4-066. まるで天国
「クリスタ、いたのか……」
突然の魔女の出現に、俺は口がうまく回らない。
「私もヴェニンカーサ伯爵夫人のご厚意に預かることになったの」
クリスタは口元を緩めながら、挑発的な視線を送ってくる。
彼女は肩まで湯に浸かっているのだが、透き通った湯の下には、生まれたままの姿が露になっている。
一方で、後頭部に結んだ髪は収まりきらず、うなじから肩に垂れ下がって、湯面にゆらゆらと揺蕩う。
それがぞっとするほど色っぽい。
さらに、湯船には凶悪な二つの山も浮かんでいて……。
なんというか、全体的に目のやり場に困る。
しかし――
「どこを見ているの。いやらしい人」
――見入ってしまっていた。
否。見惚れてしまっていた。
浴場という場所では、彼女に魅了の魔法は必要ないらしい。
クリスタはくすくす笑いながら、視線を俺の顔から下へと下ろす。
俺は思わず彼女に背を向けてしまった。
「ジルコさぁ~ん」
後ろから猫なで声で呼ばれて、俺は困惑した。
まさかクリスタがそんな甘い声色で俺に呼びかけるわけはない。
浴槽に振り返ると、湯船から首から上だけを出したキャッタンと目が合った。
湯のかかった猫耳をパタパタと動かしている。
「中央の噴水台に、果実やら飲み物やらが置いてあります。ジルコさんもご馳走になってきたらどうですかぁ~?」
キャッタンが指さす先に、盃のような形をした石造りの台が見えた。
その上には果実や酒が並べられている。
台の中央からはまさしく噴水のごとく水が噴き上がっており、並んでいる果実を濡らして瑞々しく輝かせていた。
食指が動いたので、俺は噴水台へと向かうことにした。
台の前で果実を選ぼうとした時、横に人が倒れていることに気づいて驚いた。
……ヘリオじゃないか!
「ヘリオ!? どうしたんだ!?」
俺はすぐにヘリオのもとへと駆け寄った。
ヘリオは下半身にタオルをかけられた姿で、巫女に膝枕されながら天井を見上げていた。
「あ、ジルコさん。おはようございます……」
「挨拶している場合か! 一体何があったんだよ!?」
「ははは。ただの湯あたりです……」
「あそう……」
見れば、もうひとり巫女がヘリオの傍に立ち、彼に向かって大きなうちわを扇いでいる。
こんな羨ましい介抱をされているのなら心配はいらないな。
「血を抜かれるは、湯あたりするは、散々だな」
「まったくです……」
俺はヘリオに尻を向けて噴水台へと戻った。
噴水台から真っ赤に熟したリンゴを取り上げた俺は、ひと齧りする。
瑞々しくて歯応えがあり、甘くてジューシー!
こんなリンゴは今まで食べたことがない。
「確かに天国があればこんなところかもな」
リンゴを頬張っていると、背中から視線を感じた。
湯船の方からだ。
この背中が冷え込むような視線は……クリスタだな。
俺はリンゴを芯まで飲み込むと、そそくさと浴場の隅へと移動した。
そこに積まれていた小さな桶を手に取り、溝を流れる湯をすくって全身に浴びせかける。
……生き返る心地だ。
そこへ突然、三人の巫女が寄り添ってきた。
「な、なんだ!?」
「どうぞこちらへ。お体を洗浄いたしますわ」
巫女達に半ば強引に連れられて、俺は寝具へと寝かされた。
何をされるのかと思ったら、彼女達は石鹸で布を泡立て、それで俺の体を丁寧に拭き始める。
「なるほど……。これは気持ちいい」
デュプーリクじゃないが、確かにこの至れり尽くせりは天国の心地だ。
しかし、半裸の美女達が自分の体をさすっていることを考えると、なんとも言えない気持ちになる。
……ここは浴場。ここは浴場。
俺は頭の中で呪文のようにその言葉を反芻しながら、邪念を振り払った。
「見事な筋肉ですわ。さすがは冒険者の殿方ですね」
「この傷は過去のお仕事のものでしょうか。名誉の負傷……素敵です」
「ああ。私も、こんなたくましい腕に抱かれてみたいですわ」
黄色い声でおだてられて、こそばゆい。
おべっかとはわかっていても、美女に囲まれてそんなことを言われるのは気分がいい。
なんたって俺の周りには辛辣な女ばかりだからなぁ。
仰向けで、胸、肩、腰、そして髪の毛。
うつ伏せで、手、足、尻。
一部を除いて綺麗に洗われた俺は、全身軽くなった感じだ。
「いかがでしたか?」
「よかったよ」
「では、こちらもいかがでしょう」
寝具から起き上がると、巫女の一人から澄んだ黄色い液体の入ったグラスを渡された。
俺の鼻に甘い蜂蜜の匂いが香ってくる。
「ミードランドより取り寄せた蜂蜜を、我が国の錬金術師が調合した果汁ハーブで醸造した、特製ミードでございます」
「凄いミードってことか」
「ええ。どうぞお召し上がりくださいませ」
「ありがとう」
ミードランドというと、エル・ロワの北にある小国だ。
蜂蜜の名産地と聞いたことがあるが、わざわざそんなところから取り寄せているとは……商人ギルドの涙ぐましい努力を感じるな。
俺は受け取ったグラスを一気にあおった。
「ジルコくん。ちゃんと前は隠して」
突然の指摘に、俺は口に含んだミードを吐き出してしまった。
見れば、いつの間にかタオルが股座からずり落ちている。
タオルを拾い上げて声の主を見上げると――
「ね、ネフラ!?」
――ネフラが機嫌の悪そうな顔で俺を見下ろしていた。
ネフラの肌は、まるで雪のように白く美しい。
彼女は胸から下をタオルで隠していたが、豊満な胸は薄生地の上からでも如実にわかる。
そして、その顔には眼鏡を掛けたままだった。
「お前、また眼鏡……」
「どいて」
ネフラは俺を強引に寝具から押し退けると、代わりに横になった。
そして、唖然としている巫女達に言い放つ。
「洗浄。私も」
「し、承知しましたっ」
慌てた様子で石鹸を泡立て始める巫女達。
ネフラは寝具に寝そべりながら、俺をジト目で見上げている。
その視線にいたたまれなくなった俺は、逃げるように湯船へと向かった。
◇
俺が湯船に浸かっていると、湯気の向こうからすいーっと何かが流れてきた。
……湯に首まで浸かったキャッタンだった。
「なんかネフラさん、可愛いですねぇ~」
「何を今さら」
「見た目じゃなくて、態度がですよぉ~」
「はぁ?」
「巫女さんにジルコさんが取られちゃわないか、不安なんですよ。あなたの人柄に惹かれる女性ってけっこういると思いますし」
「そんな馬鹿な……」
「かくいう私も!」
「お前、酒飲んだだろう。顔が赤いぞ」
「顔が赤いのは湯船に浸かってるからですよぉ~」
キャッタンは普段より明らかにテンションが高い。
かなり酔っ払っているようだ。
「いつも酒のことでデュプーリクを叱っているくせに、だらしない!」
「任務完了したんですからお酒も解禁ですよぉ~。ニャハハハハハ」
何がおかしいのか、キャッタンが上機嫌に笑い始めた。
普段生真面目なこの子が、完全に出来上がってしまっている。
「任務が終わって今までの鬱憤が爆発した感じか……」
「ジルコさぁん。私、信頼できる殿方がいなくて、いっつもストレス抱えてたんですよぉ。でも、ジルコさんはなんだかんだ頼りになる人だと思ってぇ~」
キャッタンが甘い声を出しながら、俺の腕に頬ずりしてくる。
いくらなんでもこりゃ酔い過ぎだな……。
悪い気はしないものの、少々気まずいので俺は彼女の顔を押し退けた。
「お前も湯あたりしちまうぞ」
「いやぁ~。こんな凄いお風呂めったに入れるものじゃありませんから。一生分、浸かっておくんですっ」
キャッタンはうっとりとした顔のまま、バシャバシャと湯船を泳いで湯気の向こうへと消えて行った。
風呂で泳ぐなよ、なんて野暮なことは言うまい。
泳ぎ去るキャッタンを見送ると、彼女とすれ違うように湯気の向こうから人影が近づいてくるのが見えた。
そのシルエットを見て、俺はギョッとした。
「ご一緒してもよろしいかしら?」
クリスタが豊満な胸に挟むようにワインボトルを持って現れたのだ。
前くらい隠せよ、とはあえて言わない。
「……別に構わない」
クリスタが胸を揺らしながら、湯船の中を歩いてくる。
その姿を視界に捉えたが最後、彼女が湯に身を沈めるまで、その美しい肢体から目を離すことができなかった。
「葡萄酒を持ってきたわ」
クリスタは栓を抜くや、ボトルの口をくわえて葡萄酒を飲み始めた。
唇から零れる赤紫の液体が、彼女の首筋を。鎖骨を。胸元を伝っていく。
艶めかしくて目のやりどころに困る。
……と言いつつも、俺の視線はずっと彼女に釘付けなわけだが。
「どうぞ」
クリスタが飲みかけのワインボトルを差し出してきた。
俺はそれを受け取ると――
「……もらうよ」
――躊躇いながらも口をつけた。
濃厚な味わいの中にみられる、ほんのりとした甘さ。
俺にも高級品だと十分にわかる葡萄酒だ。
俺は空になったボトルを湯船に落とした。
ボトルには羽がついていて、湯に浮かぶようになっている。
湯船を流れるうちに巫女が回収してくれるというわけだ。
「なんだかアルコール度の高い酒だな」
「かのヴェルフェゴールに並ぶ高級ブランド、ヴェルゼヴァの葡萄酒だそうよ。一本500グロウは下らないわね」
「恐ろしい値段だ」
「でも、今ならいくらでも飲めるわよ?」
クリスタは腕を上げて、指先で小さな魔法陣を描き始めた。
驚いたが、よくよく見ると彼女は爪の先で陣を描いているらしい。
つまり――
「宝飾付け爪よ。伯爵夫人にいただいたの」
――ということだ。
緑色の魔法陣が完成するや、ふわっとした風が湯気を動かした。
巫女達の驚く声と共に、噴水台の方からワインボトルが飛んでくる。
クリスタはそれを受け取るや、俺へと差しだしてきた。
「器用なことできるな」
「魔法の本懐は日常生活の無駄を省くことよ」
俺は彼女の言うことに納得しながらボトルを受け取る。
その時――
「私にもちょうだい」
――ネフラが浴槽に入ってきた。
「あら。あなたもご一緒してくださる?」
「する」
ネフラはわざとらしく俺とクリスタの間を通り抜けると、髪を束ねながら湯へと浸かった。
……やっぱり眼鏡は掛けたままだ。
「眼鏡、曇っているぞ」
「知ってる」
ネフラは気恥ずかしそうに、湿った指先で眼鏡を拭き始めた。
しかし、眼鏡を掛けるとすぐに曇ってしまう。
……まぁ浴場なら当然だ。
「……」
「……」
「……」
……沈黙が重い。
ネフラがクリスタをじっと見つめている。
否。睨んでいるのか?
一方のクリスタは、唇を指先でなぞりながら、ネフラにほほ笑んでいる。
……その二人の手前にいる俺は、なんだか居心地が悪い。
「と、とりあえず三人で乾杯でもするか。クリスタ、グラスを三つ取り寄せられるか?」
「ええ。造作もないことよ、ジルコ」
クリスタが爪で魔法陣を描こうとすると、ネフラが俺の手からボトルをひったくった。
「ジルコくん」
「な、何?」
「いつの間にクリスタリオスを本名で呼ぶようになったの?」
「えっ」
ネフラの刺すような視線が俺に飛んでくる。
その圧力に、俺は思わずたじろいでしまった。
「東の魔物退治の時に、まぁ、打ち解けたというか……」
「打ち解けた……?」
ネフラが訝しむような表情で俺を睨む。
言葉の通りの意味なのだが、なんだかあらぬ誤解を受けている気がする。
「男と女。共に試練を超えたならば、仲睦まじくなるのは当然でしょう?」
さらにクリスタから誤解を招くような発言。
この女、明らかにネフラを挑発している。
「むむ……っ」
「ネフラ。私に何か言いたいことでもあるのかしら?」
ネフラは突然、手元のボトルを口に運んだ。
しかも、まさかの一気飲み!
「お、おい。ネフラ、大丈夫なのか!?」
「……うぷっ。大丈夫っ」
なんと、ネフラはボトル一本の葡萄酒を一気に飲み干してしまった。
本当に大丈夫なのか……?
「ぜんぜん平気。何杯でもいける」
「あら。今日はずいぶん強気に出るわね?」
「……あなたには負けない」
「ふぅん。そういうこと」
何かわからないが、二人の間で火花が散り始めた気配。
唇から指先を離したクリスタは、何かを思いついた顔で口を開いた。
「ネフラ。私と飲み比べでもしてみる?」
「望むところ」
「せっかくだから賭け事もどうかしら」
「どうぞ」
「それじゃあジルコの唇を賭けるのはどう?」
……はい?
「勝負方法は葡萄酒を一本分どちらが早く飲み干せるかの競争としましょう」
「受けて立つ!!」
一体何が起こっているんだ?
なんで俺の唇を賭けてこの二人が勝負するんだ??
「ジルコくんの唇は私がもらう」
「いいえ。私よ」
……ちょっと待て。
どういうこと?