D-001. 血まみれの聖女①
私が覚えているもっとも古い記憶。
それは、同じ揺り籠の中で隣に眠る兄をぶって泣かせたこと。
私は、私が暴力的で攻撃的であることを理解している。
でも、それは私が持って生まれた性分。
きっと永遠に治ることはない。
それが私。フローラ・ヴェヌス。
生まれてから死ぬまで決して変わることのない。
私が私たる所以。
◇
教皇領よりほど近い町アルカン。
毛織物の名産地で知られるこの町は、信心深い人が多いことでも知られる。
でも、十年前はそれゆえの小競り合いが絶えない町だった。
『また竜聖庁の伝道師が騒ぎを起こしたらしいですよ』
『まぁ。今度はどなたと?』
『〈風来亭〉ってありますでしょ。町一番と評判の宿』
『はいはい。そこのご主人と?』
『ええ。なんでも伝道師がドラゴグから招いた名士をお泊めになったそうなのですけど、朝食のスープが温かったとかで……』
『まぁ。そんなことで?』
私は当時、孤児として修道院で暮らしていた。
修道女達が竜聖庁の悪態をつくのを聞いたのも、掃除当番として院内の清掃をしている時だった。
『院長がおっしゃっていたのですけど、竜聖庁はドラゴグの外交を利用して伝道師を次々派遣してくる魂胆だとか』
『まぁ。闇の時代が停滞してしばらく、目的地なき放浪者が増える中で今度は異教徒もだなんて嫌ですわねぇ』
『異教というのを抜きにして、あの伝道師は危険ですわ。ついこの間も町の女の子を言葉巧みに教会へ連れ込もうとしていましたもの』
『まぁ怖い。……フローラ、あなたも気を付けなさいね?』
突然話を振られて、私は箒を握る手を止めた。
『大丈夫です。私はジエル教徒ですから、トカゲ宗教などに興味ありません』
『それでもお前は子供なんですよ。大人は――特にあの伝道師は話術が秀逸。口八丁にかどわかされないよう、くれぐれも注意なさい!』
『はい』
修道女達が談笑に戻る中、私は掃除を終えて外に出た。
このあとは厩舎の清掃も残っているし、いつまでもあの人達のつまらない愚痴なんて聞いていたくなかった。
修道院の外では、わずかに雪がちらついていた。
季節は冬。
エル・ロワ北部のこの地にも、そろそろ雪原が出来上がる頃合いだった。
『フローラ!』
真っ白い空を見上げていた私を、聞き慣れた声が呼んでいる。
視線を地上に戻すと――
『見てよ見てよっ!』
――兄のヘリオが雪トカゲを掴んだまま走ってきた。
『何?』
『これこれ!』
ヘリオは手元の雪トカゲを私の眼前に突き出してくる。
私は口を動かすよりも先に手が動いた。
『ああっ!?』
ヘリオの手をはたいた拍子に、指から抜け出した雪トカゲが地面に落ち、そのまま這って逃げて行ってしまった。
『な、何するんだよっ!?』
『トカゲは嫌い』
『雪トカゲが出たってことは、もう季節は冬だってことなんだぞ!』
『空を見ればわかるから』
『空? ……あ、雪か』
兄がぼけーっと空を見上げているのを見て、意味もなく苛立ってくる。
『どいて』
『うわっ!』
目の前に突っ立っているヘリオを押し飛ばし、私は厩舎へと向かう。
『乱暴するなよなっ』
ヘリオが私の腕を掴んできた。
一瞬にして頭に血が上り、再び手が出そうになったけど――
『離して』
――なんとか拳を握るまでで堪えることができた。
『お前なぁ。そんなんだから孤児院で独りぼっちなんだばぁっ!!』
……ダメだった。
口で言うより早く、やっぱり手が出てしまった。
ヘリオは鼻血を吹いて倒れ、顔面を押さえながらジタバタしている。
『あばばっ。ぼ、暴力女ぁぁぁ~~~っ』
『私だって手が痛い。お相子だから』
『か、可愛くない妹っ』
『どっちが!』
私はヘリオを放置して、孤児院の前から走り出した。
この時には厩舎の清掃なんてやる気がなくなってしまった。
私が掃除をサボっても代わりにヘリオがやってくれるだろうし、このままどこかにふけてしまおうと思った。
そんな時、私がいつも逃げ込むのはこの町の共同墓地だった。
◇
アルカンの最北端にある共同墓地。
ジエル教の教会が管理している墓地ではあるけど、追悼ミサでもない限りこの場に人気はほとんどない。
この寒空では尚更のこと。
共同墓地に私の知っている人は一人も眠っていない。
けど、途中の花畑で摘んできた花を知りもしない人達の墓前に供えるのが私の日課となっていた。
そうすることで、私は不思議と気が安らいだ。
何も持たない自分がささやかな行為で誰かを救えていると思うことで、常々心に生じる苛立ちから気を紛らわせていたのだと思う。
今日も今日とて、誰とも知れぬ墓前に花を供える。
最後の花を供え終わった時――
『健気だねお嬢ちゃん。お友達の墓にお参りかな?』
――見慣れない服装の人物が私に声をかけてきた。
薄緑色の司祭服。
マフラーのように首に巻かれた赤と黒のストール。
竜の模様が描かれた円柱形の帽子。
そして、帽子から垂れさがる薄いヴェール。
……顔は見えないけど、その見た目からすぐに竜聖庁の人間だとわかった。
『あなたが噂の伝道師?』
『どんな噂かな』
『帰る』
『待って待って』
無視して歩きだした私を伝道師が追いかけてくる。
恐怖はなかった。
ただ、親しげに話しかけてくる目の前の人物に苛立ちが募っていた。
振り返ると、離れた場所に立っていたはずの伝道師がすぐ傍で私の顔を覗き込んでいた。
自分よりもずっと大柄な人間に見下ろされる圧は脅威すら感じる。
私は逃げるようにその場から飛び退いた。
『ごめんね。驚かせちゃったね』
『……なんですか』
『お嬢ちゃんの言う通り、あたしは竜聖庁の伝道師。名前は――』
『知りたくない』
『あっそう。まぁ名前を知らなくても意思疎通はできるよね。同じ人間なんだし』
敵意すら込めて睨みつけていた私だったけど、伝道師は気にした様子もない。
薄いヴェールの向こうの顔がニコリと笑ったようにすら感じた。
『あたし、ちょっとこの町で居心地悪くてねぇ』
『だから?』
『だから、人気のないこの場所で静かに気を休ませていたんだ』
『……私と同じ』
『そっか。お嬢ちゃんもあたしと同じなんだね』
思わず伝道師に肯定的な返事をしてしまった。
さっき修道女に注意されたばかりなのに。
『やっぱり違う』
『違わないさ。お嬢ちゃんはあたしと同じで、この町では独りぼっち。理解してくれる人なんて一人もいない』
『そんなことない』
『そんなことある。だから墓地へ来たんでしょう。一人だと気が休まるし、墓前に花を供えることで誰かのために善行を成したように思えるから』
『……!』
図星を突かれて言葉が出ない。
まるで心を読まれているかのよう。
伝道師が話を続ける。
『お嬢ちゃんの悩みを解決してあげる』
『私の悩みを? どうやって』
『とても簡単。この像に祈りを捧げればいいよ』
そう言って、伝道師は懐から取り出した物を私に差し出してきた。
それは手のひらに収まるくらいの竜の彫像だった。
『これは……』
『竜神バハムス・ルティヤを模した彫像だよ。持ち運びやすいように軽石で作られた安物だけどね。不細工でしょ?』
『竜聖庁の……竜信仰の偶像……?』
『そうだよ。今日からはこれに祈りを捧げるといい』
……とんでもない物を受け取ってしまった。
こんな物を持って帰ったことが知れたら、修道女からどんな叱りを受けるかわからない。
うっかり受け取ってしまったけど、突き返さないと。
『わ、私、トカゲは嫌いだから!』
『トカゲ? もしかしてそれ、竜信仰を揶揄してのこと?』
『うっ』
……しまった。
うっかり竜信仰信者の前で宗教を冒涜してしまった。
怒鳴られる? 殴られる?
伝道師が動いた瞬間、私は怖くて目を閉じた。
けど、いつまで経っても怒鳴られもしなければ、殴られもしなかった。
『あっはっはっは!』
代わりに、伝道師の笑い声が聞こえてきた。
恐る恐る目を開けてみると――
『トカゲ! トカゲかぁ! いいねそれ!』
――伝道師が爆笑していた。
何がそこまでおかしかったのか理解できない。
『いやぁ、センスあるよお嬢ちゃん。たしかに竜は一見するとトカゲだねぇ。まぁ、文献の挿絵でしか見たことないけどさ』
『……怒らないの?』
『怒らない怒らない! あたし、信仰心あんまりないから!』
『伝道師がそんなのでいいの……!?』
『いいのいいの! ゴチャゴチャうるさい上役から解放されたくて引き受けた任だしさ』
この時の伝道師の言葉を私はよく覚えている。
そして、こんな自由な人がいるのかと思ったことも。
『一人でこんなところに居るからには、家には帰りにくいんでしょう?』
『……うん』
『あたしのところに来ない? 立派とは言い難いけど、この町に来た時に委譲してもらった教会があるんだよ。トカゲの像は飾られてないけど!』
『でも、異教徒の教会になんて……』
『美味しいリンゴもあるよ。北方産白糖リンゴっていう高級なのが』
『行く』
『よし行こう! すぐ行こう!』
私は伝道師に背中を押され、墓地を出るや人気のない街路をどことも知れぬ場所へ向かって歩き始めた。
まんまと口八丁に乗ってしまったことに多少の後悔はあった。
けど、それ以上にこの時の私は――
『ねぇ。顔見せてよ』
『だ~め』
『どうして?』
『隠してた方がミステリアスな感じしない?』
――この伝道師の奔放さに惹かれていた。
厳格な修道院にはいない人柄。
私を対等に扱ってくれる態度。
何より、初めて私の心を理解してくれそうな期待感。
今思えば、この伝道師との出会いこそ私が変化を求めたきっかけだった。




