D-007. 理想の果て④
今さっきまで地に足を付けていたのに、私は水の中に浮かんでいた。
恐るべきは水の精霊の精霊奏者。
私は水の牢獄とでも言うべき場所に閉じ込められていた。
『がぼぼぼっ』
『ごぼっごぼぼっ』
傍ではジルコとジャスファが溺れている。
水の牢獄に囚われる前、二人は圧し掛かってくる水に圧し潰されてお腹から空気を吐き出してしまっていた。
そのせいで溺れているのだ。
私はと言うと――
『さすが聖職者。身体強化系の奇跡で耐えたね』
――息を止めたまま、じっと水の外にたたずむ伝道師を睨みつけていた。
『風の噂であなたのことを聞いたよ。枢機卿が認めるほどの逸材だとか』
言い返してやりたいけれど、水の中でそれはできない。
『あの時の子が、将来有望な聖職者となって再びあたしの前に現れるなんて……人生わからないものだね』
伝道師の顔はヴェールに覆われたまま、その表情は見えない。
一方で、私は激情を露わにしていた。
『そう怖い顔をしないで。どの道、あなたにはもうこの水の牢獄から出ることはかなわないんだから』
私は、精一杯の力を込めて水の膜を殴りつけた。
水中では力が伝わりきらない。
おかげでこの水の膜を打ち破るには足りないよう。
『あたしとしても、あなた達を楽に始末できてよかった。どうやらもう一方のグループの方が厄介そうだしね』
伝道師が水の牢獄の傍まで歩いてきた。
奴は水の壁一枚隔てた先にいるのに、手出しできないことが悔しい。
憎悪を向ける相手が目の前に居ながら、何もできない現実が口惜しい。
私の怒りと憎しみは増すばかり。
『そんな怖い顔しないで。すぐにあなたも修道女達のもとに逝けるから』
刹那、心臓が大きく脈打つのを感じた。
殺意という感情が、私の思考を飲み込んだ瞬間だった。
私は祈った。
怒りに身を委ね。
憎しみに身を委ね。
恨みに身を委ね。
心にどす黒い殺意の火が灯るままに。
……私は胸元に熱を感じ始めた。
『え?』
伝道師がわずかにたじろいだ。
私は自分の胸元が強い輝きを放っていることに気が付いた。
リッソコーラ様からいただいたアンティゴナ・ルビーが真っ赤な輝きを放っているのだ。
この時の私には、教理を理解した上で、それでもなお一度も成功していなかった奇跡があった。
目の前の赤い輝きを見て、私は今こそその奇跡が起こる確信があった。
『何っ!? その宝石の輝き……尋常じゃないっ』
ヴェールに覆われているけれど、伝道師の顔が明らかに曇るのを感じた。
奴は少しずつ私から後ずさっていく。
私も、いつまでもこんな檻に閉じこもっているわけにはいかない。
断罪しなければ……目の前の悪を!
そう思った瞬間、アンティゴナ・ルビーが一層強く輝きだした。
その光は、赤色から少しずつ混じり気のない白色へと変わっていく。
私は全身に暖かい――否。熱い力を感じた。
『魔効失効の奇跡』
すべての魔法を無効化する奇跡の光。
それが私の全身を包み込む。
体の芯から四肢の先端まで熱い光が覆っていく。
それは私に疑いようのない万能感を与えてくれた。
『……そ、そんなっ!?』
水の檻は崩壊し、私の足元に大きな水たまりを作っていた。
『ごほっごほっ』
『はっ……はぁっ、はぁっ……』
傍にはジルコとジャスファが転がっていた。
二人とも苦しそうに咳き込んでいたけれど、癒しの奇跡は後回し。
今は目の前の悪を討ち滅ぼすことが先決だから。
『ひっ』
私が一歩踏み出すと、伝道師は怯えた様子で飛び退いた。
『い、今、魔効失効の奇跡と!? それって、聖人の域に達した者のみ扱えるとされる至高の奇跡のひとつじゃない!』
『いつか使えることを信じてた』
『は……!?』
『だって私は聖女なんだから』
『……なるほどね。博愛と慈愛の聖女ヴェヌス、か』
伝道師が落ち着きを取り戻した。
いいえ。覚悟を決めたと言う方が正しいのだろう。
奴は両手を高らかに掲げた。
すると、周囲の水が奴の身の回りに集まり始めた。
『いくら聖女様であろうとも、邪魔はさせない。あたし達は重い使命を背負っているのだから』
『重い使命? 人殺しには過ぎた言い訳ではなくて?』
『ジエルの神も、竜の神も、人の利己が生み出した産物。いつか闇の時代が終わったとしても、それが肥大化しては手が付けられない悪の勢力になり果てる』
『それはアニマ教の妄想でしょう』
『妄想なものか。ヒトを冒す毒そのもの――すでにアニマ教はお前達の脅威を知っている』
『かつての魔女狩りのことを言ってるの? なんて時代錯誤な……』
『魔女の血を引くあたしにこそ言う権利があると思わない!?』
伝道師が両の手のひらを打ち付けた。
直後、周囲に浮かんでいた水の塊が私へと迫ってくる。
その水は研ぎ澄まされた刃物のように形作られ、四方八方から私へと突き刺さった――かのように見えた。
でも、水の刃は私に触れた途端に無害な水に戻るだけ。
『くっ! その光、本当に魔効失効の奇跡なのか』
『そう。すべての魔法は私の前に無意味』
『その若さで恐れ入るね……』
『頭を垂れて命乞いをしてみせて。そうすれば、あなたを殺す気が失せるかもしれない』
『ふ……ふふ……』
伝道師は乾いた笑い声をこぼした後、さらに私から飛び退いた。
そして、湖のほとりに置かれていたテーブルの脚を取って振りかぶる。
『いかに魔法を無力化しようとも、しょせん聖職者など支援クラス! 肉弾戦に持ち込めば脅威などないっ!!』
言うが早いか、奴は私に向かって飛び込んできた。
と同時に、私の頭へとテーブルを振り下ろしてくる。
『死んでちょうだいっ!!』
私は避けることもできた攻撃を避けなかった。
結果、テーブルの角は私の後頭部に叩きつけられた。
『ははっ!』
ヴェールの向こうから伝道師の笑い声が聞こえた。
でも、砕け散る椅子を目にしてすぐに乾いた声へと変わる。
『……は』
『修行中の私が何をして心を落ち着けていたか教えてあげます』
『は!?』
『拳闘士の修練――人を殴る蹴るしていると、苛立ちも自然と収まるんです』
『くっ』
伝道師が拳を握って殴りかかってきた。
でも、その拳が私の頬に触れることはなく――
『一撃だけ許して』
――代わりに私の拳が奴のみぞおちを貫いていた。
『がばぁっ』
伝道師は汚らわしい悲鳴を上げるや、地面を転がって湖へと落ちた。
一方、私は自分の拳を見下ろして深い溜め息をつく。
『やってしまった……』
私の手は真っ赤な血に染まっていた。
◇
『……うぅ』
『目が覚めましたか』
私は湖のほとりに横たわる伝道師を見下ろしていた。
その顔には今もヴェールが覆っている。
水から引きあげた時にヴェールを剥ぐこともできたのに、どうしてかその行為が憚られたのだ。
『お、女の子にしては、ちょっと強過ぎ、じゃない……?』
てっきり恨み節を吐くものと思っていたけれど、奴の口から出た言葉は私の想像とは違った。
しかも、ヴェールの奥では笑みをたたえているように思えた。
『あたしは、ヒトの世界を、邪悪な神々の手から、取り戻したかった』
『それは宗教のことですか』
『ヒトの利己だよ……がふっ』
伝道師が咳き込むと同時に、大量の血がヴェールを汚した。
もうこの人の命は長くない。
なぜなら、胸元にぽっかりと空いた穴がその結末を物語っているから。
『それに比べて、アニマの教えは、なんと、心穏やかな、ものなのか――』
伝道師は震える手を掲げた。
すると、その手の周りに小さな水の塊が寄り添い始めた。
『――あたし達ヒトは、エルフや、ドワーフほど賢しく、ない。だから自然と共に、歩んで、いかねば……っ』
口から血が止まらない。
……もう終わりが近い。
『最後に教えて。あなたの名前は?』
『ひ、み、つ』
『どうして』
『隠してた方が、ミステリアスな感じ、しない……?』
掲げていた手が胸の上に倒れた。
同時に、浮かんでいた水もすべてが地に落ちていった。
森にも湖にも静けさが戻った。
『……ケチ』
いつの間にか、私の心からは怒りも憎しみも消えていた。
◇
『殺したのか』
『……ええ』
ぼうっと湖を眺めていた私は、ジルコに声を掛けられて我に返った。
彼は私の隣にやってきて、目の前に転がっている伝道師の死体を見て顔を引きつらせていた。
『お前……どうするんだよ! 敵のリーダーは殺さずに生け捕りって依頼だったのに!』
『そうでしたね』
『そうでしたねって……なんでそんな冷静なんだよフローラ!?』
ジルコがあたふたしている。
私はその様子を見て滑稽に思うのと同時に、それが正常な反応なのだろうと思った。
私は、想定していた状況を前に理性を保てなかった。
あれだけ変わりたいと望んでいたにも関わらず、ジエルの教理を学んだ上で、結局私は自分を変えることができなかった。
いつか変われると信じていたのに。
きっと変われると信じていたのに。
私は、子供の頃から何も変わっていなかったのだ。
こんな私がリッソコーラ様のお役に立てるなんて思えない。
……それは絶望だった。
『ジャスファ! どこへ行くんだよ!?』
『……帰るんだよ』
『はぁっ!?』
『標的は死亡。他の残党もブラド達が捕まえているだろうし、もうあたしのすることはないだろ』
『いや、でも、これは……』
『死体運びは王国軍にでもやらせなよ。結果はどうあれ、依頼は終了。あたしは好きにさせてもらうから』
『待てよ! そんな勝手が許されると思うのか!?』
『あたしは、あたしのやりたいようにやる。ギルドにいるからって、それは変わらないよ』
私が振り返った時には、ジャスファの姿は地下庭園になかった。
代わりに、周囲の茂みに火がついていた。
『うおっ! なんで火が……戦いの余波で燭台が倒れたのか!?』
『……逃げた方がいいですよ』
『何言ってんだ、俺達も早く退散するぞ!』
ジルコが私の手を掴んだので、私はとっさに腕を引いて、彼の顔面に膝蹴りを食らわせてしまった。
『あ』
『がふっ。……な、なにすんだっ』
『ごめんなさい』
『い、いいから行くぞ。火の回りが早いから、この場に残っていたら危険だ!』
ジルコは鼻血をドバドバ垂らしながら私に訴えた。
彼の言う通り、確かに火の回りは早い。
周囲の草木に燃え移った炎はどんどん広がっていき、すでに地下庭園の半分近くを煙が覆っていた。
『くそっ。どういうことだ……急激に辺りが渇いていっている感じだ!』
『友を殺された水の精霊の復讐、でしょうか』
『はぁ?』
『行ってください。私はここに残ります』
『な、何言ってんだ?』
ジルコは私の言葉を聞いて困惑しているようだった。
彼に私の心境など理解できるはずがない。
けれど、伝言役として彼に伝えないわけにはいかない。
『教会の者に伝えてください。私は……変われなかった。愚かな子供のまま成長できなかった。ごめんなさい、と』
『ちょ、待てよ! 何を言っているのか理解できない!!』
『頭の悪い男。私の言葉を理解できないなんて……』
『フローラ!』
『伝言を伝え損ねたら、万聖節の夜に化けて出ますから』
私はアンティゴナ・ルビーの首飾りをその場に置いた後、火の手がもっとも強い森の中へと入った。
もちろん我が身を焼くため――死んですべてを終わらせるためだった。
『ごめんなさい。こんな悪い子のままで……』
脳裏にはリッソコーラ様のお顔が思い浮かんでいた。
でも、その表情は酷く憤慨したもの。
もうあの方は私なんかに笑いかけてはくれない。
期待を裏切る悪い子なんて、あの方には必要ないのだから。
『正気かフローラ!?』
ジルコが私の肩を掴んだ。
私はジルコの顔に裏拳を見舞い、怯んだ彼の胸倉を掴んで地下庭園の入り口へと放り投げた。
『フローぐあぁぁっ!?』
……煙に突っ込んでしまった彼の安否に、私は興味がなかった。
『逝かなきゃ』
独りになった私は、再び燃え上がる森の中を歩き始めた。
大量に舞う火の粉がローブを焦がし、私の肌を焼いていく。
恐怖はない。
あるのは悔恨の念だけ。
リッソコーラ様の期待を裏切った私が地獄の業火に身を焼かれるのは、至極当然のことなのだから。
焼け落ちてきた枝に進路を塞がれた直後、燃え盛る樹木が倒れてきた。
私は迫ってくる巨木を見上げながら――
『選ばれし者だなんて、おこがましい』
――フローラの奇跡を否定した。
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