5-055. 顛末
……甘い匂いがする。
鼻に香ってくるこの匂いは何だ?
「……」
重い瞼をゆっくりと開く。
最初に目に入ったのは、見慣れた天井だった。
「まぁ。目が覚めたのね、ジルコさん」
この声……知っている。
誰だったっけ?
「ここは〈ジンカイト〉のギルドよ。だから安心して」
体の感覚がいまいち悪い。
首をなかなか動かせないので、視線を横に向けると――
「私が誰だかわかるかしら?」
――ピドナ婆さんが俺を見下ろしていた。
「ピド……ナ……」
「よかった。意識はしっかりしているみたい」
彼女は安堵した様子で胸をなでおろしている。
俺の目覚めをどうして彼女が看取っているんだ?
というか、なんで俺は王都のギルドに戻っているんだ?
俺が居たのは海峡都市のはず……。
「混乱しているようだから、事情を説明できる人達を呼んでくるわね」
そう言って、ピドナ婆さんの背が伸びた。
どうやら椅子に座っていた状態から立ち上がったらしい。
「ま、待って……っ」
部屋を出て行こうとするピドナ婆さんをなんとか呼び止めると、俺は鉛のように重い体を起こした。
上半身を起こしてみて、今どこにいるのかがはっきりした。
ここはギルド一階の応接室らしい。
室内は窓が鎧戸で閉じられているせいで薄暗い。
天井や壁は魔導士隊の誤射でボロボロになったはずだが、ほとんどの傷が修繕されている。
トントンと部屋の外からトンカチを打つ音が聞こえてくるのは、今まさに大工が建物の修繕を進めてくれているためのようだ。
俺が横たわっている見慣れないベッドは、誰かが運び込んでくれたものらしい。
着衣もいつもの仕事着ではなく、医療院の入院患者が着るような地味な服になっている。
「おやまぁ。そんな無理なされないで、あなたは十日間も寝ていたのよ?」
「十日間!?」
驚いた。
俺は十日もずっと眠ったままだったのか。
「体の怪我はすっかり良くなっているけれど、十日も寝たきりだったのだから急に動くのはよくないわ――」
ピドナ婆さんはベッドのヘッドボードに予備の枕を積み上げ、俺が寄りかかれるようにしてくれた。
「――これでよし、と。ちょっと待っていてくださいね」
ピドナ婆さんが応接室を出て行こうとしたので、俺はひとつだけ尋ねた。
「どうしてここに? あなたはコイーズ侯爵邸に――」
「ギルドがこんなことになっていると聞いて、飛んできたんですよ。旦那様は快く送り出してくださいました」
ピドナ婆さんはにこやかに部屋から出ていった。
応接室に一人残された俺は、先ほどから鼻に香ってくる甘い匂いを追ってみた。
すると、隅の机にアロマキャンドルの火が灯っているのが見えた。
匂いの元はあれか。
裕福層向けの医療院には、アロマキャンドルが置かれて病人の療養に役立っていると聞いたことがある。
しかし、こんな気の利いた物がウチみたいな冒険者ギルドにあるわけがない。
となると、事情を知っている人間というのは……。
「どうぞ」
ピドナ婆さんの声がした後、慌ただしくドアが開いた。
最初に部屋の中に入ってきたのはネフラだった。
「ジルコくんっ! よかったぁ!!」
ネフラが勢いよく抱き着いてきたので、俺はヘッドボードに後頭部をぶつけてしまった。
「い、痛い……」
「あっ。ごめんなさい!」
ネフラが離れた時には、部屋の中にジニアスとデュプーリクの姿があった。
やっぱり商人ギルドがいたか。
「それじゃごゆっくり」
廊下からピドナ婆さんの声が聞こえたかと思うと、バタリとドアが閉まった。
これからこの三人が事の顛末を話してくれるわけか。
「お加減はいかがです?」
「悪くない」
俺の返答にジニアスが笑い返してくる。
「お前が今生きてるのも、俺が駆けつけたおかげなんだからな。感謝しろよ?」
デュプーリクが自慢げに言ってくる。
駆けつけたおかげって、どういうことだ?
俺が首をかしげていると。
「時計塔に駆けつけた兵団! あの中に俺もいたの!」
「ああ……」
「ああ、て……。ワイバーンと一緒に墜落したお前を見つけて、速攻で癒し手のところに連れてったのは俺なんだよ!」
「そうか。ありがとう」
命の恩人、ということになるのかな。
デュプーリクに大きな借りができてしまった。
「ネフラ。俺の服は?」
「血で汚れていたから全部処分した」
「えっ」
「宝石とか貴重品はちゃんと取ってある。今は執務室に置いてあるから安心して」
「……鞘は?」
「鞘?」
「防刃コートの裏ポケットに仕込んであったやつ」
「ああ、あれ。安心して。ふたつとも置いてあるから」
「そうか。よかった」
メテウスの遺した形見は無事だったか。
俺の知らぬ間に処分されちまったら、あいつが浮かばれないもんな。
「試作宝飾銃はどこだ? ミスリル銃はダメになっちまったけど、回収してくれているんだろう」
「してあるけど、今ここにはないの」
「どういうことだ?」
「ミスリル銃と一緒に親方が持ち出しているの。たぶん修復のためだと思うけど、あとで彼の家を訪ねてみて」
「……わかった」
ミスリル銃をあそこまで壊しちまって、きっと親方はカンカンだろうなぁ。
寝ている最中、一発や二発は殴られたかも……。
って、ちょっと待てよ。
親方は今、武装の整備なんかしている場合じゃないだろう。
「ネフラ。アンは……アンの容態はどうなっているんだ!?」
「アンは……」
ネフラの顔が曇った。
それだけで俺は胸が締め付けられる思いだった。
「アンはとても人と会える状態じゃないみたい。親方も鍛冶仕事している方が気が晴れるって、ほとんど鍛冶場にこもってるみたい」
「看護師の看護の甲斐もないわけか……」
アファタの話で思い出した。
フローラは……彼女のことは今、どんな扱いになっているのだろう。
〈バロック〉から教皇庁に入り込んだ間者。
時計塔で二重人格という事実が明らかになり、俺はもう一人の人格となった彼女と戦い……殺した……。
「うっ」
「ジルコくん!?」
突然、吐き気を催した。
なんだ……?
胸の内側が異様に冷たく凍てつくような感覚。
それが全身に広まっていくような錯覚。
めまいがする。
気持ち悪い。
苦しい。
フローラの顔を……思い出せない……。
「うぅっ」
「水、水飲んでジルコくんっ」
ネフラが水を汲んだコップを俺の口元に差し出してくる。
俺はコップを取るや、一気に水を飲み干した。
「はぁっ、はぁっ……」
「落ち着いた?」
「……ああ。ありがとう」
空のコップをネフラに渡すや、俺は深く深呼吸をして心を落ち着かせた。
「十日間も寝っぱなしで飯も食ってなかったからな。少し休んだら、たらふく食うといいさ。お前ちょっと痩せすぎだぞ」
デュプーリクが言うので、俺は吐き気の原因が空腹だと思うことにした。
……今はそう思っておかないと動揺が収まらない。
「質問してもいいか?」
「どうぞ。ひとつずつ、ゆっくりいきましょう」
ジニアスが笑顔を絶やさずに言った。
三人がそれぞれ椅子に座るのを待って、俺は最初の質問を投げかけた。
「あのあと、どうなったんだ?」
俺が知りたいのは、雷震子を倒した後のこと。
俺自身はワイバーンと一緒に地上に墜落したが、幸いなことに生きている。
ネフラが無事だったということは、プラチナム侯爵と共にゾイサイトによって塔の倒壊から免れたのだろう。
この十日間――〈バロック〉はどう動いたのか、侯爵はどうしたのか、その顛末が知りたい。
「これを見て」
説明される前に、俺はネフラから新聞を渡された。
新聞の一面を見て早々、俺は目を見開いてしまった。
「英雄ジルコ・ブレドウィナー凱旋? 悪の秘密結社〈バロック〉の存在発覚? 大規模侵蝕からエル・ロワを救った新たなる勇者の登場に国民歓喜? ……なんだこれ」
「その記事が今のジルコくんの立場を端的に説明してる」
……マジかよ。
俺、英雄になってるの?
「今も外に町の人達が押しかけてきていて、王国軍が静止してる状況」
「えぇっ!?」
「今、ギルドは軍の人達に守られているの。ここ数日、凄い騒ぎだったから」
……信じられない。
本当にみんなが俺を英雄扱いしているのか。
「まぁ事実、俺達の命が助かったのはお前のおかげだよジルコ」
「デュプーリク……。お前、あの場にいたんだったか」
「お前達と別行動になった後、時計塔への即時進軍をジニアスと一緒に兵士長に掛け合ってな。兵士長指揮の下、俺もあの兵団に加わって乗り込んだわけだが――」
「被害はなかったのか?」
「――ああ。あの黒い粒子に触れた奴は一人もいない」
侵蝕の犠牲がなかったと聞いて、俺はひとつ胸のつかえが取れた。
「まぁ、ワイバーン墜落に巻き込まれた奴や、塔の倒壊で散った岩に当たって怪我した奴とか、そこそこいるけどな」
「……それはすまない」
怪我人ゼロとはいかなかったか……。
「プラチナム侯爵の拘束後、彼からおおよその話は聞いた。軍や役所、各種ギルドに〈バロック〉の間者が潜り込んでいることもな」
「ってことは、間者の炙り出しが?」
「水面下で進んでいるよ。事態が事態なもんで、査問を仕切ってるのはルキウス・コイーズ侯爵だ。彼が船頭を担ったことで、五英傑の残りの三人も重い腰を上げた」
「コイーズ侯爵が……」
「五英傑の権威ってすげぇな。職業立場問わず、怪しい奴を片っ端から拘束してるぜ。たぶん来週には裁判所がパンクするだろうな」
「そんなに数がいるのか?」
「特に中流層が酷いらしい。相手が〈バロック〉だとも知らずに金で転んで内部情報を流す貴族や、競合を蹴落とすために妨害を依頼する商人……この国、こんなに腐ってたのかと思う数日間だったぜ」
貴族と商人に〈バロック〉のシンパが多いのは納得できる。
事実上、彼らが外交や経済を動かしているわけだから、賄賂の類が横行するのは当然と言えるだろう。
だが、まだ足りない。
「聖職者は――ジエル教の関係者は?」
「もちろんそっちも調べが進んでる。とは言え、さすがのコイーズ侯爵も教皇庁を相手にごり押しはできない。教皇は国王と肩を並べる権威だから、角が立たないよう方々に手を回してる最中らしい」
「そうか……」
今思えば、フローラだけが間者というのはおかしい。
彼女と懇意にしていたリッソコーラ卿が潔白なんてことがありえるだろうか?
彼も〈バロック〉に関わっているとしたら……どうなるんだ?
「お前だから言うけどよ。真っ先に嫌疑が掛かってるのはリッソコーラ卿だぜ」
「フローラの繋がりか?」
「彼女を〈ジンカイト〉の特務冒険者として派遣した人物だからな。けど、次期教皇の呼び声高い枢機卿を聴取するには相当高い壁がある」
「だろうな」
「まぁ一通り掃除が済んだら、あとは各組織の自浄作用に期待するしかねぇな。捜査で取りこぼした輩もいるかもだし」
中流貴族が何人も捕まっているのなら、国内の政治情勢は混乱しているはず。
そこでさらにリッソコーラ卿クラスの聖職者が拘束されるようなことになれば、市民も大騒ぎになるだろう。
これからしばらくエル・ロワは荒れるかもな……。
「おおよそ状況は掴めたよ。上手くいけば、エル・ロワの〈バロック〉関係者の締め出しはできそうだな」
「ああ、そうそう。お前やネフラちゃん、それにゾイサイトの旦那には近々勲章が贈られることになるからな」
「勲章だって?」
「おおよ。ちなみに俺ももらう予定だ!」
デュプーリクが満面の笑みで白い歯を見せている。
嬉しそうだなぁ……。
勲章をもらうなんて凱旋式以来か。
でも、今の俺にとって勲章授与はあまり喜べたものじゃない。
秘密裏に解雇任務を進める立場上、必要以上に目立つような事態は避けるべきなのに。
……それはまぁいい。話を戻そう。
「侯爵はこれからどうなる?」
「国の英雄が悪の組織と関りがありました、とは公表できないってことで、表立っての懲罰はないそうだ」
やっぱりそうなるか。
老いたとしても、五英傑はエル・ロワの真の英雄だ。
その一人が与した組織となれば、逆に国民の不信感が捜査側へ向く可能性すらある。
しかも捜査する側は同じ五英傑の一人コイーズ侯爵だ。
下手をすれば、〈バロック〉の善悪議論が沸騰して国内がふたつに割れる可能性だってあるぞ。
「……それでも、もう自由の利く生活は望めないだろうな」
「表舞台から降ろされた上で、死ぬまで軍の監視下に置かれると思うぜ。息子の遺体の引き取り手はどうなるのかねぇ」
その言葉で思い出した。
フローラの遺体は見つかっていないのか?
もし見つかっているのなら――公に葬儀は行えないだろうが――せめて墓前に花を添えてやりたい。
「フローラの遺体は?」
「見つかってない。塔が倒壊した時、周囲の区画もろとも塩湖に落ちちまったから回収できそうもないよ」
「そうか……」
……また吐き気がしてきた。
話題を変えよう。
「それじゃ、お前達の本題に移ってくれ」
俺が言うのを聞いて、デュプーリクとジニアスが顔を見合わせた。
二人とも今ほど多忙な時期はないだろうに、わざわざ俺の顔を見るためだけにやってくるとは思えない。
彼らも俺に伝えるべきことがあるはずなのだ。
「……んじゃ、俺の方からいいかな」
デュプーリクが言うと、ジニアスが頷いた。
「例の先生――イスタリだったか。今、コイーズ侯爵を筆頭にそいつの追跡調査も進んでるんだ」
「いろいろと忙しいな、コイーズ侯爵も」
「で、プラチナム侯爵の自白やネフラちゃんからの話で存在が明らかにはなったんだが、依然として正体が掴めないわけよ」
「だろうな」
「そこでさ。お前、何かそいつに心当たりない?」
「俺が?」
「〈ジンカイト〉として闇の時代にあちこちの国を渡っただろ? 色んな奴を見てきたはずだ。あえて侵蝕を行うような、狂った思想を持ってる奴に心当たりはないか?」
「そんなこと言われても……」
闇の時代、確かに俺はいくつもの国を来訪した。
けれど、当時はどこの国も躍起になっているのは対魔物政策ばかりだった。
明日には魔物の侵攻で皆殺しに合うかもしれない状況だったわけだし、自殺まがいの真似をするような奴なんて見たことがない。
ましてやそんな狂った思想の持ち主や、発想をする奴なんて――
「「あ」」
――その時、俺とネフラの目があった。
きっと彼女も俺と同じ人物を思い浮かべたはずだ。
「え? ネフラちゃんも心当たりあんの?」
「……ある。あの人なら、あんなこともやりかねない」
ネフラの言葉に俺は頷いた。
というか、そんな狂った真似をする奴はあいつしかいない。
「クランク教授だ」
「クランク……って誰?」
「海峡都市の錬金術師学会にいる錬金術師だよ」
「おいおい! 場所も職業もドンピシャじゃねぇか!」
「リヒトハイムでも有名な人物だったそうだが、五十年前に国外追放されてエル・ロワに来たらしい」
「身内に優しくてよそ者に厳しいあのエルフの国から追放、ねぇ。イスタリの正体、マジでそいつっぽいな!」
デュプーリクが興奮した面持ちで席を立った。
彼は壁に立てかけていた雷管式ライフル銃を手に取るや、駆け足でドアへと向かう。
「待て、デュプーリク!」
「なんだよ!?」
クランクがイスタリだとしたら、この状況を想定して手を打っている可能性大。
王国軍が下手を打てば今度こそ海峡都市を大惨事が襲うことになるかもしれない。
「奴は狂人だ。絶対に油断してかかるな!」
「……どんな奴なんだよ」
「研究と称して、猿とゴブリンの脳みそを入れ替えるような奴だ」
「……よくわからんが、想像を絶するイカレ野郎だってことはわかった」
「気を付けろよ、デュー」
「ああ。任せとけ!」
デュプーリクは親指を上げるや、ドアを開けて応接室の外へと飛び出していった。
「ジルコくん。彼、大丈夫かな」
「デューは心配だが、きっと兵士長が上手くやってくれるだろう」
ドアが閉まった後、ジニアスが俺を見て咳き込んだ。
「次は僕からよろしいでしょうか?」
「ああ」
ジニアスはジャケットの胸元から紙を取り出した。
綺麗な折り目のついた紙――ドラゴグ紙か?――を広げるや、それを俺へと見せてくる。
紙面には、サンクトエイビス地方へのドラゴグ軍遠征について記されていた。
しかもそれは商人ギルドに対しての支援要請書らしい。
「見ての通り、商人ギルドにドラゴグから支援要請がきまして。」
「サンクトエイビスって……東アムアシアの中腹じゃないか。確か、ドラゴグのヴェニンカーサ伯爵が調査隊を率いて向かった先だよな」
「そのヴェニンカーサ伯爵の調査で、ドラゴグ東部を襲った魔物の群れがサンクトエイビス地方からやってきたことが判明しました。あちらに魔物発生の原因があると見て、本格的な戦力を派遣することになったそうです」
やはりサンクトエイビスに何かあるのか。
あの不毛の地に。
最初の魔王が現れた滅びの沼がある土地に。
「まさか魔王が再発生したなんてこと……」
「その疑惑を晴らすための大規模遠征です。商人ギルドも全力を挙げて支援することが先日の幹部会で決まりました」
まさか俺達〈ジンカイト〉にも協力要請が出たってことか?
……だとしたらまずい。
〈ジンカイト〉は今まともに機能していない上、主戦力だったクロードとクリスタはもういない。
俺も宝飾銃がない状態だし。
何より、解雇任務中にギルド出撃の指示を出せるわけがない。
「ジニアス。今は――」
「ゾイサイトさんをいただきたい」
「え?」
「彼を我々の護衛として、サンクトエイビスへ連れて行きたいのです」
……思いがけない相談だった。




