4-067. 女の戦い ネフラVSクリスタ
唐突に決まった、ネフラとクリスタの葡萄酒早飲み勝負。
しかも、勝った方が俺とキスをするという報酬が設定されている。
俺は了承していないのに二人はもう勝負を始める気だ。
「こんな面白い余興を楽しめるなんて、招待を受けて正解だったわ」
そう言いながら、クリスタは指先で魔法陣を描き始めた。
今度はやや複雑な魔法陣を描いている。
「ジルコくん。私、勝つから」
「あ、ああ……」
自己主張することの少ないネフラが勝利宣言を口にするとは。
よほどの自信があるのか?
完成した緑色の魔法陣が輝く。
ふわっと風が動いた気配がしたので、浴場を見渡すと――
「うわっ。何だよっ!?」
――寝具に寝そべっているデュプーリクの手元から、栓を抜いたばかりのワインボトルが浮き上がり、宙を滑るようにこちらへと飛んでくる。
困惑するデュプーリクが改めて巫女からボトルを受け取り、栓を抜くと――
「えぇっ!? またかよ!」
――再び手元から離れ、俺達の方へ。
デュプーリクや巫女は呆気に取られたまま、俺達に視線を移している。
……すまないな。
「さぁ、準備は整ったわ。お互いのボトルが湯に落ちたら勝負開始よ」
「わかった」
不敵な笑みを絶やさないクリスタ。
対して、ネフラは彼女の顔へと鋭い眼差しを向けている。
……一体どうなるんだ、この勝負?
俺が固唾を飲んで見守っていると、輝いていた魔法陣が消えた。
その瞬間、宙に浮いていた二本のワインボトルが湯に落ちた。
ネフラもクリスタも、ほぼ同時にボトルへと手を伸ばす。
ボトルを掴むや、それぞれ口へと運んで即ラッパ飲み。
「「……んっ、んっ、んっ」」
どちらも負けていない。
二人ともボトルが直立するほどに胸を張って、中身を飲み干していく。
……は、早い!
酒の減る量はほとんど互角だ。
どっちが勝つんだ……!?
「あふぅっ」
喘ぐような声を上げて、ネフラが口からボトルを離した。
逆さまにされたボトルからは、一滴も液体が零れ落ちない。
すべて飲み干したということだ。
一方、クリスタも手にしたボトルを逆さまにしている。
こちらも中身は空っぽ。
「どちらが先に飲み終わったのかしら?」
「えっ!?」
突然、クリスタが俺に訊ねてきた。
ネフラも俺に顔を向けて、じっと返答を待っている。
……ヤバイ。
最後の瞬間、ネフラしか見ていなかった。
「お二人とも飲み干したタイミングは同時でしたわ」
浴槽の外から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
振り返ってみると、タオルで前を隠したヴェニンカーサ伯爵夫人の姿が。
「は、伯爵夫人っ!?」
「ご機嫌麗しゅう、ジルコ様。そして、ネフラ様に、クリスタリオス様」
俺は伯爵夫人の裸体を目にして、思わず息を呑んだ。
ネフラよりもさらに白い、ヴァンパイア特有の肌。
クリスタのような蠱惑的な美しさとは違う、優美な魅力。
裸を目の当たりにした今、改めて思う――ヴェニンカーサ伯爵夫人は美しい。
「わぷっ!」
突然、顔に湯をかけられた。
誰の仕業かと思ったら、ネフラだった。
「邪な目で女性を見ない」
彼女はジトリと俺を睨んでくる。
この子、最近俺に攻撃的な気がする……。
「面白いことをしていらっしゃるのね。ぜひとも、わたくしも混ぜていただけないかしら」
言いながら、伯爵夫人が湯へと浸かる。
しかも、わざわざ俺の隣に寄り添うように……。
ネフラのチクチクする視線が痛い。
「良い目をお持ちですね、伯爵夫人」
「イシュタでよくてよ。クリスタリオス様ともネフラ様とも、今後とも仲良くさせていただきたいですから」
「光栄ですイシュタ様。では、あなたに審判役をお願いしてもよろしいかしら?」
「もちろんです。ネフラ様もよろしくて?」
不意に伯爵夫人の笑顔を受けて、ネフラは戸惑った様子。
だが、すぐに首を縦に振る。
「ふふふ。両手に花ですわね、ジルコ様」
伯爵夫人が俺へと耳打ちしてきた。
それを見て、またネフラが口を尖らせている。
「今の勝負は引き分けね」
「もう一度、同じ勝負を」
「いいわ。次で決着をつけましょう」
クリスタは再び魔法陣を描きだした。
先ほどよりも大きく、かつ複雑な緑色の魔法陣が描きだされていく。
魔法陣が完成すると、湯面に強い風が起こって、浴槽付近に漂っていた湯気を払いのけた。
さらに、噴水台からワインボトルが飛んできて、彼女の頭上に集まり始める。
何事かと浴場の巫女達がざわめき始めてしまった。
「とりあえず栓の空いているワインはこの八本のようね。このうち、先に四本の葡萄酒を飲みきった方が勝ち。それでいいわね?」
「異議なし!」
ネフラの力強い言葉に、クリスタがニコリと笑う。
「ではイシュタ様、判定をお願いしますね」
「ええ。任せてくださいな」
ふとネフラの顔を見入ると、彼女の顔はほんのりと赤くなっていた。
湯に浸かっているからじゃない。
酒を飲んで、白い肌が赤らんでいるのだ。
「ネフラ、さすがにその勝負は無茶――」
「ジルコくん。私が勝つから見守っていて」
ネフラの眼鏡はすっかり曇っていたが、その奥から熱い視線を向けられているのはわかった。
心配だが……見守るしかないな。
「不肖ながら、わたくしイシュタ・ヴェニンカーサが開始の合図をかけさせていただきますわ」
言いながら、伯爵夫人が湯船から左手を出す。
ふと彼女の手が視界に入った際、俺はその手の薬指に指輪がはまっているのが見えた。
「それでは――」
伯爵夫人が左手を高く構え。
「――始め!」
手刀のように振り下ろすのと同時に、魔法陣が消えた。
直後、ネフラとクリスタの間に八本のワインボトルが落ちる。
両者とも同時に最寄りのボトルを手にし、即座に胸を張ってラッパ飲み。
彼女達の喉が激しく脈打つ。
ボトルの中身は、ほぼ互角の速度で減っていく。
二人はボトルが空になるや脇に投げ捨て、新たなボトルの首を掴んだ。
そして、一本目と同じように口へとくわえ込む。
……気づけば、二人の勝負は浴場の注目を集めていた。
デュプーリクも、キャッタンも、湯あたりしていたヘリオですら、緊張した面持ちで勝負の行方を見守っている。
「「んっ、んっ、んっ」」
お互い勢いは衰えず、二本目もほぼ同時に空に。
湯船に浮かぶ三本目のボトルを取ったのも、やはり同時だった。
「う!」
一瞬、ネフラが硬直する。
それはボトルの口を見てのことだった。
なんと、彼女の取ったボトルには栓がされたままだったのだ。
「くうっ」
ネフラは苦い顔をして急ぎ栓を抜いた。
そして、瓶から吹き出す泡ごと口へと含む。
クリスタとはわずか数秒の差――拮抗が崩れた。
もしかして、ネフラが栓のされたボトルを手にしたのはクリスタの罠か?
ボトルを選んだのは彼女で、湯船に落としたのも彼女。
細工をする気ならできないことはない。
「んっ、んっ、んっ」
……しかし、ネフラは勝負を続けている。
俺が横やりを入れてこの勝負を台無しにするわけにはいかない。
勝て、ネフラ!
お前ならきっと勝てる!!
「んっ、んっ……はぁっ」
クリスタが一足早く三本目のボトルを飲み干した。
ボトルを放るや、最後の四本目を手に取る。
一方、ネフラは三本目のボトルをまだわずかに残している。
あれから差は開いていないが、数秒の遅れは痛い。
「んっ、んっ……はぁっ、はぁっ!」
ネフラが三本目を空にして、四本目のボトルを取って口へ。
すでに彼女の顔は紅潮して真っ赤だ。
四本目にもなると、クリスタもさすがに葡萄酒を飲む速度が落ちてきている。
ネフラの方は、勢いがまったく衰えていない。
むしろどんどん追い上げてきている。
勝負はまだわからない。
そして――
「ぷはっ!」「はぁっ!」
――両者ほぼ同時に、四本目のボトルが空となった。
「お二人ともお見事です。わたくし、しかと見届けました。結果は――」
俺や当事者二人を含めた浴場の全員が、伯爵夫人へと注目する。
彼女の下した判定は……。
「――同時に最後の一滴までお飲みになりました! この勝負、引き分けです!!」
はぁ、と浴場にいる全員が息を吐いた。
俺も同じだ。
「ふうっ、ふうっ……」
「はぁっ、はぁっ……」
ネフラとクリスタが、息を切らしながらお互いを睨みあっている。
勝負は引き分け……ということは、どうなるんだ?
「お二人とも、なんという執念でしょう。特にネフラ様の終盤の追い上げは凄まじかったですわ」
伯爵夫人が言った後、俺はクリスタの疑惑を追及する。
「今の勝負、不平等じゃないか?」
「なんですって」
クリスタから突き刺すような視線を浴びる。
ここで臆してなるものか。
「ネフラのボトルに栓がついたままだった! 意図的じゃないか!?」
「失礼な人。私が真剣勝負に不正を働いたと? あれは偶然。事故よ」
「それは都合がよすぎ――」
クリスタに食ってかかる俺の肩に、伯爵夫人が手を置いた。
「ジルコ様。今の勝負に不正の証拠はありませんし、彼女の言い分を信じて差し上げましょう」
……確かに証拠はない。
証拠と呼べる魔法陣の円陣構築模様も消えてしまっているし、クリスタを追及しても水掛け論になるだけ。
勝負は引き分けになったことだし、ひとまず良しとするか……。
「勝負はまだ……ついてない。私はまだ……負けてない」
ネフラの言葉に、俺は驚きを隠せない。
顔を真っ赤にして今にも倒れそうな状態なのに、まだ勝負を続ける気か!?
俺は引き分けで終わらせることを提言しようとした。
だが、わずかに早く伯爵夫人の声が浴場に響く。
「これ以上の早飲み競争は危険です。続けるなら、別の方法で決着をつけてはいかがです?」
おいおい……。
ネフラの様子を見る限り、勝負自体もう続けられる状態じゃないぞ!
「もちろんですわ。決着はつけるわよね、ネフラ?」
「当然。決着を……つけましょう……」
あれだけの量の酒を飲んでケロッとしているクリスタ。
それに比べて、ネフラはフラフラだ。
「お酒は無し。それに、お互いそろそろ湯あたりしそうね。となると――」
クリスタは浴場を見渡し、続けた。
「――浴槽から同時に駆けだして、どちらが早く脱衣所へたどり着けるか。これを最後の勝負にするのはどう?」
……圧倒的にネフラが不利な勝負を提案しやがった。
「そんなの危な――」
「構わない。それで決着」
俺が抗議しようとすると、ネフラが遮ってしまった。
「大丈夫っ。心配しないでジルコくん」
曇った眼鏡の向こうから、凛とした表情で俺に訴えかけてくる。
……もう何も言うまい。
「勝てよネフラ!」
「もちろん。勝って、ジルコくんと……キスをするから」
面と向かって言われて、俺は顔が熱くなった。
巫女達が寝具を片付けて、脱衣所へ続くガラス戸を開く。
湯船から脱衣所までの直線には何もない。
これが最後の勝負……!
「最終戦――湯船から脱衣所までの早駆け勝負、開始の合図はわたくしがさせていただきます」
伯爵夫人が湯船の中から高く手を上げた。
ネフラとクリスタは立ち上がり、お互いに浴槽の縁へと両手をかける。
さっきから二人の裸体が目の前を行き交っているのだが、もはやそんなことで思考が掻き乱れたりはしない。
ネフラの勝利をただただ願うのみだ。
俺を含めたその場の全員が、ネフラとクリスタへと注目する中――
「始め!」
――伯爵夫人が掛け声と共に手を下ろした。
直後、ネフラとクリスタは二人同時に湯船から飛び出す。
先に床を踏んだのはネフラだった。
後塵を拝する形になったクリスタは、ふらふらと危なっかしい足取りで床を進んでいく。
見た目は何ら変化がないのに、実はかなり酔いが回っていたらしい。
「ネフラ、行けっ!!」
俺が叫ぶや、ネフラは駆けだした。
千鳥足で危ういが、クリスタに圧倒的な差をつけて脱衣所へ向かっている。
……勝てるぞ、ネフラ!
ネフラが脱衣所へ駆け込もうとする寸前。
クリスタが足を滑らせて、体を大きくよろめかせた。
「危ないっ!!」
とっさに俺は浴槽から飛び出し、クリスタが転倒する直前に、彼女と床の間に体を滑り込ませた。
結果として、彼女を抱きかかえる形となったが――
「助けてくれたのね」
――クリスタが艶っぽい笑みを浮かべながら、俺と顔を向かい合わせた。
「でもね――」
彼女は不意に俺の首へと手をまわす。
一人じゃ立てないのか?
と思った瞬間。
「――わざとよ」
クリスタが俺の顔を引き寄せて、唇を重ね合わせた。
その時、俺は視界の端に脱衣所へと駆けこんだネフラの姿が見えていた。
……こちらを向いているネフラの顔と言ったら……。
俺は、今ほど自分の軽率さを呪ったことはない。