6-009. 露天の混浴
夜、サンストンには満天の星空が広がっていた。
砦から見上げる空は、街中と比べて一段と星がよく見える。
窓の鎧戸を締めてベッドに倒れ込もうとした時、ちょうど扉をノックする音が聞こえた。
「お兄ちゃん。お風呂入れたから入ったらどう?」
扉を開けて部屋を覗き込んできたのは、妹のラチアだった。
兄とはいえ、一応は客人なんだから勝手に扉を開けてくるなよな……。
「わざわざ悪いな。せっかくだし、後で入らせてもらうよ」
「後でいいの?」
「だって女性陣の方が先に入りたいだろう」
「ネフラちゃんやジェリカさんは後でいいって言ってたよ」
「そうなのか」
ジェリカはともかく、綺麗好きなネフラが風呂を後回しにするなんて意外だな。
「……わかった。先に入らしてもらうよ」
「じゃあ服は部屋で脱いで、ローブを羽織って浴場へどうぞ。武器なんて持ってっちゃダメだからね?」
「わかっているよ……」
ラチアは言いたいことをすべて言いきったのか、廊下を駆けて行ってしまった。
まったく忙しない奴だな。
◇
その後、俺はラチアに浴場まで案内された。
素っ裸の上にローブだけ羽織った格好だが、一緒にいるのが妹なので別段気になることもない。
浴場に着いてみて驚いたのは、天井と壁が綺麗に崩れ落ちていて、夜空を見上げられるようになっていたことだ。
浴場があるのは砦の裏側なので、町の方から覗かれる心配もない。
砦の裏は手入れのされていない茂みが生い茂っているものの、浴場は二階にあるので空を見上げるのに何の支障もないわけだ。
浴槽は、石床をくり抜いて木桶がはめ込まれている作りになっていた。
桶には蓋が被せられていて、隙間からは湯気が立ち昇っている。
周りの溝にはすでに湯が溜まっており、そこにゴミが浮いている様子もない。
ただ、大人が三、四人は入れそうな大きな木桶は贅沢だなと思った。
「まさか露天風呂とはね……」
「絶景っしょ?」
「でも、昔の砦なのになんで風呂を沸かせるんだよ」
「元は領主様の別荘だもん。浴場施設はだいぶ手を入れて改装したみたいだよ」
「天井が吹き抜きなのに?」
「露天風呂だし」
「なるほどね……」
俺はさっそくローブを脱いで、木桶の蓋を外した。
その瞬間、ぶわっと白い湯気が溢れ出して天井の穴を抜けていく。
溝のお湯で体を洗い始めた時、背中に視線を感じて思わず振り返ってしまった。
「ラチア。いつまで見てるんだよ」
「すぐに退散しますよ! でも、お兄ちゃんも立派な体になったねぇ」
「そりゃもう子供じゃないからな」
「うんうん。そうだよねぇ~。もう大人だもんねぇ~」
なんだかラチアの様子がおかしいような……。
気のせいか?
「あまり浴槽で騒がないでね」
「騒ぐかよ。……なんだよその心配?」
「一階に湯沸かしのための竈があるんだけど、経年劣化のせいで浴槽でドタバタすると天井が軋むんだよね」
「……」
「あ。さすがに底は抜けないから大丈夫」
「そりゃよかった」
「それじゃね。あたし、下で薪をくべなきゃだから行くね」
「ああ」
「お湯足しが必要なら声を掛けてね」
「わかった」
「それじゃ、ごゆっくりぃ~!」
……ごゆっくりって何だよ?
ニヤニヤ笑っていたし、やっぱり様子が変だよなあいつ。
「ま、いいか」
俺は全身を軽く洗い流した後、木桶に浸かった。
「はぁ~」
ついつい気の抜けた声が出てしまう。
温かい湯に肩まで浸かると、旅の疲れも癒えるというものだ。
最初の旅程では今頃温泉街の湯にでも浸かっているはずだが、まさか故郷の町でこんなにゆっくり風呂に入れるとは思わなかった。
視界には満天の星空が広がっているし、リラックスには申し分ない環境だな。
俺は木桶の縁に頭を置いて、足を投げ出す姿勢で全身を弛緩させていった。
……なんだか眠くなってきたな。
「んん?」
俺がうつらうつらしていると、木桶の外で音が聞こえてきた。
木桶のすぐ傍で誰かが湯を浴びているようだ。
……誰だ?
ぼうっと星空を見上げていると、俺の視界を人影が横切った。
それは緑色の髪をしていて、耳が長くて――
「んんんっ!?」
――俺は眠気が吹っ飛んで、思わず木桶から起き上がってしまった。
同じ木桶の中――俺の右隣、湯気の漂うすぐ先に人影がみえる。
湯気が晴れてきて見えてきたのは……。
「……びっくりさせてごめん」
「ね、ネフラァッ!?」
眼鏡を掛けたまま湯に浸かっているネフラだった。
「ちょ、な、なんでお前が!?」
「えっ。だってお風呂、冷めないうちに入りたかったから」
「いや、だって風呂は後にするってラチアが……」
「……私、別にそんなこと言っていないけど」
「何ぃ~~~っ!?」
もしやラチアの奴、謀ったのか!?
あいつが俺とネフラを浴場でかち合うように仕向けたんじゃないのか!?
否。だったらネフラが大騒ぎしてもいいはず。
現に、虹の都では偶然浴場で顔を合わせて悲鳴をあげていたし……。
なのに、どうして今回は平然としているんだ?
「……」
「……ネフラ?」
「何」
「なんだったら俺、出ていくけど」
「必要ない」
「え、いや、しかし……」
「これでいいの。このままでいて」
「えぇ……っ」
「一緒に入りたいの」
そう言うなり、ネフラが身を寄せてきた。
彼女は耳まで真っ赤にしながらも、じっと俺を見つめる視線は逸らさない。
こんな大胆なネフラは初めてだ……!
「そ、そういうことなら」
湯あたりしたわけでもないのに、なぜか心臓の鼓動が早くなってきた。
ネフラの肩が俺の腕に触れたので、どうしようもなく彼女を意識してしまう。
「……」
「……っ」
チラリと横にいるネフラに視線を向ける。
後頭部で結わっている緑色の綺麗な髪。
曇っていて見づらいが、眼鏡越しに確かに見える碧眼。
頬からうなじにかけて滲む汗。
それは湯面に浮かぶ大きな胸の谷間へと流れ落ちていき――
「……眼鏡、取れよ」
――俺は理性を保つため、この場でもっとも違和感のある物体に意識を向けることにした。
「これないと見えないから……」
「前にも言ったけど、普通は眼鏡をつけたまま風呂には入らないからな」
「わかってる。だから取る」
「そうか」
ネフラが塗れた手で眼鏡を取った。
……ちょっと待て。なんで浴槽で取るんだよ?
「あっ」
直後、彼女は眼鏡を湯面に落としてしまった。
……なんだ今のわざとらしい落とし方!?
「ごめん。取ってくれないかな」
「あ、ああ……」
俺はネフラに言われるがまま、湯面に浮かぶ眼鏡を手に取った。
「ちょうだい」
ネフラが右手を湯から出した。
その手に眼鏡を渡そうとすると、なぜか彼女は眼鏡から逃げるように手を引いてしまう。
なんでだよ!?
「おい、ネフラ」
「渡して」
俺は仕方なくネフラの前に身を乗り出す形で、彼女の手に眼鏡を押し付けた。
すると、彼女は湯あたりしたように真っ赤に染まった頬でにこりと笑った。
そして眼鏡を取り上げるや、俺の肩に両手を回してきた。
「ジルコくん……私、ずっとこうしたかった」
「ネフラ!?」
目と鼻の先にネフラの顔がある。
彼女の息が鼻にかかるほどの至近距離。
その美しい碧眼は潤んでいて、俺は――
「ネフラ」
――俺は気付かぬうちに彼女の両肩に手を置いていた。
「綺麗だ」
何ら飾りげのない率直な言葉を口にした。
それは一切の虚飾もごまかしもない、本心からの言葉だった。
「……」
「……」
沈黙。
それ以上は言葉が出てこなかった。
おそらくネフラも同じ気持ちなのだろう。
俺の腕は自然と彼女の背中に回っていた。
彼女を抱き寄せたことで、その豊満な胸が俺の体に押し付けられる。
……暖かくて柔らかい。
「俺がここにいるのは……お前がいつも傍に居てくれたからで……」
「うん」
「だから、これからも……」
「うん」
裸でネフラと触れ合うことで、彼女の熱が俺にも伝わってくる。
その熱に当てられたのか、俺は目の前にあるか細い体を力いっぱい抱きしめたい衝動に駆られた。
「ジルコくん」
俺の名を呼ぶネフラが静かに目をつぶった。
お互いの鼻が触れ合う。
俺は彼女の唇へと自分の唇を寄せて行って――
「ちょっと、押さないでってば!」
「だって見えんだろう!?」
――というところで、ネフラから顔を離した。
もちろん今の声で我に返ったからだ。
「あれ? 顔を離しちゃったけど、なんで?」
「む。もしかして気付かれたか」
「まさかぁ~。だって湯気がたくさん出るように薪をくべまくってるんだよ?」
「ラチア。興奮しとるのか知らんが、さっきから声が大きいぞ」
石床の向こう――階下の竈部屋から二つの頭がこちらを覗いていた。
湯気に隠れてはいるが、この声からしてラチアとジェリカだな。
……待てよ。
まさかあの二人がこの絵を描いたんじゃないだろうな!?
「じ、ジルコくん……」
見れば、ネフラの顔が引きつっている。
明らかに二人の存在に気付いてのことだ。
……おいおい。
まさかネフラ自身も一枚噛んでいるのか?
「ネフラ、お前……」
「ご、ごめんなさいっ」
思った通り、これは三人揃って仕組んだことらしい。
俺とネフラをくっつけようとこんな真似をしでかしたのか?
だとしたら、なんだか……ネフラに申し訳ない……。
「そこだ! キスだ! キスしろっ! しちゃえってのっ!!」
「どうやらもうバレたようだぞ。意識がこちらに向いておるもん」
……せっかくの気分が台無しだよ、まったく。
「そこの二人! 覗きは悪趣味だぞっ!!」
「やばっ!」
「やはりな」
俺が叫ぶと、湯気の奥からラチアとジェリカが顔を出した。
しかも、二人とも素っ裸じゃないか。
「あははー。めんごめんご! ネフラちゃんと恋バナしてたらさ、色々とお手伝いできるかなって思って!」
「うむ。わらわも力になってやりたいと思ってな」
二人とも恥ずかしげもなく生まれたままの姿で近づいてくるので、逆に俺の方が引いてしまった。
兄妹のラチアはまだしも、ジェリカ……あんたは夫がいるだろうが!
「おい、ジェリカ! 俺の前でそんな恰好……まずいんじゃないか!?」
「何を恥ずかしがっておる!? お前など、わらわにとっては弟のようなもの。裸を見せたところで何も感じんよ!」
「そっちはそうでも、俺はそういうわけにはいかないんだよ……」
ジェリカはセリアンのオオカミ族だから、ヒトと違って全身に体毛が生えている。
しかし、その毛並みはきめ細やかで美しい。
おそらく触ってもふもふしたらさぞ気持ちいいだろうな、という感じの毛並みだ。
だからって本当に触ったらセクハラだからやらないけど!
「あっはっは。雪山で遭難した時には、裸で抱き合い凍える夜を越えたではないか。混浴ごとき、何の躊躇いがあろうか!」
「ちょっと待って。ジルコくん、なに今の話。初耳なんだけど?」
ジェリカが余計な昔話をしたせいで、ネフラの目つきが変わった。
これはまた誤解を解くのが大変だぞ……。
「お兄ちゃんが羨ましいなぁ。ギルドには、ネフラちゃんやジェリカさんの他にも超美人がいるんでしょ? 二股かけ放題じゃん」
「やめてくれそういう話。頼むから。マジで」
ラチアは間違いなくこの状況を楽しんでいるな。
これ以上ややこしくしないでくれ、頼む。
「ジルコくん、後で話があるから」
「はい……」
今さっきまでのネフラはどこへいったのか。
俺はちくちくとしたネフラの視線を受けて、湯の中に潜りたい気持ちになった。
「ちょっと失礼」
「はいはい。お二人様追加で~す」
ジェリカとラチアは溝の湯で体を洗うや、何の抵抗もなく俺とネフラの間に割って入ってきた。
制限人数いっぱいになったことで、桶から湯が溢れていく。
「ああ~。いい湯だなぁ~」
「でしょ!? このお風呂、町の公衆浴場よりいい感じなんですよ!」
「しっかりとした設備の風呂に身を浸すのは久しぶりだ。疲れきった身も心も癒されるな」
「でしょでしょ~! あたしも毎日入りたいくらいなんだからっ」
ジェリカとラチアはすっかり打ち解け合っている様子。
二人は揃って木桶の縁に頭を置き、最初に俺がしたように湯に足を投げ出す姿勢を取った。
この二人が割り込んできたせいで、あんなに近かった俺とネフラの距離はずいぶんと離れてしまった。
彼女の切なそうな表情を見ると、俺は不甲斐ない気持ちになる……。
「ったく! いつの間に混浴になったんだよここは!?」
こうなりゃ破れかぶれだ。
せっかくの風呂を俺も満喫してやる。
俺はもう遠慮も忘れて、隣の二人のように縁に頭を置いて足を投げだした。
「痛っ」
……ジェリカの足に当たってしまった。
「ジルコ」
「ご、ごめん」
「いや。そうではなくて――」
ジェリカが顔を俺に向けてきた。
その顔はさっきまでとは違って、至って真面目……真剣な眼差しだった。
「――冒険者などをやっているんだ。気持ちが通じ合っているのなら、お互い無事なうちに一緒になった方がよいと思うぞ」
「そ、そういうのはちょっとまだ早いというか」
まさか風呂場でそんな話題を振られることになろうとは……。
煮え切らない言葉しか口に出せない自分が歯がゆい。
視界の外にいるネフラは今、どんな顔をしているのだろう。
「家庭を持つのはいいことだ。伴って人生の舵を取るのは大変だが、確かな幸せというものを感じられる。あれは……よいものだ」
「……わかるよ。俺だってそんな家庭に生まれた一人だから」
「うん。子供が生まれたなら、なお大変だがより幸せだろう」
「そういうものかな」
「そういうものさ。……多分な」
「多分?」
……そうか。
ジェリカは、リドットとの間に子供ができていないんだった。
セリアンとヒトは子供ができにくいと聞いたことがある。
やっぱり彼女も子供が欲しいと思っているのだろうか。
「もしもリドットとの間に子を成していれば、お互いこんなに心が離れることもなかったかもしれんな……」
ジェリカは遠くを見るような目で星空を眺めている。
それはどこか寂しそうで、泣き出しそうな……そんな表情に見えた。




