6-055. 大いなる世界の下に
目を開けると、蒼穹が広がっていた。
あまりにも美しい空の色に、思わず見惚れてしまう。
吹き付けるそよ風が頬を撫でた。
身を起こしてみると、俺は何もない野原に横たわっていることに気付いた。
ここはどこだ……?
俺はクォーツの町に居たはず。
でも、この風景――いつかどこかで見たことがあるような。
「お疲れ様でした。ジルコくん」
「えっ!?」
突然聞こえてきた声に俺は驚いた。
跳び上がって周囲を見渡すと、一人の女性が目に留まる。
「アイオラ……先生?」
それは、アイオラ・ラブレス――彼女に違いなかった。
「はい。アイオラ先生です」
「先生! どうしてここに!? と言うか、あなたは――」
「はい。私は死にました」
本人の口から、あっさりと重い事実が告げられる。
なのに、彼女自身は笑みを絶やさない。
「し、死んだって……なんで笑っていられるんです!?」
「解放されたから、でしょうか」
「解放……?」
「私にかけられた呪いは、死ぬことでしか解けないものだったのです」
「意味がわからない。どういうことです? 何を言っているんです!?」
先生の言葉が理解できない――
彼女は一体何を話しているんだ?
そもそも、ここは一体どこなんだ?
――困惑と焦燥が俺の中に募っていく。
「最後に、こうしてあなたとお話できる時間を与えられるなんて、思ってもいませんでした」
「先生……」
先生と話したいことはたくさんある。
なのに、なぜか俺は言葉が喉から出てこない。
「あなたもすでに知っての通り、私はイスタリ――スフェン・エウローラの弟子の一人です」
先生は風になびく髪を撫でながら、淡々と語り始めた。
「スフェン様は、かつて禁忌に触れてリヒトハイムから追放されたお方。以来、百年以上もあの方は独自に研究を続けてきました」
「研究? 世界の謎がどうとかってやつですか?」
「はい。あの方は人生を懸けて、この世界の謎を解き明かそうと研究に明け暮れてきたのです。私達のような弟子を育ててきたのも、彼が他人を観察することで、少しでも世界の謎を紐解く可能性を拡げるため……」
「イスタリの目的が世界の謎を解くことなら、どうして魔物なんてものを利用しているんです? 一歩間違えれば世界の謎どころじゃない」
「魔物こそがこの世界の根幹を担う謎だからです」
「魔物が……?」
「生物の常識を覆し、生命を冒涜する不条理な存在。魔物というものが、どうしてこの世界には存在するのか。魔物が侵蝕によって数を増すことは知られていますが、最初の一体はどこから来たのか。それがなぜ現れたのか。そして、魔物に対する勇者の存在。……あの方は、それらの答えが世界の謎を解き明かす鍵であると考えています」
……理解できないな。
魔物が何なのかなんて、どうだっていいことじゃないか。
正体を知るよりも、脅威を排除する方が優先されるべきだ。
なのに、なぜそんなものを解明しようと、わざわざ破滅を招くような真似ばかりしているんだ。
「スフェン様の脅威はその飽くなき探求心にあります。あの方は目的のためには手段を選ばず、いかなる犠牲も厭わない。例え破滅のリスクを背負うとしても、あの方の歩みは止まらないのです。そして、そんな彼に惹かれてしまう者もいる」
「……」
「私も、カーネリアも、ラブラドラも、ティタニィトも――皆があの方に心惹かれた。あの方の言葉が、夢が、目的が、私達の心にぽっかりと空いた穴を塞いでくれるように感じてしまう。共に破滅の道を歩むことで、心が満たされるのです。だから、どうしてもあの方の傍を離れることができなかった。どんな悪事も厭わずに、ただひたむきにあの方の目的遂行のための道具になることができた」
「……それが呪い、ですか」
「そう。あの方に魅入られた者は、決して抗うことはできない。かろうじてできることと言えば、敵対者への敵意を抑えることくらいでしょう」
それを聞いて、俺は察した。
最後の戦いの時、やはり先生は手加減していたことを。
それが、彼女のイスタリに対する最大限の抵抗だったことを。
「俺にもっと力があれば、先生を殺さずに解決できたかもしれない」
「ジルコくん……」
「すみません、先生。俺が……俺が弱いばっかりに! 先生を……死なせてしまった……っ!!」
頬に熱いものが伝っている。
……涙?
俺は泣いているのか。
「空虚は誰にでもあるもの。ジルコくんにも、ネフラさんにも、リドットさんにも、ジェリカさんにも――でも、人間は誰かと共に在ることで、心の穴を塞ぐことができる」
「心の穴……」
「リドットさんにはジェリカさんがいるように。あなたにも、誰かがいるでしょう?」
「俺は……俺には……」
不意に、ネフラの顔が思い浮かんだ。
しかし、その後ろにはもう一人の顔が見えている。
「ジルコくんは独りにはならないで。独りはとても辛くて、道を踏み外そうとした時に支えてくれる人もいない。あなたは私のようにならないで」
「先生も独りだったんですか……?」
「ずっと独りだった。だからあの方に拾われた時、私には心のよりどころができたのです。あの方の生き様がいずれ世界を滅ぼすことになるとわかって、一度は逃げ出したけれど……やっぱり私は戻らざるを得なかった」
先生は悲しげな表情で俺を見つめた。
その刹那、俺の脳裏に十年前の記憶が蘇ってくる。
俺が先生に弟子入りし、共に過ごし、そして破門されるまでの数ヵ月――今はもう過ぎ去った過去の思い出。
「先生。まさか俺のせいで……俺に魔法の素質がなかったせいで、先生はまたイスタリの下へ……?」
「ジルコくん。後悔の種を探すために過去を思い出してはダメ」
「俺が先生の隣に立てるくらいの魔導士になれていたら、イスタリの代わりに先生の空虚を埋められたんですか!?」
「思い出はいつまでも心の中に。あの頃のあなたとの日々は、私にとって救いでした。まるで失った弟が戻ってきたように――幸せでした」
その時、一陣の風が吹きつけた。
「もうすぐ時間です」
「え?」
先生は俺に向かってほほ笑んだ。
彼女の姿がさっきよりも遠くに見える。
「ジルコくんはこれからも戦い続けるのでしょう?」
「……はい。俺は、先生を利用したイスタリが許せない。他にも奴のせいで多くの人々が傷ついてきた。絶対にその責任を取らせなきゃならない」
「ならば、あの方の眼を決して見てはいけません」
「眼を?」
「あの方の瞳――あの宝石のような瞳こそ、空虚な者を魅了する力の源泉。あの瞳に見つめられると、どうしてか心を見透かされているような不思議な気持ちになってしまう。喪失感が埋まった気がして、心が安らいでいく。あの方と共に生きたいと望むようになる」
「なんです、その魔法? いや、奇跡のような妙な力は……」
「魔法でも奇跡でもありません。あの方だけが持つ特有の素質と言うべきか――あるいは、神の恩寵? そう、カリスマとでも呼ぶべきでしょうか」
「神の恩寵……!?」
その時、野原に大きな影が現れた。
「お迎えですね」
「迎え? 迎えって……どこへ行くんです、先生?」
「魂の還るべき場所へ」
彼女が空を見上げたので、俺も釣られて顎を上げる。
そこには……。
「……っ!!」
俺は自分の視界に映ったものに戸惑いを隠せなかった。
頭上遥か高くに浮かんでいるのは、紛れもなく伝説の存在――
「ドラゴン!!」
――それはまさに伝承通りの姿で大地へと降り立った。
背中に見える一対の翼に、ひと際長い尻尾を持ち、二つの足で地面を踏みしめ、長い首をもたげて俺達を見下ろしている。
鋭い目つきだが威圧的ではなく、姿は巨大だが恐ろしくはない。
むしろ穏やかで優しい雰囲気をまとい、白く美しい体皮はまるで白金のように煌めいている。
そして、右手には黄金の剣を、左手には白銀の天秤を抱えている。
この衝撃的な姿が、俺の記憶の中ではずっと朧げだった。
しかし、今になってかつての記憶が鮮明に蘇ってくる。
およそ一年前――勇者アルマス失踪の日。
俺はこの場所で、このドラゴンの姿を見たんだ。
「二度目の邂逅だな。また俺の前から、大事な人を連れ去っていくのか」
ドラゴンは黄金色に煌めく瞳でじっと俺を見つめていた。
悪意などなく、むしろ途方もない安堵感を感じられる。
まるで母親の胸の中に抱かれているような――そんな心地。
「さようなら、ジルコくん。あなたは、まだしばらくこっちに来てはダメよ?」
「先生!?」
先生は俺に背を向け、ドラゴンに向かって歩いていく。
「先生、行っちゃダメだ! 行かないで!!」
口は動くのに、どうしてか足が動かない。
追いかけたいのに、追いかけることができない。
「最後にちゃんとしたお別れが言えてよかった――」
遠く離れていく先生の声が、すぐ耳元で聞こえてくる。
「――あなたに看取られて逝けること、私の救いです」
その声を最期に、先生の姿が黄金色に輝く光の粒子となっていく。
それはドラゴンの持つ天秤へと吸い込まれていき――
「先生ぇぇぇぇ!!」
――彼女の痕跡は完全に消え去ってしまった。
……またこの喪失感か。
俺の心には大きな穴が開いてしまった。
こんなことで、イスタリと戦えるのか?
ドラゴンはまだ去らない。
俺を見つめたまま、いまだに大地に踏み留まっている。
「いつまで居る気だ! 用が済んだのなら、早くどこかに行っちまえ!!」
ドラゴンからの返答はない。
しかし、そこには何かしらの意思を感じる。
なんだ? 何が言いたい?
俺に何か伝えたいことがあるのか……?
『私は死にました』
『魂の還るべき場所へ』
『あなたは、まだしばらくこっちに来てはダメよ?』
先生の言葉が脳裏に思い起こされる。
それらの言葉で、俺はこの場所の正体に察しがついた。
「……そうか。お前は、死者を向こうへ連れて行く運び屋なんだな。だから先生を連れて行くのか。もう二度と会えない場所へ……」
先生は本当に思い出の中だけの存在に。
もう言葉を交わすことすらかなわない、遠い存在になってしまったのか。
……なら、あいつもそうなのか?
「勇者は! アルマスは! あいつも死んじまったのか!?」
俺の問いなど答えてくれるわけもない。
……そう思っていた。
しかし、ドラゴンは唐突に頭を上げた。
そこには明らかに何らかの意思がこもっている。
ドラゴンの双眸は遥か遠くを見つめている。
蒼穹の彼方――煌めく星々が見える先を。
「あいつは――アルマスは言っていた。自分を必要とする人達を助けるために、行かなきゃならないと。あれがアルマスの向かった先なのか?」
アルマスに助けを求める者達がいる場所。
「俺達と一緒に戦っていたように、あいつはまた、向こうで勇者の使命を果たしているんだな!?」
俺の知らない、新たな脅威のある世界。
「あいつは今も生きて無茶をやっているんだな……!」
そこは、死すらも超えた先にある。
「そして……もう二度と帰ってこれない場所なんだな……」
気付けば、ドラゴンは再び俺を見下ろしていた。
まるで子供をあやす母親のような目に、俺は思わず微笑んでしまった。
でも、伝えたいことはわかった。
後悔の種を探すために過去を思い出してはダメなんだよな、先生。
もう振り向かないよ。
先生との別れも。アルマスとの別れも。
すべてを受け入れて先へ進む。
その先に、イスタリを討つ俺の道がある。
今はもうその確信がある。
「さようなら、アルマス――」
ひとりでに口から出てくる別れの言葉。
そして、改めてネフラの顔が思い浮かぶ。
もうその後ろには誰もいない。
「――そしてごめん、ネフラ。今、俺の隣にいるのはお前なんだ」
その時、遠くから誰かの声が聞こえた気がした。
その声はどんどん近づいてくる。
俺を呼ぶ声――起きろと呼びかけてくるネフラの声だ。
「ありがとう、ドラゴン。いや……神様、とでも呼んだ方がいいのかな」
ドラゴンは何も言わず、ただじっと俺を見つめている。
「三度目――次に会う時は、俺のエスコートを頼むよ。その時には、俺の夢が叶っているといいけどなぁ」
視界が眩く輝き始めた。
野原が、蒼穹が、この世界が白い光に溶け込んでいく。
帰る時間だ。
俺が戻るべき場所へ――




