6-038. 長い一日の終わり②
ベッドがひとつの部屋に、男女が二人。
ここは俺の理性が試される場面だが――
「……」
「……」
――沈黙が気まずい。
まずは現状を整理しよう。
宿に戻って部屋に案内されたら、ネフラが裸(?)でシーツにくるまってベッドにいる。
しかも、フロスやジェリカが気を利かせてくれたと言う。
これはつまり……そういうことなのか?
ジェリカは、パーズでもサンストンでも俺達をくっつけようとしていたな。
今回は三度目の正直……というわけか?
肝心のネフラは――
「……っ」
――頬を赤らめたまま、そわそわしている。
というか、眼鏡をつけたままじゃないか。
この子は風呂に入る時も眼鏡をつけているけど、普段寝る時も外さないのだろうか。
……そんなことを考えている場合じゃないな。
「あ~。ベッドがひとつしかないな」
「うん」
「まぁ、そもそも頼んでおいたのは一人部屋だったしな」
「うん」
「二人で入るとは思ってもいなかったからなぁ~」
「うん」
「ネフラはベッドを使えよ。俺はそっちのソファーで寝るから」
「えっ」
途端にネフラが困惑した顔になる。
俺はそれを目にして、言葉を間違えたことを自覚した。
ますます気まずい。
……思えば、ネフラと出会ってもう五年も経つのか。
奴隷商に捕らわれていたハーフエルフの女の子が、世界最強の冒険者ギルド〈ジンカイト〉の一員となって、今では俺の相棒になっているなんて……当時は考えられなかった。
白馬の王子様が助けに来てくれた――なんて言っていた夢見がちな女の子が、本当に強くなったな。
それに、とても綺麗になった。
ネフラのことをじっと見つめていると、彼女は恥ずかしがってシーツに顔をうずめてしまった。
尖った耳の先まで真っ赤になっている。
……可愛い。
そう思った瞬間、俺の本能が理性を手放そうと気持ちが昂るのを感じた。
今はギリギリで理性を保っているが、ベッドの上でもじもじしているネフラの仕草を見ているだけで、踏み留まった理性がはち切れてしまいそうだ。
こんな気持ちになるのは、娼館街なんかに行っていたせいだ。
「ごめんね。わ、私、ちょっとどうかしてた。先に寝るねっ」
ネフラがシーツを頭からかぶったのを見て、俺はベッドに歩み寄った。
ベッドに片足を乗せた時、マットレスがしなる。
それによってネフラは俺が傍に寄ってきたことに気付いたようで、そろりとシーツから顔を出した。
「ジルコくん……?」
「ネフラ」
「あ、あわあわっ」
俺の顔がすぐ傍にあることを知って、ネフラは表情を強張らせた。
驚かせてしまったみたいだ。
でも、嫌がっている様子はない。
普段より遥かに間近で見るネフラの顔は、本当に綺麗だ。
柔らかそうな頬に、瑞々しい唇。
先端がピンと張った耳に、眼鏡越しに潤んでいる碧眼の瞳。
しっとりと汗が滲んだうなじに、鎖骨の下に見える豊満な胸。
……一層気持ちが昂っていくのを感じる。
「眼鏡、かけたままじゃ寝られないだろう」
「あぇっ?」
俺は彼女の顔から眼鏡をつまみ取った。
少し前に俺が新しく買ってあげた眼鏡――大事に使ってくれているんだな。
「……」
「綺麗だ」
「……は、はぅっ!?」
端的に今の気持ちを言葉にしただけだけど、ネフラの顔は余計に赤くなった。
「顔、熱そうだな」
「だ、だってぇ……っ」
俺はいつの間にかベッドに乗り上げていた。
しかも、ネフラの体にまたがるような恰好で、彼女に迫るようにしている。
俺自身、止めようのない激情に駆り立てられている自覚があった。
異性にこんな気持ちを抱くのはいつ以来か……。
「ネフラ、俺は――」
「ジルコくん」
「ネフラ」
「……」
ネフラがそっとを目を閉じた。
にわかに顎を上げたようにも感じる。
彼女とのキスは今が初めてじゃない。
でも、この状況で唇を重ねたら俺はもう理性を留めてはいられない。
気持ちの昂り、体の強張り、それらから得た確信だ。
互いの息がかかるほど近く。
互いの鼓動が伝わるほど近く。
俺とネフラが今まさに唇を重ねようとした瞬間――
「!?」
――唐突に聞こえたドアノックに俺は我に返った。
「ジルコ様。ご入浴用のタオル一式をお届けに上がりました」
加えて、ドア越しに廊下から聞こえてくる声。
それらは俺を現実に引き戻すのに十分なものだった。
……そう言えば、部屋に案内される時に従業員に頼んでいたんだった。
おかげで雰囲気ぶち壊し。
今さっきまで抱いていた熱い気持ちが急激に萎んでいく。
ネフラはいつの間にか目を開いていて、入り口の方に視線を向けていた。
酷く冷めた眼差しで、怒りすら感じさせる表情だった。
怒る気持ちはわかり過ぎるほどわかる……。
「ジルコ様? タオル一式をお届けに参りました!」
廊下から再びノックと声が聞こえてくる。
外の奴は、俺とネフラが二人きりで部屋にいることを知らないのか?
空気読めよ馬鹿野郎!
……とは言えない。
「あ~。せ、せっかくなんで、溶岩風呂に入るつもりだったんだ」
「そぅなんだ……っ」
俺は急に気恥ずかしくなってしまって、慌ただしくベッドから降りた。
その時、ネフラに袖を掴まれた。
「ど、どうした?」
「ジルコくん、お風呂に行くんだよね?」
「うん。そう。そのつもり。なんだけど……それがどうかしたか?」
「わ、わ、わわ、私が――」
ネフラは口ごもりながらも、俺の袖を掴む指先に力を込めていった。
「――せ、背中流してあげるっ」
一瞬、言葉の意味を考えてしまった。
それはつまり、俺と一緒に溶岩風呂に行きたいということか?
……それ以外にないよな。
「頼むよ」
俺は無意識のうちにそう答えてしまった。
◇
〈火竜の癒し亭〉の溶岩風呂は、温泉街クォーツの目玉と言ってもいい。
グロリア火山に生育する燃えない樹木である黒曜樹スルト――その樹から造られた床板で浴槽の底を塞ぎ、その下には同じくグロリア火山の火口付近で採取された溶岩石を押し込めているという。
グロリア火山の溶岩石は火をつけると再び熱を帯びることから、竜岩石とも呼ばれているそうだが、溶岩風呂はその特性を利用して成立しているのだ。
加えて、溶岩風呂はやや熱めの温度だが、人体にとって有益な効能があり、浸かることで身も心も癒される特別な風呂という触れ込みだ。
そんな溶岩風呂のひとつ――二等級溶岩風呂に、俺とネフラは入場していた。
二等級とは言え、俺達が案内されたのはVIP向けの浴場であるらしく、設備は一等級と遜色ないという。
実際、俺とネフラを除いて他の客の姿はない。
「これはまた、〈セント・エメラルド〉や〈竜の宿〉に勝るとも劣らない豪華な浴場だな」
「……うん」
大理石が敷き詰められたピカピカの床。
湯気の奥に見え隠れする、黒曜石で造形された浴槽。
その側面からは湯が流れ出ていて、床の溝に沿って浴場をぐるりと囲むように流れている。
一方で、浴場の奥には火竜を象った大きな像が鎮座しており、開かれた口から浴槽へと熱湯が流れ落ちている。
像の目にはルビーと思わしき赤い宝石がはめ込まれていて、一等級の風呂では同じように件のダイヤが像に使われているのだろうと察した。
「……」
「……」
俺とネフラは、豪勢な浴場の入り口で突っ立ったまま動けずにいた。
部屋でいったん冷めたはずの熱は、脱衣所で衣服を脱ぐネフラを目にした時から再びぶり返してきている。
理性は残っているが、何をきっかけに吹っ飛ぶかもわからない。
そんな中、薄いタオル一枚で前を隠しているだけのネフラを視認することに気兼ねしてしまう。
俺がまごついていると、ネフラが浴場を歩き始めた。
彼女の小さなお尻が目に留まった時――
「さっそく背中、流してあげる」
――そう促されたことで俺は決心がついた。
「それじゃあ、頼むよ」
浴場の壁には、竜の頭部が象られた支柱が等間隔に配置されている。
従業員から聞いたところでは、それがシャワーの噴射口らしい。
支柱の前に行くと、竜の顎から細長い紐が垂れさがっていた。
それを引いてみたところ、口からパラパラと雨のように湯が巻かれ始める。
湯を浴びながら髪を掻き揚げていると、両肩にネフラの手が触れた。
屈め、ということらしい。
俺が床に腰を下ろすと、背中に泡立ったタオルが触れた。
肩や背中をタオルでこすられるうち、汗や垢と一緒に疲労が流れ落ちていくような爽快な気分になる。
「ジルコくんの背中、大きいね」
「そうかな」
「うん。とっても……大きい」
ネフラの声がすぐ耳元に聞こえる。
そして、いつか感じた弾力を背中に感じた。
胸を押し付けられているのだ。
「ネフラ?」
「し、しっかり背中を洗わないとだから……っ」
「いや、でも……これは……」
「じっとしててっ」
ネフラがタオルをこすらせているのは、今は俺の右肩。
ならば、俺の背中を上下に動いているものは……なんなんだ?
想像すると、激情に駆り立てられて理性が揺らいできてしまう。
「ジルコくん、気持ちいい?」
「ああ、いいよ。とても……気持ちいい」
……ヤバい。
気持ちが昂ってきて、今にも理性を手放してしまいそう。
今日の俺は少しおかしい。
こんな気持ちになるのは、娼館街なんかに行っていたせいだ。
「古傷が多いね」
「ん? ……それはまぁ、長いこと無茶してきたからな」
「本当に無茶ばかり。もう私が泣きたくなるような無茶はしないでね」
「しないよ」
「約束できる?」
「約束する」
そんな他愛もない会話が俺に自制心を取り戻させた。
暖かくて柔らかい何かが背中を往復するさなか、俺は考える――
ネフラ・エヴァーグリン。
俺にとって、彼女は一体どんな存在だ?
初めは妹のように思っていた。
アンのように積極的ではなかったけど、好いてくれている自覚もあった。
今はもう……彼女がいないとやっていけない。
その気持ちは、仲間達の解雇任務の上で必要、という意味なのか?
俺自身はネフラのことをどう思っているんだ?
ギルドのサブマスターとしてではなく、俺個人はどんな感情を持っているんだ?
……そんなこと、決まっているじゃないか。
でも、今はまだその気持ちを言葉にはできない。
俺の心にあいつの面影が残っている今、彼女の気持ちに応えるなんて恥知らずな真似はできない。
半端な気持ちでネフラを受け入れるのは彼女への侮辱だ。
でも、悲しいかな。
三大欲求に人間の理性は敵わないらしい。
――俺は考えるのをやめた。
「ネフラ!!」
「きゃっ」
振り返り様、俺はネフラの両手を掴んで床に押し倒した。
目の前に露わになった白い裸体に俺は息を飲む。
「ネフラ、俺は――」
「ジルコくん」
「ネフラ」
「……」
ネフラがそっとを目を閉じた。
にわかに顎を上げたようにも感じる。
部屋では至らなかった口づけ――その続きを、今。
ネフラにまたがるようにして、俺は彼女の唇へと顔を近付けた。
そして、いよいよ互いの唇が触れようとした時――
「おお~! やっぱこっちは誰もいねぇぜ!!」
「まずいんでねぇか? 勝手にVIP用の浴場に入っちゃ」
――馬鹿でかい声と共に、唐突に浴場の扉が開かれた。
「……」
「……っ」
その瞬間、俺とネフラが固まったのは当然のこと。
そして、そんな俺達を見たそいつらは……。
「げぇっ!?」
「うわっ。うわわっ。じ、ジルコでねぇかっ!?」
「なんだよお前! 何!? その子、誰!?」
「すっげぇめんこい女子だぁ……」
俺が本気で殺意を抱いた人間は、二十年余りの人生で今のところ一人だけ。
しかし、今夜は新たに二人の人間を心底殺したいと思った。
「……モルダバ、ムアッカ。てめぇら、空気が読めねぇなら吸えなくなっても構わないよなぁぁぁぁぁ!?」
その夜。
俺が激情をぶつけた先は、ネフラではなく、二人組の馬鹿野郎どもだった。
……人生最悪の夜だった。
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