3-037. 在りし日の記憶①
気がつくと、俺は元の部屋に戻っていた。
目の前にはアレクサンドラではなく、ちゃんとネフラの姿がある。
「戻ってきたのか、俺達」
「初めからここにいた。ジルコくんの頭の中にクロードの記憶が流れ込んでいただけ」
他人の記憶を見るのは、なんとも不思議な体験だった。
まるで自分の経験のように感じられる反面、勝手に体や口が動いているような違和感がある。
さらに言えば、クロードがどんな気持ちでいるのかが手に取るようにわかった。
記憶を見ることで、その時の感情も同調してしまうようだ。
「ひとつめの玉は、アレクサンドラとの何気ない一時の思い出か……」
「彼女は――ううん。二人は恋仲にあったんだね」
「この時点では、まだお互い認め合ってはいないみたいだけどな」
そう言いつつ、俺は宝石箱に最初の思い出し玉を戻し、隣から別の思い出し玉を取り出した。
「次はこれだ」
「……やっぱり気が進まない」
「でも、やるんだ」
「……うん」
ネフラは思い出し玉を握る俺の手に触れて、再び魔法を唱えた。
「開放」
手の中の思い出し玉が輝き出し、俺の意識は再び真っ白い光に包まれていった。
◇
煌びやかなシャンデリア。
鮮やかな刺繍の入ったテーブルクロスが敷かれた机。
その上に置かれた食器の数々。
『クロードくん。話というのはほかでもない――』
クロードの対面には立派な口髭を蓄えた男性が座っていた。
身なりと態度から察するに、それなりの地位を持つ御仁のようだ。
どうやらクロードは貴族の邸宅にいるらしい。
『――娘の体のことだが』
クロードの心拍が上がった。
この感じからすると、娘と言うのはアレクサンドラのことだろう。
『新しい薬も近々完成します。次こそはきっと』
『きっと、か。錬金術師学会で〈賢者〉の称号を授かったきみらしくもない返事だな』
『面目次第もありません。今まで向き合ったこともない病ですので』
『まぁ、最終的に万能薬が完成すれば、過去の失敗は意義あるものだったと言えよう』
さらに心拍が上がる。
これは怒りか、それとも苛立ちの感情か……。
『まるで私が、彼女を万能薬の実験台にしているかのような言い草ですね』
『そうは言っておらんよ。しかし、あれが研究の役に立つのならば』
『あなたの娘でしょう』
『末の、な。二人の姉はすでに結婚して子供もいる。できればあの子にも人並みの幸せを手に入れてほしいが……』
『私には荷が重い、とおっしゃるか?』
『まさか。魔王を倒した英雄に不足などあるものか。むしろ娘との婚姻が先延ばしになっていることを申し訳なく思っている』
婚姻だって……!?
ずいぶん話が進んだようだ。
この記憶は前回からどのくらい時が経っているのだろう。
『彼女の病は私が必ず治します。万能薬の通過儀礼としてではなく』
『期待しておるよ。きみが息子になってくれたら、わしも鼻が高い』
二人の会話から察するに、〈ジンカイト〉が魔王を倒した後の記憶らしい。
となると、凱旋パレード直後――半年ほど前の出来事か。
『……私はこれで失礼を。検証するべき事案が山積みですので』
クロードが席を立ち、メイドの案内で部屋を出ようとした時。
『来月までに万能薬の試作品を50本、形にしておいてくれたまえ』
『まだその名を冠するには不相応な代物ですよ』
『高位聖職者の奇跡に勝るとも劣らぬ結果を出したではないか。万能とまではいかなくとも、十分な価値を認められる品だよ』
『……あまり触れ回ると教皇庁がうるさいのでは』
『心配無用だ。すでに商人ギルドにも手を回している。必要な物があれば、ヘミモルファという商人を訪ねなさい』
『……承知しました』
クロードが部屋を出ると、廊下で騒ぎが起こっていた。
何やら、テラスの前に屈んでいる女性にメイド達が寄り添っている。
その女性はアレクサンドラだった。
彼女を認識した瞬間、また雑音が聞こえてきた。
先ほどの雑音に比べて荒々しい感じだ。
『何があったのです?』
クロードはアレクサンドラのもとへ向かうなり、語気を強めて問いただした。
『いつもの目まいです。心配するようなことはありません』
そう言うと、アレクサンドラはいそいそと立ち上がった。
『あまり長い時間、日に当たるのはよくないと言ったでしょう』
『……こんな良い天気に、部屋に閉じこもっているなんて』
クロードの視線は、不意に彼女の後ろのテラスへと向かった。
中庭の見えるテラスには白いテーブルが置かれている。
その上には、菓子の入った大皿と、二人分のティーカップが。
『ティータイムの準備をしていたのです。ちょうどクロード様をお呼びしようと思っていたところでした』
『私にそんな時間は……』
『最近、研究室に閉じこもりきりでしょう。少しは気を抜く時間も必要ですよ』
クロードはアレクサンドラに手を引かれて、テラスへと連れ出された。
そこでクロードの視界に映ったのは、まるで花園と言わんばかりに花が咲き乱れた中庭だった。
『……ああ。もう冬も終わりですか』
二人がテーブルに着くと、アレクサンドラはメイドを呼びつけた。
陶器のポットを持ってきたメイドが、二人のカップへと黒い液体を注いでいく。
この香ばしい匂いは……コーフィーだ。
『私、今日初めてコーフィーを飲みます。色は黒くて……変な感じなのですね』
『体に悪いものではありません。むしろ健康効果があると言われています』
アレクサンドラがコーフィーを注がれたカップを手に取り、口へと運ぶ。
一口飲んだところで……。
『んんっ。苦いのですね』
『砂糖を』
クロードが言うと、傍に控えていたメイドがガラス瓶をテーブルの上に置いた。
中には砂糖が入っている。
『これを加えるといい』
『まぁ。なんて贅沢な飲み物かしら』
アレクサンドラは砂糖を何杯か注いだ後、再びカップを口に運んだ。
今度は……。
『ん。美味しい』
『コーフィーは甘くてしかるべき。砂糖とワンセットで振る舞うのがマナーです』
『あら。それは西方のマナーかしら』
それからしばらく、二人は他愛のない雑談を続けた。
季節の花のこと、菓子の焼き加減のこと、侯爵主催の舞踏会に呼ばれたこと、姉に子供が生まれたこと。
クロードは表情にこそ出していないようだが、この穏やかなティータイムを心地よく思っているのがわかる。
二人のカップ、そしてメイドの持つポットの中身が空になった頃……。
『コーフィー、癖になる味ですね』
『気に入ったのなら、今度また西方で買い付けてきましょうか』
『約束ですよ。また二人で飲みましょう』
その後、テラスを去ろうとしたクロードにアレクサンドラが声をかけた。
『クロード様――』
振り返ったクロードが見た彼女の顔は……どこか物悲しい印象を受けた。
『――私のためにと気を張らず、あなたの理想のために研究を続けなさるのがよろしいですよ』
『どうしたのです、急に?』
『新しい薬を私にお試しになるたび、クロード様は辛い顔をお見せになって……。病弱なのは元々です。この髪や肌だってそう。ですから、あのこともお気になさらず――』
『やめなさい!』
クロードが叫んだ。
常に冷静沈着だと思っていた男が、こんな感情的になるなんて……。
『きみの病は必ず治してみせます。何も心配することはありません』
『でも、私の体のせいで婚姻が先延ばしに……』
『社会的に認められていなくとも、こうして一緒にいられれば十分ですよ』
『クロード様……』
クロードの伸ばした手が、赤らんだ彼女の頬に優しく触れた時――
◇
――俺は薄暗い部屋で、ネフラの顔と向かい合っていた。
「アレクサンドラの病気、何かわかるか?」
「わからない。髪と肌が真っ白になって、日に当たり続けると目まいを起こす病気なんて」
「……ヴァンパイアは日の光に弱いって伝説があったよな」
「え、まさか……」
彼女がヴァンパイア。
……なんてことはないだろう、まさか。
「冗談はさておき――」
「冗談……」
「――雑音、お前にも聞こえていたか?」
「聞こえてた」
「あれ、一体なんなんだ?」
「思考の声だと思う。ジルコくんも、口には出さずに頭の中でものを考えることがあるでしょう。あの雑音はたぶんそれ」
「記憶は見れるのに、なんでその声が聞こえないんだ?」
「五感の記憶は同調できても、思考までは無理なのかも。本人以外は」
「どこまでも赤裸々に、とはいかないわけか」
俺は宝石箱から三つ目の思い出し玉を手に取り、ネフラの前に差し出した。
彼女の開放を合図に、俺達は三度クロードの記憶へ――
◇
――今度の記憶は、男女の言い争いから始まった。
その声のひとつはアレクサンドラだ。
しかし、もうひとつの声はクロードじゃない。
なぜなら、それらの声はクロードの視界に映る扉の向こう側から聞こえてきているものだからだ。
『司祭から連絡があった。先週の礼拝で診断の奇跡を仰いだというのは本当か?』
『事実です。それが何か問題でも? お父様』
『私に恥をかかせる気か! 年明けから毎週と聞いているぞ!!』
『いけませんか。私のような出来損ないは、そんな期待も許されないと!?』
『外に漏らすような事情ではあるまい!』
『それを婚姻の条件にしたのは、お父様でしょう!!』
『彼は特別なのだ! わしの家の人間が、彼の経歴に傷をつけるようなことがあってはならん!』
アレクサンドラも、彼女の父親も、お互いにずいぶん興奮している。
仲裁に入るつもりなのだろう、クロードはドアノブを握った。
『私にだって、あの人の子を産めます!!』
……クロードの手は、確かにドアノブを握る感触があった。
しかし、彼が扉を開くことはなかった。
『お前のような女がそれを証明するには、時を待つしかあるまい……』
『無理です。……ただ待つだけなんて辛すぎます』
その後、扉の向こうからはアレクサンドラのすすり泣く声が聞こえてくるばかりだった。
クロードの視界は扉を離れ、廊下を歩きだした。
『治す。必ず私が――』
クロードの感情が熱く高まっていく。
今の彼からは、雑音は聞こえない。
『――彼女の髪を。肌を。すべての異常を。私が治してみせる。何に代えても!』
◇
四つ目の記憶では、クロードはどこかの酒場にいた。
まさか酒場が映るとは思っていなかったので、俺は驚いた。
クロードは何杯も酒をあおっていた。
あのクロードが……ヤケ酒を飲んでいる……のか?
まったく信じられない……。
『相席、よろしいかしら?』
テーブルの上に何本も並ぶワインボトル。
その向こうから、女性の声が聞こえてきた。
……この声、俺には聞き覚えがある。
クロードが見上げた先には――
『依頼でヴァーチュに用があって。でもまさか、希代の賢者様がヤケ酒を飲んでいる場に出くわすとは思いもしなかったわ』
――希代の魔女、クリスタが微笑を浮かべて立っていた。
彼女はクロードからの返事も待たず、対面の席へと座った。
そして、勝手にテーブルの上のワインボトルの栓を抜くと、空のジョッキに中身を注ぎ始める。
『あなたが偶然を語りますか、クリスタリオス』
『人の運命とは、まこと揺蕩う波間の如し。明日のことを予測できても、実際に何が起こるかはその時になってみないとわからない』
『惨めだと笑えばいい。あなたでなくとも、私を知る者が今の私を見れば、誰もが幻滅するでしょう』
クリスタはジョッキを口に運んで、静かにワインを味わった。
『良い葡萄ね。さすが最高級のヴェルフェゴールだわ』
『あなたに奢るために用意したわけではありませんよ』
『悩み事でもありそうな顔ね』
『……』
クロードの中で、突然、雑音が酷くなった。
クリスタと(偶然?)出会ったことで取り乱したのか?
それとも別の理由が……?
『クリスタリオス。私が思うに、あなたは世界最高の魔導士です』
『〈理知の賢者〉からそう言われるなんて光栄だわ』
『そんなあなただから尋ねたいのですが――』
クロードはジョッキを置いて、クリスタの目を見据えて続けた。
『――不妊を促す魔法は存在すると思いますか?』