、実に心地のよい歌声に聞こえる。
歌う間、少女はじっと横たわるクロードの顔を見つめていた。
穏やかで優しい表情を一瞬たりとも崩すことなく、ただその顔を見据えながら。
彼女は、じっと父親が目覚めるのを待っているのだ。
「う……」
太陽光がクロードの顔に差した時、ちょうど彼は意識を取り戻した。
そして、すぐ傍で自分の顔を覗いている少女の存在に気がついた。
いつの間にか鼻歌も止んでいた。
「そうか――」
クロードは驚く様子もなく、少女の赤い瞳と見つめ合いながら静かに笑った。
「――目を覚ましたのか」
クロードの言葉に、少女はこくりと頷いた。
「きみの目はアレクとは違うのだね」
少女は黙ってクロードの話を聞いていた。
「同じ色だが、宝石の比喩に留まらない美しさと、凛とした気高さが感じられる」
クロードの手が少女の頬に触れる。
「きみの笑顔を……ずっと私は待っていた」
少女が甘えるように、クロードの手のひらへと頬をこすりつける。
「私とアレクの愛しい子――」
クロードの頬に涙が伝うのが見えた。
「――ルビィ。きみの名は……ルビィだ」
名前。
この世に生まれたからには、名前のない人間などいない。
そして、父親が子供に名前を贈るのは、どの国でも至極当たり前のことだ。
例え人造人間であろうとも、その当たり前を享受する資格はある。
「この世のすべての事象には名前がある」
「え?」
「名前があるゆえに力が宿る。名前無きものはこの世に非ず」
「ジルコくん、それは?」
「俺が尊敬する男の言葉だよ」
ネフラがキョトンとした顔で俺を見上げている。
その顔を見て――
「ネフラも良い名前だと思う」
「なっ」
――俺は右手で彼女の頭を撫でた。
「こ、子供じゃないから!」
ネフラは俺の手を跳ねのけようと抵抗を見せるが、結局は恥ずかしそうにうつむきながら俺に撫でられる現状を受け入れた。
「こんな風にお前を撫でられるのも、あの子のおかげだ」
「え?」
「生まれちまったもんは仕方ないしな」
「ジルコくん?」
「もう父親とセットで、どこかでひっそりと暮らしてもらうしかないよな」
「本気で言ってるの?」
「親子水入らずって言葉もあるだろう」
「それ、アマクニの人が使う慣用句」
俺は意を決してクロードへと歩み寄ると、ひとつの提案をする。
「クロード。その子を連れて、ずっと遠い国まで逃げろ。誰にもその子の存在を知られることがないように、ひっそりと暮らしてくれ」
それが俺にできる最大限の譲歩だった。
この国に――この大陸にいては、二人には永遠に安息は訪れない。
はるか遠い地にでも逃げなければ、クロードの最後の夢は叶わない。
「その必要はありません」
クロードが起き上がりざまに言ったその言葉に、俺は驚きを隠せなかった。
「な、何を言っているんだ!?」
「ジルコくん……」
ネフラの声に振り向くと、彼女は悲しげな表情で俺を見つめている。
「ちゃんと起こしてあげられなくて、すまなかったね」
クロードは向かい合う少女の手を握りしめて、消え入りそうな声で言った。
その言葉の意味が俺にはわからない。
ちゃんと起こしてあげられなくて……とは、どういうことだ?
「エーテルがあの子から霧散していくのを感じる」
「何……?」
「魔法陣が未完成だったのだと思う。〈ザ・ワン〉から必要十分なエーテルが、あの子には注がれなかった。だから……」
ネフラはそれ以上は言ってくれなかった。
だが、そこまで聞けば俺にもわかる。
「だから、もうダメだって言うのか……!?」
人造人間の覚醒は失敗していた。
中途半端な状態で目覚めた彼女は、わずかな力で俺達を癒し、そして――
「せっかく生まれた命が……」
――消えていくのだろう。
「俺のせいで……」
そんな言葉を言う資格が。
そんな感傷に浸る資格が。
俺にあるのか……?
少女の体にエーテル光がちらつき始めるのが見えた。
まるで蛍が飛び交うように、体の細部が光の粒子となって宙へと舞っていく。
「……」
クロードを見つめながら、少女は小さな口を動かしている。
どうやら声がうまく出せないようだ。
「……ぅ」
その口からかすかに声が聞こえて――
「うんでくれて、ありがとう」
――
「おとうさん」
――
「だいすき」
――彼女の体は、光の粒子となって空へと……消えた。