3-036. 地下室の闇
扉を開くと、建物の一階はがらんとした何もない部屋だった。
家具のひとつも置かれておらず生活感がまったくない。
ただ唯一、天井から古いランプが吊り下げられている。
「真っ暗」
「ちょっと待ってろ」
ランプの器からは、まだ油の臭いがする。
俺は携帯リュックから火打ち石を取り出して、ランプに火を灯した。
「……何もないね」
ランプの火が室内を照らし出して、ネフラにも部屋の状況が飲み込めたようだ。
「壁がずいぶん傷んでいるな」
壁には小さな亀裂が走っており、隅には蜘蛛の巣が張っている。
ずいぶんと老朽化しているようだ。
それに比べて――
「床板は思いのほか綺麗だな」
――床は定期的に手入れがされているようだ。
床に貼られているのは木の板だが、腐敗している箇所はない。
それどころか、長らく放置されていたにしては埃が少なすぎる。
「隠し扉は床かな」
そう察した俺は、床をあちこち叩いてみた。
すると、一部の床だけ音が違うことがわかった。
「この下に空洞がある」
「地下室がある、ということ?」
「そうだ」
俺は床を這って床板を外す方法を探した。
敷き詰められた板の木目に沿って、わずかに指が入る窪みを見つけた。
「これだ」
窪みを指先で引っ掛け、力いっぱい引っ張る。
直後、ガコッと床板が外れて下から階段が現れた。
「俺が先に下りる。ゆっくり後をついてきてくれ」
「はい」
地下へと続く石造りの階段は、不気味なほど静まり返っていた。
俺は天井から吊るされたランプの紐を千切り、ランタン代わりとした。
そして、石の階段を一歩一歩地下へと下りていく。
階段を下りきると、大人が一人通れる程度の狭い通路へと出た。
その通路はすぐ先で二股に分かれている。
右側は真っ暗だが、左側からはわずかに灯りが見える。
「……誰かいる」
十中八九、その誰かとはクロードだろう。
俺とネフラは慎重に足音を殺しながら、通路の分岐点までたどり着いた。
左側の通路を覗くと、5mほど先の突き当たりに扉があった。
灯りはその扉の隙間から漏れ出していて、人の気配が感じられる。
一方、右側の通路も同じく5mほど先の突き当りに扉があった。
こちらは真っ暗闇のままで、人の気配はない。
「どうするの?」
ネフラが俺の耳元でささやいてくる。
右と左、どちらに進むのかと聞いているのだろう。
このまま灯りの漏れている部屋へと乗り込むべきか?
通路幅を考慮すれば、奥の部屋は左右どちらとも一階の部屋より狭いはずだ。
狭い空間の戦闘では銃士は本領を発揮できない。
しかし、それは魔導士にとっても同じ。
否。むしろ魔導士の方が不利と言える。
なぜなら、魔法陣を描ききる前に術者を取り押さえることも可能だからだ。
しかも密閉された地下では風の精霊の影響力は極端に弱まる。
地下でクロードと戦ったなら、俺にも十分に勝機はある。
……とは言え、その前に確かめたいことができた。
「右だ」
俺は真っ暗な右側の通路を指さした。
クロードがこんな騒動を引き起こしたきっかけが何なのか。
この先の部屋でその原因がわかれば……と期待してのことだった。
扉の前までたどり着いて早々、俺はネフラに確認する。
「設置魔法は?」
「……大丈夫。ただの扉」
危険がない確信を得て、俺は扉を注意深く開いていった。
扉が開ききった後、持っていたランタンで部屋の中を照らし出す。
「寝室……か?」
狭い部屋には、ベッドにテーブル、そして本棚が置かれていた。
それらは狭い空間に窮屈に押し込められており、足を自由に動かせる空間は入り口から二、三歩程度までだった。
「コーフィーの香りがする」
ネフラに言われて、俺もそのことに気がついた。
どうやらコーフィーの香りはテーブルから漂ってきている。
テーブルの上には束になった羊皮紙や筆記用具が乱雑に散らばっていた。
隅に目をやると、手のひらに乗るくらいの麻袋がいくつか置かれている。
この袋の中にコーフィー豆が入っているのだろう。
「西方の土産か」
ランタンをテーブルの上に置き、羊皮紙などを物色しているうち――
「!?」
――俺の鼻先を小さな影が横切った。
ランタンの灯りを頼りにその小さな影を追うと……またしてもハエだった。
「こいつ、外からついてきたのか?」
しっし、とハエを部屋から追い出し、俺はテーブルから羊皮紙の束を取り上げた。
いずれの羊皮紙にも複雑な記号がびっしりと書き込まれている。
数学……というものだと思うが、学のない俺には理解できない代物だ。
「ひっ!」
突然、後ろにいたネフラが小さな悲鳴をあげて俺の背中にぶつかってきた。
「どうした!?」
「あ、あれ……」
ネフラが入り口側の壁を指さしているので、振り返ってみると――
「わ……っ!」
――俺も一瞬ぎょっとするような物が目に入った。
壁に女性用のドレスが吊り下げられていたのだ。
「なんでこんなところに?」
クロードに所縁ある女性のものだろうか。
生地がしっかりしていることから、貴族の女性が着るようなドレスだと思われるが……。
「ジルコくん、あれ見て」
ネフラが今度は壁に掛かったドレスの横を指さす。
彼女の指し示した先には本棚があった。
本棚には古びた書物が何冊か入っていたが、ネフラが注目していたのはその隣に置かれている宝石箱らしい。
宝石箱は蓋が開いており、中の仕切りには宝石ではなく丸い玉が入っていた。
「なんだろう、この玉」
俺は何気なしにその玉をつまみ取った。
手のひらにちょうど収まる程度の大きさ。
触れた感触から、宝石や鉱石の類でないことはわかった。
淡い青色をした表面はざらざらしていて卵の殻みたいだ。
表面の一部には魔法陣らしき小さな模様が見られた。
「……それ、もしかしたら思い出し玉かもしれない」
俺の手の中の玉を覗き見て、ネフラが訝しげに言った。
「なんだ思い出し玉って?」
「一言で言うと、人間の記憶を転写する魔道具」
「記憶を転写?」
「例えば、朝起きてから寝るまでにジルコくんが見て聞いて体験した記憶を、その玉の中に記録することができるの」
「そりゃ凄い」
「かなり希少な魔道具。実物は私も初めて見た」
魔道具にはそんな便利な物があるんだな。
さすがは古代魔法文明の遺産だ。
「仕事で役立ちそうだ。ひとつふたつパクっていくか?」
「魔道具はエーテルを操れる者にしか扱えない」
「だよな……」
思い出し玉を宝石箱に戻そうとした時、俺はふと思った。
……わざわざ残しておくほどの記憶ってなんだ?
「ネフラ。お前ならどんな時にこの玉を使う?」
「う~ん……。大切な思い出を残したい時、かな」
「宝石箱には八つの玉がある。つまり八つ分の記憶が残されているわけだ」
「まさかジルコくん、ここに転写されている記憶を盗み見る気じゃ……」
「この玉の記憶にクロードがおかしくなった理由があると思わないか?」
俺は手にした思い出し玉をネフラへと突き出した。
エーテル操作の才能がない俺には無理だろうが、彼女にならこの思い出し玉を扱うことができるはず。
「だ……ダメ!」
「どうして」
「人の記憶を勝手に見るなんてよくない」
「クロードがなぜ今回の騒動を起こしたのか、わかるかもしれない」
「そんなのわかったところで彼は止まらない」
「それでも、だ」
ネフラの言っていることは正しい。
俺は体のいいことを言っているが、そんなことで人の記憶を覗き見ていい理由にはならない。
だが、俺は知りたかった。
この半年でクロードが変わった理由を。
そして、その理由がこの思い出し玉の中にあるのなら……俺は是が非でも知りたいと思った。
もしかしたら、あいつを止めるヒントが得られるかもしれないじゃないか。
「……本当に見るの?」
「ああ」
ネフラがじっと俺を見入る。
記憶を覗き見ることに彼女はあくまで否定的な様子だ。
だが、しばらく見つめ合った後――
「……わかった。一緒にクロードに嫌われよう」
――根負けしたネフラが、俺から思い出し玉を受け取った。
「私が読んだ文献には、転写された記憶を見るには思い出し玉に触れている必要があると書かれてた」
「俺も玉に触ってればいいのか?」
俺は思い出し玉を握るネフラの手に被せるように、手のひらを重ねた。
「握って」
「必要あるのか?」
「いいから」
言われるがまま、俺は彼女の手を握った。
「私が思い出し玉の開放を行うから、ジルコくんは私の手を離さないで」
「わかった」
ネフラは片腕に抱いていたミスリルカバーの本をベッドへと投げ置いた。
そして空いた方の手を、俺の手の甲へと乗せて――
「開放」
――そう唱えた瞬間。
ネフラの手の中にある思い出し玉が強い閃光を放った。
俺の視界は一瞬にして白い光に包まれ、全身を言いようのない違和感が襲う。
そして――
『ご機嫌いかがです、クロード様』
……!?
目の前からネフラが消えて、知らない女性が立っていた。
真っ白な肌。
真っ白な髪。
そして、赤い瞳。
その女性が着ている服は、部屋の壁に掛かっていたドレスと同じものだ。
『ふふ。そんなむくれた顔なさらないで。せっかくの美丈夫が台無しですよ』
一体どうなっているんだ?
目の前のドレスの女性を見据えたまま、視線を動かすことができない。
そもそも俺の体はどうなっているんだ……!?
『アレクサンドラ。私に何の用です?』
突然クロードの声がした。
とても近いところから声が聞こえたぞ。
耳元……?
違う。どこからだ……!?
『用がなくては会いに来てはいけませんか?』
『勝手に私の研究室へ来るなと言っておいたでしょう』
『あら。と言うことは、午後から私と果樹園に行ってくださる約束、お忘れですね?』
『……そうでしたね』
踵を返した彼女の背中を追うように、視界が動き始めた。
目の前の女性――アレクサンドラに手を引かれている……のか?
左手を掴まれている感触がある。
そもそもここはどこだ?
さっきまでいた地下室の部屋じゃない。
今、俺がいる場所は……日の当たる屋外……!?
「ジルコくん、聞こえる?」
今度はネフラの声が聞こえてきた。
「ネフラ? どこにいるんだ! 俺は一体どこにいるんだ!?」
「落ち着いて。大きな声を出さないで。部屋の外に聞こえてしまう」
どこからかネフラの声が聞こえてくるのだが、俺の視界には映っていない。
視界には、変わらずアレクサンドラの後ろ姿が見えている。
今、俺は彼女に手を引かれてどこか屋外を歩いているらしい。
その場所に俺は見覚えがあることに気がついた。
門扉まで続く道に並ぶ花壇。
その先に見える王都とさして変わらぬ景色。
……ここは、まさか。
ヴァーチュのサンセットヴィアにあるクロードの研究施設――その庭だ。
「もしかして俺は、クロードの視界でものを見てるのか?」
「そう。ジルコくんの意識だけが、メモリースフィアの記憶を見ているの。だから元の体はちゃんと部屋の中にいる」
「変な感じだ。まるで今、現実に起こっていることのように感じられる」
「開放に慣れていないと奇妙な感覚を抱くって文献にもあった。直に慣れると思うから我慢して」
しばらくアレクサンドラに手を引かれていたクロードだったが、そのうち彼女と隣り合って歩くようになっていた。
クロードの視界にはすれ違う市民ばかりが映っていたが、時折、視界が隣を歩く彼女の方へと向き変わる。
その挙動は、なんとなく落ち着きのないそわそわした印象を受けた。
『いつまで手を握っているつもりです』
『いけませんか?』
アレクサンドラが顔を赤くしている。
その時、頭の中に不快な雑音が聞こえてきた。
人間の声とは違う。
風の音でもない。
一体なんだ、これは……?
『……お慕い申し上げております、クロード様』
『なんですって? 聞こえませんよ』
『いいえ。な、なんでも』
クロードの素っ気ない返事に、アレクサンドラは顔をうつむかせた。
その頬は真っ赤に染まっている。
……なんとなく状況がわかってきたぞ。
確かに聞こえた彼女の言葉。
この時、お前は嘘をついたんだなクロード。
今まで冷めていたお前の心臓が、激しく高鳴っているのを俺は感じる。
クロード。
この女性こそ、お前が残したい記憶なんだな。