3-039. 在りし日の記憶③
『……なんですって?』
『言った通りだ。きみには生命の種が無い。だから恋人が懐妊しないんだよ』
クロードの心臓の鼓動が激しく波打つ。
『冗談にしては笑えませんよ』
『きみが思っている以上にエルフは誠実な種族だよ。こんな嘘はつけない』
雑音がさらに強くなっていく。
加えて、負の感情がクロードの内側に燃え上がっていくのを感じた。
『馬鹿馬鹿しい。それではまるで――』
一歩一歩、クロードの視界がザナイトへと迫っていく。
クロード自身の顔を見ることはできないが、内なる感情から察するに、今の彼は凄まじい形相をしているに違いない。
『――まるで私が原因じゃないか!!』
クロードがザナイトの両腕を掴んで木棺の上へと押し倒した。
寝かされていたミイラが突き飛ばされ、敷石の上に落ちて嫌な音を立てる。
『……仕方ないだろ。種が無いんじゃ、どれだけヤりまくっても子供ができないのは自明の理だ』
『貴様っ……! そんなデタラメな話で私を謀るつもりかっ!?』
力任せに木棺に押さえつけられながらも、ザナイトは澄ました表情でクロードを見上げていた。
こんな状況でも取り乱さないとは、さすが数百年の長寿を生きるだけある。
『稀有な例だが、アルビノという先天性の病がある。色素異常により、白い髪に白い肌、そして赤い瞳になりえる疾患だ』
『嘘だ』
『不妊とは何ら関係がない』
『嘘だ!!』
『診断結果に不服なら……この場で私を犯して、私の仮説を証明してみるかい? ヒトとエルフが交配できることは証明されてるよ』
『……っ! 馬鹿なことをっ』
動揺したクロードは、とっさにザナイトから離れた。
……どうなることかと思ったが、何も間違いが起こらずに済んで安心した。
『クロードくん。きみの精巣には精子を造る能力が欠如している。残念だが、これは覆せない事実だ』
『なぜ、そんなことが……?』
『先天的なものだろう。きみは生まれつき遺伝的な疾患があったのさ』
『馬鹿な……』
クロードは全身の力が抜けたように両膝を折った。
芯から凍えるような感覚――これが今のクロードの気持ちなのか。
『受け入れてもらうほかない。私の魔法できみの体を透視し、過去の診断記録と照合したんだ。ヒトとエルフの生殖機能はほぼ同じだから、この結果に間違いはない』
クロードの視界が床を向いた。
冷たい感情が一層強まるのを感じる。
……胸が苦しい。
クロードの感情が同調して、言葉通りに苦しいのだ。
『東方ではほとんど認識されていない疾患さ』
『……』
『闇の時代が長かったから、ヒトの生活圏では出生率など調べてもいないだろうし、常識外の病だと思う』
『……』
『きみが見落としたことに落ち度はない』
『黙れっ!!』
俺自身に頭痛を生じさせるほどに、雑音が酷くなってきた。
クロードの心は混乱と苦痛の渦にいる。
それが心の声となって表れて……記憶を覗いている俺の方が押し潰されてしまいそうだ。
『ザナイト教授っ!』
とっさに起き上がったクロードは、再びザナイトへと詰め寄った。
白衣の襟を掴み上げ、起き上がったばかりの彼女を再び木棺へと押し倒す。
『治療の方法は!?』
『……無い。どんな優れた癒し手でも、体内の細かな臓器の、しかも欠如した能力まではどうにもできない。元から存在しないんだからね』
『馬鹿な!!』
クロードは混乱を極めていた。
ザナイトの細い体を床へと引きずり下ろし、木棺を力任せにひっくり返した。
それだけでは飽き足らず、足元に散らばる書物やら機材やらを片っ端から蹴り飛ばしては、当たり散らした。
視界に映るその行動に、もはや〈理知の賢者〉の威厳は感じられない。
『クロードくん。人間の心は弱い。……ヒトもエルフも。ドワーフもセリアンも。独りでは絶望からは逃れられないものだよ』
後ろから聞こえてくる、暗く切ない言葉。
振り向いた先には、床に三角座りしてクロードを恨めしそうな目で見つめているザナイトの姿があった。
『……旅は終わりだ。きみは家に帰りなよ。子供は得られなくとも、愛する家族と一生を添い遂げることはできるんだから』
その言葉を聞いた直後、突然クロードは吐き気を催した。
胃液が逆流する嫌な感じが俺にも伝わってくる。
その不快感に耐えきれず、クロードは人目も憚らずに――
『うぐっ……げええぇぇっ……』
――胃の中のものをすべて吐き出した。
『……はぁっ、はぁっ』
『クロードくん……』
『わ、私は、彼女を責めたことは、ないっ』
……もういい。
『しかし、私は! 彼女が原因だと決めつけていたっ』
……もう言わないでくれ、クロード。
『私は! 私の見識の狭さが! 許せないっ!!』
……。
『何が〈理知の賢者〉だ!』
クロードは握った拳を力いっぱい床へと叩きつけた。
二度、三度とそれを繰り返し、拳は割れて血が滲み始める。
『魔法や奇跡を極めても、どれほど魔王群を殺せても――』
さらにクロードは、自分の額を床へと打ちつけ始める。
『――たった一人の女性を救えない!! そんな男が許されるのかっ!?』
胸が苦しい……胸くそ悪い。
しかしここまで見た以上、彼の記憶を最後まで見届ける義務が俺にはある。
『クロード・インカローズ! 貴様が許されるはずがないっ!!』
……絶叫の後に訪れたのは、沈黙。
今のクロードにどんな言葉をかけるのが正解なのか。
俺には到底考えつかない。
『人間の武器はね、クロードくん――』
そんな静寂の中、最初に動いたのはザナイトだった。
『――忘れることができるということだ』
床に額をこすりつけるクロードの頭を、彼女の手のひらが撫でる。
『嫌なことからは逃げちゃいな。二人でどこまでも逃げまくって、人生を添い遂げるんだ』
『私にそんな資格があるのか……』
『恋人以外に、そんな資格ある奴はいないよ。クロード・インカーローズ』
クロードの視界が開けた時、その目に映ったザナイトの顔は――
『さ。私に惚れる前に、彼女のもとへ帰ってやりな』
――笑っていた。
◇
七つ目の記憶。
クロードがいたのは砂漠地帯の小さなオアシスだった。
地理的にエル・ロワへの帰路だとわかる。
クロードは屋外で経営する酒場のカウンター席に独り座っていた。
開放的に見えるが、風が吹けば砂まで舞うため、ろくな立地じゃない。
現に、店の前を行き交う人の姿はあれど、客は他にいない。
『……まるで血のような赤だな』
旅の賢者は、目の前に出された粗悪なジョッキをじっと見下ろしていた。
注がれた赤い液体には、やつれた顔が映し出されている。
その時、香ばしい匂いが漂ってきた。
俺はこの臭いを知っている。
『コーフィーは、心と体の緊張を解きほぐします』
その声は、すぐ隣の席から聞こえてきた。
鼻をつく匂いは風に乗って声の方から流れてきたのだ。
『誰……です?』
『名乗るほどの者ではありません。あなたも一杯、いかがですか』
クロードが顔を向けた先には、コーフィーを口に含む少年の姿があった。
小柄な体に幼い顔。
年はせいぜい10~11歳といったところか。
丈の短いスカートを履き、肌着もなしに真っ白い貫頭衣を羽織っている。
アヴァリス地方に暮らす人種特有の浅黒い肌。
風にそよぐ空色の短い髪。
そして、血のような赤い瞳。
彼がクロードに向き直ると、途端に不思議な感覚が襲ってきた。
その赤い瞳を見ていると、心が安らぐような……。
それでいて、心を見透かされているような……。
そんな不思議な気持ちになる。
『そんなもので気が晴れるとでも?』
『そう言わず。親父さん、この方にもコーフィーを一杯。僕の奢りで。彼のお酒は僕が引き取りますから』
カウンターの奥にいた髭面の店主が、少年に不愛想な顔を向ける。
『何が僕の奢りで、だ。おめぇさんの勘定は、事前に旦那からいただいてるんだよ』
『あれ、そうでしたっけ?』
『そもそもガキのくせに酒なんて飲むんじゃねぇ!』
悪態をつきながらも、店主は手慣れた様子でジョッキにコーフィーを淹れてクロードの前に差し出した。
代わりに、一口もつけていない葡萄酒のジョッキを取り上げる。
『飲まねぇなら頼むんじゃねぇ! アヴァリスも復興で余裕ねぇんだ』
店主と入れ替わりで、少年が話しかけてくる。
『どんな出会いも一期一会。ここはひとつ、乾杯といきません?』
『その顔を見ていると虫唾が走る。消えなさい』
『酷い言われようだなぁ。何か嫌なことでもあったんですか』
『消えろっ!』
ドン、とクロードが机を叩いた。
テーブルが揺れて、ジョッキの中身がこぼれそうになる。
『お客さんよう。飲む気がねぇなら――』
『まぁまぁ。あなたは向こうへ行っててください』
少年は小金貨を一枚、店主に投げ渡した。
それを受け取ると、店主は露骨に嫌そうな顔を見せながらもカウンターから離れていく。
『これでも僕、高名な魔導士の先生に師事していましてね。まぁ、今は留守番をおおせつかっていて一人なんですが……』
『放っておいてください』
『実はこっそり錬金術も学んでて。最近はそっちにばかり心惹かれて――』
少年が、トン、とクロードのマントをつつく。
『――このマント、三枚とも錬金術で作られた逸品では?』
『!? ……何を根拠に』
『かすかに錬成反応で生じた独特な臭いがします。火焔鳥の骨砂、蒼蛇の鱗、黒蜥蜴の腫瘍……でしょうか。いずれも強力な魔法耐性を持つ希少素材ですね』
『まさか……わかるのですか!?』
『鼻が利くもので。しかし、素晴らしい出来栄えのマントだこと。高名な錬金術師の先生とお見受けしました』
『……ただのしがない化学屋ですよ』
クロードはここでようやくコーフィーに口をつけた。
『僕は将来、錬金術師として大成したいと思ってます。万能薬に人造人間、不死の霊薬に永久機関! 実現できたらロマンだと思いませんか?』
『どれも実現不可能な空想の産物です』
『そんなぁ……。人造人間ひとつとっても、実現できれば理想の人間が創り出せるんですよ!?』
『……すでに在る人間を創り直せればね』
『え、今なんと?』
クロードはコーフィーを飲み干すや否や、ジョッキを置いて立ち上がった。
そして、懐から革袋を取り出して店主へと投げ渡す。
『それでコーフィー豆を10袋ほど』
袋に大量の小金貨が入っているのを見て、店主は血相を変えた。
『しょしょ、少々お待ちをっ!』
次に、少年へと顔を向ける。
『きみには素質があります。しかし錬金術は万能ではない。それをはき違えないようにしなさい』
『あの、あなたのお名前は……』
『名乗るほどの者ではありませんよ』
◇
八つ目――最後の記憶。
クロードはヴァ―チュの街路を歩いていた。
彼がある貴族の邸宅の門をくぐると、数人の衛兵が止めに入った。
『申し訳ありません、クロード様。旦那様より、あなたの入館は禁じられておりまして』
『どういうことです』
『は? 聞いておりませんか、アレクサンドラ様のことを』
ぞわっと全身に悪寒が走った。
クロードは衛兵達を押し退けて、館の扉を開いて中へと飛び込んだ。
そして廊下を駆け抜け――
『これは……』
――愛しき女性とコーフィーを飲んだテラスで、クロードは目にした。
白いテーブルに。
白い床に。
赤黒い液体の痕跡を……。
『これはなんです』
テラスの違和感を肌で感じ取ったクロードは、ピタリと足を止めた。
直後、追いかけてきた衛兵達に羽交い絞めにされてしまう。
『戻ったのか、クロードくん』
その声に振り向くと、廊下にはアレクサンドラの父親が立っていた。
彼の後ろにはドレスを着た女性が二名。
アレクサンドラの姉達だろうか。
『なんなんですっ!? あの痕跡……まさか血痕では!?』
クロードが父親へと詰め寄る。
もはや冷静ではなく、衛兵達が止めるのもお構いなしに彼の襟を掴み上げた。
『クロードくん……きみは遅すぎたよ』
『何がっ!?』
『わしも知らなかったのだ。あの子があれほど思い詰めていたなどとは』
父親の目はクロードではなく、その後ろ――テラスを呆然と見つめていた。
『何があったのか説明しろっ!!』
激昂するクロードに父親は答えず、両膝を折ってその場に崩れ落ちた。
代わりに姉の一人がクロードへと歩み寄り、手にしていた手紙を差し出した。
『妹があなたへ残した……遺書です』
ドクン、と心臓が破裂せんばかりの鼓動。
それを俺が感じた瞬間、クロードは手紙を取り上げて文面に目を通した。
――クロード様。
私の愚かな選択をどうかお許しください。
私はもう自分を許すことができなかったのです。
誰に罵られようとも、私は耐えられました。
でも、あなたの子を宿せないという事実だけは。
それだけは許すことができなかったのです。
あなたと出会えてよかった。
ほんの短い間でしたが、素敵な夢を見れました。
たくさん心が救われました。
ありがとう、クロード様。
この手紙を読んだ後は私のことなど忘れて。
またあなたの夢を追いかけてください。
すべての病も怪我も治す夢の薬。
その話を聞くのが好きでした。
さようなら、愛しきクロード様。
アレクサンドラより――
……クロードはふらふらとよろめくと、壁に背中をついた。
絶叫のような雑音が聞こえてくる。
頭が割れるように痛い。
『私は……何をしていた?』
……。
『このひと月、私がいるべき場所は……』
……。
『うおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!』
……もう俺には。
……これ以上、見ることができない。