6-051. 死に至る病
「やめてぇーっ!!」
子供の声――誰だ!?
というか、いきなり背後から掴みかかられたぞ!?
「お願い、やめてぇぇーーーっ!!」
「お、お前は……!」
俺に抱き着いてきたのは、なんとベリルだった。
この子はフロスと一緒に避難したはずなのに、どうしてここに!?
「ごめんなさい、ジルコさん!」
続いて聞こえてきたのはフロスの声。
見れば、崩れかかった建物の隅にフロスがしがみついている。
「フロス! なぜ戻ってきた!?」
「わたくしのミスです、ごめんなさいっ! 彼女が目を覚ました後、説得できなくて……」
彼女が泣きそうな顔で訴えるさなか、通りの方から巨大な物が水面に倒れ込む音が聞こえた。
サルビアの巨大な樹木が黒い波の上に倒れたのだ。
振り返って俺が見たのは、建物の側面を跳ね返って噴き上がる黒い炎だった。
炎は空中で細かい粒子となって周囲に降り注いでいく。
このままこの場所に突っ立っていたら、粒子を全身で浴びちまう。
「やばいっ! みんな離れろっ!!」
俺はベリルを抱えたまま、崩れ始めた屋根を跳ぶように逃げた。
とっさにフロスがいる方向へと向かってしまったが、すでに建物の周りは黒い波が取り囲んでいる。
これじゃどう足掻いても下に落っこちる他ないぞ!?
その時、俺の両肩に激痛が走った。
同時に、足が突然屋根から離れていく。
この浮遊感――これは、まさか!?
「キュウウゥッッ!!」
「ぐあっ!?」
やっぱりフォインセティアだった。
彼女は俺の肩を両足で鷲掴んで、空中へと引き上げてくれたのだ。
……鋭い爪が防刃コートの上から肌に食い込んできて、死ぬほど痛いけど。
「ネフラ、フロス、掴まれ!!」
「「はいっ!」」
俺の両足に、ネフラとフロスが抱き着く。
直後、フォインセティアが掴んでいる両肩にさらなる激痛が走る。
体が下に引っ張られて、肩に食い込んだ爪の傷が広がっているのだ。
「ぐががっ。ふぉ、いん……頼む、早く降ろし……っ」
もげるかと思うくらい肩が痛い。
緊急時とは言え、強く掴み過ぎだぞフォインセティア!
空を飛んだのはわずか数秒。
俺達は、ややその場から離れた、足場が無事な建物の屋根へと降ろされた。
「キュウゥゥゥ」
「ありがとう、フォインセティアッ」
「助かりました! なんて素敵な鳥さんでしょう!!」
肩の痛みに苦しむ俺をよそに、ネフラとフロスがフォインセティアに寄り添って感謝の言葉を贈っている。
少しは俺の心配もしてくれ……。
「はっ! そ、そうだ。ジェリカとリドットは無事なのか!?」
サルビアが倒れた方角に向き直ると、対面の建物の屋根上に二人の姿を見つけた。
あいつら、寄り添い合いながらこっちに手を振っている。
……完全に仲直りしたって感じだな。
まぁ、無事でよかった。
「お願い、ジルコお兄さん。サルビアを殺さないで!」
「ベリル……」
ベリルはいよいよ頬を濡らした顔で、俺にすがりついている。
この子の気持ちはわかるけど、さすがにそれは無理だ。
サルビアはすでに犬の姿すらしていないし、俺の知る魔物を遥かに超える脅威になってしまった。
今ここで息の根を止める以外、この場を収める方法なんてありはしない。
「どけ、ベリル! あれはもうサルビアじゃない!!」
「サルビアだよ! どんなに姿が変わっても、あれはあたしの大好きなサルビアなの!!」
「そんなわけあるか、このわからず屋!!」
「わかるもん!! あたし、サルビアの心を感じるもん!!」
「……っ」
そうだった。
ベリルには、他人の心を見通す不思議な力があるんだった。
……いや、でも、あれは人間じゃなくて犬だぞ。
それどころか今は魔物だ。
そんなものの心なんて見通すことができるのか?
「見えるの! 感じるの! サルビアが苦しがってる! あたしには、それが助けてって言葉のように聞こえるの!!」
「そんなまさか……」
「本当なの! だからお願い、サルビアを助けてあげて!!」
「……」
仮にそれが事実だとしても、サルビアはもうどんな薬でも魔法でも助けることなんてできやしない。
苦しんでいるのなら、トドメを刺してやるのが一番じゃないのか。
「ジルコくん、サルビアが!」
ネフラが叫ぶのを聞いて、俺はあらためてサルビアへと向き直る。
視界に収まったのは、黒い波に浮かび上がる巨大な流木のようになり果てたサルビアの体――それが、まるで熱し過ぎた餅のように膨張していくのが見える。
その光景は、樹木化した時以上の異変を感じさせる。
「一体何が起こっているんだ!?」
「ああっ。サルビアが……サルビアじゃなくなってく……」
「なんだと!?」
「サルビアが自分の体の中にあるよくないものを、必死に押し留めてくれてるの。でも、もう限界みたい……」
「サルビアが……自分の意思でか!?」
たしかに、最後に先生に仕掛けてからとっくに一分なんて過ぎてしまった。
今なお黒い薔薇が満開にならずに済んでいるのは、サルビアが頑張ってくれているからだって言うのか。
魔物に――否。犬にそれほどの精神力があるなんて……。
「サルビア。ごめんね、サルビア……ッ」
……この子を想う気持ちに、人も動物も関係ない、か……。
その時、俺とベリルの間に大きな影が走った。
次の瞬間、空からジェリカとリドットが降ってきて、屋根の上へと着地した。
フォインセティアに運んできてもらったのか。
リドットはすぐにベリルの元まで駆け寄ってきて、彼女の顔を覗き込んだ。
「ベリル、怪我はないか!?」
「お父さん……。どうしよう、サルビアが……サルビアが消えちゃう!」
「……もうどうしようもないんだ。あれがサルビアだとしても、すでにきみと共に生きていくことはできない。やれることと言ったら、彼を安らかに眠らせてやることくらいだ」
「ダメ。嫌だよ……! サルビアと離れ離れになるなんて……絶対嫌……っ」
泣き崩れるベリルを前にして、リドットは唇を噛んでいる。
娘のように大事に思う子が泣いて懇願するのを見て、何もできないことを悔やんでいるのだろう。
「ジルコ。ざっとだが、話はジェリカから聞いた。サルビアが魔物になったのは、アイオラという女魔導士が原因だと。彼女を倒せば、サルビアの異変は止まるんじゃないか!?」
「……それは無理だ、リドット。サルビアはもうとっくに魔物化されていて、あの変化も仕組まれたものだったんだ。さらにエーテルの淀んだ宝石をいくつも体内に取り込んで、黒い波まで吐き出す存在になっちまった。すでに元に戻す余地なんて……」
「やはり消滅させるしかないのか」
「サルビアが苦しんでるのが本当なら、それがあいつのためにもなるだろう」
俺とリドットの会話のさなか、ベリルはずっと身を震わせていた。
家族にも等しい大切な存在をどう始末するかなんて話されては、当然のことか。
子供には辛過ぎるな……。
「どいてっ」
ベリルが俺を押し退けて走り出した。
彼女は屋根の端で止まると、通りの曲がり角から見えているサルビアに向かって叫ぶ。
「サルビア、あなたがいない世界なんて考えられない! あなたが死ぬなら、あたしも死ぬ!!」
ちょっと待て。とんでもないことを言いだしたぞ!
まさかさすがに本気じゃないよな、と思っていると――
「今、そっちに行くから」
――ベリルは宙に足を踏み出してしまった。
俺は慌ててベリルに駆け寄ろうとしたが、それより早く何かが俺の横を通り過ぎていった。
あれはジェリカの鞭だ。
鞭はベリルの腰に巻き付くや、すぐに彼女の体を屋根の上へと引っ張り戻した。
「は、離してっ」
「なんて馬鹿なことをするんだ、ベリル!?」
リドットが鞭を解こうとするベリルの手を掴んだ。
あのリドットが声を荒げるなんて、それほどこの子が大事だということか。
しかし、当人はそんな気持ちは露知らず――リドットの手を振り払い、鞭を解いて彼を睨みつけている。
「どうせサルビアを殺すんでしょ!? だったらあたしも死ぬっ」
「落ち着け、ベリル! そんなことを言うものじゃない!!」
「サルビアがいてくれたから、あたしはこの街で生きてこれたの。彼がいないなら、あたしもう生きられない!」
「そんなことはないだろう! お前にはアガパンサスや、娼館のみんながいるじゃないか!?」
「それはただの雇用主と同僚でしょ。そんなの家族じゃないっ」
「……だったら、僕のために生きてほしい。僕には君が死ぬなんて耐えられない。本当の子供のように思っているんだ!」
「……っ。でも……本当の親子じゃないじゃない」
「そ、それは……」
「家族ごっこに付き合ってくれて嬉しかったよ、リドット様。あたしは本当に救われてた。でも、あたしが欲しいのは本当に心を通わせられる家族なの。……だからサルビアがいないとダメなの」
「……」
リドットが押し黙ってしまった。
感情に訴えかけたリドットの説得も、今のベリルには通用しない。
むしろベリル側から突き放された形だ。
「リドット。わらわの知らぬ間に、ずいぶん大きな子ができたものだな」
「……娼館街の子供達を解放してあげたくて、慣れない父親役を買って出たんだ。確かに家族ごっこに過ぎなかったが……少しでも彼女達の心の支えになってあげられればと……」
「おぬしらしいな」
「だけど、それは僕の自己満足だったようだ――」
リドットは酷く落ち込んでいた。
これほど落胆した彼のことは今まで見たことがない。
「――すまない、ベリル。僕はきみの心の支えにはなれなかったんだな」
「ごめんなさい。リドット様には本当に感謝してるの。でも、あたしにとって本当の家族は、ずっと傍にいてくれたサルビアだけなの」
「……しかし、サルビアは……」
「わかってるよ。もう彼がどうしようもないってこと、あたしだってわかってる。だから死ぬの。もう生きていても仕方ないから」
「ベリル!!」
いけないな。ベリルが自暴自棄になってしまっている。
しかし、どんな言葉で説得を試みたところで、彼女の心には届かないだろう。
懐いていたリドットでさえこの対応なのだ。
俺のような部外者がしゃしゃり出たところで、結果は見えている。
「家族か。確かに、家族とは血の繋がりだけで決まるものではないな――」
言いながら、ジェリカがリドットの隣へと並び立った。
今度は彼女がベリルを説得するつもりか?
「――わかるよ。おぬしのその気持ち」
「嘘! あなたなんかにわかるわけないでしょっ!!」
「わかる。なぜならば――」
ジェリカが腕を上げる。
すると、空から急降下してきたフォインセティアがその腕に留まった。
「――わらわにも、血の繋がらぬ家族がいる」
「……その子があなたの家族……」
「そうだ。さらにもう一匹、リアトリスという馬がいる。彼もわらわにとって大切な家族だ」
「鳥とお馬さん――血も繋がってなければ、人間でもない。あたしと同じ」
「そうだ。しかし、心は通じ合っている」
「嘘。あなたのは飼い慣らしただけでしょ。あたしとサルビアの心が通じ合うって意味、あなたに理解できるわけないもの!」
「できるよ」
「どうして!?」
「おぬし、サルビアの心を感じたと言ったな。わらわも彼らの心がわかるのだ――声が聞こえる、と言ってもいい」
「そ、それ本当っ!?」
そうか、ジェリカにはその力があった。
スケールこそ違うが、二人の能力は似通っている。
ジェリカはこの中で唯一、現実にベリルの心中を理解できるのだ。
「わらわが持つ力は、鳥獣との意思疎通能力。〈理知の賢者〉と呼ばれた識者に言わせれば、極めて特異な精神感応能力とのことだが、他に同類がいても驚かぬ」
「……」
「幼い頃は困惑させられたが、獣使いとして生きるようになってからはとても心強い力となった。いかなる猛獣であろうとも、その内側には心がある。無駄な争いも、いがみ合う虚しさも、わらわは心を通じ合うことで避けることができた」
「……」
「おぬしも同じだ。長く心を通じ合わせてきたことで、サルビアとの間に血よりも深い絆を得た。それは家族だ」
「……あたし」
「わらわにサルビアの声は聞こえぬが、今もおぬしには聞こえるのだろう?」
「あたし、サルビアに死んでほしくないよ……ずっと一緒にいたい」
「ベリル。本当の家族であるのなら、サルビアがおぬしに願うことがあるはずだ。聞くのだ、サルビアの本当の言葉を」
「……っ」
ベリルの表情が変わった。
さっきまではすべてを諦めたような危うい顔をしていたのに、今は――迷っているような印象を受ける。
「……生きろって言ってるの。サルビアが、あたしだけは生きて幸せになれって言ってるの」
「そうか……」
「そんなの嫌なのに……っ。サルビアがいなくなったら、あたし……独りぼっちになっちゃうから……!」
その時、遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
……この声、まさか……。
「――! このバカタレー! そんなとこで何やってんのさ、ベリルゥーーッ!!」
「か、館長!?」
声の主は、アガパンサスだ。
俺達のいる場所から、二つほど通りを挟んだ先――そこの建物の屋根に、王国兵に引っ張られながらもこちらに叫んでいる彼女の姿が見える。
まったくあの人は無茶をして……。
傍にいる王国兵の唇を読む限り、どうやら彼らの静止を振りきってこんなところに戻ってきてしまったらしい。
もしも二人の関係がただの雇用主と雇われ娼婦に過ぎないのなら、アガパンサスはこの場に戻ってくることはなかっただろう。
……お前ならそのことはわかっているよな、ベリル?
「どうやらおぬしは独りではないようだぞ、ベリル」
「……ぅ」
「家族を看取ってやれ。そして、彼の分まで生きて、幸せになれ。それがサルビアの最後の願いならば、何が最良の選択なのか――もう答えは出ているだろう」
「……うぅ」
「生ある限り別れは必定。残された者は、去っていった者との記憶を胸に生きていかなければならない。忘れる必要も、悔やむ必要もない。ただ、人生を振り返る時に笑って思い返せるようになればいい。……わらわはそう思う」
ジェリカの言葉を聞いて、ベリルだけでなく俺も心に刺さるものがあった。
俺も他人事じゃない。
去っていった者を、いつまで経っても引きずっている。
俺もあいつを――アルマスのことを、ずっと忘れられず、別れを悔やんでいるから。
頭ではわかっていても、乗り越える覚悟がまだ足りないんだ。
「ううぅ……うわあああぁぁぁっ」
ベリルが大粒の涙を流して泣き始めた。
「お願い。お願い! サルビアを……苦しんでるサルビアを、早く楽にしてあげてぇぇぇ~~~っ!!」
……ベリルは乗り越えた。
ならば、俺は――俺達は、彼女の願いを叶えてやらなければ始まらない。
「ベリル。俺達に任せろ」
俺は改めて宝飾銃を構えた。
そして、今にも破裂しそうなほどに膨らんでいるサルビアの体へと向けて、引き金を引いた。
光線は一瞬にしてサルビアの黒い薔薇を貫いた。
そして、俺は引き金を引いたまま銃口を横へと走らせる。
「斬り撃ち・火平線」
頭頂部を貫かれたサルビアは、銃口の移動に沿って横薙ぎに切断されていく。
俺が腕を振り切った時には、奴の巨体は真っ二つに分かれ、見る見るうちに萎んでいった。
同時に、娼館街の通りを満たしていた黒い波は、まるで時間が巻き戻るかのようにサルビアの体へと戻っていき、本体と共に霧散していく。
「間に合ったのか……」
「そうみたい。あれは魔物が消滅する時の反応と同じ」
俺はネフラと共に――否。仲間達と共に、サルビアが消えていく様子を見届けた。
黒い波が引いて通りが元に戻ると、床や壁は魔物の黒い炎に焼かれた時のように激しく痛み、黒ずんでいた。
幸いなことに、どこにも人間のミイラは視認できない。
なんとか犠牲者は避けられたようだ。
「うっ。ううぅ……サルビア。ごめんね。ごめんね……!」
サルビアの倒れていた場所には、もはや何もない。
あるのは、石床が真っ黒に焦げ上がった痕跡だけだ。
ベリルはじっとその場所を見つめている。
この子は強い意思で、家族の最期を看取ったのだ。
「終わったな、ジルコ」
「ああ。色々ありがとう、リドット」
「いや。僕の方こそ色々迷惑をかけたね」
「……まったくだよ」
リドットは笑みをたたえているものの、心の底から喜べないといった表情だった。
隣にいるジェリカも同様。
俺も、ネフラも、フロスも――全員が苦い気持ちを拭えない。
「とりあえずアイオラ先生を捜そう。拘束しておかないと、何をするか――」
口上の途中で、空が突然赤く輝いた。
大量の熱殺火槍が、俺達のいる建物へと降りそそいできたのだ。
「逃げろぉーーーっ!!」
そう叫んだものの、俺達は逃げる間もなく熱殺火槍の雨の真っただ中に立たされるはめになった。
しかし何たる幸運か、全員がその直撃を避けることができていた。
今の不意打ちは先生の仕業に違いない。
リドットに吹き飛ばされたっきり姿を現さなかったから、どこかの建物に落ちて気を失っているものと思っていたが、もしや攻撃の機会をうかがっていたのか?
「ジルコくん、あそこ!」
ネフラが空を指さした。
その先には、先生が宙に浮いて俺達を見下ろしている。
衣服はボロボロだが、表情を見る限り戦闘意欲は失っていないようだ。
「先生……」
「やってくれましたね、ジルコくん。これで世界の謎を紐解く偉大なる一歩が遠のきました。我が師イスタリも、深く悲しむことでしょう」
「これで終わりじゃない。イスタリの野望は完全に俺が潰す!」
「なんて畏れ多いことを……」
「もしもその邪魔をすると言うのなら、あなたも倒す。最後の決着をつけるつもりなら、掛かってこい!!」
サルビアを――奴らの言うところのブルームを――失った今、もう先生が戦う理由はないはずだ。
しかし、イスタリの野望を挫いた俺達をこのままにしておくとも思えない。
きっと戦いは避けられない。
「こうなっては、もはやあなた達全員を抹殺することでしか、我が師に合わせる顔がありません」
……ほらな。
「これが最後。本当に決着をつけましょう。ジルコくん――いいえ、〈ジンカイト〉!!」
戦いはまだ続く。
どちらかが死ぬことでしか終われない。
ならば、元弟子である俺が彼女の最期を看取るのが筋。
「これで本当にさよならです、先生」
 




