3-019. 大浴場トラブル!
宿の金庫番にミスリル銃とコルク銃を預け。
脱衣所にて素っ裸となり。
俺は浴場を仕切る引き戸を開いた。
「うわっ」
突然、もわっとした白い湯気が浴場から溢れ出してくる。
思わず驚いてしまった俺は、すぐに平静を取り戻して脱衣所を見渡した。
「……周りに誰もいなくてよかった」
脱衣所のカゴは俺の物以外はすべて空だった。
つまり、今この浴場は俺の貸し切りみたいなものだ。
ちょっとした優越感を抱きながら、敷居をまたいで浴場へと足を踏み入れる。
「へぇ。こりゃ凄い」
浴場を見渡すと、艶やかな白い床の奥に広い浴槽があった。
足の裏の感触から床は陶磁器製。
浴槽は表面の模様から察するに大理石。
天井にはガラスに覆われたランプが固定されており、辺りを照らしている。
等間隔に並ぶ支柱からは蛇が鎌首をもたげているような形の突起物が出ていて、先端からお湯を撒いている。
さすがは来賓用の宿舎だけのことはある。
きっとドワロウデルフの職人達によるものなのだろう。
〈ジンカイト〉にも浴場はあるが、親方の力作であるウチの浴場ですらここの設備には遠く及ばない。
◇
洗い場で体を洗った後、俺は浴槽へと浸かった。
浴槽の縁に据えられた麻袋にはハーブが入っているらしく、そこから心地よい芳香が漏れ出している。
その香りを味わいながら肩まで湯に浸かると、今日一日の疲れが一気に吹っ飛んだような気持ちになった。
今まで生きてきて、これほどリラックスできる風呂に入った記憶はない。
「はぁ……。いい湯だ」
夢のような心地にうっとりとしながら、俺は今までのことを思い返していた。
クロードの人造人間製造疑惑。
馬車の旅路と、襲撃してきた目的地なき放浪者。
俺の価値観とはまるで異なる虹の都の街並み。
教皇による洗礼の儀に、宝物庫の勇者の聖剣。
そしてヴァンパイア治療法の研究。
……この三日間でいろいろあったものだ。
これもすべて、クロード一人の解雇に慎重を期した結果か。
ギルドマスターだったら、ぐだぐだ考えることもなく本人に向かって「お前は解雇だ!」の一言で済ませていただろう。
だが、百戦錬磨一騎当千の英雄達を相手に、簡単にそれが言えるのはあの人くらいなものだ。
ただでさえ仲間に解雇通告なんて心苦しいのに、俺なんかが何の準備もなくそんなことを言った日にはマジで殺されかねない。
「どうしたもんかなぁ」
湯面に顔半分を沈めてブクブクと泡立てていると、ガラッと浴場の引き戸が開く音が聞こえてきた。
誰だ、と思いながら引き戸の方に向き直ると、立ち込める湯気の向こうから人影が近づいてくるのが見えた。
背は小さい。
線の細い体。
耳がぴょんと尖っている。
……たったそれだけの情報で、俺はその人影が誰かを察した。
湯気の向こうの彼女は俺の存在に気づかず、洗い場に屈んで体を洗い始めた。
少しして泡立つ石鹸からオリーブの香りが漂ってくる。
石鹸の泡で細い肢体や胸を洗い、床の溝に流れるお湯でゆすぐことを何度か繰り返した後、彼女の影がゆっくりと浴槽へと近づいてきた。
「……!」
魔が差したのか、つい見入ってしまっていた。
これは……もしかして非常によろしくない状況なのでは?
俺は昔、ギルドの脱衣所でばったりとルリと鉢合わせたことを思い出した。
ちょうど脱衣所の扉を開いた時、ルリは服を脱ぎ終わって浴場に入ろうとしていたところだった。
俺の視界には、見事に引き締まったルリの裸体が映ったわけだが……。
その後、夜通し刀を持った侍に王都を追い回されるハメになった。
……忘れたいような、忘れたくないような、そんな苦い記憶。
今まさに、その記憶が俺の脳裏によみがえったのだ。
「……っ!!」
湯気のすぐ向こうにいる彼女は、まだ俺に気づいていない。
この広い浴槽で、よりによって俺が浸かっている場所へ向かってくるとは……。
どうする……?
俺はどう動くのが正解なんだ……!?
考えろ、ジルコっ!
①声をかけて自分の存在を教える。
②湯面に潜って身を隠す。
「……」
①は無難なように思えて、この状況だと悪手な気がする。
なぜ浴場に入った時に声をかけないのか、と突っ込まれた時にどう答えればいいんだ。
②は……完全にアウトだろう。
気心の知れた相手とは言え、裸を覗き見たなんて思われた日には二度と信頼を取り戻せない。
①も②も選べない。
……どうしよう。
「え」
大理石の浴槽の縁に彼女が足をかけた時、聞き慣れた声が俺の耳に届いた。
俺は湯面をブクブクと泡立たせながら、目の前の裸の少女を見上げた。
……俺と目が合って硬直するネフラ。
汗ばんだ白い肌に、しっとりとしたエメラルドグリーンの髪が張り付いているその姿は、普段の彼女からは想像できないほど妖艶な色気を漂わせている。
と言うか、なんで浴場でまで眼鏡を掛けているんだ!?
「ジルコくん……?」
ネフラは曇った眼鏡を指先でこすって、まじまじと俺の顔を覗き込む。
呼びかけられても、俺はどう答えていいものかわからない。
「……ゴボゴボ」
「な、なななな、なんでっ……!?」
俺の存在を認識して、ネフラの顔が耳まで真っ赤になった。
顔を引きつらせて、大きく息を吸い込んだ彼女は――
「きゃあああああーーーーっ!!!!」
――かつて聞いたことのない悲鳴をあげた。
俺はすぐに湯面から顔を上げて、彼女を落ち着かせるよう努めるが……。
「ちょっと待った、ネフラ!」
「こ、こっち来ないでぇぇっ!!」
……聞く耳持たれず。
ネフラは俺にお尻を向けて、飛び跳ねるようにその場から逃げ出した。
これはもう間違いなく完全に誤解されている。
なんとか誤解を解かなければ……!
俺はすぐに浴槽から身を乗り出し、ネフラの手を掴んだ。
「落ち着けって! 誤解だ!!」
「ごご、誤解って何!?」
「うわっ」「きゃっ」
ネフラが俺の手を振りほどこうとした時、濡れた床を俺の足が滑った。
態勢を崩した俺は、そのままネフラを巻き込んで床に転んでしまう。
「痛……」
「ご、ごめんネフラ」
その時、俺は仰向けになったネフラに覆いかぶさるような姿勢で四つん這いとなっていた。
しかも二人は裸。
俺達以外誰もいない空間で、だ。
「……」
「……」
……沈黙が重い。
言葉が出ない俺を、顔を真っ赤に染めたネフラがじっと見上げていた。
俺の視界にはネフラの何とも言えない顔が映っているが、首から下だってしっかり見えている。
細い首筋。
白い肌にうっすらと浮かぶ鎖骨。
そして丸みを帯びたふたつの山。
俺の左手は、その山のひとつを押し潰していた。
……ああ。これはヤバい。
事故とはいえ、かなりヤバい部類のヤバさだ。
謝罪をするか?
まずは離れるか?
とにかく今すぐ行動しなくては。
思考が錯綜する中、俺はとっさに口を開いた。
「ネフラ」
「……なに?」
「お前、なんで浴場でまで眼鏡を掛けているんだ?」
……何を言っているんだ俺は。
「ぷっ」
ネフラが――
「ふふふ」
――笑った。
「それ、この状況で言うこと?」
「いや、その、ごめん……」
「私も湯に浸かりたい。……起こして」
「ああ」
俺は左手をどけて、右手でネフラの体を起こした。
小さく、軽い、彼女の体を。
「ジルコくん。私の顔を見て」
「な、何?」
言われた通りにネフラの顔を見る。
その刹那。
パァン、という頬を叩く音が浴場に響いた。
◇
俺は頬を赤く腫らして、浴槽に浸かっていた。
ネフラもまた、俺と背中を向かい合わせにした形で湯に浸かっている。
「いきなりひっぱたくことはないだろ」
「入ってるなら、そう言ってほしい」
確かにネフラの言う通りではある。
しかし、脱衣所のカゴを見れば先客がいることにも気づけたはず。
……とは言えない。
「……」
「……」
ちょっと気まずいなぁ。
何か場を和ますようなことを言わないと。
……いかん。何も思いつかん!
仕方ないので、俺は改めて疑問をぶつけることにした。
「その眼鏡だけど……」
「眼鏡がないと何も見えない」
「だからって浴場にまでつけてくるか?」
「私には必要だもの」
「本ばかり読んでいるから目が悪くなるんだぞ」
「それに勝るものがある」
……いつかもこんなやり取りをしたような。
と言うか、眼鏡をつけたまま風呂に入ったら余計ものが見えなくなるだろう。
「ジルコくん」
「なに」
「私達を襲った賊のことだけど」
これ幸いなことに、ネフラが話題を振ってきてくれた。
気まずい現状を打破するのにちょうどいい。
「あいつら、なんだったんだろうな」
「考えてみたんだけど」
「うん」
「ゴブリン仮面の言っていたこと、覚えてる? 英雄不要論の提唱者の話」
……英雄不要論?
復興の時代、求められるのは英雄ではないって論調のことか。
そう言えばゴブリン仮面がそんな話をしていたな。
「それがどうかしたのか」
「あの時、ドラゴグと懇意にしているエル・ロワ貴族の話が出た」
「そうだっけ?」
「出たの。ドラゴグのために王都のギルドに圧力をかけてるんじゃないかって、ジルコくん言ってた」
さすがにそこまで細かいことは覚えていない。
あの時は解雇通告のことで頭がいっぱいだったし、三週間近く前の話だしな。
「でも、それがどうしたって言うんだ」
「賊の黒幕が教会関係者じゃないのなら、その貴族こそがそうかもしれない」
「ずいぶん唐突だな。どうしてそう思う?」
「王都出発の時点で私達の行き先を知られる可能性があるのは、フローラが伝書鳩のやり取りをした教会の司祭と、遅延連絡の伝書鳩を依頼した駅逓館の係員だけ」
「さすがに係員が手紙を盗み見るとは考えたくないな」
「うん。あの時は受付が混雑していて、ほとんど流れ作業でフローラの依頼を済ませてたからそれはない」
「そうか。ネフラはフローラに同行していたんだっけ」
「ジルコくんに言われてね。それで、もう一方の――」
「教会の司祭か? でも、さっき貴族だって……」
「その貴族に司祭から話が漏れたとしたら?」
教会の司祭が話を漏らすって……。
よほど親しい間柄でもない限り、ありえないことだぞ。
親しい間柄……待てよ?
エル・ロワの国教はジエル教。
平民から貴族まで、ジエル教に信仰心のあつい者は多い。
爵位の高い貴族ならば教会に手厚い寄付をするのは珍しくない。
まさしく教会にとっての後援者だ。
そういった人物なら、司祭から情報を吸い上げることも不可能じゃない。
「……なるほどな。地獄の沙汰も金次第と言うし、聖職者も後援者には逆らえないのは世の常だ」
「ジルコくん、どう思う?」
「面白い推理だな。でも〈ジンカイト〉を襲わせることでその貴族にどんな利益があるのかわからないな」
難点となるのは動機だ。
世界最強の冒険者ギルドを、危険を冒してまで狙う動機はなんだ?
いくら資金力のある貴族でも、利益に対して危険が大きすぎやしないだろうか。
まさかすべてのギルドに対して同じことをやっているってことはないよな。
……そもそも、その貴族が欲する利益ってなんだ?
「英雄不要論の提唱者だよ? 利益ならあるじゃない――」
わずかな沈黙の後、ネフラが続けた。
「――放っておけば王都のギルドが弱体化していく中、あるギルドにだけ不安要素があることに気づいたとしたら」
「!? ……まさか」
暖かい湯の中にいるというのに、俺は背筋がぞっとするのを感じた。
「狙われたのは、ジルコくんだよ」